12-6 喪失と焦燥
side マクシミリアン
『マクシム、紹介するわ。といってもすでに知っているでしょう? お母様のはとこ甥のラルカンジュ侯よ』
『久しくお目にかかります、公子様。お会いするのはお小さかった頃以来ですから、覚えてはいらっしゃらないでしょう』
『そんなことないわ、オーギュスト。うちの弟はとても記憶力がいいのよ』
一番上の姉がその人を連れて来た時、姉は自分にとって最も要求を満たし得る最適解を選んだのだと思った。それは姉がその人を大公家の分家筋であると、つまり父大公との血縁であると説明せず、あえて母方の血縁として紹介したことも然り。その人を家長の許諾もなく“婚約者”として連れてきたこと然り。
それはまだ純粋で、姉に不信感を抱くほどには捻くれてもいなかったマクシミリアンにとっても、マクシミリアンを名目とした姉自身のための選択なのだろうと理解できることだった。
そんなラルカンジュ侯を、幼い頃はそれなりに頼りにしていたと思う。
姉が嫁いでようやく息苦しさから解放された離宮に、またしても窮屈を強いる面倒が舞い込んできたとは思わないでもなかったが、彼が授ける知識と情報には狭い離宮で知り得ないものも多かったし、親代わりとしては実の父親より優秀であったとも思っている。
ただいつでもどこでもニコニコと仮面をかぶって本心を窺わせない様子は、随分と勉強させてもらう一方、一体何を考えているのかと訝しくも思っていたものである。他の弟妹のように実の兄であるかのように接せなかったことは、それが原因であろう。あるいはラルカンジュ侯本人がそれを意識して、線を引いていたのではという気もしている。
姉はそんな彼のことを、それほど理解していたのだろう。少なくとも二人は利害という意味でよく一致していた。彼は姉を公女として良く重んじ、姉が願う通り、後ろ盾を無くしたマクシミリアンの後見人となり次期大公への道を作ることに尽力した。一方で姉もそれにより自分の地位を固めると同時に、若くして家督を継ぎ家門の立て直しと躍進の機会を求めていた義兄の野心に十分に応えた。
二人は侯爵家に長男が生まれても変わらずマクシミリアンを支持する姿勢を貫いてくれていたし、それには感謝をするべきだったのだろう。実際、ラルカンジュ侯のおかげで後妃からの嫌がらせは派手さをひそめ、過ごしやすくはなった。
だが段々とそれを重荷に感じるようになったのは、はなから、自分が本当はそんなものに何の関心も持っていなかったせいなのだろう。
それに気が付いたのは、何もかも捨ててもいいと思えるほどの“運命の人”に出会ってからだ。
その運命が、姉の半生を蔑ろにするものであることは分かっていた。一方で、この義兄の反応については、正直想像がつかなかった。姉と違って、彼には他にも選択肢があったはずだからだ。
そう……例えば姉や、姉の血を引く自分の息子を大公にすることだって、決して出来ない話ではなかったろう。彼には別段、マクシミリアンにこだわる理由がなかった。
実際に義兄はマクシミリアンがヴァレンティンに身を寄せてからも、姉に頼まれた時以外、自ら接触を図ったり言い諭そうとしたりという様子を見せることはなかった。その程度なのだと思っていた。
だがそれはどうやら思い違いだったらしい。
もっと“姉の夫”ではなく“自分の義兄”として向き合っていれば、その凶事は防げたのだろうか。
いや、それよりも、自分がリディアーヌから目を放してしまったことの方が問題だったのだろう。
少なからず信用を置いていたはずの人だった。それがまさか、どうしてマクシミリアンの最も大切な人を危険な場所へと突き飛ばす姿を見せられることになったのか。
「貴様ッッ……オーギュスト!」
声を荒げるだなんて真似、一度もしたことが無い。憤るほどの感情の爆発に遭遇したことがない。それだけ日常を淡泊に見ていたのだろうという自覚があるし、そもそも怒りは隙になる。そんなものを抱くより、冷静に笑顔で本音を隠し脅す方が効果的だと知っていたし、その方が余計な感情に一喜一憂せずに済むことを知っていたからだ。
そう思っていたはずなのに、気が付いた時にはもう義兄の胸ぐらをつかんで壁に叩きつけていた。
