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19/25

19 初夏の朝 

登場人物 

愛田 紗綾 32歳 急逝した夫・優弥の跡を継いで建築設計事務所の所長となった 明るい性格で、人が良い

上原 一誠 24歳 設計意匠スタッフ 新人 密かに彩華と付き合うが秘密にしている

倖田 彩華 28歳 二番手デザイナー 何事も、物怖じしない

吉田 忠司 38歳 チーフ 事務所の番頭格として、所長のサポート役に徹する

河合 美穂 31歳 有名アトリエ系事務所から中途採用、才色兼備で性格も明るい

東郷 隼人 29歳 元ゼネコンの施管後、入所 一見真面目で固そうだが…

片山 千鶴 37歳 事務担当 しっかり者で抜けが無い

ー一誠 ー


梅雨の小糠雨は、未明には止んでいた。


夏至を少し過ぎたばかりの朝。


ようやく昇ってきた太陽が、斜面の梅林を照らしている。


昨夜までの雨が木々の葉に残っていた。


そこへ朝の光が差し込む。


葉の一枚一枚に残った水滴が、キラキラと輝いていた。


僕は一人、愛車B4を飛ばしてここまで来た。


昨晩遅くまで事務所で図面を描いていたのだが、突然、この敷地を見たくなった。


理由は、自分でもよく分からない。


ただ、今朝のこの場所を見ておきたかった。


昔、どこかの本で読んだことがある。


昔の中国の建築家は、建物を建てる敷地に座り込んで、晴れの日も雨の日も長い時間、その土地の変化する様々な表情を観察したという。


確か、修士の時に読んだケビン・リンチの「敷地計画の技法」に書いて有ったと思う。


本当にそう書いてあったのか、自信はない。


でも、その考え方はずっと頭に残っていた。


普段、僕たちは晴れた日にしか敷地を見ない。


雨の日の状態まで確認することは少ない。


まして、ここは斜面だ。


地表に降った雨は、地中へ浸透するよりも、かなりの量が斜面を流れていく。


昨日の雨なら、それがよく分かる。


斜面を走った水の跡が、あちこちに残っていた。


僕は、斜面の上から敷地を見下ろした。


二本のRC壁でアトリエと住居を支え、斜面から建物を浮かせる。


最初は構造的な理由から考えた案だった。


でも今、この場所に立ってみると――。


これで良かったんだと思う。


斜面を無理に平らにしない。


水の流れを邪魔しない。


梅林をできるだけ残す。


建物が土地を征服するのではなく、土地の上にそっと乗る。


僕は、もう一度建物の姿を頭の中に描いた。


もうすぐ実施設計も終わる。


構造。


設備。


積算。


そして外部への見積依頼。


これから設計は、どんどん現実の方へ近づいていく。


そして――。


ここに所長の家が建つ。


いや。


紗綾さんの家が建つ。


そう考えると、不思議な気持ちになった。


この場所で、紗綾さんが暮らす。


朝起きて。


コーヒーを飲んで。


広い窓から山を見る。


前面のテラスへ出て、梅林を眺める。


夕方になれば、山の向こうへ沈んでいく夕日を見る。


もしかしたら、その夕日を見ながら涙を流すことだってあるのかもしれない。


そんな生活をする家を、自分が設計している。


僕は、少しだけ誇らしかった。


この仕事を任せてもらって良かった。


心底そう思った。


定時前に、つくばの事務所へ戻った。


事務所へ入ると、妙な光景が目に入った。


ミーティングルームの大テーブル。


その上に、会津若松の上原酒造のスタディ模型が置いてある。


そして、その前に所長と彩華が並んで立っていた。


二人とも、黙って模型を見ている。


――嫌な予感がする。


僕は二人に近づかないよう、遠回りして自分の席へ向かった。


「一誠」


やっぱり呼ばれた。


「ちょっと来て」


「あー、はい……何でしょうか」


所長のところへ行く。


「これ、あなたの実家のリフォームなんだから」


所長が模型を指した。


「あなたの意見も大切よね」


「ええ……」


「お父さんの代理として、意見を言って」


「そんな……」


横から彩華が言う。


「はっきり言いなさいよ」


「はい?」


「これ、来週持って行くんだから」


僕は模型を見た。


既存の煉瓦の壁だけを残している。


屋根とファサードは新しくなっている。


