第7話 0番線への秘密の入り方
飛行機の出口を抜け、連絡通路へ足を踏み出した瞬間、北海道の冷たい空気が流生の頬をなでた。
「さむっ!」
思わず声が出る。当然だが、飛行機から降り立った北海道は、茨城よりもずいぶん寒い。
しかし不思議なことに空気は水分を帯びていて、どこか優しくしっとりとしているように流生は感じた。空は薄く曇っていて、太陽の輪郭がぼんやりと白くにじんでいる。
吐いた息が、陽の光の中で白くほどけた。頬に触れる冷たさまで、遠くへ来た証拠のようで、流生は少しうれしくなる。
「本当に北海道に着いたんだ……。」
飛行機から空港へと続く長い連絡通路が、さらに流生のテンションを上げた。歩くたびにギシギシと揺れる足元が、まるで冒険の始まりのように新鮮に感じられる。
しかし通路は、どこまで歩いても人影が見えない。
俺、取り残されちゃうかも……。
感動も束の間、不安にかられて足早に先を急ぐ。連絡通路を抜けて空港の建物に入ると、窓から差し込む光の中、大勢の人が行き交っているのが目に入った。流生は心からホッとした。
新千歳空港は茨城空港の何倍も大きく、忙しく移動する人たちで混雑していた。大人たちについていくように荷物の受け取り口を通り過ぎ、到着口へと出る。すると目の前に広がる活気のある景色に、流生は思わず立ち止まった。
コーヒーショップ、コンビニ、お土産屋さん、ファーストフード。そして、たくさんの人たち。
「すごい……!」
空港の中に、これほどたくさんのお店があるとは思っていなかった。店員さんたちが元気よく「いらっしゃいませー」と声を出しながら、お店の中を整えている。
さらに通路には、キャリーケースをゴロゴロと鳴らしながら歩く人が大勢いた。今までキャリーケースを持って歩く人をほとんど見たことがなかった流生にとっては、みんなが同じような箱を転がしながら歩いている様子を見るだけでも、十分に新鮮だった。
まずは快速エアポートで南千歳へ。周りの大人たちに圧倒されながらも、流生は天井や壁の案内板を頼りに、電車の改札へと進む。
思ったより広い。思ったより人が多い。茨城空港とは、何もかもスケールが違う。
何度か人にぶつかりそうになりながら、そして何度か迷いながらも、流生はなんとか新千歳空港の地下にある電車の駅へ向かう道を見つけた。予定よりもだいぶ時間がかかっている。暗くなるまでに目的の住所にたどり着けるのか、また不安が流生の頭をよぎる。
それでも、地下通路に並ぶ北海道限定のお菓子やテーマパークの広告を眺めながら歩くと、まるで外国に来たような気持ちになった。おじさんの好きそうなビールやウイスキーの広告もある。
おじさん、写真を撮って見せたら喜ぶかもしれない。帰りには、おばさんと結人に北海道限定のお菓子を買って帰りたいな。
まぶしく光る広告を眺めながら、流生は小さく微笑んだ。
通路を抜けると、左側に改札が見えてくる。ホッとして、流生は切符売り場の前に立つ。自動きっぷ販売機の上に、路線図が壁一面に広がっている。色とりどりの線と、無数の駅名。
どれが摩周湖へ向かう路線なのか、どこで乗り換えればいいのか?