もしもクラウスが必死に引きずり止め、間に立ったアルトゥールが「とにかく落ち着け!」と叫んでいなければ、勢いに任せて一発や二発、いや、その顔という顔、体という体が、この目に焼き付いた血まみれのリディアーヌと同じだけ染め上がるほど、拳を振り上げていただろう。
目は血走り、鼓動がいつもよりはるかに早く脈打っている。怒りに頭が回らなくて、血だまりに倒れる元凶のギュスターブすらも切り刻んでやりたい衝動になる。
だが、フゥ、フゥ、と肩で息をしている怒りの真っただ中に、おもむろにドンと胸にたたきつけられた薬の瓶が、マクシミリアンを我に返らせた。
「何を取り乱しているんです。私の知るマクシミリアン公子は、そんな短慮で無駄に時間を取られるような方ではありませんよ」
「……」
淡々として耳触りのいい聖職者の声と、決してリディアーヌと似ているわけではないが既視感を感じさせる面差しが、マクシミリアンの感情を無理やり宥めてくる。
リディアーヌの縁戚であり、また自分達の学生時代を知る古馴染みでもあるアルセール先生だ。
「……私だって、冷静じゃいられないことくらい……」
「けれど同じほどに焦るべき方々が、冷静でいらっしゃいますよ」
そう言われてようやく、苦々しい顔をしつつ義兄の前に立ちふさがるアルトゥールの落ち着いた様子と、さらに奥へ促す臣下達を制しながら杖を突いて佇むユリウス一世リュシアン王を見た。
アルセール先生を呼び寄せたのはかの王だろうか。だが確かに、アルトゥールはともかく、リディアーヌに対して親愛だとか旧懐だとかとはまた違う、服従に近しい感情を抱いているリュシアン王の落ち着きぶりは異様にも感じる。
さらにぱっと見回せば、ヴァレンティンの連中も顔色こそ濁しているものの急いている様子はない。たった今そこで凶悪な事件を起こした人物に公女が連れ去られたというのに、信じられない光景だ。
「生憎と何が起きたのかは私は見なかった。だがエリオット卿に聞くに、公女を連れ去ったのは“キリアン”であると。相違ないか? 公子」
「……キリアン……あぁ、そういえば。そう呼ばれていたような……」
その名前には聞き覚えがある。この禁事棟に入る前から、リディアーヌが妙に気にしていた男だ。マクシミリアンも何度かリディアーヌからその名を聞いたが、ただその男を実際に見たことは一度もない。リディアーヌいわく、クロイツェンで諜報活動をしているのだと聞いていた。たしか、元はベルテセーヌの出身だとか。
だがそれが何故突然現れて、ギュスターブの首を掻き切り、リディアーヌを連れ去るのか。しかもギュスターブはキリアンと既知であるかのように話していた。結果的にはギュスターブを害しているものの、結局“どっち”なのかもわからない。
マクシミリアンはそう思い焦燥に駆られたのだが、しかしキリアンと聞くや否や、リュシアン王は浮かせた片手をトンとマクシミリアンの肩において、「キリアンであれば大丈夫だ」などと宥める。
「大丈夫ってっ……リディはッ」
「彼を信じる必要はない。そのかわり、ディーとキリィ……あの二人の幼い頃からを知っている私が断言しよう。彼は決して、ディーを傷つけない。傷つけられない」
「っ……」
信じれない。信じがたい。だがそんなマクシミリアンに、「俺もそう思うぞ」などとアルトゥールが言うものだから、はっと振り返った。
「詳しくは聞いていないが、ヴィオレットが、あの男はリディアーヌを助けこそすれ害することは絶対にないと言っていた。奴にとってのリディは、最後に残された存在意義がどうだとかこうだとか……」
ただパトリック卿はこれに対して、「私は全面的には信じがたいです」と言う。
「確かに一度は姫様に服していたようですが、元より、“恨みを晴らすまで”という関係であったせいか、それ以降はろくに連絡も取れない状況だったと聞いています」
「恨み……去年の夏か」
すぐに思い当たったらしいリュシアン王は少し考えふける様子を見せたが、それでも首を横に振ると、「だとしても、キリアンにディーは傷つけられない」と繰り返す。
その根拠はよく分からないが、意見が飛び交っている内にも少し落ち着いた。これだけ皆が言うのであれば、ひとまずこの今すぐにも飛び出したい衝動は諫められそうだ。
だがそれと義兄の件は別だ。そうジロリとアルトゥールの奥を睨みつけたマクシミリアンに、一つたじろいだアルトゥールがすぐにその視界を遮った。
