22 美女の災難
『ウチのボスはメリーウィドゥ』第21章までのあらすじ
夫・優弥を若くして亡くした愛田紗綾は、夫の設計事務所を引き継ぎ、所長としてスタッフたちを率いている。そこへ会津の造り酒屋の跡取り息子・上原一誠が入所する。仕事には不器用ながら建築への情熱を持つ一誠は、紗綾の厳しくも温かな指導を受けながら成長していく。やがて、彼は先輩の倖田彩華と惹かれ合い、二人の関係は職場の中でも微妙な緊張を生み始める。上原酒造の仕事や梅林のアトリエなど、設計を通してそれぞれの人生も動き出す。一方、事務所では働き方を変える「六つの改革」が始まり、若手たちの成長と組織の変化が進んでいく。さらに新たな人材を求める中、元ゼネコン出身の東郷や、穏やかだが卓越した設計力を持つ中途入社の河合美穂が加わる。仕事、友情、嫉妬、そして恋愛が絡み合い、愛田設計は少しずつ「優弥の事務所」から「紗綾たちの事務所」へ変わり始めていた。
ー 一誠 ー
事務所に異変が起き始めたのは、河合美穂さんが中途採用で入ってきてから、二週間ほど経った頃だった。
最初に気がついたのは、電話だった。
事務所に掛かってくる電話は、特に担当を決めているわけではなく、その時に近くにいるスタッフが取ることになっている。
ある日、彩華が電話を取った。
「はい、愛田設計です」
すると、相手の男性から、
「そちらに河合さんはいらっしゃいますか……」
と聞かれたという。
「河合さんですか? あの、どちら様ですか?」
そう聞き返した途端、電話は切れた。
それだけなら、さほど気にすることでもなかった。
ところが、その日以降、無言電話が一日に何本も掛かってくるようになった。
電話に出ても、何も言わない。
こちらが、
「もしもし?」
「どちら様ですか?」
と聞いても、しばらく沈黙したまま、やがて切れる。
一日に何度も続くと、さすがに気味が悪い。
そして、それだけではなかった。
ある日の夕方、僕が帰宅しようと事務所の入っているマンションを出た時のことだった。
エントランスを出て少し歩いたところで、どこからか一人の男性が近づいてきた。
年齢は三十代くらいだったと思う。
「すみません」
「はい?」
「あのー、愛田設計の方ですか?」
いきなりそんなことを聞かれた。
「……はい、そうですが」
僕は少し警戒しながら答えた。
すると、
「河合美穂さんは、そちらにいらっしゃいますか?」
「……どちら様ですか?」
「河合さんは、いるんですか?」
質問に答えず、また同じことを聞いてくる。
これは変だ。
僕は少し距離を取った。
「個人的なことについては、お答えできません」
そう言うと、その男は、
「そうですか……」
とも言わず、すすすっと僕の横を離れていった。
そして、そのまま何事もなかったように向こうへ歩いていった。
妙だった。
あまりにも妙だった。
僕は一度マンションを出たものの、そのまま帰る気になれず、事務所へ戻った。
まだ残っていた吉田チーフを見つけ、今あったことを話した。
チーフは、僕の話を黙って聞いていた。
そして、少し表情を曇らせた。
「分かった」
「何か心当たり、あるんですか?」
チーフは少し考えてから、
「その件は、他言無用にしてくれ」
「はい」
「明日、所長に話をするから」
「分かりました」
それだけだった。
チーフの様子を見る限り、どうも僕が知らない事情があるらしい。
僕はそれ以上聞かなかった。
帰宅してからも、チーフに「他言無用」と言われたことが頭に残っていた。
さすがに彩華にも言えないな。
そう思っていると、スマートフォンが鳴った。
彩華からLINEだった。
<ねー、最近、無言電話多くない?>
僕は少し考えてから返した。
<多いね>
すぐに返事が来た。
<どうも、あれ河合さんが目的みたいよ>
<そうなの?>
<彼女、前の事務所で異性問題があって、それでウチに来たみたい……>
<そうなんだ>
そこまで読んで、僕は河合さんの顔を思い浮かべた。
あの美貌。
あのスタイル。
そして、あの落ち着いた雰囲気。
確かに、そういうことがあっても不思議ではないのかもしれない。
そう思った瞬間だった。
スマートフォンがまた震えた。
<いま、彼女のこと想像してたでしょ……>
「……!」
思わず画面を見つめた。
何で分かるんだ。
<いや>
と、慌てて否定した。
しかし――。
その後、彩華からの返事はなかった。
既読にもならない。
LINEは、唐突にそこで途切れた。
……しまった。
余計なことを考えた。
僕はスマートフォンを机の上に置き、ため息をついた。
*
翌朝。
スタッフ全員がミーティングルームに集められた。
ただ一人、河合さんだけが来ていない。
何が始まるのか分からないまま、僕たちは席についていた。
紗綾さんが入ってきた。
