第3話 親の顔より見慣れた天井のシミ
流生はなかなか寝つけなかった。横ですやすや眠る結人の規則正しい寝息を聞きながら、幼い頃のように天井の染みを数える。
一つ、二つ、三つ。
幼稚園の頃から変わらない。この家の天井の染みの数を、流生は本当の親の顔よりもよく知っていた。
逆に言えば、流生は親の顔を知らない。生まれてから一度も見たことがない。物心がついた時からこの茨城の家にいて、最初から預けられた子だった。
同じ家の結人にはおじさんとおばさんという両親がいて、学校に行けば大抵の子にも親がいた。自分にも親がいるらしいことは、おじさんとおばさんが教えてくれたが、写真もないので、想像がつかないまま十二歳になった。
「流生のご両親はお仕事の事情で、どうしても一緒に住めないから。お父さんとお母さんも流生に会えないのは寂しいけど、ウチに預けることにしたんだって。」
そうおばさんが以前、教えてくれた。流生の両親はおじさんの遠い遠い親戚らしいのだが、詳しいことはおばさんもよく知らないと言う。
「いやぁ、あの時期は色々あって記憶がぶっ飛んでたのよねぇ! あはは!」
流生が両親との関係について少し尋ねると、おばさんは明るく、いつもそう答えた。
しかし、おじさんから事情が少し違うことを、後に流生は知った。実は流生がこの家に来る前に、二人はお腹の中にいた赤ちゃんを失ってしまったのだ、とおじさんは話した。
おばさんは今の姿からは想像もできないほど元気をなくしてしまい、毎日起き上がることもできなくなって、一日中、布団の中で泣いて過ごすような日々が続いたと聞いて、幼い流生は驚いた。
「ずっとそばにいてあげられたらよかったんだけど……おじさんは仕事に行かなくちゃいけないからね。」
その時、おじさんはまるで苦いものを食べたのに吐き出してはいけない、と言われたような、困ったような、少し微笑んでいるような顔をしていた。
「正直ね、おじさんも悲しくて、でもおばさんを励まさなくちゃいけなくて、どうしたらいいのか、毎日よくわからなかったんだ。」
そんな日々を過ごしていた時、おじさんが家に帰ると、流生がおばさんのベッドの横につけたベビーベッドの上ですやすやと寝ていたのだそうだ。おじさんがびっくりしておばさんにたずねると、
「今日、急にあなたのご親戚だっていう人がやってきて、また別の親戚の子だって言うんだけど……ご両親の仕事の事情で、しばらく預かって欲しいって言うのよね。」
と返事が返ってきた。
「え? 誰だろう?」
「なんか…あなたが子どもの頃に数回会った程度だって言うんだけど。あの埼玉の草加のお家でお正月に会ったことがあるとか、何とか?」
「ゆう兄のいとこかな? とにかく親戚が多いんだよね、俺。」
実際におじさんのお父さんは、兄妹が八人いた。しかもその兄妹が結婚して、相手側のご家族とも親戚になって、その子どもたちがまた結婚して子どもを何人も産んで繰り返して….おじさん自身も最終的には誰が誰だか、また親戚のだれかに聞かないと分からなくなっていたそうだ。
「一応、お茶出して話聞いてたら、何か断りづらくてさぁ……私も別に毎日泣いてるだけじゃいけないなって、ちょうどいいチャンスなのかなぁって思って。」
おばさんは、そこでベッドの横で寝ていた流生を、おじさんに渡しながら言ったそうだ。
「しばらくの間だけでいいからって言うし、その間のお金はちゃんと毎月送金するっていうし、赤ちゃんの顔見たらかわいいし……預かっちゃった!」
そう、満面の笑みでおばさんは答えたそうだ。
「かるっ!」
思わず、流生が飲んでいた麦茶を、ブッと口から吹き出してしまったほどだった。
「そうだよね。めっちゃ軽いよね。」
おじさんも、めちゃめちゃ軽い笑顔で、アハハと笑って流生に答えた。
「でもね、あの時の僕らにとって、あの軽さが久しぶりで。君を希望の光に感じたんだ。」
おじさんて、たまに詩人だよなと流生は思う。普段は異常に心配性な、ただのサラリーマンなんだけど、たまに聞いているこちらが照れ臭くなるようなことを、さらりと言ったりするのだ。
