第6話 九十六件のメッセージと小さな裏切り
隣に偶然座ったおばあさんの孫と誤解されたまま、流生はもらったりんごジュースをひとくち口に含んだ。さわやかな香りと甘みが体中に染み渡る。朝から何も口にせず、気を張りつめて動いていた。その緊張が、ふっとほどけた。
この先のことを考えなくちゃ。
ひと息ついて、先ほど機内モードにしたスマホをショルダーバッグから取り出す。画面を見ると、充電は半分くらいになっていた。飛行機を降りてから摩周湖までの長い道のりを考えると、着くまでもつかどうか、怪しいところだ。
流生は、昨夜保存しておいた経路検索の画面を開く。新千歳空港から快速エアポートで南千歳へ。南千歳で特急に乗り換えて釧路へ。釧路でさらに乗り換えて、摩周駅で降りる。そこからはバスか、タクシーに乗らなければならないようだ。
検索結果では、茨城を出てから摩周湖に着くまで、乗り継ぎも含めて丸一日がかりの長旅になるらしい。しかも、これは調べた通りに乗り継げた場合の話で、実際にはもっとかかるかもしれない。
本当にたどり着けるのかな……。
画面に並ぶ乗り換えの回数と移動時間を見ると、さっきまでの高揚感がじわじわとしぼんでいき、流生は急に目の前が真っ暗になるような気がした。その感覚をごまかすように、先ほどもらったキャンディーの包みを破り、口の中に放り込む。
なんで俺がここまでして親に会いに行かなきゃいけないんだ、という苦い怒り。
いや、こんなに遠いのだから、おばさんがいつも言ってくれた通り、忙しい親はなかなか会いに来られなかっただけなのかもしれない、という甘い期待。
その苦さと甘さが、流生の頭の中で浮かんでは消えた。落ち着かなくて、キャンディーの味もよくわからない。流生はまだ口の中に残る大きな塊を、奥歯でガリガリと噛み砕いた。
「あの、北海道は初めて?」
そのとき、隣のおばあさんがふいに声をかけてきた。
「……あ、はい。」
流生は何となく警戒しながら、小声で答えた。おばあさんは気にする様子を見せず、おっとりと微笑みながら話を続ける。
「そう。いいわねえ。北海道は空気が違うのよ。特に摩周湖のあたりはね、霧が濃くて、静かで、なんていうか……別の世界みたいな感じがするの。」
流生は思わず、おばあさんの顔を見た。
「摩周湖、知ってるんですか。」
「もちろん。昔ね、主人と何度も行ったのよ。神秘的な湖なの。晴れた日に湖面が見えるのもきれいだけど、私は霧の日の方が好きだったわ。」
そう言って、おばあさんは流生越しに窓の外へ遠い目を向ける。流生は何と言っていいかわからず、なるべく視線をさえぎらないように、身体を背もたれにうずめた。
別の世界みたいな感じ。
その言葉が、胸のどこかに引っかかる。ふと、あの白いカードのことが頭に浮かんだ。光の加減で浮かび上がる、意味のわからない幾何学模様。それを見た瞬間に、チリチリと燃えるように騒いだ、あの胸の熱さ。
理由はわからない。それでも「行かなければならない」という思いは、荷札を見つけたときより、今の方がずっと強くなっていた。
流生はそのまま、自分の内側を確かめるように、目を閉じて思いをめぐらせた。
ポン、ポン。
「まもなく当機は新千歳空港への着陸態勢に入ります。座席にお戻りになり、シートベルトをお締めください。」
機内に響く合図音とアナウンスに、流生はハッと目を開けた。昨夜ほとんど眠れなかった疲れが出たのか、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
急いで窓の外に目をやると、雲の切れ間から広大な緑と茶色の大地が見える。落ち着いていた心臓が、またドキドキと鳴りはじめた。
北海道だ!