スマホで調べてはいたが、実際に目の前に広がる大きな路線図を目にすると途端に自信がなくなっていく。
「摩周湖、摩周湖……。」
ぶつぶつとつぶやきながら路線図を見上げていると、横からふいに声がした。
「摩周湖までですか?」
静かな、落ち着いた声だった。
俺、思ったより大きな声でつぶやいていたのかな。
恥ずかしさで頬をうっすら赤くしながら振り返ると、紺色の制服を着た駅員が横に立っている。年齢はよくわからない。若いような、年老いているような。整った顔立ちなのに、どこか輪郭がぼんやりしている。笑っているのか無表情なのかも、流生には判断しにくかった。
「あ、はい。俺。摩周湖に行きたいんですけど。」
「摩周湖の、南番地ですか。」
「なんばんち?」
全く予想していなかった質問の内容に、流生は首をかしげた。そういえば、あの荷札に何か書いてあった気がする。
「確か、一ノ一……だったと思います。」
慌ててポケットからスマホを取り出し、段ボールについていた荷札の写真を開いて、駅員に見せる。駅員は表情を変えないまま、画面を食い入るように見つめた。
「……あの、ここです。」
少し自信をなくして小さな声でつぶやくと、駅員はちらりと流生の顔を見て、静かにうなずいた。
「でしたら、改札を入って0番線の列車にお乗りください。」
「0番線……?」
常磐線では一番線、二番線と数字が増えていくけれど、北海道には0番線というものがあるのだろうか。
少し不思議に思ったが、たずねる前に駅員が流生から離れて行こうとする。
「あの! いくらの切符を買ったらいいですか?」
流生は思わず声を上げ、自動きっぷ販売機を指さしながら駅員を呼び止めた。
「カードをお持ちのはずです。」
駅員は振り返ってただそれだけを言い、人混みの中へと静かに消えていった。
「カード?」
一瞬考えたが、流生の頭の中で何かがつながった。現金の封筒の中に入っていた、あのカードだ。
流生は急いでポケットから白いカードを取り出して、まじまじと見つめる。真っ白な表面には、光の加減で、あの奇妙な幾何学模様がうっすらと浮かび上がって見えた。
「ずっと何に使うんだろうと思ってたけど、電子マネー用のカードだったのか。変わったデザインなのは、北海道の限定版なのかも。」
なんとなく納得して、流生はカードを手に持ったまま、人が吸い込まれるように通り抜けていく自動改札へと向かった。通れなかったら恥ずかしいので、一番人の少ない端の自動改札機を選び、カードをそっとタッチする。ピッと小気味よい音がして、バーが開いた。
「よかった、チャージされてたんだ!」
流生は胸をなで下ろした。
……ということは、この封筒のお金とカードを使って、送り主の住所まで来てほしい。そう両親は思っていたのだろうか。じゃあ、サッカーボールは?
疑問が頭の中でぐるぐると回りながらも、流生の足は改札の中へ進んでいた。改札を抜けると、目の前に地下ホームへ向かうエスカレーターが見える。
もう地下まで来たはずなのに、また下に行くのか。
乗り込む人の数は多く、流生は大勢の大人たちの間にそっとまぎれ込むようにしてエスカレーターに乗る。今日は平日で、流生くらいの年齢の子であれば、ふつう学校に行っている時間だ。流生が乗っている地下へ続くエスカレーターには、流生以外の子どもは誰ひとり乗っていない。
学校は? そう聞かれて、怒られたらどうしよう。
流生自身も家を出た時にはそう思っていた。しかしここでは、誰も流生を見ていない。時間に追われて足早に進む大人たちの中にいると、まるで自分だけが透明人間になったような、妙な感覚がした。
エスカレーターで半階分下りると、少し広い踊り場に出た。周りを見渡すと、その階にホームの気配はない。列車のホームはさらに地下深くにあるらしく、もう一本、別のエスカレーターに乗らなければいけないことが、周りの大人たちの動きを見ていてわかった。
流れにしたがってエスカレーターの列に並ぼうとした、その時。
エスカレーターのわきにある自動販売機のそばで、誰かがしゃがみ込んでいるのが流生の目に入った。
大丈夫かな?