特に正面のカーテンウォールは、煉瓦造りの壁に絡みつくように設けられていた。


あるところでは前に出て。


あるところでは後ろへ引っ込み。


既存の煉瓦壁と新しいガラスの境界が、一定ではない。


屋根は金属の軽い屋根。


煉瓦造の壁の重さとは対照的に、ふわりと浮くようなデザインになっている。


かなり考えられた案だと思った。


「これ、少し既存の壁が多くない?」


所長が言った。


「もう少しカーテンウォールを大きくした方がいいんじゃない?」


彩華がすぐに反論した。


「そんなことありません」


「煉瓦とカーテンウォールのバランスは、いろいろ検討してこれになったんです」


「でもね……」


「煉瓦を残すことが目的じゃないですか」


「そうじゃないわ」


二人の会話が始まった。


僕は黙った。


チーフも東郷さんも、知らん顔をしている。


明らかにこちらの会話を聞いているくせに、二人ともモニターから目を離さない。


――困った。


どちらに味方しても、後で遺恨が残る。


経験上、よく分かっている。


下手をすれば、しばらく口を利いてもらえない。


さらに悪ければ、ネチネチと虐められる。


この二人を敵に回すのだけは避けたい。


そうだ。


いいアイデアが浮かんだ。


「所長」


「何?」


「ここは、事務所の総意として、他の人の意見も聞きましょうよ」


所長が怪訝な顔をした。


「誰の?」


「もちろん、スタッフ全員です」


その瞬間。


チーフと東郷さんが、同時に顔を上げた。


――しまった。


「そうね」


所長が言った。


「じゃあ、二人ともこっちへ来て。意見を頂戴」


二人は渋々、僕の後ろへやって来た。


所長が模型を指差した。


「私はね、この案は煉瓦に遠慮しすぎていると思うの」


二人が模型を見る。


「もっとカーテンウォールの面積を増やして、煉瓦の前に新しいファサードを設けた方がいい」


二人は黙って考えている。


何を考えているのか、その表情からは分からない。


沈黙が長い。


所長も少し気を揉んでいる。


やがてチーフに訊いた。


「吉田さんは?」


吉田さんは模型をしばらく見た。


「そうですね……」


そして、


「この案も良いと思います」


一瞬、彩華の顔が緩んだ。


しかし次の言葉。


「ただ、所長の意見も尤もだと思います」


彩華の顔が戻った。


「一度、所長案でスタディ模型を作ってみるのもいいんじゃないでしょうか」


今度は東郷さん。


「僕も、これはこれで良いと思います」


「でも、所長の案も捨てがたい」


「一度、両方見てみた方がいいと思います」


所長が頷いた。


「そうね」


そして――。


「一誠は?」


全員の視線が僕に集まった。


「ええーと……」


言葉に詰まった。


「早く言いなさいよ」


所長と彩華が、ほとんど同時に言った。


「あっ、はい」


僕は慌てて答えた。


「僕も東郷さんの意見に賛成です」


「……」


「所長案の模型も作って、両方提示した方が良いと思います」


言い切った。


自分では、かなりいい答えをしたつもりだった。


しかし――。


皆の顔が、何とも言えない表情になった。


彩華が呆れたように言った。


「バカじゃない?」


「え?」


「事務所として二案持って行ったら、そんなことも決められない事務所だと思われるでしょ」


「あ……」


所長も頷いた。


「その通りよ」


そして僕を見る。


「持って行くのは一案だけ」


「……はい」


「じゃあ、一誠」


嫌な予感がした。


「私の案の模型、作って」


「え?」


「明日の朝までにね」


「……」


僕は模型を見た。


それから時計を見る。


まだ朝の九時過ぎ。


――今夜は長くなりそうだ。


その日の夜。


僕は一人、ミーティングルームの大テーブルに向かっていた。


カッター。


スチレンボード。


プラ板。


接着剤。


そして、所長の描いた赤線入りのスケッチ。


窓の外は、いつの間にか小雨になっていた。


僕は小さくため息をついた。


「……やれやれ」


それでも、手は止めなかった。

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