第10話 傷だらけの通行銭と消えたエレベーター
ガチャンという初めて聞く重い金属音が、奥の方から響いてくる。流生が見ると、エレベーターを降りた人の流れは、その音の方向へと向かっていた。
「こっちだよ。」
慣れた様子で、豆ノ介も、その音の方向へと進んでいく。流生は一瞬進むか悩んだが、ひとりになるのが怖くて、急いで豆ノ介の後を追う。先に進むとそこには、流生が今まで見たことのない古い門のようなものが立っていた。
入り口はひとつしかなく、入り口の左右は、胸までの高さの木枠でしっかりと塞がれている。
扉はなく、その代わりに入り口の真ん中には、地面から突き出した腰ほどの高さの黒い鉄の箱が置いてある。よく見るとその箱には、まるで風車のような三本の太くてつやつやに磨かれた木のバーが刺さっていた。その立派な木のバーを、通る人たちが押しながら中へ入っていく。
ずいぶん古い回転式のドアだな。
流生が回転式ドアを見たのは、茨城県自然博物館の出口以来だった。しっかりしているし立派だが、木が使われているのを見て、流生は不思議な感じがした。時代劇ほどではないけれど、社会の教科書に載っていた戦後の日本の写真を、流生は思い出した。
「ね、あれって改札? 駅に入る時にもう通ったけど、また入るの?」
「うん。駅に入る時の改札は人間界の改札でしょ。」
豆ノ介がまた人間界という言葉を使ったのを聞いて、思わず流生の足が止まる。
「大丈夫。乗り方は見れば分かるよ。」
豆ノ介が、改札の方を見て、というように目配せをした。
流生が見ると、改札の手前では乗客たちが一人ずつ、カードのようなものを手に持って並んでいる。その先には、台の上に木箱がいくつも置いてあった。木箱にはカードを入れるような、平べったい穴が開いている。順番がまわってきた乗客が、そこに手に持っていたものを差し込んだ。
チャリン。
すると木箱の下の受け取り口から、コインのようなものが吐き出される。それを手に取り、木箱から戻ってきたカードのようなものを受け取った乗客は、先にある改札横に置かれた、別の木箱にそのコインを入れた。
カラン、ガチャン!
すると大きな音を立てて、木のバーのロックが外れる。乗客はその木のバーを、重そうに体で押しながら中へ入っていった。
「なに、あれ。」
初めて見る光景に、流生が思わずつぶやく。豆ノ介に視線を戻すと、すでにカードを入れる木箱のひとつに並んでいる。流生は急いで、後を追った。
「まずは札を入れて、通行銭を取らないとね。」
豆ノ介は上手に豆腐の箱を膝に乗せてバランスを保ちながら、空いた片方の手で胸元から何かを出そうとした。流生はあわてて、その箱を支える。
「ありがとう。」
豆ノ介はそう言うと、慣れた手つきでカードのようなものを取り出し、順番のきた木箱の前に立つ。そしてすばやく木箱の細い差し込み口へと、それを入れた。
チャリン。
すぐに機械の下から、コインが出てきた。豆ノ介はそれを手に取り、流生に見せる。白く銀色に光る丸いコインには、「通行銭」という文字が美しくうき彫りになっていた。花と波のような模様が刻まれていて、真ん中には丸い穴が開いている。流生の目には、よく使っている五十円玉と同じように見えた。豆ノ介は木箱から戻ってきた札を胸元にしまうと、コインを握ったまま、豆腐の箱を両手で抱え直した。流生はそっと手を離す。
「これを入れると改札を通れるんだ。君も札、持ってるでしょ?」
「札……。」
流生はポケットに手を入れた。サッカーボールと一緒に入っていた、あの白いカードが手にあたる。駅員に言われてさっき改札で使ったカード。交通系ICカードみたいなものだと思っていたけれど、これはどう考えても、ただのカードではないらしい。
流生はポケットから、白いカードを取り出した。豆ノ介がそれを見た瞬間、ほんの少しだけ目を見開く。
「それ……。」
「え?」
「ううん。入れてみて。」
言われるまま、流生は白いカードを差し込み口に入れた。
カチ。
機械の中で、何かが引っかかったような音がした。
カチ、カチ。
「あ、あれ……? なんか壊しちゃったかな。」
流生は息をのんだ。隣で豆ノ介も、じっと機械を見つめている。周りの人たちは次々と木箱から通行銭を受け取っていくのに、流生の前の機械だけが、妙に長く黙っていた。
