第8話 豆腐を運ぶ少年
「0」のボタンが青く光ると同時に、すっとエレベーターが動き出した。
「え、押してないのに。」
流生が思わずつぶやいた、そのときだった。すぐ近くで誰かが、クスリと小さく笑った気配がする。流生はびくっとして振り返った。
人がいた。しかも、一人ではない。
さっき乗り込んだときは、ボタンの方ばかり見ていたから、気がつかなかったのかな。
流生は不思議に思って、そっとエレベーターの中に視線を泳がせる。ざっと見ただけでも、何人もの子どもが乗っているのが分かった。黒くて平べったいカバンを持っている子。大きな学生帽をかぶった子。制服らしきものを着た子。着物を着た女性と一緒の子もいた。
きっと、同じ学校に通う子たちの集まりなんだろうな。
なんか……俺だけ浮いてるみたい。
制服を着ている子を横目で見ると、男の子は学ラン、女の子はセーラー服を着ている。そして男の子も女の子も黒くて大きな、つばのある学生帽を被っていた。学生帽をかぶっているのは初めて見たし、セーラー服を着た子を間近で見るのも、流生はこれが初めてだった。
茨城では小学生は、ほぼ私服か体操服だったし。近くのショッピングセンターで見かける中高生も、ほとんどがブレザーだったもんな。
気になって流生は、制服をチラチラ見た。すると制服のスカーフやボタン、学生帽の帯の色がそれぞれ違うのに気づく。
北海道の学校は学ランとセーラー服に、学生帽が基本なのかな。
そう思ったが、すぐにもう一つ疑問が浮かんだ。
そもそもさっきまで、こんなに乗っていたっけ?
急に流生の背中に、冷たいものがゾゾゾと走る。早く扉が開いて欲しいと、祈るような気持ちで、上にある電光表示を確認しようとした瞬間、エレベーターの奥から大きな声が響いた。
「わ、わ、ちょっと! 押さないでよ!」
少し高めの男の子の声。流生が声のした方を見ると、流生と同じくらいの年の子が、あせった顔で誰かに言っている。
流生が人の隙間からのぞいてみると、その子は白い着物に藍色の袴姿で、大きめの木箱を両手で必死に抱えていた。明るい茶色の髪はさらさらとしていて、少し重めの前髪が額にかかっている。細い体つきのせいか、流生より少し幼く見えた。箱には白い布がかけられていて、赤い紐できれいに結ばれている。
ガタン!
エレベーターが少し揺れると、中から小さな音が響いた。
ちゃぷん。
流生は首をかしげた。
水?
その男の子は、箱を落とさないように腕に力を込めていた。こんなに寒い北海道なのに、額にはうっすら汗をかいていた。
あんなに必死に守るなんて、すごく大事なものなんだろうな。
流生は中身が気になって、思わず背伸びをした。白い布の端には深い藍色で、書道の手本のような美しい文字が書かれている。
『江戸より続く、創業二百余年の伝統の味 豆ノ屋』
豆ノ屋? 何の店だろう。
流生が箱の文字をもっとよく見ようと近づくと、箱を持った子の周りに、三人の子どもが囲むように立っていることに気がついた。
真ん中の男の子は背が高く、学ランの肩がぴんと張るほど、体つきもがっちりしている。そして黒い学生帽のつばの下から、強い視線で箱を抱えた子を見下ろしていた。
小学校の帰り道にたまに見かける、運動部の中学生みたいだ。立っているだけなのに、何となく道を空けたくなるような気持ちに流生は襲われる。
その隣には、ふっくらとした体の大きな男の子がいた。頬がぷりぷりと丸く、口元にはずっと笑みが浮かんでいる。真ん中の子と木箱を交互に見る目は、何か面白いことが始まるのを待っているようだった。その変わらない笑顔が、流生にはかえって怖く感じられた。
もう一人は、黒く長い髪をポニーテールにした女の子だ。切れ長の黒い瞳は、落ち着いていて、頭の回転が速そうな印象を流生に与えた。二人の男の子より少し離れたところに立ち、箱を抱えた子の顔を嬉しそうにじっと見ている。
