第22話 妖怪たちの職員室
扉の向こうは、流生が想像していたよりも、ずっと広かった。
入って正面には、低い木の仕切りを挟んで、事務員たちの机が並んでいる。机の上には何冊もの分厚い帳簿が積まれ、筆やそろばんが、忙しそうにひとりで動いていた。
その左手には、先生たちの机が何列も並ぶ空間が、奥へ長く続いていた。壁一面には大きな窓があり、窓の外には、迎え庭のかがり火や、坂の上の寮の灯りが、霧の中でぼんやりと光っている。
しかし外の景色よりもはっきり見えるのは、窓に映った先生たちの姿だった。
答案らしい紙を何枚もめくっている、着物姿のベテランっぽいおばあさん先生。眼鏡をずらし、目頭を押さえている猫耳の先生。積み上げた書類の向こうから、長い首だけを伸ばして、別の机の上にある紙をのぞき込んでいる先生もいる。
流生は窓から目を移し、先生たちの机を見た。
先生の手元では、赤い筆が勝手に動き、答案に丸をつけていた。ところが先生が目を離したすきに、筆はこっそり大きな花丸を描き始める。
「そこ、花丸じゃない。三角だ。甘すぎる採点は生徒のためにならんぞ。」
先生に注意された筆は、しぶしぶ花丸の上に三角を書き足した。
別の机では、小さな湯呑みが短い足を伸ばし、机の端に置かれた急須のところまで歩いていく。湯呑みが到着すると、急須がひとりでに傾いて、湯呑みの中へ、熱々のお茶を注ぐ。お茶を注いでもらった湯呑みは、こぼさないように、そろりそろりと先生のところまで戻っていった。
「ありがとう。」
やさしい口調で湯呑みに言った先生は、ナイフのようにとがった紫色の爪を湯呑みに当てないように、そっと手のひらで包んで、フーフーと息をかけながらお茶を口に運んでいる。
職員室で働く妖怪の先生たちは、流生が想像していたよりも、ずっと普通に先生っぽく、忙しそうにしていた。
流生がその様子に気を取られていると、豆ノ介が急に流生の袖を引く。
「見て。あの先生の角。」
職員室の奥に、腕を組んで答案をにらんでいる、大きな鬼の先生がいた。その右の角には、細長い札がひもで結びつけられている。
『試験採点中 声をかけないこと』
しかし流生と豆ノ介が、そう書かれた木札を読んでいる間にも、鬼の先生の机には、質問を持った小鬼の先生たちがキィキィと声を上げながら、次々と集まっていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。皆さん。採点が終わったら、順番にお話を聞きますから。」
採点中の鬼の先生がそう答えると、小鬼の先生たちは、文句を言うようにさらにキィキィと声を上げた。
「あの札、全然守られてないね。」
豆ノ介が笑いながら、小声で言う。
先生たちの机が並ぶ、その一番奥には、ほかより一回り大きな机が二つ、部屋全体を見渡せる向きに並んでいた。流生から見て、左の机には「教頭」、右の机には「校長」と書かれた木札が置かれている。どちらの席にも、今は誰もいなかった。
その二つの机の後ろの壁には、太い筆文字で書かれた額が掛かっている。
『己を知り、己の道を歩め』
校長の机の後ろには、さらに「校長室」と書かれた小さな扉があった。
職員室へ入って右手側には、すりガラスの入った面談室の扉があり、その横には病院の待合室にあるような長椅子が置かれていた。
そこまで見回したところで、流生たちを案内してきた泥田坊が、職員室正面に並ぶ事務机の前で立ち止まる。
事務机の列の一番奥には、小柄な老人が座っていた。つるりとした頭は、ひょうたんのように後ろへ長く伸びている。上等そうな着物をきちんと着込み、机の上の帳簿に静かに目を通していた。鼻先には本当に意味があるのか分からないくらい小さい眼鏡がかかっている。
泥田坊が、その老人の横へ音もなく進み出た。
「事務長。南番地駅務より、引き継ぎでございます。」
すると、老人がゆっくりと視線を上げた。
相手が何者なのか確かめるように、三人を上から下までゆっくりと眺める。風下は居心地の悪そうな表情をした。
「では、私は失礼いたします。」
その間に泥田坊は音もなく職員室を出て行く。風下は帽子をかぶり直すと、一歩前へ出た。懐から書類を取り出し、事務長へ差し出す。
「南番地駅務より、白札一名。通行銭に異常あり。人間界から一人で来たそうです。ほら、札出して。」
風下が、様子をうかがっていた流生をひじで軽くつつく。
「あ、はい。」
流生は急いでポケットから、白札を取り出す。
白札が出されると、左奥の先生たちの机が並ぶ方から、椅子を動かすようなギシッという音が響いた。
答案を見ていた着物姿のベテラン先生が、顔を上げた。つられるように、ほかの先生たちも次々と流生を見る。答案用紙の陰から、いくつもの目が流生の方をのぞいている。
ろくろ首の先生は、視線を向けるだけでなく、首までニュルニュルと伸ばし、流生の手元の白札をのぞき込もうとしていた。
「ひっ。」
