第5話 はじめての飛行機と隣のおばあさん
搭乗口のゲートをくぐった流生は、思わず足を止めた。
てっきりテレビで見るような長い通路を歩いて飛行機に乗り込むのだと思っていたのに、スタッフに案内されたのは、建物の外へ出るドアだった。駐機場を歩き、飛行機の入口に付けられた「タラップ」という金属製の階段を上るらしい。
「え、歩いて行くの?」
思わず声に出てしまった。前を歩くスーツ姿のサラリーマンが、ちらりと振り返る。流生は慌てて口をつぐんだ。
こそこそと自動ドアを抜けた瞬間、冷たい朝の空気が頬を叩く。そして目の前には、本物の飛行機がドンと停まっていた。いつも空を飛んでいるところを見ていた飛行機は、爪の先ほどにしか見えなかったのに、間近で見ると、まるで建物のように大きい。流生はポカンと口を開けたまま、これから自分が乗る飛行機を見上げた。駐機場の明かりが機体に映り、まるで美しい宝石のように輝いている。
空港の近くで育ったが、さすがにこんなに近くで見るのは、はじめてだ。
翼の付け根、胴体のリベット、エンジンのカバー。テレビや図鑑で見るのとは、迫力が全然違う。何もかもが、圧倒的にでかくて、そしてリアルだった。
いつも教室の窓からぼんやりと見ていた飛行機が、これだったのか。
こんな大きなものが空を飛ぶなんて信じられないと、駄菓子屋のおばあちゃんが言っていたのを、ふと流生は思い出した。生まれて初めて乗る飛行機に尻込みしそうになったが、不安をかき消すために、その大きな機体を見つめる。駐機場には飛行機の燃料のにおいが漂い、低い機械音が朝の空気に響いていた。
地上スタッフのお兄さんが、オレンジ色の誘導棒を持って脇に立ち、タラップへと案内してくれる。周囲の音が大きいからか、耳には大きなヘッドフォン型の防音装置をつけていた。見慣れない装備が気になって、ついじっと見てしまい、流生はそのお兄さんと目が合った。軽く会釈すると、お兄さんは小さく微笑み返してくれた。
タラップの段を、一段一段踏みしめていく。最上段に足をかけたとき、流生はふと空を見上げた。東の空には、淡いオレンジ色が広がっている。ドキドキと大きく鳴り響く心臓の音が、周囲の響きに紛れていくのが心地よい。
これが、俺の旅の始まりだ。
そう自分に言い聞かせて、流生は飛行機の中に足を踏み入れた。
機内に一歩踏み込んだ瞬間、独特のにおいがした。消毒液のような無機質なにおいに、外で感じた燃料のにおいがかすかに混じっている。そこに、大勢の人の気配も溶け込んでいた。流生はうまく説明できないけれど、飛行機の中にしかない、特別なにおいだと思った。
カウンターで受け取った搭乗券は、握りしめたまま手元にある。座席番号は「13A」。
通路を進みながら頭上の番号を目で追っていくと、流生の席は三人掛けの窓側だった。その列には、まだ誰も座っていない。
ラッキー。
そう思いながら、背負っていたリュックを下ろす。サッカーボールは、保安検査のときに中へしまってあった。頭上の荷物入れへ押し込もうと手を伸ばしたが、流生の身長では届かなかった。
先ほどまで全身にみなぎっていた、一人で旅に出る大人のような自信が、じわじわと失われていく。流生は最初から荷物入れに入れる気なんてなかったという、すかした顔をして、リュックをお腹の前にぎゅっと抱えたまま、急いでシートに体をすべりこませた。
窓際の席に座って外を見ると、オレンジと白の駐機場の明かりが、まだキラキラと輝いている。
流生はシートベルトのバックルを手探りで探し、カチッとはめる。思ったより、ずっと簡単な作りだった。まだ車の方がしっかりしているような気もした。
