第4話 夜明け前、両親を探す旅のはじまり
暗闇の中で、段ボールの白さがぼんやりと流生の目に入る。
流生はそっと起き上がり、段ボールに近づいた。結人を起こさないよう、息を殺しながら段ボールのそばに立つと、先ほどは目にも入らなかったが、宛先のシールが貼ってあることに気がついた。
届け先は茨城の住所。送り元は…
「北海道摩周湖一ノ一」
番地まで、きちんと書いてある。 心臓が急にドキドキと鳴り響くのが聞こえた。
最初から、ここに書いてあったじゃないか。
今まで想像の中にしか存在しなかった父親と母親が、本当にこの世界のどこかにいる。まるで絶滅したはずの恐竜が、実は今でも地球のどこかに生きていたと分かったような気持ちが流生を襲った。
会いたい。会ってみたい。でも……純粋に会いたいなんて、悔しすぎる。
ふと、床に転がったサッカーボールが目についた。
そうだ。これを持って行こう。会いに行って、サッカーボールを両親に叩きつけてやる。
「俺がやってるのは、空手だ!」
そう堂々と両親に言ってやる。
「お前らは無責任な大人だ!俺のことなんて、何もわかっていない!」
そう言って、さっさと帰ってきてやる。それだけでいい。
どんなところに住んでいるのか調べようと、流生はスマホを取り出して、宛先のシールを写真に撮る。カシャ、とシャッター音が暗闇に響いた。思わずシーっと口の中で言ってから、結人の寝息を流生は確認する。結人は変わらずにすやすやと眠っていた。その規則正しいリズムを確かめながら、流生はそっと箱の中をもう一度探った。
茶色い封筒に収まった、まとまった現金。そしてもう一つ。封筒の中にぽつんと一枚だけ、見慣れない白いカードが入っていた。
チャージ式のプリペイドカードかな? バスや電車に乗る時に使うやつに似てるけど……。
表面をじっと見つめるうちに、流生はかすかな違和感を覚えた。光の当たり具合によって、見たこともない幾何学模様が浮かび上がるように見えるのだ。
「なんだ、このカード?」
窓の隙間から漏れる月明かりでカードを照らしながら、小声でつぶやいた瞬間、胸の奥でチリチリと熱いものが燃え上がるのを感じた。
理由は、わからない。それでも「今すぐ行かなければ」という強い衝動が、流生の全身を駆け抜けていく。流生は手に持っていたスマホを開き、暗闇の中で検索AIに問いかけた。
“明日、北海道の摩周湖のあたりに行きたいんだけど、どうやって行ったらいい?今、茨城空港の近くに住んでる。成田まで来ないとダメ?”
できれば、さっさと飛行機に乗ってしまいたい。誰にも気づかれないうちに。
茨城空港は、小学生の流生が自転車で向かえるほどの距離にあった。しかし、近すぎるのか、流生の小学校では、そこからどこかに行ったという友人の話を聞いたことがなかった。聞いたことがあるのは、成田空港から飛行機に乗って、どこかに行ったという話だ。
遠い空港だとまずいな。
流生は、ドキドキしながら検索AIの返信を待つ。成田空港だと、駅まで出て電車に乗り、さらに高速バスを乗り継がなければたどり着けないと、流生は以前に聞いたことがあった。朝早くにこっそり家を出たとしても、すぐにおじさんやおばさん、そして結人が起き出して、流生の不在に気づいたとしたら、車で空港まで追いかけてくるかもしれない。それは、親に会いたいという気持ちを押し殺して過ごしてきた流生にとって、耐え難いほどくやしく、恥ずかしいことだった。
すると、長く検索し続けて暗くなっていた携帯の画面が、急に明るく光りだした。お願いだと祈るような気持ちで流生は携帯の画面をそっとのぞきこむ。
“結論から言うと、成田空港まで行かなくても地元の茨城空港から北海道へ飛べます!”
