12-3 脱出(3)
「まぁククにも、別に私がじっとここで待っている、とは言っていないものね」
自分で自分にそんな言い訳をしながら、扉横の取っ手にランプをひっかけ、手探りで扉を開ける。使用人用の扉なら、扉は主人が行き来する外ではなく、この小部屋の内側に向かって開くはずだ。
思った通り、取っ手を引けばすぐに開いた。特に鍵の類もかかっていない。
廊下に顔を出してみると、厳かで重厚なこの禁事棟の見慣れた廊下の景色に、つい安堵の吐息が零れてしまった。ここが禁事棟の東棟であることは分かっていたが、見たこともないような空間にいたせいで少なからず不安があった。だがこの廊下は間違いない、よく見知ったものだ。
一応、改めて人がいないかは確認をしてから廊下に出る。
少々恰好が無残なことにはなっているが、ククも言っていたように、別にリディアーヌは見つかったところでいきなり文句を言われる立場でもない。こんな場所にいるのは不自然であろうが、ひそひそとする必要はないはずである。それでも警戒だけは忘れない。
さて、フィリックの描いた図面が正しければ、この小部屋を出てすぐ傍の扉が、この区画の一番大きな部屋、即ち大公に宛がわれるべき部屋であるはずだ。ランプを手に取り、扉を薄く開いたままに、足音をひそめながら近づいてみれば思った通り、ヘイツブルグ大公の名の木札が入った扉があった。そこでまずは一つ深呼吸をして、ゴンゴンゴンと扉を叩いてみる。
一度。それから少し間を置いて、二度。
誰もいない。
ノブに手をかけた時にはさすがに少し緊張したが、思い切って開けてみれば部屋の中は真っ暗で、手にしたランプを掲げて人影が無いのを確かめ、バタリと重たい扉を閉じた。この東棟の騒動のおかげか、監視する騎士の一人もいない。鍵もかかっていなかったし、不用心なことである。
部屋のすべてを照らすには頼りない手持ちのランプで、まずは部屋の隅々を歩いて回り、書棚を、それから机、引き出しを隅々まで調べてまわる。
はて……ヴァレンティンの私達の机は軒並み書類やら本やらが酷いことになっていたはずだが、どうしてこのヘイツブルグ大公の書斎はこんなにも物がないのだろうか。解せぬ。
ただそのおかげで調査はすぐに済んだ。引き出しの一番上に、随分と重厚な表紙の本が一冊大切そうに収められていた点は気になったが、内容は別段珍しくもない歴史書であった。唯一気になったとしたら、その歴史書の上に伏せて置かれていた小さなピクチャーフレームくらいだろうか。シンプルだが質の良い額と使い込まれたような質感が、唯一この部屋の中で味気あるものとして目を引かれた。
「女の人……大公妃?」
描かれていたのは一人の女性だ。びっしりと首元まで覆う貞淑なドレスに、小柄でぽってりと可愛らしさのある南部女性らしい面差しと、キリリとした顔立ちだが表情は柔らかく、大公妃というよりはどこぞの貴族のプライベートといった雰囲気のある肖像画だった。
まったくヘイツブルグ大公の私物らしからぬものなのだが、不思議とその女性にウィクトル公子の面影があるような気がした。
「たしか若くしてお亡くなりになったはず」
亡き妻に情があるような人とは思っていなかったので驚いたが、別段重要な物ではない。
次は寝室だ。奥の扉にはさすがに鍵がかかっていたが、先んじて、鍵があるのにクラウスがマクシミリアンとリディアーヌの寝室の間を厳重に封鎖したことに疑問を述べたところ、マクシミリアンが、『この建物は全体的に古いから、鍵もあってないようなものだよ』などと言いながら鍵開けを見せてくれてたことがあった。だから開け方は分かる。
先程ククが髪を結いなおしてくれた際に出てきた髪留めのピンが手元にあるので、それでよく分からないながらも鍵穴に突っ込んでそれっぽくガチャガチャしていたら、思った通り、簡単に鍵は開いた。
まったく……今は嬉しいが、ある意味では不安である。
立ち入った寝室はまるで使用した痕跡も窺えないほど整っていて、物もない。一応箪笥や引き出しの類は手あたり次第開けてみたが、碌なものはない。しかしフィリックの図面が正しければ、この隣、近侍用の部屋の寝室には隠し扉があるはずだ。
近侍の部屋との間にも鍵はあるが、大公の部屋側から施錠できるタイプだったので、こちらは労せずして鍵を開けられた。近侍の寝室の方はまだ多少使用の痕跡が窺えるが、特に貴重なものが置かれている様子もない。なのでささっと通過して向かいの洋服ダンスを開ける。
キチンと侍従らしいスーツが並んでいるが、勿論目的はそれではない。上着をかき分け、箪笥の奥をペタペタと触れば……あった。この不自然な突起。これだ。
