23. 彩華の悪酔い
ー 紗綾 ー
十一月になった。
河合美穂さんの一件も、ようやく落ち着きを取り戻していた。
あれ以来、事務所の周辺で不審な男を見かけることもなくなったし、無言電話も掛かってこない。
美穂さん自身も、少しずつ事務所の雰囲気に馴染んできていた。
そして、何より驚いたのは、彼女の仕事の速さだった。
所長である私の知人から紹介された、古河市の幼稚園の新築工事。
美穂さんに担当してもらったのだが、なんと二週間ほどで基本計画と基本設計をまとめてしまった。
最初は、
「まあ、最初だから少し頑張ったのね」
くらいに思っていた。
ところが、上がってきた図面を見て、私もチーフの吉田さんも、そして他のスタッフも驚いた。
早いだけではない。
内容が面白いのだ。
斬新で、しかも幼稚園という用途をよく考えている。
平面は、二つのドーナツ状の園舎をつないだような構成。
そして、その屋上にも園庭を設ける。
地上から緩やかなスロープで上がっていき、そのまま屋上園庭へつながる。
子供たちが走り回る姿が、図面を見ているだけでも想像できる。
「これ、いいわね」
私は素直にそう言った。
美穂さんは少し照れながら、
「ありがとうございます」
と笑った。
プレゼン用の模型を作ることになった。
当然、一誠も駆り出された。
私も所長室から時々様子を見ていた。
ある時、模型を作っている二人のところへ行くと、一誠が美穂さんに聞いていた。
「美穂さん、幼稚園って設計したことあるんですか?」
「いえ、初めてよ」
「えっ、初めて?」
「うん。だから、気に入ってもらえるか少し心配なの」
そう言って笑う。
長い髪を後ろでまとめ、薄化粧をした美穂さんは、仕事中でもやはり綺麗だった。
そして一誠も、何となく楽しそうにしている。
その二人を見ていたら――。
背後から、何となく冷たい空気が流れてきた。
振り返ると、彩華だった。
「この模型、楽しそうね……」
「彩華さん?」
「私も手伝っていいかしら?」
もちろん、断る理由などない。
「はい、お願いします」
美穂さんが、彩華に丁寧に答えた。
それがまた、少し新鮮だった。
彩華より三つ年上なのだから、当然と言えば当然なのだけれど。
彩華は、模型の一部を見ながら、
「このカーブ、難しそうね。私がやる」
と言って、スチレンボードを切り始めた。
ところが――。
「あれ?」
どうもうまくいかない。
「ちょっと貸して」
一誠も横から手を出した。
「こうかな……」
しかし、こちらも上手くいかない。
「うーん……」
二人で悪戦苦闘していると、美穂さんが、
「私、やってみます」
と言った。
スチレンボードを受け取り、カッターを滑らせる。
すると――。
綺麗な曲線が、すっと現れた。
「おお……」
一誠が感心したように声を上げた。
「いや、どうも。模型も綺麗にできますね」
その言葉は、本人には単なる感想だったのだろう。
でも、私には、ほんの少しだけお世辞にも聞こえた。
そして――。
「あっ!」
一誠が突然、声を上げた。
見ると、彩華が一誠の足を蹴っていた。
「何するんだよ!」
「知らない」
彩華は、何食わぬ顔をして模型を見ていた。
私は思わず笑いそうになった。
ああ、なるほど。
そういうことなのね。
*
週末。
私と美穂さんは、古河の幼稚園の施主へのプレゼンに出掛けた。
結果は――。
一発で決まった。
施主は模型を見た瞬間から興味を示し、計画の説明にも熱心に耳を傾けてくれた。
最後には、
「ぜひ、この案でお願いします」
と言ってくれた。
プレゼンが終わると、施主のご厚意で食事までご馳走になった。
事務所へ戻って、その話をスタッフにすると、
「おお!」
「やったじゃないですか」
と、皆が喜んだ。
ただ、一人だけ。
彩華の表情が、どうも冴えない。
私は何も言わなかった。
たぶん、今まで事務所の中では、自分が一番若い女性スタッフで、ある意味「事務所の華」のような立場だった。
そこへ、三十一歳の美人で、しかも仕事ができる女性が入ってきた。
そして、その美穂さんの隣に一誠が行くと、何となく嬉しそうに話している。
彩華にとって、面白くないのだろう。
私は、そんなふうに思った。
そして、その予想は外れていなかった。
数日後の夜。
一誠と彩華がLINEでやり取りしていたらしい。
後から一誠に聞いた話だが、こんな会話だったそうだ。
<最近、一誠さ、美穂さんとよくしゃべってない?>
<ええ、そんなことないよ>
<今日も嬉しそうに何話してたの?>
<何話してたかな>
<二人で笑ってたよ>
<ああ、梅林のキッチンの周りの納まり、聞いてね>
<納まり、それであんなに笑うの?>
<美穂さんが自分の失敗談を話してくれたんだ>
そして彩華が、
<聞く>
一誠が、
<聞かない>
そこで、LINEは終わったらしい。
どうやら一誠は、梅林のアトリエの実施設計で、細かな納まりについて美穂さんに聞きに行くことがあるらしい。
それ自体は何も悪いことではない。
