18. 梅雨の後先
ー 一誠 ー
会津若松の実家の契約に所長と同行して、泥酔した所長の面倒を見て帰ってきた。
それで、めでたしめでたし――。
とは、ならなかった。
今度は彩華の機嫌が最悪になった。
二週間、口を利いてもらえなかった。
何度説明しても、まったく聞く耳を持たない。
LINEを送れば既読は付く。
だが、返信はない。
電話をしても出ない。
もちろん事務所でも、目を合わせてくれない。
仕事の話をすれば返事はする。
「これ、どうします?」
「そこ」
「はい」
それだけ。
僕はほとほと困り果てた。
ようやく彩華の怒りが少し落ち着いたのは、二週間後の週末だった。
その日の夕方、LINEが来た。
〈事情はLINEで読んだけど、説明に来て〉
僕は彩華のマンションへ向かった。
部屋に入ると、彩華は椅子に座っていた。
まだ機嫌が悪い。
「じゃあ、もう一度話します…」
僕は会津での出来事を最初から話した。
実家で食事をしたこと。
酒を飲んだこと。
その後、所長と二人で料亭へ行ったこと。
所長が飲み過ぎたこと。
ホテルへ泊まったこと。
僕が介抱したこと。
ここまでは一度説明した。
「最後のところ、もう一回」
「え?」
「ホテル」
「だから、所長が酔っ払って……」
「その後」
「僕が部屋まで連れて行って……」
「その後」
「……介抱しました」
「どうやって?」
「どうやってって……」
結局、同じところを三回説明させられた。
「で、何であなたは実家に泊まらなかったの?」
「いや、それは……所長の介抱が……」
「ふーん」
彩華は黙った。
そして、ぽつりと言った。
「あなたは私の気持ちより、酔った所長の方を気にするのね……」
「そんなことないですよ」
「じゃあ何で?」
「だから……」
言い終わる前に、彩華の目から涙が落ちた。
「え……」
僕は慌てた。
「ちょっと、彩華……」
隣へ行く。
肩を抱いた。
彩華はしばらく黙って泣いていた。
僕は何も言わず、そのまま肩を抱いていた。
やがて、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。
「もういいよ」
小さな声だった。
「……ごめん」
僕はそう答えた。
結局、それが会津出張の顛末だった。
それから二ヶ月。
ようやく梅林のアトリエの基本設計が終わった。
所長の了解も得た。
スタッフから出た細かい修正も取り入れ、いよいよ実施設計に入った。
ところが、ここからが大変だった。
事務所にある設計図書をあれこれ引っ張り出して、それを参考にしながら描いているので、なかなか進まない。
ようやく出来たと思った図面は、チーフや彩華に手直しされる。
訂正というより――。
「これ、もう一回描き直した方がいい」
そう言われる。
一枚の図面を、四回、五回と描き直すことも珍しくなかった。
自分では完成したつもりでも、誰かに見てもらうと、また直すところが出てくる。
設計って、こんなものなのか。
先週、ようやく平面詳細図が終わった。
当然、所長も自宅部分が気になるらしい。
二日に一度くらいは、僕のところへやって来る。
所長が近づいてくると、あの香水の匂いがする。
ふわっと、柑橘系の香り。
何だか、いい気分になる。
所長は図面をしばらく黙って見る。
「……そうね」
ここで僕は緊張する。
「いいわ」
そう言ってくれることもある。
何も言わずに戻っていくこともある。
そして、
「ここはね……」
と赤ペンを入れることもある。
この瞬間が一番怖い。
ある日、事務の片山さんに聞いてみた。
「片山さん、所長の香水って何か知ってます?」
「香水?」
「はい」
片山さんは少し考えて、
「多分、ジョー マローン ロンドンじゃないかしら」
と言った。
「へえ」
「ライム バジル&マンダリン コロン。一度、所長室で見たことがあるわ」
「なるほど……」
ジョー マローン。
それ以来、僕の中であの香りの正体が分かった。
彩華も、夏になると香水やコロンを付ける。
六月頃から、やはり柑橘系の香りがする。
ただ、その話を彩華の前でするのは危険だ。
「所長と比較しないで」
と言われるに決まっている。
だから絶対に言わない。
どうも僕は、香りに弱いらしい。
特に所長のライム、バジル、マンダリンの香りが漂ってくると、妙に意識してしまう。
大脳辺縁系がどうのこうの、と医学的なことはよく分からない。
ただ、正直に言えば――。
えも言われぬ、官能的な刺激が身体を走る。
そんなことを本人に言ったら、まず殺される。
だから、このことは彩華にも絶対に秘密だ。
話を戻そう。
彩華が担当している図書館の現場は順調だった。
杭工事が終わり、基礎工事に入った。
定例会議も毎週火曜日に行われている。
※