「ひとまずこの件は預けてくれないか? お前も、はっきり見たわけではないだろう?」
アルトゥールはそう言うが、はっきり見たといっても過言ではないくらいには見た。何より、思わずリディアーヌを突き飛ばしたといった様子の義兄のはっとした顔が、この瞼にこびりついている。あの“しまった”とでもいうような顔を、どうして忘れられようか。アルトゥールこそ、はっきりと見ていないからそんなことが言えるのだ。
だがそうこうしている内にもギュスターブに駆け寄り応急処置を始めていたエティエンヌ猊下が「アルセール!」と声を張り上げて先生を呼び付け、場の物々しさが増してゆく。
確かに、こんな場所で口論している場合ではない。
「申し上げます! 地階に向かった騎士に何か変事があったのか、食堂より再び毒煙が舞い立っております!」
さらに飛び込んできた騎士がそう告げるとともに、わぁわぁと騒がしくなった食堂から一気に選議卿やら皇帝候補やらその側近やらがなだれ込んでくる。だがこの場も、ギュスターブが倒れたことで転がった香炉から立ち上る煙が蔓延していて、到底いい環境とは言えない。
実際にジリジリと手にしびれを感じたマクシミリアンは、先程先生に渡された薬を思い出し、くっと一思いに飲み干した。
すでに量の不足が懸念されている着付け薬の類だ。この調子ではすぐにも薬が尽きかねない。
それにこのギュスターブの状況を大々的に広めたくない。勿論、リディアーヌの事もだ。
あぁ、確かにぶち切れで我を失っている場合などではなかったな。
「クラウス、先生達を囲むようこの部屋に衝立を! 我々はすでに換気がなされている北棟の方に拠点を移そう。ユリウス陛下、いかがか?」
「あぁ、同意見だ。ダリエル、確認と手配を」
「はっ」
それからもう一人の許しがたい大罪人……テッサーリ修道士は、エリオット卿が捉えてくれているままだ。ひとまず託したままとして、それから……。
「ラルカンジュ侯……貴方は、せいぜい大人しくしておいてください。トゥーリ、君が庇ったんだから、君が監視してよね。これ以上、私が暴れたくならなくて済むように」
「あぁ……分かっている」
いっそこちらも拘束させてしまいたい。だが仮にも選議卿を拘束するには証拠も理由も足りない。これが今できる精いっぱいだ。
あぁ、なんて情けないのか。もっと冷静に初手を打っていれば、まだやり様もあったかもしれないのに。リディアーヌが聞いたら呆れかえりそうだ。
「公子様、どうやらここはお任せして良さそうですので、私は中央棟に、急ぎ知らせに出向いても?」
周囲には聞こえないようこそりと問うてきたのはパトリック卿で、チラチラと辺りを見回して、まだ誰もそちらに気が回っていないのを見て取ると、「娘を溺愛する閣下が飛び出さないといいんだけど」と呟きながら頷いた。
パトリック卿なら上手く伝えてくれるとは思うが、ヴァレンティン大公のことだから、ちょっと何がどうなるのか予想が付かない。
「南部系の騎士は再び隊を編成して、地階の確認に! 先に向かった隊に何かあった可能性もある。警戒を大として確認と、原因の根絶を!」
「私が隊を率います」
地階の確認には、先に同僚が向かったことで気になっているのか、今回もセトーナのアブラーン王子の側近が名乗りをあげた。ただそうするとアブラーン王子の身の回りが手薄になる。それを見たコランティーヌ夫人をはじめとするセトーナ派の選議卿らがすぐに「我々がおります」と周りを固めたので、ひとまず許諾した。
そうしているうちにも、この部屋でぶちまけられたギュスターブの香炉よりも濃いリゼットの甘ったるい匂いが充満し始めた。どうやら食堂の灰落としを通じて上って来た煙が随分と深刻なことになっているようだ。
リディアーヌは、今どこにいるのだろうか。まだこの東棟にいるのだろうか……。
「全員、急ぎ北棟に移ろう。ただあちらは手狭だ。こちらの二階、三階に待機するものは速やかに部屋に。ただし選議卿らは北棟に移ってもらいたい」
はぁ……こんなのは柄ではないのに。
早くリディアーヌに戻って来て、『何を呑気にやっているの!』と背中を叩き、この有象無象の指揮を執ってもらいたいものである。