口元を隠すように手を当てていたが、その陰で口の端が片方だけつり上がったのを、流生は見てしまった。
「豆ノ介。お前、入学する日まで豆腐運びかよ。」
真ん中の男の子が、箱を持った子を見下ろしながら言った。豆ノ介と呼ばれた子は、むっとした顔で、声を上げる。
「なに、玲牙。持ってきたら悪いなんてルール、あるの?」
流生は少し驚いた。自分と同じ年くらいだし、悪いけれどひょろっとしていて弱々しく見えるのに、あの怖そうな先輩っぽい子へはっきりと言い返したからだ。
背の高い男の子は、ぴくりと片方の眉を上げた。
「なんだよ、悪いなんて言ってねえだろ。そんなもん置いて、こっち来いよ。」
「そんなもん、じゃない。うちの店で作った大事な豆腐だ。置くところなんかない。」
「ピリピリすんなよ〜。重いんだろ? ほら足元、空いてるじゃん。」
ふっくらした男の子が、自分の靴の横を指さした。
「食べ物の箱を、そんなところに置けないよ。」
「清めの布かかってるんだから、大丈夫だろ。」
「そういうことじゃない。」
豆ノ介が大事そうに箱を抱え直すと、もう一度、ちゃぷん、と中で水が揺れる音がした。流生は、白い布のかかった木箱を見返す。
あの中、豆腐なのか。
エレベーターに豆腐……それは確かに、ちょっと変わっている。でも、わざわざ三人で囲んで言うほどのことだろうか。
「な〜豆ノ介。それ全部、豆腐なんだろ?」
「これは、行事用に納める分だから。ガラ坊が食べる分じゃないよ。」
箱を触られないように、豆ノ介は壁ギリギリのわずかなスペースに後退りした。
「分かってるって。ちょっと聞いただけじゃん。」
そのときポニーテールの女の子が、白い布へ目を落とした。
「……『江戸より続く、創業二百余年の伝統の味』だって。」
布に書かれた文字を、滑るようになめらかな声でゆっくりと読む。そして、うふふとにっこり笑って、豆ノ介に声を掛ける。
「大変ね。入学する日にも、ちゃんとお店のおつかいして。」
「仕事だよ。」
「そっか。豆腐係さんだもんね。よちよち。」
女の子が少し首を傾けながら、小さな子供にするように髪を撫でようと手を出す。美しい黒髪のポニーテールが、肩の後ろで生き物のようにゆらりと揺れた。
「やめてよ! ……係じゃない。これは豆ノ屋のれっきとした仕事だ。」
壁ぎわに追い込まれ、両手を箱で塞がれている豆ノ介は、さっきより低い声で言い、女の子をにらみつけた。しかし女の子は全く気にせず大人びた様子で、にらんでいる豆ノ介を見つめ返しながら続ける。
「でも、豆腐を作ったのは、お父さんたちでしょ? 豆ノ介は……ただ運んでるだけじゃない。運ぶだけなら可哀想だけど、誰だってできるわ。小さなお子様でもね。」
ガラ坊が、ぷっと吹き出した。
「つづら、それ言ったら――」
「何。お子様のプライドが壊れる?」
つづらと呼ばれた女の子は、大きな声を出したわけでも、笑ったわけでもなかった。けれど、豆ノ介の耳がカッと赤くなる。
「……運んで届けるまで、仕事なんだよ。途中で崩したら、食べてもらえないから。」
そう言いながらも、豆ノ介はつづらから視線を外し、下を向いた。箱を抱える指先が赤くなっている。玲牙はそんな豆ノ介を見て、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「いちいち本気になるなよ。こっちは普通に話してるだけだろ。だから半端もんは……。」
普通に、じゃないだろ。
流生は、心の中で言い返した。四人の間に、流生の知らない関係があるのかもしれない。いつもの調子で、ふざけ合っているだけなのかもしれない。
でも、箱を持っている子は、全然楽しそうじゃない。
豆ノ介が三人の隙間から別の場所に移動しようとすると、ガラ坊が箱をのぞき込む。豆ノ介は必死に箱を引き寄せ、また元の場所へ戻った。
両手がふさがっている相手を囲んで、何が面白いんだろう。
そのときエレベーターが、がたんと揺れた。
「きゃっ。」