問題は、会津若松の実家の計画だった。
どうも彩華は、あの煉瓦造りの倉庫をどこまで残すかで、所長と意見が合わないらしい。
既存の煉瓦造りの壁をどこまで残すのか。
新しく付け加える部分を、どんなデザインにするのか。
保存なのか、再生なのか。
あるいは、既存部分を背景として新しい建築を挿入するのか。
二人とも、設計者として譲らない。
彩華が纏めた上原酒造の旧煉瓦倉庫の調査概要書の一部はこうだった。
建築年:1892年(明治25年)頃
上原酒造が清酒の生産量を増やした時期に、酒瓶・樽・米などを保管するため建てられた倉庫。江戸時代からある母屋や仕込蔵とは少し離れた、敷地東側の道路沿いに建つ。
規模は間口約9m×奥行18m、2階建て、延床約300㎡。現在の上原酒造では「赤蔵」と呼ばれている。
外観
外壁は地元で焼かれた暗赤色から黒褐色の煉瓦。長年の煤や風雪で黒ずみ、部分的に赤茶色が残る。
屋根は大きな切妻屋根で、会津らしい釉薬を掛けた赤瓦。雪国なので軒は深め。赤瓦は会津で耐凍害性を考慮して用いられてきた歴史がある.。
妻面には小さな半円アーチ窓。
正面には両開きの木製大扉。
煉瓦の開口上部には緩いアーチを組む。
派手な洋風建築ではなく、
「日本の酒蔵が明治になって少しだけ西洋建築を取り入れた」
構造
ここは純粋な煉瓦造より、
木骨煉瓦造
内部に、
• 240角程度の栗または欅の柱
• 大断面の松梁
• 洋小屋の木造トラス
• 外周に煉瓦壁
という構成。
屋根裏を見上げると、煤けた木造トラスが連続している。
内部
1階は天井高約4.2m。
元々は酒樽や瓶詰め製品の保管庫。
床は土間コンクリートへ昭和期に改修済み。
柱には、
• 樽をぶつけた傷
• 荷札の跡
• 墨書き
• 昭和30年代の釘
などが残っている。
2階は米・包装材・酒造道具の保管場所。
床は厚い杉板。
階段は急。
設備らしい設備は裸電球程度。
「時間が積み重なった感じ」がテーマとしたい。
彩華の作成した上原酒造・旧煉瓦倉庫 調査報告書の一部
最初は彩華の席で始まった打ち合わせだった。
それが、いつの間にかミーティングルームへ移動していた。
そして昼を挟んで――。
四時間。
僕と東郷さんと片山さんは、設計室で仕事をしていた。
だが、耳だけは完全にミーティングルームへ向いていた。
彩華:「煉瓦を残すから意味があるんです。全部ガラスにしたら、どこのショールームか分からなくなる」
紗綾:「でも、残すこと自体が目的になってない? もっと新しいものを前へ出していいと思う」
彩華:「これは上原酒造の百年以上の時間なんです」
紗綾:「だからこそ、新しい百年をつくらなきゃいけないでしょう」
また始まる。
僕たちは顔を見合わせた。
誰も口には出さない。
でも、全員聞いている。
ダンボの耳だった。
それにしても、彩華があんなにムキになって所長へ反論するのは、初めて見た。
いつもなら、多少文句を言いながらも、最後には所長の判断に従う。
ところが今日は違った。
設計者同士の意地がぶつかっている。
それは、恋愛とか上下関係とか、そんなものとは別の戦いに見えた。
――二人とも、本気なんだ。
僕はそう思った。
四時間後。
二人がそれぞれの席へ戻ってきた。
だが――。
二人とも、明らかに「声を掛けるな」というオーラを出している。
僕も東郷さんも片山さんも、今日は何も言わないことにした。
そして定時になると、そそくさと帰った。
ところが、その夜。
僕のスマホが鳴った。
彩華だった。
〈今日の所長さ……〉
そこから始まった。
文句。
愚痴。
悪口。
そして、
〈あの人、分かってないのよ〉
〈あそこまで残す必要ないと思わない?〉
〈一誠はどう思う?〉
僕は慎重に返信した。
「まあ、どちらにも良いところが……」
〈何それ〉
失敗した。
その後も、彩華の愚痴は続いた。
午後十時。
ようやく終わった。
と思った。
今度は別のLINEが来た。
所長だった。
〈今日の彩華さん、どう思う?〉
僕はスマホを見つめた。
――勘弁してください。
今度は所長の愚痴が始まった。
彩華とは違う。
こちらは少し冷静だ。
だが、言っていることはやっぱり同じだった。
「彩華は、どうしてあそこまで既存にこだわるのかしら」
「若い設計者にはありがちなことなのかしらね」
僕は一つ一つ、無難に返した。
所長とのLINEは午後十時過ぎに終わった。
だが、彩華はまだ終わっていなかった。
十一時。
十一時半。
十二時。
そして――。
〈一誠〉
「はい」
〈来て〉
「え?」
〈今から〉
僕はスマホを見た。
時計は、もう十二時を回っていた。
――やれやれ。
僕はため息をついた。
今日は、どうやらこれで終わりではないらしい。
梅雨の夜は、まだ長かった。