やっぱり、何か間違えたのかもしれない。
そう思った瞬間。
カラン。
機械の底から、通行銭が一枚、転がり出てきた。流生はあわてて受け取った。戻ってきた白いカードは、急いでポケットにしまった。
豆ノ介の通行銭と同じくらいの大きさ。けれど、色が違う。表面は火であぶられたように黒く焦げ、刻まれているはずの模様も、ほとんど見えなかった。
何か硬いものに引っかけたのか、表面には大きな傷が走っている。その傷のところだけ、黒い色が削れたように銀色になっていた。手のひらを傾けると、そこがキラリと光った。
「わ、黒っ。コイン切れ直前だったのかな。」
豆ノ介のようなキラキラ光る通行銭を期待していた流生は、少し残念そうに口をとがらせた。しかし、流生の手のひらを見た瞬間、豆ノ介の顔から笑みが消えた。
「君、その通行銭……。」
「なに?」
「ねえ、お母さん。あの子のコイン、すごい汚いよ。」
隣の列から、ひそひそと話す声が聞こえた。学生帽をかぶった子が、一緒にいた着物の女性の袖を引っ張っている。母親へ顔を寄せ、流生の手元を見ながら続けた。
「ほら、すごい傷もついてる。」
思わず流生も、自分の通行銭を見直した。
やっぱり、俺のだけ古いやつなのかな。
女性がこちらを見た。その目が通行銭の上で止まる。すぐにたもとで口元を覆い、子どもの腕をつかんで、自分の方へ引き寄せた。
「こっちへ来なさい。」
子どもを流生から離すように背中へ回し、女性は一歩下がった。
「何だ?」
「どうした。」
近くにいた人たちが振り向いた。一人が流生の手元をのぞき込み、ぴたりと足を止める。その肩越しに見ていた人も、顔をこわばらせた。
流生のそばに並んでいた子が、連れの子の袖を引いた。二人が脇へずれ、さっきまで詰まっていた列に、不自然な隙間ができる。
何だよ。俺、何かした?
流生が周りを見回すと、豆ノ介が箱を抱えたまま、通行銭を遮るように前へ入った。
「それ、早く隠して。」
「え?」
「手、閉じて。」
声は小さかったが、強い言い方だった。流生はあわてて通行銭を握り込んだ。
銀色の傷が見えなくなっても、こちらをうかがう視線は消えなかった。着物の女性は、子どもの肩をつかんだまま、まだ流生を見ている。
「早く行った方がいい。」
豆ノ介が声を低くして言った。
「え?」
「ここで止まってると目立つから。」
流生は訳が分からず、通行銭を握ったまま、豆ノ介にたずねた。
「どういうこと?」
この通行銭が何なのか。どうして、みんなそんな顔をするのか。今すぐ聞きたかった。
豆ノ介は答えかけて、周りへ目を走らせた。
「……とにかく。今は、行こう。」
そう言うと、スタスタと改札の方へ向かっていく。背後で誰かが声をひそめた。その言葉は聞き取れなかったが、また別の人がこちらを振り向いた。
流生は通行銭を握った手を体へ引き寄せ、不安になって、来た方向を振り返った。
すると先ほど乗ってきたエレベーターが、なかった。
さっきまで確かにエレベーターの扉があったはずの場所が、今はただの壁になっている。壁の模様も、周りの壁とまったく同じだ。継ぎ目すら見えない。まるで最初からそこには何もなかったみたいに、壁はのっぺりと続いていた。
「え? 嘘だろ。」
「あ、ちょっと!」
流生は走って壁に近づき、手のひらで触れてみた。先ほどまでエレベーターの扉だったはずの場所は冷たくて、硬い。ただの壁だった。
「エレベーター、なくなってる……」
急に走り出した流生の後を、豆ノ介が改札から追っかけて来る。
「ちょっと、君。大丈夫?」
「ね、どうして? さっきまで、ここにエレベーターあったよね?」
「0番線行きのエレベーターって、そういうもんなんだよ。来る時間も、止まる場所も、毎回違うから。次いつ来るかは、誰にもわからない。」
「誰にも、って……。」
「0番線の駅員さんでも知らないって、聞いてるよ。呼んで来るものじゃなくて、来る時に来るものだからって。」
流生は壁から手を離した。
「そんな……。」
戻れない。
その事実がじわじわと、流生の体の中に広がっていく。スマホも動かない。エレベーターも消えた。しかも、流生が周りを見渡しても、そのことに驚いている様子の人はいない。
改札に向かう人の流れだけが、一方向に続いていた。
帰らなきゃ。……でも、どうやって?
