14 暗黒の三ヶ月間
二月二十日になっても、水戸のE設備事務所から上がってきた機械設備図は、予定の三〇パーセントほどしかなかった。
しかも、その内容を見れば、それがどういうものなのかは明らかだった。
意匠に影響する部分だけを、とりあえず先に出してきた。
そんな感じだった。
彩華は共有フォルダーの機械設備図を開いたまま、深いため息をついた。
このペースでは、三月十日の締めなど、もはや意味がない。
機械設備図を抜きにして、図書館の実施設計を納品することなどできない。
設計室では、誰も余計なことを言わなかった。
所長の紗綾とチーフの吉田は、さっきから所長室に籠もっている。
この件について今朝報告したから、二人が協議しているのは明らかだった。
ただ、紗綾からは、
「彩華には何も過失はないから。あなたは心配しなくていい」
そう言われていた。
それでも、心配しなくていいと言われて心配しなくなるほど、仕事は甘くない。
しばらくして吉田が所長室から出てきた。
「午後から所長と市役所へ行って、事情を話してくる」
「どんな話をするんですか?」
「それは……向こうの出方次第だね」
「……」
それ以上、彩華は何も訊かなかった。
午後になって、紗綾と吉田が二人で出かけた。
「二人でどこへ行ったんですか?」
珍しく一誠が訊いた。
彩華はモニターから目を離さずに答えた。
「U市役所」
「そうですか……」
その横から東郷が口を挟んだ。
「やばいね。下手すると遅延損害金かも」
「本当ですか?」
一誠が振り向く。
「最悪の場合ね。実際、そういうケースもなくはない」
東郷は淡々と言った。
彩華はモニターを見つめたまま、小さく呟いた。
「そうよね……世の中、そんなに甘くないわよね」
自分の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。
「そうですね」
東郷もそれ以上は言わなかった。
三人とも黙った。
午後四時を過ぎた頃、事務所の電話が鳴った。
吉田からだった。
「このまま水戸のE設備へ行くことになった。今日は遅くなるかもしれないから、みんな適当に帰っていい」
電話を切る。
東郷が小さく息を吐いた。
「かなり苦戦してますね」
「……確かに、契約書にはE設備の名前が入ってるけど」
彩華が言った。
「市役所に対して責任があるのは、結局うちだから」
苦々しい言葉だった。
それから事務所には、キーボードを叩く音だけが残った。
紗綾と吉田が戻ってきたのは、夜の九時を過ぎていた。
彩華は所長室へ呼ばれた。
紗綾は疲れた顔をしていた。
「E設備の社長と話したの」
彩華は黙って聞いている。
「期日までには納品すると、確約は取ったから」
「……はい」
「だから彩華は、建築の図面をまとめてくれればいいから」
紗綾は少し間を置いた。
「いいわね」
「はい……」
自分の声が、どこから出ているのか分からなかった。
設計室へ戻る。
皆、まだモニターに向かっていた。
誰も何も言わなかった。
それが、ありがたかった。
彩華は紗綾に言われた通り、自分にできることだけに集中した。
建築図面の精度を上げる。
図面の密度を上げる。
一枚ずつ、他の図面との整合性を確認する。
平面図と断面図。
展開図と天井伏図。
建具表と建具図。
仕上表と詳細図。
外構と建築。
そして設備図が上がってくるたび、それとの整合性を確認する。
何度も。
何度も。
仲間たちが手伝ってくれている。
本来なら、自分が描かなければならなかった展開図。
天井伏図。
建具図。
部分詳細図。
外構計画図。
植栽図。
数え上げればきりがない。
――みんな、ありがとう。
一誠にも、ああ言ったけれど。
本当は感謝している。
いくら感謝してもしきれない。
でも、そんなことを口にする余裕はなかった。
結局、機械設備図がすべて揃ったのは三月十五日だった。
ぎりぎりだった。