よろけたつづらの体が、豆ノ介の持っている箱へぶつかった。その衝撃で、箱の片側が傾く。
「あぶない!」
流生は三人の隙間から、反射的に手を伸ばしていた。白い布の下へ手を差し込み、箱の底を支える。ひやりとした木の感触が、手のひらに伝わった。
「え、重っ。」
見た目より、ずっと重い箱に流生は驚いた。ちゃぷん、と中で水が大きく揺れたが、豆ノ介がすぐに持ち直し、箱は元の高さへ戻った。
「……あ、ありがとう。」
豆ノ介が目をまん丸にして、急に現れた流生を見つめた。流生も返事をする。
「え、いや。大丈夫?」
「あっ、うん。あ、箱も大丈夫。たぶん豆腐も大丈夫。あ、僕も大丈夫。」
豆ノ介は相当びっくりしたのか、順番がめちゃくちゃだった。
「そっか。よかった。」
流生はへへと照れ隠しで笑い、箱から手を離した。けれど豆ノ介が白い布の端をそっと確かめ、安心して息を吐くのを見ると、助けてよかったと思った。
「誰、お前。」
すると流生の横から、低い声がした。玲牙がこちらを見ている。さっきまで豆ノ介へ向いていた見下ろすような目が、今は流生へ向いている。
こわっ……。
流生は玲牙を見上げながら、そう心の中でつぶやいた。近くで見ると、やっぱり大きい。ふと流生は茨城のコンビニの前で、小学校帰りに一度だけ絡まれたことのある中学生を思い出した。あのときも、こんなふうに上から顔をのぞき込まれた。
流生は、恐怖を表情に出さないよう、気をつけながら答えた。
「別に。」
「別にって、何だよ。」
「箱、落ちそうだったから。」
「見りゃ分かる。そうじゃなくて、お前は誰かって聞いてんだよ。」
玲牙が流生をにらみつけた。
名前を言わなきゃいけないのか。別に、知り合いになりたいわけでもないのに。
流生は、玲牙の目から少しだけ視線をずらしながら言った。
「……ただ、エレベーターに乗ってるだけの者ですけど。」
名前を言おうとしない流生に、ガラ坊がチェックするような視線を向ける。流生の背中のリュックや、制服ではない服へ目を移して聞いてきた。
「お前、学園に入るんだよな?」
学園?
先ほど入学がどうとか、四人が話をしていたことを流生は思い出した。やっぱり、この子たちは同じ学校へ行くところなのだろう。しかし、自分が降りる駅に学園があるのかは分からない。答えられずにいると、玲牙がつぶやいた。
「ちっ、新入りかよ。」
「……そうなの? 俺。」
考えた末に、流生は相手にたずねるように聞き返した。ガラ坊があきれたように、口を開ける。
「そうなのって、自分のことだろ?」
「いや、だって……。」
分からないんだからしょうがない。しかしそんな様子の流生に、玲牙の眉間のシワがグッと深くなる。
「お前、ふざけてんの?」
イライラを噛み殺すように、玲牙が言った。
「いや、ふざけてないけど。」
そのときエレベーターのどこかで、くすっと笑う声が聞こえた。玲牙が、すぐにそちらを振り返る。けれど流生からは、誰が笑ったのか分からなかった。
豆ノ介も、口を結んで下を向いていた。表情は見えなかったが、笑いをこらえるように少しだけ肩が揺れている。
「お前ら、何笑ってんだよ! そこの新入りも俺のこと、おちょくってんのか?」
玲牙の怒りに満ちた大きな声が、エレベーターにビリビリと響き渡った。今度は、その視線が流生へまっすぐに向けられた。
「そっちこそ、何なんだよ。」
言った瞬間にヤバイと思ったが、流生が思っていたよりもはっきりと声が出た。玲牙が口を閉じ、流生をじっとにらんだ。
しまった。
流生はリュックの肩ひもをギュッと握った。言い返したところで、三人もいる。こんな狭いところでは、逃げる場所だってない。けれど、今さら後には引けない。流生は玲牙から目をそらしかけて、耐えた。
玲牙が、一歩こちらへ体を寄せたその瞬間、ポンッと音が鳴る。エレベーターが止まり、扉が左右へスッと開くのが見えた。流生は、開いた隙間へすぐに顔を向けた。
降りなきゃ、かな?
