21. 意外な助っ人はトラブルメイカー
ー 一誠 ー
十月になった。
夏の暑さもようやく収まり、事務所の窓から入ってくる風にも、少し秋の気配が感じられるようになっていた。
ところが、僕たちの仕事は秋らしく穏やかになるどころか、これから一気に忙しくなるらしい。
所長が受注している案件が、いくつか同時に動き始めるというのだ。
このままでは、今いるスタッフだけでは明らかに手が足りない。
そこで急遽、中途採用をすることになった。
といっても、うちのような小さな設計事務所が、求人広告を出して大々的に募集するわけではない。
所長の人脈、チーフの人脈、その他いろいろな「コネ」を総動員して、人を探す。
そういう時の所長の人脈は、なかなか侮れない。
そして十月第一週の土曜日。
珍しく、事務所にいるのは所長と吉田チーフだけだった。
その二人で、中途採用の面接をしていた。
応募してきたのは二人。
一人は、所長の亡くなったご主人、優弥さんの後輩だという女性。
河合美穂、三十一歳。
もう一人は、知人の紹介で来た二十八歳の男性で、こちらも都内の設計事務所で意匠設計をしていたらしい。
二人とも、これまでの実績をまとめたポートフォリオを持参してきた。
そして、所長とチーフが採用を決めたのは、女性の方だった。
河合美穂。
有名なアトリエ系設計事務所に勤めていたらしく、経歴も申し分ない。
ただ、一つだけ懸念材料があった。
これは後から片山さんに聞いた話だが――。
「これ、内緒よ」
そう念を押してから、片山さんは教えてくれた。
美穂は、とにかく美人らしい。
いや、単に美人というだけではない。
かなりの美人で、それが原因で以前の職場でも何かと周囲が騒がしくなり、トラブルになることがあったらしい。
今回の転職も、そのことが一因だという噂があった。
もっとも、本人が周囲を騒がせているわけではない。
どうも、本人の意思とは関係なく、周囲の男性が勝手に騒ぎ出すらしい。
所長もその噂を耳にしていたので、面接の時にそれとなく聞いてみた。
すると、美穂本人も困ったように、
「私自身は、そんなつもりはないんですけど……」
と答えたらしい。
それを聞いて、所長もチーフも納得したという。
なるほど。
そういうことなら、本人の能力とは関係のない話だ。
むしろ、そんなことで転職までしなければならないのだとしたら、気の毒な話でもある。
――という話を、片山さんから聞いた。
もちろん、
「これ、内緒よ」
と言われた。
たぶん、彩華も東郷さんも聞いているだろう。
この事務所では、「内緒」の話ほど広まるのが早い。
翌週の月曜日から美穂が来ることになり、僕たちは慌てて製図室の席を配置換えした。
結局、美穂さんの席は彩華の隣になった。
それを聞いた彩華が、
「新人っていっても、私より三つも上でしょ。どちらかと言えば、私が教えてもらいたいくらいよ」
と笑った。
確かに、その通りだった。
美穂さんは三十一歳。
僕たちより年上で、しかも都内のアトリエ系事務所で実務経験を積んでいる。
新人とはいっても、建築の世界では十分なキャリアを持っている。
そんな話をしていると、東郷さんが聞いた。
「それにしても、新しい案件ってどんなのなんですか?」
「所長の知人からの仕事みたいよ」
片山さんが答えた。
「バス会社の整備工場と、幼稚園。それから住宅もあるみたい」
「ええっ、一度にですか?」
「だから入れたんじゃない」
「そりゃそうだ……」
東郷さんが頭を抱えた。
「それじゃ、しばらく定時退社は無理だな。製図の勉強をしようと思ってたんだけど……」
そう言って、ため息をつく。
設計スタッフは、仕事だけしていればいいわけではない。
建築士の試験がある。
学科試験に合格して、その後の製図試験にも合格しなければ、一級建築士の資格は取れない。
将来、独立するにしても、転職するにしても、資格があるかないかでは大きな違いがある。