流生は窓に額を寄せ、雲の隙間から見える景色を見つめる。茶色の大地は、地図でイメージしていたよりも、果てしなく広く見えた。機体がゆっくりと旋回しながら、高度を下げていく。
すると、ウィーンという機械音が足元の方から響いてきた。流生は驚いて肘掛けをぎゅっと握り、おばあさんの顔をちらりとのぞき見る。落ち着いて目を閉じている様子を見て、何でもないのだとほっとした。
そのうちに、畑のような大地の間に、道路や建物が見えてくる。だんだんと地面が近づき、道路を走る車や、建物の屋根まではっきりと見えるようになった。流生がドキドキしながら窓の外を眺めているうちに、滑走路脇の林が迫ってきた。そしてあっという間に滑走路の白線が、飛行機のすぐ下を流れていく。
ドンッ。
突然の衝撃とともに、機体がガタガタと揺れた。ゴォーッという大きな音が機内に響く。窓からは、翼の一部がせり上がっているのが見えた。足元からゴゴゴと低い振動が伝わり、速度が落ちるにつれて、流生の体が前へ押されるように傾く。
電車くらいの揺れかと思ってたけど、飛行機って想像よりずっと迫力がある乗り物だな。
それが、流生の正直な感想だった。飛行機が十分に速度を落としたあとも、心臓はドッキンドッキンと大きく鼓動を打っている。飛行機はしばらく地上を走り、ターミナルの建物の横にゆっくりと止まった。窓の外には、北海道の空が広がっている。
流生は、茨城の空とはどこか違う気配を感じた。見慣れた茨城の空は、風の強い日にはどこまでも澄み渡って見える。しかし今、窓の外に広がる空は薄く曇っていて、どことなく重く、しっとりとして、やさしく静かだった。
うまく言葉にはできないけれど、確かに違う。
流生は、自分が今までとは違う世界に飛び込もうとしている予感を味わった。
シートベルトのサインが消えると、機内が急に騒がしくなった。大人たちはそれぞれ頭上の荷物入れを開けてかばんを取り出し、通路に並びはじめる。
「気をつけてね。」
立ち上がりざまに、おばあさんが微笑んだ。
「ありがとうございました。」
流生が頭を下げると、おばあさんも通路へ出た。大人たちで混み合っているので、流生は空くまで席で待つことにした。ここまで来てしまえば、もう空港で追いつかれる心配はない。
さっきまでいた茨城の家も、おじさんもおばさんも、結人も――みんながひどく遠い存在に感じた。
そう思うと少し寂しくなって、流生はスマホを確認した。充電は半分以下まで減っている。摩周湖までもたないかもしれないという不安が、また頭をよぎる。
「機内モード、解除した?」
通路から誰かの声が聞こえた。つられるように、流生はスマホの飛行機マークを押して、機内モードをオフにする。飛行機マークなんて、自分には一生関係ないボタンだと思っていた。それを今、使っている。そう思うとワクワクして、頬がゆるむのを感じた。
すると次の瞬間、スマホが、ピロリン、ピロリン、ピロリンと、けたたましく鳴りはじめる。
「な、なんだっ!?」
通知音と驚いた声を聞いて、通路に並んでいた大人たちが、いっせいに流生を振り返った。流生は恥ずかしくなり、スマホを隠すように体を丸めた。
周りの視線が離れてから、そっと画面をのぞく。そこには、おじさんとおばさんからのメッセージや、電話があったことを知らせる通知が次々に並んでいた。
飛行機が出発してから、約一時間半。時刻は八時を少し過ぎたところだ。朝起きて流生がいないことに気づいた二人が、流生が空の上にいる間、何度も連絡をくれていたのだ。
「やっべ……。」
今すぐメッセージだけでも送った方がいい。流生があせってLINEを開くと、未読のメッセージは九十六件にもなっていた。
「どこにいる?」
「どうしたの?」
「何かあった?」
最初のうちは、確認のメッセージだった。しかし、後半になるにつれ、
「お願いだから、連絡して。」
「無事なのか、教えて。」
「連絡、ずっと待ってる。」
流生の安否を気遣う、悲痛な言葉に変わっていた。流生の顔から、すっと血の気が引く。心配されるとは思っていた。でも、ここまで二人を不安にさせるとは、考えきれていなかったのだ。
少し考えてみれば、当たり前のことなのに、なぜ気づかなかったのだろう。流生はこれまで、二人に黙って一人で出かけたことなど一度もなかった。おじさんとおばさんがいないときでも、たいていは結人と一緒だった。
「まあ、二人一緒なら大丈夫だろう。」
おじさんがよくそう言って、流生と結人が少し遠くまで遊びに行くのを許してくれていたのだ。