夜中のテンションには明るすぎる返答に、流生は思わず拍子抜けした。AIによれば、茨城空港から北海道へは確かに飛行機に乗って行くことができるそうだ。ただし北海道の新千歳空港から摩周湖までは電車を何度も乗り継いで6〜7時間、なかなかの長旅になるようだった。
「……かまうもんか。」
流生は、ほとんど飲み込むようにつぶやいた。
事情を話せば、おじさんとおばさん、それに結人は、きっと一緒に来てくれようとする。そして最後には、こう言うのだ。
「やっぱりお父さんとお母さんに会いたいよね。……寂しい思いをさせてごめんね。」
その言葉を想像しただけで、胸の奥がえぐられるように痛んだ。
不満があるわけじゃない。むしろ逆だ。三人には、何一つ文句なんてない。だからこそ、こっそり行かなければならない。
これは自分のわがままなのだと、流生はよくわかっていた。
三人が目を覚ます前に、誰も知らないうちに、親の顔を見るためにこの家を出る。
流生は、静かに、しかし固く決意した。
***
午前四時五十九分。流生は三人が寝ているうちに、そっと玄関の外へ出た。
玄関のドアを閉め、音を立てずに鍵をかける。玄関の横に停めてある自分の自転車にまたがり、前カゴのヘルメットをかぶった。代わりに、空いた前カゴには親から届いた、あの的外れなプレゼントのサッカーボールを入れる。
リュックの中に入れることもできるサッカーボールを前カゴに放り込んだのは、少し考えてのことだった。まだ暗い朝早くから一人で自転車をこぐ小学生がいても「試合に向かう子」に見えるかもしれない。流生なりのカモフラージュだ。
「こんなことでしか、役に立たないな。」
苦笑いが、寒さに染まった白い息と一緒に消えていった。十月の茨城の朝は、予想以上に冷え込んでいる。
白いカードと現金の入った封筒は、スマホと一緒にショルダーバッグへ収めてある。薄手のダウンジャケットは、つい先日、おばさんが衣替えで出してくれたものだった。背中のリュックには、ペンケースとノートだけが入っている。
吐いた息が白くにじむのを見て、流生は自分が本当にとんでもない冒険に踏み出そうとしているのだと実感した。高揚と緊張が混ざり合って、胸の中でぐるぐると回って、気持ちが悪い。
でも、どうしても今いかなくちゃ。
不思議と湧き上がる気持ちを胸に、自転車のライトを点灯させた。そして、いつものように足でスタンドを上げた瞬間、
ガチャン!
静寂を裂くような金属音が夜明け前の空気に響き渡る。流生は寒いのに、自分の額から汗がにじむのを感じた。
誰も起きませんように。誰も起きませんように!誰も起きませんように!!
心の中で三度強く念じながら、流生は後ろを振り返らず、ペダルを力いっぱい踏み込み、逃げるように住み慣れた家を出発した。
濃い朝霧に包まれた、広大な田んぼの横の道を、流生は自転車で全速力で駆け抜ける。街灯はほとんどなく、数メートル先も見えない漆黒の中を、白いガードレールだけを頼りにひたすら突き進んだ。砂利を踏んで自転車がガクンと揺れても、雑草で前輪を取られそうになっても、足は止まらなかった。
暗闇の中でも迷わず進めるのは、小学校の社会科見学で茨城空港へ行ったことがあったからだ。
流生はあの日、クラスメイトたちが言っていたことを思い出した。
「先生、飛行機なんて、毎日見てるのにー。」
「私なんて、先週、横の公園に親と散歩しに行っちゃったよ。」
「俺も。週末、空港近くの道の駅に野菜買いに行ったばかり。」
その時は流生も同じ気持ちで、ぼんやりと空を眺めていた。空港も飛行機も、この街に住む小学生には見慣れたものだった。茨城空港までの道も複雑ではない。田んぼ横の細い道路から県道に出て、青い道路標識の「茨城空港」という文字を追いかければ、近所の子どもなら誰でもたどり着ける。
まだ薄暗い道を、猛スピードで自転車をこいで、流生は前に進んだ。だんだんと太ももがジンジンと熱くなり、息が白く弾ける。まだ飛行機の時間さえ調べていない。それでも背中を押すような衝動が、ペダルを漕ぐスピードをどんどん引き上げていく。夜と朝のあいだの霧を引き裂いて走る流生の姿は、まるで小さな突風のようだった。
午前五時四十五分。
朝もやの向こうに、茨城空港の明かりが浮かび上がったとき、流生は、はあはあと白い息を切らしていた。駐輪場に自転車を停め、サッカーボールをひったくるように前カゴから取り出して、入口へ駆け寄る。
