第13話「さよならの朝」
第13話は、澪の単独回です。
前回、お祓いをしてもらった後の朝。
怖い話から、温かい話へ。
白いワンピースの女性はなんだったのか…
彼女の想いを知った時、
きっと涙が溢れると思います。
人との繋がり、仕事への想い、
そして感謝。
大切なものが詰まった、
感動の物語です。
ハンカチを用意して、
読んでいただけたら嬉しいです。
それでは、第13話をお楽しみください。
土曜日の朝。カーテンの隙間から、柔らかい光が差し込んでいた。
私は、ゆっくりと目を覚ました。 隣で、ひよりがまだ眠っている。 昨夜は、二人で一緒に寝た。
怖い体験の後だったから、一人では眠れなかった。
でも、ひよりが一緒にいてくれたおかげで、なんとか眠ることができた。私は、そっとベッドから出た。
リビングに行くと、昨夜の名残がまだ残っていた。
食べかけの照り焼き。倒れたままのビールのグラス。
でも、あの冷たい空気は、もうなかった。 お札のおかげだろうか。 それとも、もう何もいないのだろうか。
キッチンに立って、コーヒーを淹れた。 朝の静けさの中で、豆を挽く音が心地よく響く。
ひよりが起きてきたのは、三十分後だった。
「おはよう……」
「おはよう。よく眠れた?」
「うん……澪さんがいてくれたから」
ひよりは、少し眠そうな顔で、テーブルに座った。
「コーヒー、淹れるわね」
「ありがとう」
私は、簡単な朝食を作った。 トーストと、スクランブルエッグ。サラダ。 二人で、静かに食べた。
「昨日は……怖かったね」
「ええ」
「でも、お祓いしてもらって、よかった」
「そうね」
ひよりは、トーストを食べながら、窓の外を見た。
「澪さん、今日は大丈夫?」
「ええ、もう大丈夫よ」
「本当に?」
「本当」
私は、微笑んだ。 確かに、もう怖くない。 昨夜の冷たい空気は、完全に消えていた。
ひよりは、少し安心したような顔をした。
「じゃあ……私、そろそろ帰るね」
「疲れた?」
「うん、ちょっと。昨日、色々あったから」
「そうね。ゆっくり休んで」
「澪さんも、何かあったら連絡してね」
「ありがとう」
ひよりは、荷物をまとめて、玄関に向かった。
「じゃあ、また来週!」
「ええ、また」
ひよりを見送って、ドアを閉めた。
一人になった。 でも、もう怖くない。 私は、リビングに戻って、窓を開けた。
秋の風が、部屋に入ってくる。心地いい。ソファに座って、コーヒーを飲んだ。
その時だった。
突然、室温が下がったような気がした。
いや、確実に下がっている。
吐く息が、薄っすらと白くなった。
コーヒーカップを持つ手が、震え始めた。
まさか……。
私は、恐る恐る顔を上げた。
リビングの向こう、窓際の光の中に—— 影が揺らめいている。
最初は、カーテンが風で揺れているだけかと思った。
でも、違う。 影は、人の形をしていた。
そして、徐々に、輪郭がはっきりしてきた。
白いワンピース。 肩まで伸びた黒髪。 か細い体つき。
私の心臓は、今にも破裂しそうなほど激しく鼓動していた。
「あ……あ……」
声にならない。息ができない。コーヒーカップが、ガタガタと音を立てている。
彼女は、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、私は息を呑んだ。 二十代前半くらいの、美しい女性だった。
でも、その美しさには、深い悲しみが刻まれていた。
大きな瞳は、涙で潤んでいる。
口元には、諦めにも似た微笑みを浮かべていた。
「ひっ!」
私は、思わず悲鳴を上げて、ソファから立ち上がった。
コーヒーカップが、手から滑り落ちて、床に割れた。
陶器の破片が、パラパラと散らばる。
茶色い液体が、カーペットに染み込んでいく。
でも、そんなことはどうでもよかった。
「な、何……!?誰なの!?」
足が震える。 膝に力が入らない。
