26. 予期せぬ知らせ
― 一誠 ー
あの忘年会から、早くも九カ月が過ぎていた。
あのとき、事務所の三人の美女――所長、彩華さん、美穂さんが、揃いも揃って酒癖が悪かったという話は、あっという間につくば周辺の建築業界に広まった。
「愛田設計って、あの美女三人がいる事務所でしょう?」
などと言われるようになったらしい。
それだけならまだいい。
「三人とも酒が強いらしいね」
「いや、強いというより……」
そんな話まで尾ひれがついて、ちょっとした話題になった。
その噂を聞きつけて仕事を依頼してくる人までいたというから、何が悪くて、何が良いのか分からない。
「お酒の話で仕事が来るって、設計事務所としてどうなのよ」
と、所長は苦笑していた。
そのせいなのかどうかは分からないが、それから住宅が三軒、商業施設などの特建が二件入ってきた。
三月末の時点で、
仕掛かりの現場が四件。設計中が六件。
小さな事務所としては、かなりの仕事量になった。
当然、所員だけでは回らない。
そこで新卒二名、中途二名を採用した。
所長以下、事務所のメンバーは十人になった。
紗綾さんが以前から掲げていた「六つの改革」も、単なる掛け声ではなく、毎日の仕事の中で意識するようになっていた。
仕事を抱え込み過ぎない。
工程を共有する。
外注の遅れを早めに把握する。
所長に判断を集中させない。
深夜まで働くことを常態化させない。
そして、無理な仕事は断る。
言うのは簡単だが、実際にやってみると、なかなか難しい。
特に新人が入れば、教える時間も必要になる。
結局、新人四人の教育は、ほとんどオン・ザ・ジョブ・トレーニングになった。
吉田さん、彩華さん、東郷さんが中心になって教え、僕も先輩の一人として、仕事の合間に図面の描き方や納まりを説明することが多くなった。
僕の下には、岡田奈緒という女の子がついた。
奈緒は好奇心旺盛で、建築の知識や技術を覚えることにも前向きだった。
理解も早い。
だから、かなり優秀な新人だと思う。
ただ、ときどき妙なところでポカをする。
本人はいたって真面目なのだが、どこか天然なところがある。
まあ、それも可愛いと言えば可愛い。
つい構ってしまうので、彩華さんからは、
「一誠、奈緒ちゃんを可愛がり過ぎじゃない? もう少し厳しくしていいと思うけど」
と言われている。
そんな奈緒も、今では少しずつ現場に出るようになった。
そして今日は――梅林のアトリエの竣工検査だった。
僕にとっては、特別な現場だった。
自分が最初から最後まで関わった建物だ。
設計から現場監理まで経験したことで、建築というものが、図面の上だけでは完成しないことも少しずつ分かってきた。
午前中、僕と奈緒は先に現場に入り、小鶴工務店の専務と検査を始めていた。
奈緒は僕たちの少し後ろで、手帳を開いて一生懸命メモを取っている。
「ここ、写真撮っておいて」
「はい」
「それから、この建具の開閉も確認して」
「分かりました」
初めての監理業務にしては、よくやっている。
何より、小鶴の専務が実によく面倒を見てくれた。
僕にとっても、専務から教えてもらったことは多かった。
ある意味、もう一人の師匠とも言える。
一階のアトリエ部分の検査が終わる頃、所長が現場に到着した。
「お疲れ様です」
「ご苦労様」
所長も検査に加わった。
ところが――。
急に検査のペースが落ちた。
「このコンセントの位置、ここで良かったの?」
「……図面通りです」
「そう。じゃあ、この打ち放しのPコンの位置は?」
「それも図面通りです」
「そう……」
また別のところで、
「ここの見切り、もう少し違う納まりにはできなかったのかしら」
と言い出す。
僕と専務は顔を見合わせた。
――それ、去年言ってくださいよ。
心の中で同時に呟いた。
所長は、こういうところがある。
完成してしまってから、
「ここ、もう少し何とかならなかった?」
と言い出す。
もちろん悪意があるわけではない。
むしろ、自分が設計した建物だからこそ、最後まで気になるのだろう。
それでも、今さらどうにもならないことを言われる側は困る。
そんなこんなで午前中の検査はなかなか進まず、ようやく二階へ上がった。
階段を上がると、空気が変わった。
一階より明らかに明るいし、開放感が圧倒的だ。
南北に抜け視界は広がり、風がリビングを抜ける。
南側のテラスからは、八郷の山並みが見渡せる。
遠くには筑波山系。
麓には、収穫を終えた田畑が広がっている。
僕はしばらく、その景色を眺めた。
ふと、
――所長は、これから誰とこの景色を見るんだろう。
そんなことを考えた。
そのときだった。
所長のスマートフォンが鳴った。
「もしもし……はい。私です」
所長の表情が、少しずつ変わっていった。
「えっ……それで……えっ?」
僕は嫌な予感がした。
「分かった。すぐ戻る」
電話を切った所長は、しばらくスマートフォンを握ったまま動かなかった。
「所長……何かあったんですか?」
所長が僕を見る。
その顔から、いつもの所長の表情が消えていた。
「チーフが……事故に遭ったらしいの」
「え?」
「救急車で運ばれたって……」
そこで一度、言葉が途切れた。
「重体だって言うの」
「……」
頭の中が真っ白になった。
「私、事務所に戻るわ。一誠、運転して」
「はい」
奈緒も何かを察したのだろう。
「私も……」
「奈緒ちゃんは、専務と一緒にいて。検査を終えてから帰って」
所長はそう言った。
僕たちは急いで車に乗り込んだ。
帰りの車内では、誰も口を開かなかった。
ただ、道路を走る音だけが聞こえていた。
僕はハンドルを握りながら、何度もバックミラーで所長を見た。
所長は窓の外を見ていた。
その横顔は、信じられないほど小さく見えた。
*
事務所に戻ると、いつもと空気が違っていた。
片山さんが入口まで出てきた。
僕たちを見るなり、所長に近づいた。
「所長……」
声が震えていた。
「さっき、奥さんから電話がありました」
所長が立ち止まる。
「チーフ……亡くなったそうです」
その言葉を聞いても、すぐには意味が分からなかった。
亡くなった。
誰が?