結人の顔が、ふっと頭に浮かぶ。その瞬間、またスマホが鳴った。慌てて画面を見ると、ありがたいことに結人からの着信だ。丸いアイコンには、結人が好きなユーチューバーのキャラクター人形が映っている。見慣れた、あの顔だ。
流生は気がつくと、通話ボタンを押していた。
「もしもし……。」
「あっ、流生!? お前、今どこにいるんだよ?」
「え、いや……。」
「えっ? 何? なんか、めっちゃ電波悪いんだけど、大丈夫?」
「あっ、機内だから……。」
「はぁ?」
結人が驚いた声を上げる。その後ろから、
「流生か!?」
「結人、つながったの!?」
おじさんとおばさんが必死に叫ぶ声が聞こえてきた。
「きないって何? 地名?」
結人が聞き返す後ろで、
「あっ、すみません。今、連絡が取れましたので……はい。はい、わかりました。」
別の電話で誰かと話しているらしい、おばさんの声も聞こえる。
「流生、大丈夫? お父さんとお母さん、警察にまで電話してたんだよ。二人に代わろうか?」
警察という言葉を聞いて、胸がドキリとした。
やばい……確実に大事になってる。
流生は背中がひやりとするのを感じながら、わざと明るい声で答えた。
「だ、大丈夫、大丈夫!! 話さなくていいし、めっちゃ無事! ただちょっと……。」
「どうしたの? 今どこ? 迎えに行くように、お父さんとお母さんにお願いしようか?」
めずらしく、結人が優しい声でさとすように言った。
怒られるのが怖くて、おじさんとおばさんと話したくないのだと思われている。結人の声で、それがわかった。生まれてから兄弟のように育った結人の気遣いが、ひとりぼっちの流生の心に染みる。それでも、今行かなければならないという衝動は、消えなかった。
「いや、ごめん! 俺、今、飛行機乗って北海道に着いたとこなんだ!」
「ほっかいどう~!?」
電話越しの大声に、流生は思わずスマホを耳から離した。
電話の向こうでは、おじさんとおばさんも何かを叫んでいる。三人の声が重なり、誰が何を言っているのか、うまく聞き取れなかった。そのとき、ポンッという音とともに、アナウンスが流れる。
「本日はご搭乗いただき、誠にありがとうございました。どうかお気をつけて。でも急いで、目的の地へお向かいください。」
「……?」
何となく引っかかったが、今はそれどころではない。周りを見渡すと、ほかの乗客はもう降りてしまっていた。早く降りろという催促かもしれない。
「まずい。」
前の座席の下からサッカーボールの入ったリュックを引っ張り出しながら、流生はスマホに向かって早口で言った。
「ごめん、今、飛行機から降りるとこなんだ。また電話するから!」
電話を切ろうとした瞬間、
「流生!!!」
おじさんとおばさんの、悲しそうな声が重なって聞こえた。流生は胸をえぐられるような気がした。
「……ごめんなさい。俺、どうしても……サッカーボールの箱に書いてあった、送り主の住所に行ってみたくて。」
親に会いたくて、という言葉だけは、自分を大事に思ってくれているおじさんとおばさんに、どうしても言えなかった。電話の向こうが、時が止まったかのように静まる。
「……気がすんだら、ちゃんと帰る! 絶対、また連絡するから! じゃあね!!」
「あっ――」
相手の返事を聞く前に、流生は無理やり通話を切った。そしてもう一度、飛行機マークをタップして機内モードにし、スマホを乱暴にポケットへ押し込む。
こぼれ落ちそうな涙をこらえ、唇を噛みしめながらリュックを背負った。そして、誰もいない通路を出口へと急ぐ。
胸がズキズキと痛む。おじさんとおばさんは、どんな顔をして、自分の名前を呼んだのだろう。本当の親を探しに出て、育ての親を失ってしまうかもしれない。そんな恐怖が、流生の胸を締めつけた。
それでも、足は止まらなかった。どうしても行かなければならないという気持ちだけが、背中を押し続ける。
摩周湖に、いったい何があるのか。そして本当に、そこに親がいるのか。
不安と孤独に押しつぶされそうになりながら出口まで来た流生は、慌てた拍子にスマホを落としていないか、ポケットを探った。スマホの硬い角に触れて、ほっとした。そのとき、指先に何か薄いものが触れた。あの白いカードだ。
「お金と一緒に、茶色の封筒に入れなかったっけ?」
不思議に思って取り出すと、ポケットに入っていたとは思えないほど、氷のようにひんやりと冷たい。流生は首をかしげながらカードをポケットに戻し、飛行機の出口から一歩を踏み出した。
北海道の旅が始まろうとしていた。
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