ジェットコースターみたいな、もっと頑丈なものがついているとばかり思っていたのに。
飛行機だからすごい設備がついているのかと思っていた流生は、拍子抜けして足をブラブラさせた。すると隣の席に、小柄なおばあさんが座った。薄いグレーのカーディガンに、手には小さな手提げバッグ。隣との距離が思っていたより近くて、流生は思わず身構える。
おばあさんは慣れた手つきで手提げを前の座席の下にすべりこませた。そして流生と目が合った瞬間、深いしわの刻まれた顔が、ふわっとほころんだ。
何だか気まずくなって、流生はおばあさんのまねをするようにリュックを前の座席の下に押し込み、そっと目線を外す。
おじさんが一緒にいたら、きっとこう言っただろう。
「リュックの中にサッカーボールなんて入れたら、カバンが汚れるんじゃないか?」
おじさんは、おばさんと結人いわく「かなり心配性」なのだ。何か行動するたびに、それ大丈夫かと、一言つけ加えるクセがある。そのクセが出ると、おおらかなおばさんと結人は、いつも「また始まった」という顔をした。おじさんに言わせれば、二人の方が大雑把なのだ。
今ここにいたら、きっとムッとして、こう続けるだろう。
「だって、地面に触れているサッカーボールをリュックに入れたら、カバンの中が地面みたいになっちゃうじゃないか。なぁ、流生。」
おじさんは何かと、最後に流生へ賛同を求めた。流生は正直どちらでもよいと思っていたのだけれど、おじさんが一人になってしまってはかわいそうだと思い、うんと返事をしていたのだ。
そこまで考えて、ふと、自分が三人の手の届かないところに行こうとしている寂しさに襲われた。
「一人で乗るの? えらいわねえ。」
思いをめぐらせていたところに急に話しかけられて、流生の体がビクッと反応する。
「……はい、まあ。」
警戒したが、おばあさんはそれ以上、何も聞いてこなかった。流生は少しだけほっとして、また窓の外に視線を戻す。
しばらくすると低いエンジン音が響きはじめ、機体全体がじわりと振動した。窓の外の景色がゆっくりと動きだし、飛行機が滑走路へと向かっていく。流生は思わず、窓に額をくっつけて、外の景色を眺めた。
すると機内アナウンスが流れはじめ、客室乗務員が通路に立ち、安全説明をはじめる。緊急脱出の手順、酸素マスクの使い方、救命胴衣の場所。以前、社会科見学で聞いたのとまったく同じ内容だった。しかし本物の飛行機の中で聞くと、妙な緊張感がある。流生はシートポケットから安全のしおりを引っ張り出して、思わず真剣に読み込んだ。
「やだ、機内モードにしないと!」
隣から大きな声が聞こえて、流生は思わず横を見た。
「あら、ごめんなさい。独り言が大きくて。」
恥ずかしそうに笑いながら、隣のおばあさんが携帯を操作しはじめる。流生もつられて愛想笑いを返したが、自分も上着の下のショルダーバッグからこっそりスマホを取り出した。窓と体のあいだに隠すようにして、おばあさんにバレないよう機内モードに切り替える。
危なかった。
胸をなでおろした瞬間、ポン、ポンと何かを合図するような音が機内に響く。それが何なのか、流生にはわからなかったが、そうこうしているうちに滑走路の端まで移動した飛行機が、一度ぴたりと止まった。
動き出すまでの数秒が、時が止まったかのように長く感じられた。そして次の瞬間、エンジンがうなりを上げた。ゴォーッという激しい爆音が機内に響き渡り、機体がガタガタと小刻みに揺れる。
え? こんなにうるさいの? これって大丈夫?
