15 後を継ぐ者
今週から、ようやく本格的に梅林のアトリエの案を進めることになった。
U図書館の実施設計に掛かりきりになって、ほぼ二ヶ月も間が空いている。
以前あれこれ考えていたことを、もう一度頭の中から引っ張り出すだけでも時間が掛かった。
それにしても、この案件はありがたい。
何しろ施主は所長自身だ。
工期に追い立てられることもない。
予算だって、所長の胸先三寸。
実質的に締め切りはない。
こんな仕事は新人の僕には、ありがたいを通り越して、少し怖いくらいだった。
今考えているのは、以前のB案にA案を融合させたプランだった。
二枚のRC壁を南北に平行に配置する。
その二枚の壁で、一層目のアトリエ空間を覆う水平スラブ――つまり二階住居部分の床――と、二層目の木造屋根の架構を支える。
片流れの屋根は、敷地の傾斜と同じ勾配にする。
二層目の奥には主寝室群。
そこは木造の平屋として、母屋とは反対方向に屋根を流す。
屋根の先端は、そのまま斜面に刺さるように納める。
一層目は、中央をアトリエの製図室。
西側にミーティングルーム兼応接室。
東側に所長室。
北側には水回り、資料室、模型室などをまとめる。
二層目へは、奥の中庭側に設けた階段から上がる。
二枚のRC壁に挟まれた大空間に、LDを配置する。
東壁の中央にアイランドキッチン。
その東側にはモーニングティーコーナー。
さらにK、ユーティリティが南から北へ並ぶ。
西側にはサンセットルーム、バーカウンター、ピアノコーナー。
そして二枚の壁の間、西側中央には暖炉を置く。
さらに斜面の中央には、梅林の一部を残した中庭。
その東側、水回りをまとめた廊下を奥へ進むと、パウダールーム、ワードローブ、書斎、客間兼予備室。
そして一番奥にバスルーム付きメインベッドルーム。
そこだけは木造平屋だ。
問題は、やっぱり構造かもしれない。
今度、構造事務所の山本さんが来たときに相談してみよう。
そんなことをあれこれ考えていると、時計は十一時四十分を指していた。
「……一誠」
背後から声がした。
振り向くより先に、視界に細長いものが入り込んできた。
彩華の首だった。
文字通り、斜め後ろから細長い首が伸びてきて、僕の身体とトレーシングペーパーの間に割り込んでくる。
「わっ!」
僕は思わず声を上げた。
「ちょっと、何ですか。びっくりするな……」
「どれどれ」
まったく意に介さない。
彩華は僕を椅子から押し退けるようにして、平面プランを覗き込んだ。
「ふむ……ふむ……」
しばらく黙っている。
その目が、図面の上を舐めるように動いていく。
やがて――。
「いいじゃん、これ」
突然、大声で言った。
その声を聞いて、東郷さんがやって来た。
「何ですか?」
吉田さんまで来る。
「どれどれ……」
気がつけば、僕の机の周りをみんなが囲んでいた。
「なるほど……」
「これ、構造はどうするんだ?」
「ミーティングルーム、ちょっと狭くねー?」
「これが所長のベッドルームか……」
みんな好き勝手なことを言っている。
僕も説明しようとした、そのときだった。
「ゴホン」
わざとらしい咳が聞こえた。
全員が一斉に振り向く。
そこに所長が腕を組んで立っていた。
「……」
誰も何も言わない。
慌てて道を空ける。
所長は何事もなかったかのように、僕の机まで歩いてきた。
そして、平面図を見た。
黙っている。
隅から隅まで。
まるで図面を睨みつけるように見ている。
僕は息を殺して待った。
やがて所長が顔を上げた。
「午後一で打ち合わせするわよ」
「え?」
「清書して持ってきてね」
僕は時計を見た。
十一時四十五分。
午後一って……。
あと一時間ちょっとしかない。
しかも、これはまだ4B鉛筆で描いた手書きのラフプランだ。
「昼飯は……」
思わず呟いた。
すると彩華が、にんまり笑った。
「一誠、セブンでサンドイッチ買ってこようか?」
「ああ、はい。お願いします……」
僕は慌てて、CADの新規作成ファイルを開いた。
午後一。
所長室での打ち合わせが終わった。
僕は少し疲れていた。
所長は、僕が描いたプランを否定したわけではない。
むしろ逆だった。
ただし――。
「この案で決めつけないで」
「え?」
「まだ他にも可能性があるでしょう」
「……はい」
「プランなんて無限にあるのよ。自分で選択肢を狭めないこと」
そう言われた。
その後も、設計についていろいろな話をされた。
僕には分かるような、分からないような話も多かった。
ただ、一つだけ強く残った。
――もっと考えろ。
それだけだった。
夕方七時を過ぎると、スタッフが一人ずつ帰っていった。
「お先、失礼しまーす」