気になって思わず立ち止まると、後ろを歩いていた大人が流生に軽くぶつかった。
「あっ、ごめんなさい!」
とっさに謝ったが、その大人はちらりと流生を見ただけで、そのまま行ってしまった。
……みんな、気づいていないのかな。体調が悪いのかもしれない。
流生は不安になったが、いきなり声をかける勇気もなく、まずはそっとしゃがみ込んでいる人に近づいてみた。そして、思わず目を丸くした。飛行機でつい先ほどまで隣に座っていた、あのおばあさんだったのだ。
「あの、大丈夫ですか?」
見知った顔だったことで少しだけ安心して、流生は横にしゃがんで声をかけた。
「あら……?」
おばあさんがゆっくりと流生を見上げる。体調が悪いのか、それとも蛍光灯の光のせいなのか。流生にはおばあさんの顔が、パレットに出した絵の具の白のように色味がなく見えた。
「体調が悪いなら、駅員さんを呼んできましょうか?」
「大丈夫よ、ありがとう。」
「腰が痛いんですか?」
よく見ると、おばあさんは背中を丸めるようにしゃがんで、自分の手で腰をさすっている。
「ええ、少しね。歳をとるとダメねえ。ちょっと休んでいれば大丈夫なのよ。」
困った顔をしてはいたが、おばあさん自身は慣れた様子で答えた。しかし次のエスカレーターを降りるとなると、また腰に負担がかかるだろう。
流生はキョロキョロと周りを見回した。近くの大人に声をかけた方がいいのか、駅員さんを呼んだ方がいいのか——。
そのとき、ふと視線の端に、細い通路が映った。
エスカレーターの奥、人の流れから少し外れた場所に、薄暗い通路が伸びている。通路の壁にはエレベーターのマークと文字が書かれた案内板。
「ちょっと待っててくださいね。」
おばあさんに声をかけると、流生は通路の方に走り出した。案内板の辺りまで来て、通路の奥をのぞき込むと、突き当たりの右側に、エレベーターのドアが見える。それだけ確認して、流生は急いでおばあさんの元に戻った。
「あ、あそこにエレベーターがあるみたいですよ。」
流生は走って乱れた息を整えながら、おばあさんに声をかけた。
「まあ、よく気がついたわね。ご親切に、どうもありがとう。」
おばあさんは自動販売機の側面に手をつき、ゆっくりと体を起こした。
「よっこいしょ。」
そして足元に置いていた小さなバッグを、さも重そうに持ち上げる。飛行機の中でも見かけた、あの小さなバッグだ。
「持ちましょうか?」
あまりにも重そうに見えたので、流生はつい声をかけた。こんな小さな手提げがそんなに重いなんて……歳をとるって大変なんだな、そう思いながら。するとおばあさんは、
「いいのよ。あなたが背負うには、ちょっとまだ早すぎるから。」
からかうように言って、さっきまでしゃがみ込んでいた人とは思えないほど迷いなく、通路の方へ、ひとりで向かっていってしまう。
……? 変なの。
流生は首をかしげたが、急いで歩き出す。そしておばあさんを見守るようにそっと少し後ろを歩きながら、細い通路へと踏み込んだ。通路に一歩入ると、さっきまでの人の気配がすっと遠のいて、まるで空気が止まったように静かだった。
おばあさんと流生が、通路の突き当たり右側にあるエレベーターの前に立つと、チン、と音がして、ちょうど扉が開く。
しかし、中は大人たちでいっぱいだった。キャリーケースを持った人、スーツ姿の人、赤ちゃんを抱いた母親。おばあさんが乗り込むと、もう流生が入れる場所は、ほとんどない。
「僕、次ので行きます。」
流生がそう言うと、おばあさんはゆっくりと閉まりはじめた扉の内側から、少しだけ首をかしげた。
「向かいのエレベーター、来たみたいよ。」
「え?」
その瞬間、背中の方でポンッと音がした。機内で何度も聞いた、あの音だ。流生は反射的に振り返った。
通路の反対側。さっきまで気づかなかった場所に、もう一台のエレベーターがある。しかもちょうどドアが、静かに開きはじめていた。
こんなのあったっけ?
先ほど通路に入る時には、おばあさんが乗っていった右側のエレベーターしか見えなかった。違和感を覚えながらも、流生は開いたドアからエレベーターに乗り込み、降りる階のボタンを探した。
「1(改札口)」「B1」「B2(1番線)」「0」
改札は地下にあったはずなのに、1と書いてある。変なの。
けれど、流生の目は、その下にある0のボタンに引きつけられた。
これが、さっき駅員さんが言っていた0番線に続いているんだろうな。
よかった、と流生がホッとした次の瞬間、スーッと扉が閉まり、まだ押していない0のボタンが、勝手に青く光りだした。
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