膝の力が抜けて、流生はさっきまでエレベーターだった場所にしゃがみ込んだ。
「……戻りたいなら、今のうちだと思うけど。」
横に立っていた豆ノ介が、迷子の子どもを諭すように困ったような顔で言った。
「戻れるの!?」
「でもたぶん、一人じゃ戻れないよ。僕は見つけたことがないけど、0番線の駅員さんを探して、頼んでみることはできる……と思う。時間がかかるし、うまくいくかどうかもわからないけれど。」
そして小声で言った。
「それに、ここで止まってると目立つから。」
流生はしゃがみ込んだまま、黙っていた。目の前の床は、深いチョコレート色をしていた。お化け電球たちの光を浴びて、今にも溶けそうなくらい、足元でぬらりと光っている。その怪しく光る床を見ていると、そのまま吸い込まれてしまいそうな気持ちになった。
帰りたい。本当に帰りたい。おじさんとおばさんに謝って、結人と笑って、いつもの茨城の家に戻りたい。
心の底から、流生はそう思った。目に涙が浮かぶ。それがこぼれないように、必死に目をつぶった。
……でも、このカードの先にしか、父さんと母さんの手がかりはない。
帰りたいと思う反面、両親に会いたいという気持ちが流生の心の中に、川の水がどっと流れ込むように一気に広がる。
ポケットの中の白いカード。段ボールの荷札に書いてあった「摩周湖一ノ一」という住所。駅員が口にした「南番地」という言葉。それに——豆ノ介の先ほどの言葉が、流生の頭の中にずっと引っかかっていた。
「誰も説明してくれなかったんだね」
俺にとっての「誰も」は
「誰」のこと?
