13. 彩華の意地
登場人物
愛田 紗綾 32歳 急逝した夫・優弥の跡を継いで建築設計事務所の所長となった 明るい性格で、人が良い
上原 一誠 24歳 設計意匠スタッフ 新人 密かに彩華と付き合うが秘密にしている
吉田 忠司 38歳 チーフ 事務所の番頭格として、所長のサポート役に徹している
倖田 彩華 28歳 二番手デザイナー 何事も、物怖じしない
東郷 隼人 29歳 元ゼネコンの施管後、入所 一見真面目で固そうだが…
片山 千鶴 37歳 事務担当 しっかり者で抜けが無い
二〇一七年の仕事始めは、新年の挨拶に続いて、年始早々の定例会議となった。
例年なら、仕事始めの日には所員全員で近所の神社へ初詣に行く。
ところが今年はそれもなく、午前十時半から会議が始まった。
理由は、彩華が担当しているU市立図書館の実施設計だった。
所長の紗綾をはじめ、吉田も進捗を気にしていた。
建築の実施設計には、意匠設計だけでなく、構造、電気設備、機械設備、外構など、多くの分野が関わってくる。
通常は意匠設計事務所がそれらを統括する。
しかし愛田設計のような小規模な設計事務所には、構造や設備の専任スタッフはいない。そのため、それぞれ専門の設計事務所へ外注することになる。
姉歯事件以降、構造設計や確認審査は以前より厳格になり、実施設計には十分な時間を取るのが普通になっていた。
今回のU市立図書館でも、構造、電気については予定通り進んでいた。
問題は機械設備だった。
水戸のE設備設計事務所へ依頼しているのだが、昨年十二月頃から連絡が遅くなり、打ち合わせをしても作業の進捗がほとんど見えてこないという。
「全体としては三月十日を目標にまとめて、遅くとも二十日には納品したいと思っています」
彩華が工程表を見ながら説明した。
「設備が遅れると、意匠の天井伏図や詳細にも影響するからね」
吉田が言った。
紗綾も頷く。
「二月中には設備図をかなり固めておきたいわね」
所内では、彩華を中心に各スタッフが十枚程度ずつ図面を担当することになった。
一誠も展開図、サイン計画、外構、植栽などを受け持つ。
そして、この図書館の実施設計を他の仕事より優先することが確認された。
そのため、一誠が進めていた梅林のアトリエ案は、いったん休止となった。
会議が終わると、彩華が一誠に声をかけた。
「一誠君。担当する図面は、共有サーバーのU図書館フォルダーに『担当者内訳』ってリストがあるから、確認してね」
「どれどれ……ああ、これか」
一誠は自分の席でリストを開いた。
しばらく画面を見ていたが、やがて声を上げた。
「ええ?」
彩華は知らない顔をしている。
「僕の担当……十九、二十、二十一、二十二……」
さらにスクロールする。
「二十二枚もあるんですか?」
「そうみたいね」
「そうみたいねって……会議では十枚程度って言ってましたよね」
彩華がニヤッとする。
「ふふ。女王様の言いつけには黙って従いなさい、従卒は」
「何が従卒ですか」
「文句があるなら、もっと増やすわよ」
「横暴だ」
「何か言った?」
「何も言ってません」
「よろしい」
そんなやり取りを、吉田と東郷は聞こえないふりをしていた。
もっとも二人とも、口元は少し笑っていた。
一誠にとって、本格的な実施設計は初めてだった。
描いたことのない図面も多い。
そのため予定より早めて、一月下旬から図書館の作業に取りかかることになった。
ところが二月の定例会議になると、かねて懸念していたE設備設計の遅れが、いよいよ無視できなくなってきた。
「機械設備なんですけど……」
彩華が工程表を見ながら言った。
「まだ、まとまった図面がほとんど出てきてません」
吉田が眉をひそめる。
「先週、電話したんだろ?」
「しました。でも『もう少し待ってくれ』の一点張りで」