積算書については、機械設備分だけ後日ということで何とか処理した。
紗綾と吉田は市役所の担当者のところへ行き、何度も頭を下げた。
そして三月二十日。
紗綾、吉田、彩華の三人で市役所へ納品に向かった。
設計図書と積算書のファイルは、段ボール三箱になった。
それを市役所の担当者に受け取ってもらった瞬間、彩華はようやく肩の力が抜けた。
ホッとした――というより、疲れ切っていた。
「倖田さん、大丈夫ですか?」
担当者からそう言われて、初めて自分がどんな顔をしているのか気づいた。
後日、一誠から聞いた。
納品して事務所へ戻った後、ミーティングルームへ行くと、吉田が一人で部屋の奥に立っていた。
そして、ミニボトルのウイスキーを飲んでいた。
濃厚なウイスキーの匂いが、部屋に漂っていたという。
その話を聞いて、彩華は後になって気づいた。
ストレスを抱えていたのは、自分だけではなかった。
所長も。
チーフも。
一誠も。
東郷も。
皆、それぞれに、この三ヶ月を耐えていたのだ。
この業界は、難しい。
自分にどれだけ落ち度がなくても、トラブルには巻き込まれる。
誰かの遅れのために、自分が頭を下げることもある。
そして、納期は待ってくれない。
あの三ヶ月で、彩華はそれを嫌というほど思い知らされた。
事実、この一ヶ月ほど、食欲がなかった。
食事も十分に取っていなかった。
事務の千鶴から、
「彩華さん、顔色悪いですよ」
と何度も言われた。
自分でも、たぶん軽い鬱になっていたのだと思う。
病院へ行く余裕などなかった。
これが終われば、きっと自然に治る。
そう思っていた。
一誠への態度も変わった。
軽口を叩くことがなくなった。
目を合わせることも、ほとんどなくなった。
もちろんデートもしていない。
そんな気持ちの余裕など、どこにもなかった。
一度、一誠から食事に誘われた。
彩華は断った。
一誠なら、たぶん分かっていた。
今誘っても、きっと楽しくない。
自分自身がそう思っていた。
納品を終えたその日は、全員が定時で帰った。
翌日から、スタッフたちはそれぞれの仕事へ戻った。
一誠も、梅林のアトリエの一般図の作図に戻った。
彩華が、一誠のモニターを覗き込んだ。
「これで、ようやく梅林ができるね」
一誠が振り返る。
「嬉しいでしょ」
「……」
一誠は少し考えてから言った。
「U図書館の図面が終わって、寂しいでしょ」
「……生意気」
彩華はそう言ったが、少しだけ笑った。
その週、彩華はしばらくぼんやりしていた。
そして一ヶ月後。
U市立図書館の工事入札が行われた。
市内外から五社の建設会社が応札した。
結果は、TU市の小鶴工務店が落札。
予定価格を下回り、最低制限価格も上回る、まずまずの入札額だった。
事務所には、久しぶりに安堵した空気が流れた。
彩華も、ようやくホッとした顔になった。
そして――。
一誠を、少しずついじり始めた。
翌週。
小鶴工務店の専務、小島篤志ら三名が、事務所へ挨拶にやって来た。
打ち合わせに同席した彩華は、帰ったあと、
「小島さんって、如才ない人ね」
と評した。
それを聞いた一誠が、
「如才ないって、褒めてるんですか?」
と訊く。
「褒めてるわよ」
「じゃあ、僕も如才ないですか?」
「あなたは……」
彩華は一誠を見る。
「まだまだね」
「ひどい」
そんなやり取りが、少しずつ戻ってきた。
週末。
一誠からLINEが入った。
〈ピザの美味しい店に行かない?〉
彩華は画面を見つめた。
三ヶ月間。
一誠は、ほとんど誘ってこなかった。
たぶん、誘っても自分が楽しめないことを分かっていたのだろう。
そして、それは彩華にも分かっていた。
少し考えてから、返信した。
〈行く〉
そして続けて、
〈30分後に迎えに来て〉
すぐに返事が来た。
〈了解〉
たったそれだけだった。
でも――。
あの軽いやり取りが戻ってきた。
彩華はスマホを見ながら、小さく笑った。
自分でも、嬉しかった。




