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14/22

14 暗黒の三ヶ月間

二月二十日になっても、水戸のE設備事務所から上がってきた機械設備図は、予定の三〇パーセントほどしかなかった。


しかも、その内容を見れば、それがどういうものなのかは明らかだった。


意匠に影響する部分だけを、とりあえず先に出してきた。


そんな感じだった。


彩華は共有フォルダーの機械設備図を開いたまま、深いため息をついた。


このペースでは、三月十日の締めなど、もはや意味がない。


機械設備図を抜きにして、図書館の実施設計を納品することなどできない。


設計室では、誰も余計なことを言わなかった。


所長の紗綾とチーフの吉田は、さっきから所長室に籠もっている。


この件について今朝報告したから、二人が協議しているのは明らかだった。


ただ、紗綾からは、


「彩華には何も過失はないから。あなたは心配しなくていい」


そう言われていた。


それでも、心配しなくていいと言われて心配しなくなるほど、仕事は甘くない。


しばらくして吉田が所長室から出てきた。


「午後から所長と市役所へ行って、事情を話してくる」


「どんな話をするんですか?」


「それは……向こうの出方次第だね」


「……」


それ以上、彩華は何も訊かなかった。


午後になって、紗綾と吉田が二人で出かけた。


「二人でどこへ行ったんですか?」


珍しく一誠が訊いた。


彩華はモニターから目を離さずに答えた。


「U市役所」


「そうですか……」


その横から東郷が口を挟んだ。


「やばいね。下手すると遅延損害金かも」


「本当ですか?」


一誠が振り向く。


「最悪の場合ね。実際、そういうケースもなくはない」


東郷は淡々と言った。


彩華はモニターを見つめたまま、小さく呟いた。


「そうよね……世の中、そんなに甘くないわよね」


自分の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。


「そうですね」


東郷もそれ以上は言わなかった。


三人とも黙った。


午後四時を過ぎた頃、事務所の電話が鳴った。


吉田からだった。


「このまま水戸のE設備へ行くことになった。今日は遅くなるかもしれないから、みんな適当に帰っていい」


電話を切る。


東郷が小さく息を吐いた。


「かなり苦戦してますね」


「……確かに、契約書にはE設備の名前が入ってるけど」


彩華が言った。


「市役所に対して責任があるのは、結局うちだから」


苦々しい言葉だった。


それから事務所には、キーボードを叩く音だけが残った。


紗綾と吉田が戻ってきたのは、夜の九時を過ぎていた。


彩華は所長室へ呼ばれた。


紗綾は疲れた顔をしていた。


「E設備の社長と話したの」


彩華は黙って聞いている。


「期日までには納品すると、確約は取ったから」


「……はい」


「だから彩華は、建築の図面をまとめてくれればいいから」


紗綾は少し間を置いた。


「いいわね」


「はい……」


自分の声が、どこから出ているのか分からなかった。


設計室へ戻る。


皆、まだモニターに向かっていた。


誰も何も言わなかった。


それが、ありがたかった。


彩華は紗綾に言われた通り、自分にできることだけに集中した。


建築図面の精度を上げる。


図面の密度を上げる。


一枚ずつ、他の図面との整合性を確認する。


平面図と断面図。


展開図と天井伏図。


建具表と建具図。


仕上表と詳細図。


外構と建築。


そして設備図が上がってくるたび、それとの整合性を確認する。


何度も。


何度も。


仲間たちが手伝ってくれている。


本来なら、自分が描かなければならなかった展開図。


天井伏図。


建具図。


部分詳細図。


外構計画図。


植栽図。


数え上げればきりがない。


――みんな、ありがとう。


一誠にも、ああ言ったけれど。


本当は感謝している。


いくら感謝してもしきれない。


でも、そんなことを口にする余裕はなかった。


結局、機械設備図がすべて揃ったのは三月十五日だった。


ぎりぎりだった。