「余り動きが鈍いようなら、こちらで対応を考えた方がいいかもしれませんね」
吉田が紗綾を見る。
紗綾も少し考えてから頷いた。
「そうね。あの事務所、前の物件でも納期ぎりぎりだったものね」
「来週にでも、自分が先方へ行って話してきます」
「お願いします」
その件は、ひとまずそれで終わった。
会議が散会しかけたところで、紗綾が一誠を見た。
「一誠君」
「はい」
「初めての実施設計はどう?」
「分からないことだらけです」
一誠が苦笑した。
紗綾も笑う。
「分からない時は、すぐ皆に訊くのよ。一人で抱え込まないで」
「はい、そうします」
素直に答える一誠。
その横で、彩華が書類越しに二人をじっと見ていた。
一誠がその視線に気づく。
目が合った。
一誠が少し笑う。
彩華はムッとした顔になり、何事もなかったように書類へ視線を落とした。
その日の午後。
一誠は植栽計画の配置図を描き始めようとして、ミーティングルームの本棚に植物図鑑を探しに行った。
部屋へ入ると、吉田と彩華が小声で話していた。
「……そういうことで」
一誠の姿を見ると、吉田はそこで話を切り上げた。
「じゃあ、頼む」
そう言い残して部屋を出て行く。
一誠は本棚へ向かいながら、恐る恐る訊いた。
「何かあったんですか?」
彩華が小さく息を吐いた。
「例のE設備」
「やっぱり駄目なんですか」
「チーフがかなり強く言ったみたいなんだけど、それでも図面が出てこないの」
「そんなに?」
「向こうも手一杯みたい。前の物件が終わってなくて、U図書館にはほとんど取りかかれてないらしい」
一誠は顔をしかめた。
「まずいですね」
「まずいなんてもんじゃないわよ」
彩華は苛立ったようにペンを机へ置いた。
「このままだと、設備が決まらないせいで意匠まで止まる」
「次はどうするんですか」
「今度は所長も一緒に行くらしい」
「所長も?」
「うん」
そこまで話すと、彩華は突然話題を変えた。
「ところで、一誠」
「はい」
「サイン計画」
「ああ」
「直しておいたから、あとで見て」
一誠の顔が曇る。
「えっ。どこが駄目だったんですか」
「だから、見てって言ってるでしょ」
「そこを教えてくださいよ」
「図面を見れば分かる」
「……」
彩華は少しだけ口元を緩めた。
「まあ、最初なんだからしょうがないわよ」
一誠は本棚から植物図鑑を一冊抜き出した。
「あの、今から植栽計画を始めようと思ってるんですけど」
「うん」
「何かテーマとか決まってます?」
彩華が呆れた顔で一誠を見る。
「何言ってんの」
「え?」
「コンペの企画書」
「あ」
「植栽計画、載ってるでしょ」
「ああ、そうか」
「そうか、じゃないわよ」
彩華は腕を組んだ。
「あの通りやればいいの。下僕は」
一誠が振り返る。
「下僕?」
「何」
「僕、従卒だったんじゃないんですか」
「格下げ」
「何でですか」
「あんなサイン図描いてるからよ」
「……」
「従卒から下僕へ降格」
「ひどいな」
「嫌なら、ちゃんとした図面描きなさい」
一誠は何か言い返そうとしたが、やめた。
植物図鑑を抱えて部屋を出ようとする。
その背中に彩華が言った。
「一誠」
「はい?」
「分かんなかったら訊いて」
「……はい」
「私に」
一誠が振り返る。
彩華はもうパソコンの画面を見ていた。
「所長じゃなくて?」
冗談半分に言う。
彩華の手が止まった。
「……二枚増やすわよ」
「失礼しました」
一誠は慌てて部屋を出て行った。
ドアが閉まる。
彩華はしばらく画面を見ていたが、ふっと小さく笑った。
そしてすぐ、机の上のH設備の工程表へ目を戻した。
笑顔が消える。
三月二十日。
納品まで、もう一月半しかない。
――何とかするしかない。
彩華は赤いペンを取り、遅れている工程に一本、太い線を引いた。