でも、彼女は静かに立っているだけだった。
ただ、じっと私を見詰めている。
そして、口をゆっくりと動かした。
声は聞こえない。でも、不思議なことに、言葉が心の奥に響いた。
『怖がらせてしまって、ごめんなさい』
私の呼吸は、まだ浅く速い。
心臓の音が、頭の中でドクドクと響いている。
『そんなつもりは、なかったの』
彼女の目から、一筋の涙が流れた。
それを見た瞬間、私の中の恐怖が、少しだけ和らいだ。
この人は……泣いている。
「あ、あなたは……誰?」
私は、震え声で尋ねた。
彼女は、悲しそうに微笑んだ。
『坂井美咲。もう、誰も覚えていない名前』
「坂井……美咲さん」
『三十二年前……私は、あのビルの地下にある資料室で働いていたの』
美咲さんは、窓の外を見詰めながら語り始めた。
『当時、私は新人だった。まだ入社して半年くらい。毎日、ファイルの整理や書類のコピーばかりで……正直、つまらない仕事だと思っていた』
私は、息を殺して聞いていた。
『でも、だんだん慣れてきて、先輩たちにも可愛がってもらえるようになって……仕事が楽しくなりかけていた頃だったの』
美咲さんの声には、懐かしさと悲しみが混じっていた。
『特に、田中先輩という人がいてね。とても優しい人で、いつも私の仕事を手伝ってくれた。
彼に認めてもらいたくて、一生懸命頑張っていたの』
私は、美咲さんの横顔を見詰めていた。
生前の彼女は、きっととても真面目で、一生懸命な人だったのだろう。
『その日も、田中先輩に頼まれた資料を探していた。古い書類が山積みになった、薄暗い部屋で』
美咲さんの表情が、急に曇った。
『その時、突然……』
彼女は、言葉を詰まらせた。
『背の高い資料棚が、音もなく倒れてきたの。重い金属製の棚。たくさんのファイルが入っていて……』
私の胸が、キュッと締め付けられた。
『気がついた時、私はもう……』
美咲さんは、顔を覆った。
『でも、不思議だった。死んだはずなのに、意識がある。田中先輩が泣いているのが見えた。救急車の音も聞こえた。でも、誰も私に気づいてくれない』
私は、涙が溢れそうになった。
どんなに辛かっただろう。 どんなに孤独だっただろう。
『最初は分からなかった。なぜ、あの場所から離れられないのか。なぜ、誰にも声が届かないのか』
美咲さんは、私の方を振り返った。
『でも、時間が経つにつれて、理解した。私は、成仏できずにいるのだと』
「どうして……成仏できなかったの?」
私は、恐る恐る尋ねた。
『執着していたのかもしれない。まだやり残したことがあると思っていた。田中先輩に、最後まで仕事をやり遂げたかった。みんなに認められる社会人になりたかった』
美咲さんは、苦しそうに微笑んだ。
『でも、年月が経って、田中先輩も転職していなくなった。私のことを覚えている人も、もういない。会社の人たちは、私の事故のことさえ知らない』
私は、胸が痛くなった。
『それでも、あの地下室から動けなかった。三十年以上、ずっと……』
「でも、どうして今……ここに?」
『あなたに会ったから』
美咲さんの目が、優しく輝いた。
『あなたが地下室に来た時、初めて感じたの。私のことを怖がりながらも、どこか心配してくれている温かさを』
私は、はっとした。
あの時、確かに怖かった。
でも、何か悲しいものも感じていた。
『それから、あなたがお寺に行ってくれて……お祓いをしてもらって……』
美咲さんは、感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
『初めて、あの場所から動けた。そして、お礼を言いたくて……』
私は、ゆっくりと彼女に近づいた。
もう、怖くなかった。 この人は、私を傷つけるつもりなんてない。 ただ、長い間一人で苦しんでいただけなんだ。
「美咲さん……」
私は、優しく声をかけた。