そう思い、急いでその場を離れ扉に近づくと、豆ノ介が後ろから追いかけて声を上げた。
「あっ、0番線に行くなら、まだ降りないよ!」
「え?」
流生は、扉の手前で止まった。目の前に見える外の壁には「B2」と書かれていた。その下に見える案内板も、「1番線」になっている。
そうだ。ボタンには「1(改札口)」「B1」「B2(1番線)」「0」とあった。
まだ途中の階だったのか。
「ここ、まだ0じゃないのか。」
「うん。」
「……ありがとう。」
流生は自分の頬が熱くなるのを感じた。すると少し離れたところで、ガラ坊とつづらの笑い声が聞こえる。
「何だよ。降りるとこも分かってなかったのか。」
「玲牙もあんな新入り、いちいち相手にしてたら、体力持たないわよ。バカね。」
流生は聞こえないふりをする。玲牙が何か言いかけたが、扉の外から、エレベーターの中に人が次々に乗り込んできた。
「奥へ詰めてくださーい。」
駅員のような人の声がエレベーター内に響く。流生は押されるまま、豆ノ介の隣へ下がった。大きな鞄を提げた人たちが間へ入り、流生と豆ノ介から三人組の姿が見えなくなる。ドアが閉まるころには、エレベーターの中は、振り向けないほどいっぱいになっていた。
助かった。
流生は、ホッとしてこっそり息を吐いた。
「……大丈夫?」
豆ノ介が流生に声をかける。隣を見ると、豆ノ介は人に押されながらも、木箱を胸の前でしっかりと守っていた。
「もう少しで0番線に着くから。」
それどころか、人混みに押しつぶされそうな流生を気遣ってくれた。
自分も混雑の中、重い箱を持って運ぶのは大変だろうに。
流生は少しだけ体の向きを変えて、背中のリュックを人の方へ向け、なるべく豆ノ介の箱の前に隙間を作るように努力する。
豆ノ介が、ちらりとこちらを見て微笑んだ。流生は何だか気恥ずかしくなり、気づかないふりをして、扉の上の表示へ目を向ける。
……それにしても、長い。
乗ってから最初に止まるまでに、あんなやり取りをする時間があった。普通のエレベーターなら、あんなに長くはかからないはずだ。
「ね、このエレベーター長くない?」
流生が小さくつぶやくと、豆ノ介が額に汗を浮かべながら答える。
「ホントだよね。0番線のエレベーター、たまに長いから。」
「たまに?」
「うん。日によって変わるからね。」
「……それ、そう感じるだけじゃなくて?」
「そうなのかもね。」
豆ノ介は真面目な顔で考えた。どうやらふざけているようには見えない。
どういうことだ?
流生は、もう一度、階数表示を見上げた。数字は「0」と表示されている。しかし、扉は開かない。通常のエレベーターなら、階に着いたらドアが開くはずだ。
「ね、もう0って出てるよ。」
流生がアゴで、豆ノ介に扉の上の階数表示を見るようにジェスチャーした。
「うん。」
「着いたんじゃないの?」
「でもまだ、動いているから。」
豆ノ介がそう言ったとき、足元がふっと軽くなった。流生はものすごいスピードで、下にどんどん降りていくような感覚に襲われる。耳の奥が膜をはったように、ぼわんとして感覚が鈍る。流生は唾をゴクリと飲み込み、自分を落ち着かせるように深呼吸した。
一体、どこまで下りるんだろう……。
流生は不安になったが、周りの人たちは誰もエレベーターの長さに違和感を持っていないようだった。これが当たり前であるかのように、学生帽のつばを直している子もいれば、大人の袖につかまったまま、眠そうに目をこすっている子もいる。
「さっき、箱を支えてくれてありがとう。」
「え?」
豆ノ介が急に、流生に声をかけた。
「さっき、重かったでしょ。」
「ああ……うん。ちょっと。」
本当は、豆腐の入った箱はかなり重かった。水が入っているからかもしれない。自分は箱の片側をほんの一瞬支えただけなのに、ずしりと腕にこたえた。豆ノ介はそれを、ずっと一人で抱えている。細い腕なのに、すごいな。
豆ノ介は、さっきより自然な顔で笑いながら言った。
「僕は慣れてるから。」
「……。」
慣れているのは箱の重さなのか、それともあの嫌がらせなのか。
流生はなんと答えたらいいか分からず、チラリと豆ノ介を盗み見る。流生よりひと回り小さく見える手が、木箱の底をしっかり支えていた。流生はうなずき、箱の前に作った隙間だけは、そのままキープできるように足に力を入れる。
そのとき、エレベーターがふわりと止まる感覚がした。
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