不安になって流生は必死に周りを見回すが、誰一人、驚いていない。隣のおばあさんも、落ち着いた顔で目をつぶり、静かに背もたれに寄りかかっていた。
次の瞬間、飛行機が急にスピードを上げ、流生の体は背もたれに強く押しつけられた。窓の外に見える景色が猛烈な速さで後ろへ流れはじめ、滑走路の横の白線がゲームの画面みたいにびゅんびゅんと飛んでいく。流生はエンジンの音と自分のバクバク鳴る心臓の音を聞きながら、シートの肘掛けを指先が赤くなるほど強く握りしめた。思わずギュッと目をつぶる。怖いのか楽しいのか、自分でもよくわからない、ジェットコースターに乗った時のような気持ちになる。
気づくと、ふわっと一瞬、体が宙に浮いた感覚がした。そっと目を開けて窓の外を見ると、先ほどまで踏みしめていたはずの地面が、ものすごいスピードで遠のいていく。
自分がいつも通っていた田んぼ道が、国道が、家々の屋根が、みるみるうちに小さくなっていった。朝もやの中、必死にペダルを漕いできた道も、自転車を停めた茨城空港の駐輪場も、全部がおもちゃみたいに縮んで、やがて視界から消える。
「……俺、飛んでる!」
誰に言うわけでもなく、流生は喜びをかみしめながら、そっとつぶやいた。
しばらくして、窓の外が一気に白く染まった。どうやら雲の中へ入ったらしい。何も見えない時間が続いたあと、ふいに視界が開けた。流生は息をのんだ。
どこまでも続く、真っ白な雲の海。その上に、見たこともないほど鮮やかな朝の空が広がっている。薄いオレンジから淡い青へ、境目のない美しいグラデーションが続いていた。朝日を受けた雲の縁が、オレンジ色に輝いている。
こんな景色が、自分の知らない世界にあるのか。
流生は、初めて見るその壮大な景色から、しばらく目が離せなかった。
機体が上昇を終え、揺れも落ち着くと、ポンとまた音が鳴って、シートベルトのサインが消えた。するとほぼ同時に、客室乗務員たちがバタバタと動き出す音が機内に広がった。少しすると、ドリンクのワゴンを押して通路を進んでくるのが、流生の目に映った。
これ、どうやって注文するんだろう。
朝から自転車を思いっきり漕いできたせいで、のどがカラカラだった。しかし忙しそうに動き回る客室乗務員に、どうやって声をかけて注文すればよいのか、わからない。流生は途方に暮れて、ただワゴンの動きを目で追っていた。
すると隣のおばあさんが、ワゴンが目の前に来るのを見計らって、軽く右手を上げ、慣れた様子で声をかけた。
「あったかい緑茶はあるかしら?」
「はい、ございます。ただいまご用意いたします。」
客室乗務員がにこやかに答えた。そして次の瞬間、その視線が流生の方へと向いた。
「お連れ様は、いかがなさいますか?」
お連れ様?
おばあさんの孫だと思われたらしい。否定しようとしたが、言葉が間に合わなかった。
「あっ、いや。えっと……ジュースをください。」
結局この言葉だけを絞り出して、流生は小さくなった。客室乗務員はにっこり笑い、てきぱきとジュースを用意しはじめる。隣ではおばあさんが、何も聞かず、ただ穏やかに客室乗務員から緑茶のカップを受け取っていた。
「あっ、お金……。」
りんごジュースを受け取った流生が、あわてて現金の入った封筒を取り出そうとショルダーバッグに手をかけると、おばあさんがにっこりと笑った。
「この飛行機、お飲み物は無料なのよ。ありがたいわねえ。」
おばあさんは緑茶をフーフーと冷ましている。客室乗務員も微笑みながら、おばあさんへ声をかけた。
「よろしければ、お孫さんもどうぞ。」
そして、飴の入った小さなカゴを流生の前に差し出す。
孫じゃないんだけど。
否定したい気持ちと、キャンディーをもらいたい気持ちが、胸の中で一瞬だけせめぎ合う。
「……あ、どうも。」
結論は、一秒もかからなかった。流生は否定するのをあきらめてカゴの中からキャンディーをそっと一粒つまみ、小さく頭を下げる。客室乗務員はにっこり笑ってワゴンを押し、次の列へと進んでいった。おばあさんは相変わらず何も言わず、座席の前のテーブルに置いた緑茶のカップを、両手で包んでいた。
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