積算書については、機械設備分だけ後日ということで何とか処理した。


紗綾と吉田は市役所の担当者のところへ行き、何度も頭を下げた。


そして三月二十日。


紗綾、吉田、彩華の三人で市役所へ納品に向かった。


設計図書と積算書のファイルは、段ボール三箱になった。


それを市役所の担当者に受け取ってもらった瞬間、彩華はようやく肩の力が抜けた。


ホッとした――というより、疲れ切っていた。


「倖田さん、大丈夫ですか?」


担当者からそう言われて、初めて自分がどんな顔をしているのか気づいた。


後日、一誠から聞いた。


納品して事務所へ戻った後、ミーティングルームへ行くと、吉田が一人で部屋の奥に立っていた。


そして、ミニボトルのウイスキーを飲んでいた。


濃厚なウイスキーの匂いが、部屋に漂っていたという。


その話を聞いて、彩華は後になって気づいた。


ストレスを抱えていたのは、自分だけではなかった。


所長も。


チーフも。


一誠も。


東郷も。


皆、それぞれに、この三ヶ月を耐えていたのだ。


この業界は、難しい。


自分にどれだけ落ち度がなくても、トラブルには巻き込まれる。


誰かの遅れのために、自分が頭を下げることもある。


そして、納期は待ってくれない。


あの三ヶ月で、彩華はそれを嫌というほど思い知らされた。


事実、この一ヶ月ほど、食欲がなかった。


食事も十分に取っていなかった。


事務の千鶴から、


「彩華さん、顔色悪いですよ」


と何度も言われた。


自分でも、たぶん軽い鬱になっていたのだと思う。


病院へ行く余裕などなかった。


これが終われば、きっと自然に治る。


そう思っていた。


一誠への態度も変わった。


軽口を叩くことがなくなった。


目を合わせることも、ほとんどなくなった。


もちろんデートもしていない。


そんな気持ちの余裕など、どこにもなかった。


一度、一誠から食事に誘われた。


彩華は断った。


一誠なら、たぶん分かっていた。


今誘っても、きっと楽しくない。


自分自身がそう思っていた。


納品を終えたその日は、全員が定時で帰った。


翌日から、スタッフたちはそれぞれの仕事へ戻った。


一誠も、梅林のアトリエの一般図の作図に戻った。


彩華が、一誠のモニターを覗き込んだ。


「これで、ようやく梅林ができるね」


一誠が振り返る。


「嬉しいでしょ」


「……」


一誠は少し考えてから言った。


「U図書館の図面が終わって、寂しいでしょ」


「……生意気」


彩華はそう言ったが、少しだけ笑った。


その週、彩華はしばらくぼんやりしていた。


そして一ヶ月後。


U市立図書館の工事入札が行われた。


市内外から五社の建設会社が応札した。


結果は、TU市の小鶴工務店が落札。


予定価格を下回り、最低制限価格も上回る、まずまずの入札額だった。


事務所には、久しぶりに安堵した空気が流れた。


彩華も、ようやくホッとした顔になった。


そして――。


一誠を、少しずついじり始めた。


翌週。


小鶴工務店の専務、小島篤志ら三名が、事務所へ挨拶にやって来た。


打ち合わせに同席した彩華は、帰ったあと、


「小島さんって、如才ない人ね」


と評した。


それを聞いた一誠が、


「如才ないって、褒めてるんですか?」


と訊く。


「褒めてるわよ」


「じゃあ、僕も如才ないですか?」


「あなたは……」


彩華は一誠を見る。


「まだまだね」


「ひどい」


そんなやり取りが、少しずつ戻ってきた。


週末。


一誠からLINEが入った。


〈ピザの美味しい店に行かない?〉


彩華は画面を見つめた。


三ヶ月間。


一誠は、ほとんど誘ってこなかった。


たぶん、誘っても自分が楽しめないことを分かっていたのだろう。


そして、それは彩華にも分かっていた。


少し考えてから、返信した。


〈行く〉


そして続けて、


〈30分後に迎えに来て〉


すぐに返事が来た。


〈了解〉


たったそれだけだった。


でも――。


あの軽いやり取りが戻ってきた。


彩華はスマホを見ながら、小さく笑った。


自分でも、嬉しかった。

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