「あなたは、きっと素晴らしい人だったのね。真面目で、一生懸命で……」
美咲さんの目に、新しい涙が浮かんだ。
『そんな風に言ってもらえるなんて……』
「田中先輩も、きっと喜んでいらっしゃると思う。美咲さんが最後まで頑張ろうとしていたこと、知っていらっしゃるわ」
『本当に……?』
「ええ。だって、美咲さんはこんなに長い間、責任感を持ち続けていたじゃない。それだけでも、十分立派よ」
美咲さんは、初めて本当の笑顔を見せた。
生前の彼女は、きっとこんな風に笑う人だったのだろう。
明るくて、人懐っこくて、みんなに愛される人だったに違いない。
『ありがとう……本当に、ありがとう』
その時、美咲さんの身体が、薄っすらと光り始めた。
足元から、まるで霧のように透けていく。
『あ……これは……』
「美咲さん?」
『成仏できる……ようやく、成仏できるのね』 美咲さんの顔は、安堵と喜びに満ちていた。
『あなたのおかげ。本当に、ありがとう』
私は、急いで彼女の前に歩み寄った。
「待って、美咲さん!」
『何?』
「もし……もし生まれ変わったら……」
私は、涙声になっていた。
「また、一緒に働きましょう。今度は、最後まで一緒に」 美咲さんの顔が、輝くような笑顔になった。
『ええ……ぜひ。今度は、もっとたくさんお話しして、もっとたくさん笑い合いましょう』
彼女の姿が、どんどん薄くなっていく。
でも、その笑顔は、最後まではっきりと見えた。
『さようなら……そして……』
美咲さんは、両手を胸の前で合わせた。
まるで、深々とお辞儀をするように。
『本当に、本当に、ありがとうございました』
その瞬間、彼女の身体が光の粒子となって、宙に舞い上がった。
キラキラと輝く光の粒は、開いた窓から外へと舞い出していく。
青い空に吸い込まれるように、消えていった。
部屋には、再び静寂が戻った。
でも、今度は重い静寂ではなかった。
温かく、優しい静寂だった。
私は、窓辺に立って、空を見上げた。
雲一つない、美しい青空。
「美咲さん……」
私は、小さく呟いた。 「安らかに……」 風が、頬を優しく撫でていった。
まるで、彼女が最後の挨拶をしてくれているように。
私は、しばらく窓辺に立っていた。
そして、散らばったコーヒーカップの破片を片付け始めた。
いつもの、静かな土曜日。
でも、今日は特別な日になった。
坂井美咲さん。
もう誰も覚えていない名前だけれど、私は一生忘れない。
彼女のひたむきさを。
彼女の優しさを。
そして、最後の美しい笑顔を。
私は、月曜日からの仕事に対する気持ちが、大きく変わった気がした。
毎日、当たり前のように会社に行って、同僚と話して、仕事をして……
それは、決して当たり前のことじゃない。
働けること。仲間がいること。毎日を積み重ねられること。
それは、とても貴重で、幸せなことなんだ。
美咲さんが、身をもって教えてくれた。
私は、彼女の分まで、丁寧に生きていこう。
そして、いつか新しい命として生まれ変わった美咲さんと、また出会えることを願って。
今度は、最後まで一緒に、笑顔で働けるように。
そんなことを考えながら、私は穏やかな週末を過ごした。
窓の外では、秋の風が優しく吹いている。
どこかで、美咲さんも微笑んでいるような気がした。
第13話、いかがでしたでしょうか。
泣いてしまいましたか?
坂井美咲さんの物語、胸に響きましたでしょうか。
怖い話だと思っていたら、実は温かい話だった。
そんな展開を目指して書きました。
澪の優しさが、美咲さんを救った。
そして、美咲さんの想いが、澪の仕事への向き合い方を変えた。
お互いに、救い合っていたんだと思います。
次回、第14話は日曜日、ひより単独回。
公園のベンチで出会った初老の男性。
実は彼は...。
第14話もお楽しみに。
最後まで読んでくださって、
ありがとうございました。