「しばらくの間って、いつまでなんだろうと思ったけれど、毎月、きちんと仕送りが送られてくるし、流生はめちゃめちゃ可愛く、どんどん成長していくし。」
そこでおじさんは、流生の肩をギュッと抱きしめた。
「そのうちね、結人も生まれて、みんなでいるのが本当に自然になってしまったんだよ。正直、流生にお父さんとお母さんが別にいること言わなくてもいいかって、ズルいけど思ってしまった時もあるんだよね。でもそうしたら、本当に流生のお父さんとお母さんが帰ってきたときに、悲しむだろうなって。だから……。」
少し目に涙をうるませながらおじさんが流生の瞳を見つめた。悲しそうに謝ったあの顔を、流生は、今でもはっきりと覚えている。
「流生にはツラかったかもしれないけれど、本当のことを小さい頃から伝えてしまって、ごめんな。」
流生はなんで、おじさんが謝るんだろうと思いながらも、どこかで言わないでくれたらよかったのにと、その時も下を向いた。
リビングの大きな窓の外側に置かれた、庭の縁側に二人は座っていた。外からはミーンミーンと能天気なセミの鳴き声がした。お盆の時期で空には大きな入道雲がかかり、雨の気配がしていた。めずらしく昼間からビールを飲むおじさんの手元の、小さなグラスの青い波模様がはっきりと流生の記憶に残っている。
このおじさんの話を聞いてから、流生は一度だけ、本当の両親に会いたいとおばさんの前で泣いたことがあった。どうしても顔だけでも見てみたいと結人にお願いをして、押し入れをあさって部屋をぐちゃぐちゃにし、フォルダを見ようと試み、PCのログインパスワードを何度も間違えて、ログインできなくしてしまった時だ。
「どうしてこんな事したの!」
まるで鬼のように怒り狂うおばさんに問い詰められて、つい結人が流生の本音を漏らしてしまったのだ。あの時は結人が裏切ったという憎らしさと、自分の本心がおばさんにバレてしまったという申し訳なさと恥ずかしさで、涙がこぼれた。
「写真がなくて、ごめん。連絡する手段も聞かずに、流生を預かって、本当にごめん。本当の親の顔を知らないなんて、悲しい思いをさせてごめん。でも、」
おばさんは流生の目をまっすぐ見つめて、目に涙を浮かべながら言った。
「おばさんは流生がウチに来てくれて、すごく毎日楽しいよ。来てくれてありがとう。」
そう言って、流生を抱きしめた。おばさんのお腹に埋めた顔が熱くて、涙と鼻水がエプロンについてしまって、俺こそごめんなさいと思いながら、流生は肩を震わせて泣いた。
そこまで流生の思いが強いと思っていなかったのだろう。気軽に写真を探すのを手伝ってくれていた結人が、つらそうに横で唇を噛んでいた。
しかし、そんな空気もつかの間、急におばさんが流生の頭をぎゅっと抱いて言い出した。
「流生のお父さんとお母さんが迎えに来ちゃったら、どうしよう。おばちゃん、絶対に泣いちゃう〜!」
そんなことを言い出して、ボロボロ泣き始めたのだ。いつか本当の両親が迎えにきて、流生がこの家から出て行ってしまうことをリアルに考えてしまったようだった。感情の波の激しいおばさんならよくあることだった。しかし、この時は結人まで、
「ダメだ! 流生は絶対に出て行っちゃダメだ!」
と叫んで泣き出した。流生は訳がわからなかったが、最終的には三人で大泣きして、仕事から帰ってきたおじさんをびっくりさせた。
「みんなで食べて元気だそう!」
結局、その日はピザをとったのを覚えている。
「お母さん、自分がご飯作りたくないだけじゃん。」
結人がまた余計なひと言で、おじさんに怒られていたことも覚えている。
この涙もろく優しい人が自分のお母さんだったらよかったのに。
そう思ったことは、もちろん流生に何度もあった。しかしそれは本当の母親を裏切るような気がして、まだ一度も口にしたことはなかった。
「……俺はお父さんのことも、お母さんのことも、信じていたのに。」
深夜の暗い布団の中で、その言葉をつぶやいた途端、流生の心に、裏切られたという思いがザワザワと音を立てて確信へと広がった。
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