けれど、自動ドアは開かなかった。ガラス越しに中をのぞくと、入口の脇に「午前六時開館」と書いてある。
あと十五分。流生はスマホの時計を見た。走っている間は暑かったのに、立ち止まると汗で湿った背中がダウンジャケットごしに冷えてくる。サッカーボールを抱え直し、入口の前を行ったり来たりしながら、何度も時刻を確かめた。
早く開いてくれ。誰かが起きる前に。
午前六時。ようやく自動ドアが開くや否や、流生は足早にロビーに滑り込んだ。飛行機の出発時刻と行き先を知らせる電光掲示板を見上げる。
「札幌に行くには……どの便だ?」
「札幌」の文字を探して視線を走らせる。出発時刻は、八時五十分。
そんなに待つのか。
絶望した気持ちで、思わずスマホを握りしめた。それでも、今ならまだ誰からも連絡は来ていない。先にチケットだけでも買ってしまおう。流生はチケットのカウンターへ一直線に向かう。汗だくでサッカーボールを抱えた小学生が一人で現れたものだから、カウンターの中にいた女性スタッフが、驚いたように目を丸くした。
流生はゴクリと唾を飲んだ。息を整えて、昨夜のうちに用意しておいた「完璧な言い訳」を、一気に明るくまくし立てる。
「あの!新千歳空港行きのチケットを一枚ください!僕、この近くの親戚の家に住んでるんですけど、お父さんとお母さんは仕事で札幌にいるんです!昨日が誕生日で、『北海道に遊びに来い』って、このサッカーボールとお金を送ってくれて!親戚の人には、朝早くて悪いから、見送りは断ったんです。ほら、この空港のすぐ近くだし、俺、将来パイロットになりたくて!よく遊びに来てたから一人でも大丈夫って言ったんですよ!なんか大人みたいだなーって。あはははは!」
いかにも子どもらしいと自分で思う笑顔を作りながら、ショルダーバッグから茶封筒を取り出す。震える手がバレないように、現金を急いで差し出した。
よどみのない、しかし必死な言葉と笑顔を見て、女性スタッフは、思わずクスッと微笑んだ。
「そうなの。将来はパイロットさんか! かっこいいわね。年齢とお名前は?」
流生が名前と年齢を答えると、スタッフはうなずいた。
「十二歳で、お一人でのご搭乗ですね。気をつけて行ってらっしゃい。」
スタッフはPCをのぞき込んで、代金を伝え、流生から必要な分だけ受け取る。そしてカタカタとキーボードを打ち込み、航空券を発券してくれた。流生は心の中で、大きくガッツポーズする。大人の目をくぐり抜け、自分の力で未知の世界へ飛び立つようなスリルが、胸を激しく高鳴らせていた。
「あら……?」
発行された搭乗券を確認していたスタッフが、首をかしげた。
「……どうしたんですか。」
何かバレたのかと、流生の心臓が跳ね上がる。必死に冷静なふりをして聞き返した。
「この便、八時五十分発だったはずなんだけど……。」
スタッフは搭乗券と画面を見比べ、もう一度キーボードをたたいた。
「六時三十分? 画面の方も……。」
流生も、ロビーの電光掲示板を振り返った。さっき見つけた「札幌」の横には、六時三十分と表示されている。八時五十分だった。絶対に、そう書いてあった。
「変更の連絡、来ていたかしら……。」
スタッフは小さくつぶやいてから、壁の時計へ目を向けた。針は、六時十分を指している。
「あと二十分しかないわ。急いで手続きを済ませましょう。」
「……はい。」
どうして変わったんだろう。
けれど、たずねているうちに乗れなくなったら意味がない。早く出発できるなら、その方が流生には都合がよかった。差し出された搭乗券を、急いで受け取った。
「預ける荷物はありますか? 手荷物について、こちらの注意事項も確認してくださいね。」
渡された案内の「モバイルバッテリー」という文字を見て、流生は「しまった」と思った。スマホの充電器を、家に忘れてきてしまった。昨日はいろいろありすぎて、寝る前のいつもの充電さえ忘れていたのだ。途中でバッテリーが切れた時のことを考えて、一瞬不安が頭をよぎる。
「預ける荷物はありません。」
まぁ、どうにかなるだろうと流生は腹をくくった。不安を胸の奥に押し込めながら、搭乗券を握りしめる。スタッフに搭乗口の場所を聞き、元気な小学生らしく大きな声でお礼を言い、乗り遅れないように保安検査場へと急いだ。
背後で、朝の空港がゆっくりと目を覚ましはじめている音が聞こえた。
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