流生は反射的に、白札を握った手を背中に隠した。ざわざわと小さな声が広がり始めたとき、事務長と呼ばれた老人が、先生たちの方へ目を向けた。
すると何か言ったわけでもないのに、ろくろ首の先生の首が、しゅるしゅると元の長さへ戻る。顔を上げていた先生たちも、何事もなかったように静かに自分の机へ向き直った。
止まっていた赤い筆も、慌てたように採点を再開する。
老人は、先生たちの様子にあきれたように「ふう」と息を吐くと、人差し指を軽く揺らす。
風下が差し出した書類が、ふわりと浮いて、老人の手元へと飛んでいった。一通り目を通した後、視線を流生に移して言う。
「私はこの学園の事務員を束ねております、ぬらりひょんでございます。」
流生に向けられた細い目からは、何を考えているのか、まったく読み取れなかった。ぬらりひょんは書類を机に置くと、静かな声で続けた。
「引き継ぎ、確かに承りました。」
風下はぬらりひょんの言葉を聞くと、ホッとしたように肩の力を抜いた。
「それじゃあ、俺の仕事はここまで。駅に戻ります。」
風下がぬらりひょんに軽く頭を下げてから、流生たちの方を振り返る。
「この先のことは、先生たちにちゃんと聞くんだぞ。勝手に校舎の中を歩き回ると、帰ってこられなくなることがあるからな。」
軽い口調で言っているが、冗談なのか本気なのか、流生には分からない。
「……ありがとうございました。」
流生は、引き止めたい気持ちをこらえながら言った。風下は少し驚いたように目を丸くしたが、帽子のつばを指先で持ち上げ、ニッと笑う。
「そんな顔しなくても大丈夫だ。ここにいる人たちは、ちゃんと話せば分かってくれる。大人なんて信用しすぎない方がいいけど、学園の大人は、まだ話の分かる方だから。」
風下がいたずらっぽく流生に耳打ちしている。その後ろで、ぬらりひょん事務長が苦い顔をしていた。
「……本当に。あなたが学園に通っていたころ、何度も職員室に呼び出されていたのが、昨日のことのようですね。あの塔の一部を、飛行中に壊したときのことは……。」
「あっ! また駅に来ることがあったら、その時はよろしく〜。」
風下が流生と豆ノ介に手を振りながら、まるで突風のように職員室を出ていく。ガチャンと扉が重たい音を立てて閉まった。さっきまでにぎやかだった職員室が、急に静かに感じられた。
妖怪とはいえ、知らない世界でここまで一緒に来てくれた大人がいなくなった。流生の胸の奥に、黒いインクのような不安がじわじわとにじみ出す。もう、気づかないふりをするのは難しかった。
しかし、ぬらりひょんは流生に考える時間を与えず、トントンと丁寧に机の上の書類をそろえながら言った。
「それでは、流生さん。面談室で、詳しいお話を伺いましょう。」
「あ、俺……ですよね。」
「ええ。あなたのお話です。」
ぬらりひょんが視線で右手の面談室を示す。
「本人から直接、事情をお聞きします。豆ノ介さんは、こちらでお待ちください。」
ぬらりひょんは椅子から立ち上がると、ゆっくりと面談室の扉へ向かった。
「ぼ、僕も一緒じゃダメですか?」
豆ノ介がどもりながら、声を振りしぼって聞いた。
「まずは、流生さんお一人のお話を伺います。」
ぬらりひょんはチラリと豆ノ介の方を見て、穏やかな声で答えた。しかし、それ以上頼めないような強い響きがあった。
すると事務机の陰から、赤い前掛けをつけた小柄な老人が現れた。老人なのに、顔や体つきはどこか幼く見える。けれど流生がそれ以上に驚いたのは、前掛けの下に何も着ていないように見えたことだった。
見ちゃいけない。失礼だ。
老人が長椅子の方へ向きを変えると、その後ろ姿が気になってしょうがない。流生は慌てて視線をそらし、まったく関係のない職員室の天井を見つめた。
職員室の天井には深い茶色の板が張られ、いくつもの木目が浮かんでいる。流生が天井を見ていると、その中に、茨城の家の天井で見たものとよく似た形のシミがあることに気づいた。
「?」
流生がそのシミをもっとよく見ようと目を凝らした瞬間、前掛けをつけた老人が、面談室の扉の横にある長椅子をポンポンと叩いた。
「豆ノ介。お前はここで待っておれ。」
顔も口調も老人なのに、声だけは流生よりも幼い子どものようだった。
「はい。」
「廊下へ出るでないぞ。この時間の校舎は、新入生が一人で歩くと迷うことがあるからな。」
「ここにいます。大丈夫です。」
豆ノ介は長椅子に座ると、流生に向かってぎこちなく笑った。
「僕、ここで待ってるから。」
流生は覚悟を決めて、小さくうなずいた。
今日会ったばかりなのに、豆ノ介は当たり前のように待っていてくれる。流生はそれが、少し照れくさくて、心強かった。
ガチャリ。
ぬらりひょんが、少しくすんだ金色の取っ手を回し、色あせたうぐいす色の面談室の扉を開けた。
流生はもう一度、豆ノ介の顔を見てから、そっと扉の中へ足を踏み入れた。
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