その表情は、いつもの所長とは少し違っていた。
「みんなに話しておきたいことがあります」
僕たちは黙って所長を見る。
「最近、事務所の近くで、知らない男性に声を掛けられたり、付きまとわれたりした人はいる?」
そう言って、紗綾さんは手を挙げるよう促した。
すると――。
僕を含めて、吉田チーフ以外の全員が手を挙げた。
紗綾さんは、それを見て小さく頷いた。
「そう……」
そして、少し間を置いてから、
「今日、みんなに集まってもらったのは、その件なの」
と話し始めた。
やはり、昨日の男のことだった。
河合さんが以前勤めていた事務所で、ある男性と交友関係をめぐってトラブルがあったこと。
そのことが今回の転職の一因になっていること。
そして、最近、同じ男性と思われる人物が、この事務所の周辺に現れていること。
すでに警察にも相談し、届け出をしていること。
所長は、淡々と説明した。
「だから、もし今後、同じようなことがあったら、すぐに私か吉田さんに連絡してください」
誰も口を挟まなかった。
「一人で対応しないこと。相手に河合さんのことを聞かれても、何も答えないでください」
僕は、昨日の男の顔を思い出していた。
あの時、もしチーフに話していなかったら――。
いや。
もし僕が、何も知らずに河合さんのことを話していたら。
そう考えると、少しぞっとした。
紗綾さんは最後に、
「河合さんは、今週はお休みします。来週からは出勤する予定です」
と言った。
そして、少し表情を和らげた。
「今回の件で、河合さんは被害者です」
その言葉を、ゆっくりと言った。
「だから、みんなも普通に接してあげてください。変に気を遣う必要もないし、腫れ物に触るような扱いもしないでください」
そして、
「ただ……守るべきところは、みんなで守ってあげてください。お願いします」
と言った。
誰も返事をしなかった。
ただ、みんな静かに頷いた。
そのまま、僕たちはそれぞれの席へ戻った。
仕事を始めたものの、事務所の空気はどこか重かった。
僕も、何となくやりきれない気持ちが残った。
「美人は得だ」
そんなことを、世間ではよく言う。
確かに、そういう面もあるのかもしれない。
でも――。
美人であることが、本人の望まないところで誰かの欲望を引き寄せてしまうのなら、それは決して「得」なんかではない。
むしろ、大変なことの方が多いのかもしれない。
僕は、そんなことを考えていた。
その日以降、無言電話は掛かってこなくなった。
事務所の周囲で男を見かけることもなくなった。
そして翌週。
河合さんが、何事もなかったように出勤してきた。
朝、事務所に入ってくると、僕たちに向かって深々と頭を下げた。
「皆さん、いろいろご迷惑をお掛けしました」
「そんな……」
僕が何か言おうとすると、
「気にしなくていいですよ」
東郷さんが先に言った。
「河合さんが悪いわけじゃないんですから」
「そうですよ」
僕も続けた。
「仕事、頑張りましょう」
「はい」
河合さんは笑った。
その笑顔は、初めて会った時と同じだった。
その後、所長室で、紗綾さん、吉田チーフ、河合さんの三人で、しばらく話をしていた。
何を話しているのかは、僕たちには聞こえなかった。
でも、たぶん仕事の話だけではなかったと思う。
事務所に戻ってきた河合さんの表情は、少しだけ穏やかになっていた。
僕たちは、誰も口には出さなかった。
けれど――。
「応援してますよ」
「ここでは、あなたを守りますよ」
そんな気持ちは、みんなの中にあったと思う。
少なくとも僕は、そうだった。
それから少しずつ、事務所はいつもの平穏さを取り戻していった。
そして、ようやく本来の仕事に戻ることになった。
新しく入った河合さんは、幼稚園の担当。
バス会社の整備工場は東郷さん。
そして住宅は、僕が担当することになった。
これから、また忙しくなる。
でも、今度は少し違う。
新しい仲間が増えた。
河合美穂。
その時の僕は、彼女がこれから僕たちの事務所に、どんな風を吹き込むことになるのか――。
まだ何も知らなかった。
登場人物
愛田紗綾 32歳急逝した夫・優弥の跡を継いで建築設計事務所の所長となった明るい性格で、人が良い
上原一誠 24歳設計意匠スタッフ新人密かに彩華と付き合うが秘密にしている
吉田忠司 38歳チーフ事務所の番頭格として、所長のサポート役に徹している
倖田彩華 28歳二番手デザイナー何事も、物怖じしない
河合美穂 31歳 有名アトリエ系事務所から中途採用、才色兼備で性格も明るい
東郷隼人 29歳 元ゼネコンの施管後、入所 一見真面目で固そうだが…
片山 千鶴 37歳 事務担当 しっかり者で抜けが無い
愛田優弥 紗綾の亡夫 6年前に逝去 紗綾とは許嫁で結婚 事務所を創設




