20. 第3の案
ー 一誠 ー
一誠のレガシィB4フラット4は、独特の籠もった排気音を響かせながら、磐越自動車道を西へ向かっていた。
助手席の彩華は、さっきからずっと窓の外を見ている。
つくばを出てから、ほとんど一言も話していない。
もう、いい加減にしてほしい。
そう思う一方で、今回の原因が自分にあることは、僕にも分かっている。
こちらから何か言えば、たぶん余計なことを言ってしまう。
下手をすると、自分で墓穴を掘る。
だから、僕も黙って運転していた。
郡山を過ぎた頃だった。
ようやく彩華が、重い口を開いた。
「今回の件で、自分の方が私や所長より才能があるなんて、思わないでね……」
「勿論、そんなこと思ってませんよ」
「所長も、かなり機嫌悪かったわよ」
「……そうみたいですよね」
「なんで自分の案なんて作ったのよ」
「ええっと……」
僕は少し考えてから答えた。
「所長の案の模型を作っていたら、自分でもいろいろ思いついてきて……。気がついたら、三番目の模型を作ってました」
「……気がついたら?」
「はい」
「一晩で?」
「まあ……」
彩華は、ふっと息を吐いた。
「呆れるわ」
そう言ったきり、また窓の外を向いてしまった。
どうやら、まだ機嫌は直っていないらしい。
そりゃ、そうだ。
僕だって、逆の立場だったら面白くない。
そもそも、あの模型を作った翌朝、自分でも驚いた。
所長から「私の案の模型を明日の朝までに作って」と言われたので、僕は当然、その案を忠実に模型にしようと思っていた。
ところが、模型を作っているうちに、どうしても気になるところが出てきた。
煉瓦壁を残す。
それは、彩華の案も所長の案も同じだった。
でも、二人とも新しく設けるカーテンウォールが、煉瓦の壁に絡みつくような構成になっていた。
確かに、それも悪くない。
煉瓦の古さと、新しいガラスの対比も出る。
でも――。
「もっと煉瓦そのものを見せたら、どうなんだろう」
そんなことを考え始めた。
そして気がつけば、別の模型を作っていた。
三つの模型が、机の上に並んだ。
一つは彩華の案。
二つ目が所長の案。
そして三つ目が、僕の案だった。
彩華と所長の案では、煉瓦の壁とカーテンウォールが前後に絡み合っている。
それに対して僕の案では、煉瓦の壁を前面に出した。
カーテンウォールは少しセットバックさせ、その後ろに控えめに置く。
新しいものを前面に出すのではなく、古い煉瓦壁を主役にする。
そうすると、不思議なくらい煉瓦造りの存在感が増した。
ただの古い煉瓦の壁ではない。
そこに、この酒蔵が積み重ねてきた時間そのものがあるように見えた。
朝になって、三つの模型を並べた。
所長も、彩華も、チーフも、東郷さんも、しばらく何も言わなかった。
僕も黙っていた。
誰が見ても、三案の違いは明らかだった。
そして、その場の空気からすると、どうやら僕の案が一番良いらしい。
でも、僕自身には、その実感がなかった。
しばらくして、チーフの吉田さんが口火を切った。
「上原酒造のショールーム改装案は……一誠の案で行きますか。所長、どうです?」
所長は模型を見たまま、少し間を置いた。
「そうね……。そうしていいわよ」
次に吉田さんが彩華を見る。
「彩華も、いいかな?」
「……はい」
彩華は小さく頷いた。
「じゃあ、これで図面と基本計画書を作成して……」
吉田さんが彩華にそう言いかけたところで、彩華が僕を睨んだ。
「あんたも手伝いなさいよ」
「え?」
「あんたの案なんだから」
「……はい」
僕は素直に答えた。
所長は何も言わず、そのまま所長室へ入っていった。
僕は模型の前に一人残された。
三つの模型を見比べる。
でも、やっぱり少し変な気分だった。
この三つ目の案は、僕一人で最初から考えたものではない。
彩華の案があった。
所長の案があった。
その二つを見て、考えて、そこから初めて僕の案が生まれた。
つまり、二人の案がなければ、僕の案もなかった。
なのに、結果だけを見れば、僕の案が「一番良い」ということになってしまった。
誰も、そのことを口にはしなかった。
僕自身も言わなかった。
だから、余計に引っ掛かった。
彩華が不機嫌なのも、たぶんそれだけじゃない。
そして、後から考えれば、所長にとっても同じだったのだろう。