チーフが?
さっきまで、普通に仕事をしていた人が?
僕の頭の中で、言葉だけが空回りした。
向こうを見ると、彩華が立っていた。
美穂さんもいる。
二人とも、泣いていた。
彩華は唇を噛んで、必死に涙をこらえているようだった。
そのときになって、ようやく分かった。
本当に、チーフが死んだのだ。
その後のことは、よく覚えていない。
ただ、所長を車に乗せた。
向かった先は、江戸川区にあるチーフの自宅だった。
*
チーフの遺体は、和室に安置されていた。
いつも事務所で見ていた顔とは違って、眠っているように静かだった。
奥さんから、事故の状況を聞いた。
朝、千葉ニュータウンのホームセンターの現場へ向かっていた。
東関東道で渋滞の最後尾に入り、停車していたところへ、脇見運転の大型トラックが後方から突っ込んできた。
救急車で病院へ搬送されたときには、すでに心肺停止状態だった。
そして、搬送先の病院で死亡が確認された。
僕は何も言えなかった。
チーフは、つい昨日まで僕たちと一緒にいた。
図面のことで怒られたこともある。
くだらない冗談を言って笑ったこともある。
忙しいときには、何も言わずに僕の図面を手伝ってくれた。
そんな人が、もういない。
その事実だけが、どうしても現実のものとして受け止められなかった。
*
葬儀には、事務所の全員が参列した。
所長が弔辞を読んだ。
チーフへの感謝。
一緒に仕事をしてきた思い出。
そして最後に、
「チーフが残してくれたものを、私たちはこれからも大切に受け継いでいきます」
と話した。
女子スタッフは皆、涙を流していた。
僕も、泣いた。
彩華も、美穂さんも。
奈緒も、意味を全部理解しているのかは分からないが、ずっと俯いていた。
葬儀が終わっても、事務所には重い空気が残った。
一週間経っても。
二週間経っても。
誰も以前のようには笑わなかった。
四十九日の法要が終わった頃から、ようやく少しずつ元の雰囲気が戻ってきた。
でも――。
チーフが抜けた穴は、あまりにも大きかった。
二つのホームセンターなどの特建現場。
一つの設計案件。
それを所長、彩華、東郷さん、そして僕たちでカバーすることになった。
新人が四人増えたからといって、仕事が楽になるわけではない。
むしろ、教えながら自分たちの仕事もこなさなければならない。
「人を増やせば、忙しさは減る」
そんな単純な話ではなかった。
ある日の夕方、僕は製図室を見回した。
新人たちはそれぞれモニターに向かっている。
彩華は電話をしながら図面をチェックしている。
美穂さんは黙々と作業をしている。
東郷さんは現場から戻ったばかりで、まだ作業着のままだ。
そして、チーフの席だけが空いている。
誰も座っていない。
机の上には、以前使っていた鉛筆立てが残っていた。
僕はそれを見ながら思った。
――事務所って、人で出来ているんだ。
建物の設計をしている僕たちなのに、今までそんな当たり前のことを、ちゃんと考えたことがなかった。
一人抜けただけで、こんなにも事務所の形が変わる。
紗綾さんが始めた「六つの改革」も、これから本当に試されることになる。
そして僕は、このとき初めて思った。
設計事務所を続けていくということは、建物を設計することだけではない。そこにいる人間を、どう守り、どう育て、どう繋いでいくかということなのかもしれない。
チーフがいなくなった事務所で、僕たちはそれを一から考え直すことになった。