僕たちも、そのことは十分に分かっていた。
実は、彩華も僕も、まだ学科試験すら合格していない。
だから、
「来年こそは……」
と、二人とも密かに思っていた。
「僕、来年は受験校に通おうかな」
僕が言うと、彩華が、
「それだって、バカにならない費用がね……」
と、少し顔を曇らせた。
「もう学科の講座、始まってますよ」
僕が言うと、
「ええっ?」
彩華が目を丸くした。
「どうしよう……」
珍しく、彩華が慌てた。
こういうところは妙に普通の人である。
「土曜日、申し込みに行きましょうか?」
僕は彩華に声を掛けた。
「……しょうがないな」
そう言ったものの、彩華の顔は、それほど嫌そうではなかった。
むしろ、少し嬉しそうに見えた。
まあ、こういう時くらいは、僕たちも真面目に将来のことを考えなければならない。
そう思っていた。
そして翌週の月曜日。
僕はいつもより少し早めに事務所へ出勤した。
ところが――。
「あれ?」
事務所に入った僕は、思わず立ち止まった。
「皆さん、早くないですか?」
いつもなら、僕が早く来たと思うくらいなのに、今日はもうほとんど全員が揃っている。
東郷さんがこちらを振り向いた。
「もう来てますよ」
「誰が?」
「新人の河合さん。今、所長室にいます」
その時、所長室のドアが開いた。
紗綾さんと、その後ろから一人の女性が出てきた。
「おはようございます」
所長が声を掛ける。
「「おはようございます」」
僕たちが一斉に挨拶を返す。
「今日からうちに来てもらうことになりました、河合美穂さんを紹介します」
そう言って、所長は美穂さんの経歴を紹介し始めた。
出身大学、これまでの勤務先、担当してきた仕事……。
さすが所長。
採用面接の時に聞いたことを、きちんと覚えている。
そして、一通り紹介が終わると、
「それじゃ、河合さん。自己紹介を」
と促した。
「はい」
彼女は一歩前に出た。
「今、ご紹介に預かりました河合美穂です。未熟者ですが、よろしくお願いします」
それだけだった。
ペコリ、と頭を下げる。
たったそれだけ。
妙に簡潔な挨拶だった。
でも、僕にはその簡潔さが好ましく感じられた。
変に自分を飾らない。
こういう人なら、案外うまくいくかもしれない。
「席は、彩華さんの隣のそこね。分からないことがあったら、彩華さんに聞いて」
「はい、分かりました」
所長はそう言うと、
「じゃあ、吉田さん。ちょっと打ち合わせを」
と言って、チーフと一緒に所長室へ戻っていった。
僕と東郷さんは、顔を見合わせた。
そして、ほぼ同時に美穂さんを見る。
――噂に違わず、美人だった。
いや。
これは……かなりの美人だ。
女優と言われても不思議ではない。
僕が知っている女優で言えば、松たか子さんとか、菅野美穂さんとか。
そんな雰囲気だった。
「……何でこんな美人が、うちみたいな零細事務所に?」
東郷さんが、小声で呟いた。
僕も同じことを考えていた。
ただ、すぐに思い直した。
――いや。
僕も、似たようなものじゃないか。
「まあ、人のこと言えないけどね」
「何が?」
「いや、何でもない」
東郷さんには言わなかった。
その頃には、美穂さんはもう自分の席に座っていた。
そして、隣の彩華と何やら楽しそうに話している。
二人とも笑っている。
意外だった。
彩華は、もっと警戒するかと思っていた。
でも、どうやらそうでもないらしい。
同性の同僚が増えたことが、単純に嬉しいのかもしれない。
これなら、仕事も上手く進むかもしれない。
僕は、そんな楽観的なことを考えていた。
――その考えが甘かったことを、僕はすぐに思い知らされることになる。
河合美穂が入ってきてから、わずか一週間。
僕たちの事務所には、次々と問題が降りかかってきた。
そして、その中心にいたのが――。
まさか、あの美人の新人だとは。
この時の僕には、まだ知る由もなかった。