自分の案は、彩華の案より良い。
所長は、そう思っていたはずだ。
そこへ突然、一晩で僕の案が出てきた。
しかも、それが明らかに二人の案より良かった。
所長としての立場を考えれば、面白いはずがない。
僕には、その時そこまで考える余裕はなかった。
ただ、三つの模型を眺めながら、
「これで良かったのかな……」
そんな気持ちだけが残った。
後になって聞いた話だが、この時、所長はかなりショックだったらしい。
もちろん、そんな素振りは一切見せなかった。
所長には、所長としてのプライドがある。
だから、それ以降、紗綾さんは自分から案を提示することが少なくなった。
スタッフが出してきた案に対して、
「ここは、もう少しこうした方がいいんじゃない?」
「この部分は、私は好きじゃないわ」
と意見や注文を付ける。
ただ、自分の案を最初から押し出すことはしなくなった。
それは、亡くなった優弥さんのデザインスタイルを、自分自身がそのまま受け継ごうとしなくなったということでもあった。
スタッフが出してきた案を見て、優弥さんらしい方向へ、少しずつ誘導する。
けれど、スタッフ自身のオリジナル案の方が明らかに優れている時には、素直にそれを採用する。
それが、いつの間にか所長のやり方になっていった。
僕がそれを知るのは、もう少し後のことだった。
*
上原酒造の応接室。
僕の父、上原穣と専務が、さっきから彩華たちが持ってきた模型と基本計画書を、黙って見つめている。
もちろん、彩華が一通り説明した。
一階をショールームと試飲・販売スペースにし、二階を事務所にする。
既存の煉瓦の壁をできるだけ残し、新しいガラスのカーテンウォールをその後ろに控えさせる。
そして、軽やかな金属屋根を載せる。
彩華の説明を聞き終わっても、父と専務は模型から目を離さなかった。
しばらくして、父が口を開いた。
「彩華さん」
「はい」
「この案、良いですよ」
父は模型を指差した。
「素晴らしい。これで行きましょ」
そして、隣の専務を見る。
「ねっ、専務」
「ええ」
専務も頷いた。
「この煉瓦造りの使い方が良いですね。これなら、この会社の歴史や、これまでの仕事を大切に守っていることが、よく表現されていると思います」
「そうですか……」
彩華が少し照れたように答えた。
父が模型を見ながら聞いた。
「これは、彩華さんの案ですか?」
「まあ……」
彩華は、少し言葉を濁した。
父は、それを謙遜だと思ったらしい。
「恵美!」
奥にいる母に声を掛けた。
「ちょっと来て見てくれ」
「はいはい」
母が奥から出てきて、模型を覗き込む。
そして、
「まあ、素敵」
と一言だけ言った。
それ以上は何も言わなかった。
母らしい。
打ち合わせが終わると、父たちに食事へ誘われた。
結局、いつものように少し長居をしてしまい、僕たちがつくばへ戻ったのは夕方だった。
事務所に戻ると、僕たちはすぐに所長室へ向かった。
「どうだった?」
紗綾さんが顔を上げた。
「上原さん、すごく気に入ってくれました」
「そう」
紗綾さんは、ほっとしたように微笑んだ。
「安心したわ」
僕も頷いた。
ところが、その時だった。
僕の口から、思いがけない言葉が出た。
「所長……実は、あの案……」
紗綾さんの顔が、少しだけ曇った。
「何?」
僕は、少し迷った。
でも、言わなければならないと思った。
「あれ、彩華の案じゃないんです」
「……え?」
「正確には、僕の案でもないんです」
紗綾さんは黙って僕を見ていた。
「三つの案を見て、父が選んだのは……三つ目の案です。でも、その三つ目ができたのは、所長と彩華の二つの案があったからです」
自分で言いながら、何を言いたいのか分からなくなってきた。
「だから……僕だけが良い案を作ったみたいになるのは、ちょっと違うと思うんです」
紗綾さんは、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「一誠」
「はい」
「あなた、そういうところ……本当に不器用ね」
「え?」
「でも……」
そこで紗綾さんは、少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
その声は、いつもの所長の声より、ほんの少しだけ小さかった。