0番線のことも、お化け電球のことも、このカードのことも。
最初から全部知っていて、普通ならここへ来る前に教えてくれるはずの「誰か」。その誰かが、俺には何も教えてくれなかった。
……誰かって「親」か。
流生は苦しくなって、眉間にシワを寄せた。目はもうつぶっているから、これ以上閉じるものがない。それなのに苦しい。自分の思考も、心さえも全て閉じてしまいたかった。
そのとき、ズボンのポケットの中で、あの白いカードがひんやりと冷たくなったような気がした。病気の時におでこに貼ってもらったアイスノンのような、心地良い冷たさ。
流生はそっと目を開けて、溶けかけたチョコレートのようにツヤツヤの床を見つめ直した。天井からお化け電球が心配そうに流生を照らしているのが、反射した光で床に映し出されている。
……でも、ここのことを当然教えてくれるのが親なのだったら、父さんと母さんはここのことを知っているはずだ。このカードを送ってきたのだって、ここに来いということだったのかもしれない。
そこまで考えて流生は、ゆっくりと息を吐いて、起き上がった。
「……行く。」
「え?」
「このまま行く。」
豆ノ介が驚いて、目を見開いた。流生は、先ほどまでエレベーターだった壁を見つめたまま続けた。
「帰り方がわからなくなったのもあるけど、それだけじゃないんだ。俺、ここに来なきゃいけなかった気がするんだ。ずっと前から。」
豆ノ介はただ、小さくうなずいて、優しく言った。
「じゃあ、一緒に行こう。」
「……あ、ありがとう。」
落ち着いて答えた豆ノ介を見て、流生は我にかえる。
急に語り出した変なヤツ……って、思われてないかな。
恥ずかしくなって豆ノ介をチラリと見たが、特にさっきまでと変わった様子はなかった。二人で並んで、先ほど走った道を改札に向かって、また戻っていく。
いい奴なんだな。
流生は歩きながら豆ノ介の横顔を見て、そう思った。しかし、先ほどの改札の前での豆ノ介のあせった様子が頭をよぎる。あの時、豆ノ介は異常に周りを気にしていた。
やっぱり、このコインのせいなんだ。
流生は握りしめていた手を少しゆるめて、真っ黒のコインをそっと見つめた。先ほどと変わらず、銀色の一筋の線がキラキラ光っている。
流生はコインを隠すように、また手を閉じて、豆ノ介と先ほど見た改札へと戻った。人の流れにのって、豆ノ介が先に通行銭を投入口に入れる。
カラン、ガチャン。
通行銭が落ちる音と共に、バーのロックが外れる音がする。豆ノ介は前に抱えている豆腐の箱が当たらないよう、器用にバーを背中で押しながら通り抜けた。流生も今度は黙ったまま、そっと手の中の通行銭を投入口に落とした。
カラン……
お願い、開いて。
開くことがいいことなのか、悪いことなのか分からないまま、それでも前に進みたいと流生は祈った。
ガチャン!
ロックが外れる音と共に、流生の目の前にある木のバーが、スッと音も立てずに動き出す。他の人たちのように力を加えなくても、バーはするすると勝手に開いた。
何かが、おかしい。この場所自体も、そして、ここに歓迎されているような自分自身の存在も。
そう思いながら流生は恐る恐るバーに手を添えて、一歩を踏み出した。改札の向こう側には、先に入っていた豆ノ介が待っているのが見える。
不安もあるが、大丈夫だ。
流生はそう思った。確信に近いようなその気持ちが、胸に広がっていく。
「あのさ、ひとつ言っておくことがあって。」
流生が追いつくやいなや、豆ノ介が言いにくそうに口を開いた。
「なに?」
「改札を通ったら、もう勝手には人間界に戻れないんだ。」
流生の動きが止まる。
「……え?」
流生は目を大きく見開き、豆ノ介の顔に自分の顔を近づけた。豆ノ介は、困ったように眉を下げて続ける。
「0番線の内側に入ったら、人間界に戻るには、学園長の許可が必要なんだ。もしも……君が純粋な人間の場合は特に、難しくなるかもしれない。僕もよく知らないけど。」
「うそ。」
「ほんと。」
「そ、それ……先に知りたかったかも。」
流生は言葉を失った。
「そうだよね。ごめん。」
豆ノ介は素直に頭を下げた。
「さっき、エレベーターがあった場所で言おうとしたんだけど……君が『行く』って言ったから。」
流生は返す言葉がなかった。怒る気にも、なれなかった。というか、そもそも豆ノ介に怒るなんて、お門違いだ。結局は自分で決めたのだ。そこに行くと。行かなければならないと。
ふと、流生の視界に、壁の案内板に書かれた文字が映る。つるりと光る白地に、黒い筆文字で「0番線」とあった。
そして、その下のアルファベットREIBANSENの右下に、小さな矢印とともに、こう書かれている。
「→ 南番地・妖怪学園方面」
妖怪。
その文字を見た瞬間、流生の背中がぞくりとした。
やっぱり……そういうことだったのか。
流生は唇を固く噛み締めた。
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