「お疲れさまでした」
やがて、設計室には僕と彩華だけになった。
僕はモニターから顔を上げた。
「そんなに忙しくないんでしょ」
彩華を見る。
「帰ったらいいんじゃないですか」
すると彩華が、こちらへ近づいてきた。
「午後の打ち合わせで、何言われたの?」
「いや、別に……」
「別に?」
彩華が僕のモニターを見る。
「あれ?」
「何ですか」
「別なプラン作ってんの?」
「別に、いいじゃないですか」
「何、あれ。ボツ?」
「だから……」
僕は観念した。
そして、午後に所長室で言われたことを話した。
所長室へ呼ばれた僕は、応接セットの椅子を勧められた。
その時点で、僕には分かった。
――これは話が長くなる。
普段なら所長のデスクの前で話が終わる。
わざわざ応接セットへ座らせるということは、そういうことだ。
僕が椅子に座る。
斜め向かいの椅子に所長が腰を下ろした。
タイトスカートから伸びた脚が、すっと組み替えられる。
「一誠君」
「はい」
「今回、梅林のアトリエの担当を君にしたのは、何でだと思う?」
いきなり謎かけだった。
「はぁ……新人だから?」
「……そうね。それもあるわ」
所長は少し笑った。
「でも、理由はいくつかあるの」
僕は黙って、次の言葉を待った。
「一つ目」
所長が指を一本立てる。
「君が言ったように、新人の君のトレーニング」
僕は頷いた。
「二つ目」
もう一本、指が立つ。
「アトリエの施主は私だから、納期はない」
「はい」
「つまり、私が納得することが唯一の納期」
なるほど。
確かに、それはその通りだ。
「そして三つ目」
所長の声が少しだけ低くなった。
「これは、君には迷惑かもしれないけど……お願いなの」
僕は黙った。
「私には子供がいないわ」
「……」
「将来も、たぶん出来ないと思う」
そこで一度、所長は言葉を止めた。
「だから――」
僕は次の言葉を待った。
「君には、ここの後継者として、これから仕事に取り組んでもらいたいの」
「……後継者?」
「そう。後を継ぐ人」
「僕が?」
「そうよ」
僕には、その言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「これは私から君へのお願い」
所長は静かに言った。
「だから、もちろん君は嫌だと言っていいわ」
「……」
嫌だと言っていい。
その言葉も、妙に引っかかった。
それから所長は、設計についていろいろなことを話してくれた。
プランは無限にある。
最初から自分で可能性を決めつけてはいけない。
一つの案を思いついたら、それを正解だと思い込まず、別の可能性を試してみる。
設計とは、そういうことだ。
そんな話だったと思う。
でも、その時の僕には、話の半分も頭に入っていなかった。
斜め向かいに座っている所長の、すらりとした脚をぼんやり眺めながら、
――そうなんだ。
と、どこか遠くで聞いているような気分だった。
「……そうなんだ」
話を聞き終えた彩華が呟いた。
「後継者ね」
「うん」
「それで、一誠は何て返事したの?」
「何も」
「何も?」
「そんなこと、いきなり言われても。返事なんかできないよ」
「そりゃそうよね」
彩華はそう言った。
しばらく沈黙する。
そして、突然こちらを見た。
「……どう思う?」
「え?」
「何で一誠が後継者なの?」
「さあ……」
「それって……」
彩華が少し言い淀んだ。
「所長と結婚するとか、そういうこと?」
「はぁ?」
思わず声が裏返った。
「そんなこと……」
言いかけて、言葉が止まった。
何だ、それ。
所長と結婚して、後継者?
そんな発想は、僕の中にはなかった。
なのに彩華に言われた瞬間、妙に意識してしまった。
「それは……」
自分でも分かる。
顔が熱い。
「あっ」
彩華が目を細めた。
「顔、赤くなってる」
「ば、馬鹿な……」
「ふーん」
彩華は何とも言えない顔で僕を見る。
それ以上、何も言わなかった。
机の上の書類をまとめる。
バッグを手に取る。
「じゃ、帰る」
「え?」
「お先」
「彩華……」
返事はなかった。
そのまま彩華は事務所を出て行った。
ドアが閉まる。
僕は一人、取り残された。
パソコンの画面には、梅林のアトリエの平面図が表示されている。
さっきまであれほど夢中になって考えていたプランなのに、今はどうにも集中できない。
――後継者。
所長が言った言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
そしてもう一つ。
彩華が最後に言った、
――所長と結婚するとか、そういうこと?
という言葉も。
なぜだか、こちらの方が気になって仕方がなかった。