むしろ、美穂さんは経験豊富なのだから、分からないことを聞くのは当然だ。
ただ――。
彩華や東郷さんがいる時には聞かず、二人が席を外している時に美穂さんのところへ行くらしい。
それが、どうにも彩華には気に入らないようだった。
私は、少し心配になった。
吉田さんも同じだったと思う。
あの事件があっただけに、美穂さんには余計なトラブルを起こしてほしくない。
ただ、今のところは何も問題はない。
他のスタッフとも仲良くやっている。
仕事は早い。
設計のセンスもある。
何より施主の受けがいい。
だからこそ、
「このまま何事もなく、うまくやっていってくれればいいのだけれど」
私は、そう思っていた。
*
十一月も半ばになり、彩華が担当していた上原酒造の実施設計が、ようやくまとまった。
施工は地元の建設会社による相見積もりで決めることになった。
そして今日は地鎮祭。
私と彩華、それから施主の息子ということで一誠の三人で、会津若松へ向かうことになった。
行きは私のM5。
帰りは彩華が運転することになった。
つまり、彩華は飲まない。
そういう約束だった。
ところが――。
結果から言うと、一番飲んだのは彩華だった。
*
地鎮祭が終わり、上原酒造の皆さんと食事をしている時だった。
私は最初から少しだけ酒を口にしていた。
一誠も飲んでいる。
そして、彩華は運転手だから飲まない。
そのつもりだった。
ところが、一誠の父親の穣さんが彩華に酒を勧め始めた。
「彩華さん、まあまあ、少しだけならいいでしょう」
「いえ、私、帰り運転するので……」
「まあ、まあ。一杯くらい」
「でも……」
「せっかく会津まで来たんだから」
一誠が慌てて、
「父さん、彩華は運転だから飲ませないでよ」
と言った。
しかし、
「少しくらいなら大丈夫だろう」
と穣さん。
そして彩華も、
「……じゃあ、少しだけ」
と受けてしまった。
私は一誠と顔を見合わせた。
「まずいわね」
「はい」
そう言っているうちに、私たちもすでに酒を口にしている。
これでは、帰れない。
急遽、ホテルを取ることになった。
一誠は実家に泊まる。
私と彩華はホテル。
そういうことになった。
ところが一誠に送られてホテルに着いてみると、彩華が、
「所長……」
と言った。
「何?」
「もう少し……飲みません?」
「まだ飲むの?」
「はい」
私は彩華の顔を見た。
目が、少し据わっている。
これは相当溜まっているな。
そう思った。
結局、私たちはホテルのバーへ行くことになった。
そして、そこで――。
彩華の堰が切れた。
「所長……」
「はい」
「私、最近ですね……」
すでに、所長と部下という立場をかなり忘れている。
「少し、溜まってるみたいで……」
私はグラスを置いた。
「そうみたいね」
そして笑った。
「今日は聞いてあげるわよ」
「いいでしょ。話しましょう」
彩華は、完全に普段の彩華ではなくなっていた。
そして、いきなり本題に入った。
「あのバカが、最近、美穂さんにいろいろちょっかい出してるんです」
「おいおい」
一誠が抗議する。
「僕は何もしてないよ。納まりを聞いただけですよ」
「それも、私や東郷さんがいない時に、わざわざ聞きに行くんですよ!」
「だって……」
「どう思います、所長?」
私は少し考えた。
「そうね……」
そして一誠を見る。
「知らなかったわ」
「ほら!」
彩華が嬉しそうに言った。
「それはいけないわね」
「ですよね!」
「ちゃんと彩華に聞かないとね」
「そうですよ!」
彩華は満足そうだった。
「さすが所長、分かってる!」
そして一誠を振り返る。
「おい、お前。聞いたか? そうなんだぞ」
「はい、はい……」
一誠は諦めたように答えた。
「分かりました。これから先輩に聞きに行きます」
「そう、それでいいの!」
彩華は、満足そうに酒を飲んだ。
私は思わず笑ってしまった。
彩華は、仕事ではあれほど強気なのに、酔うと実に分かりやすい。
そして――。
それからも、彩華の愚痴は延々と続いた。
美穂さんのこと。
一誠のこと。
最近の仕事のこと。
自分の設計のこと。
気がつけば、話題は次から次へと飛んでいく。
「所長、私だって頑張ってるんですよ……」
「うん、知ってるわ」
「なのに、あいつは……」
「うんうん」
「それで、美穂さんが……」
「はいはい」
一誠と私は、もう途中から相槌を打つだけになっていた。
やがて彩華は、グラスを握ったまま、テーブルに突っ伏した。
「……もう、知らない」
「寝た?」
一誠が小声で聞いた。
「たぶんね」
私は笑いながら答えた。
「彩華、相当溜めてたのね」
「みたいですね」
一誠は苦笑した。
私は、眠ってしまった彩華の顔を見ながら思った。
この子は、強そうに見えて、案外繊細なのだ。
そして、一誠のことになると、どうしてこうも分かりやすくなるのだろう。
私はグラスに残った酒を一口飲んだ。
会津の夜は、思ったより長くなりそうだった。