少々硬かったが、その突起をつかんでスライドさせると箪笥の隣でガタリと壁の装飾が浮いた。隠し扉のパターンは元マクシミリアン、現リディアーヌの部屋になっているあの部屋のクローゼットルームにあった隠し扉の仕掛けと同じだ。
「さすがにここは空っぽではないわね」
広い部屋ではないが、ぱっとランプを掲げて見渡せば、その狭い部屋の棚にいくつか書類が積み重ねられていた。さて、この中に使えるものがあるといいのだが。
「こっちは内政関連。それからこっちは……あぁ、やっぱり。ヘイツブルグ家も外との連絡手段があるのね。しかも手紙……」
適当な場所にランプを置いて、麻紐でくくられていた手紙の類をめくって行く。
リディアーヌが得たものと同じ、外での動き、特にフォンクラークのバルティーニュ公の動きやフォンクラーク本国で起きた蜂起事件の情報もある。それから今外廷にいるはずのコランティーヌ公の動きについてもかなり詳細だ。
ただざっとみたところで、ここに括られていたのは今日やそこらの新しい手紙だけだった。だとすると隣の鍵穴のついたこの小箱が怪しいのだが、さすがにここでがちゃがちゃやっている時間は無いだろう。
ひとまずそれらは端に寄せておいて、他に何かないかと探して回る。
床に大きな箱が置かれていたので蓋を開けてみたら、なぜかごっそりと金貨やら宝石やらが詰まっていてびっくりした。こんな場所でこんなもの、一体何に使うのだろうか。装飾用には見えないから、賄賂用だろうか。別にリディアーヌは“物取り”というわけはないので、一応底の方まで調べて怪しいものが無いかを確認だけして蓋を閉じた。
その隣の箱も同じものだろうと開けてみたが、しかし表面の宝飾類と違い、一瞬ツンと鼻腔に触る匂いがあった。なので急ぎハンカチで口元を押さえながら、がさごそと上の余計なものを取り除いていくと……やっぱり、あった。
素人目には分からないが、以前事件に巻き込まれた後に教わった“リゼット系植物の葉”によく似たものが二袋。よく知らない物も二つ、三つ。ひとまずボロボロに引き裂いてもらっていたドレスの裾の一端をビリリと破り取ると、そこに一枚ずつ挟んで、革袋に積めて腰に下げた。あとで心得のある人に調べてもらおう。
だが中毒を呼ぶ系の薬草があるなら、解毒のための薬草もあるはずだ。元の通りにその箱を戻すと、今度は薬草探しのためにごそごそとそこら中の箱を開けてまわる。そして思った通り、ぎっしりと革袋の詰まった箱の中にそれっぽい物を見つけた。よく分からない液体もあるが危険なものは触らない方がいい。明らかにベルブラウと分かる物や見覚えのある薬は遠慮なく拝借した。バレたところで気にしない。
その辺りを次々に腰紐に括りつけたところで、そろそろ時間だろうかとノブに手をかける。
だがそこで折悪くがやがやと人の声が聞こえた気がして、はっと手を止め、息をひそめた。
「いつになったら連絡が付くのですか? あぁ、まったく。まったく、どうしたことだっ。すぐにでもご連絡をしなければならないというのにっ」
「落ち着いてください、ブリス様。あと少しお待ちいただければ、守衛が交代の時間です」
「これが落ち着いていられますか! あぁ、あぁ、なんてことだ。こんなのはまったく、予定外ですよ。一体どうして閣下はお戻りにならないのだっ!」
すぐ近くでバタンと閉まった扉の音に、ひやりと背中が縮む。声はどんどんと近づいて来て、すぐ近くで聞こえたかのような錯覚を覚えた。
だが聞こえた扉の音は一つだけ。ここからの出口が完全にふさがれているわけではない。まずはそのことにゆっくりと深呼吸をして、自分を落ち着けた。
ブリス……ブリスといったか。だとしたらそれはこの部屋を宛がわれているヘイツブルグ大公の近侍クレマン・ブリス卿だろう。フランカが調べてきてくれた名簿にあった名前だ。
壁を隔てた向こうで何やらガサゴソと机を開け閉めしたり、何かを書き綴っているような音が聞こえてくる。だが彼らがいるのは隠し扉のあったブリス卿の寝室ではなく、その隣の書斎であろう。どうやらこの隠し部屋の壁はそちらにも面しているらしい。それで声が近く聞こえたのだろう。
だが彼らがこの隠し部屋に向かってきてしまっては困る。どうするべきか。このまま彼らが去ることを期待して息をひそめ続けるか、あるいは多少の危険を冒しても今のうちに退路を得るべく、大公の寝室経由でこの部屋から出てしまうべきか。
いや、さすがにそんなリスクは……。
「この辺りの書類はどうしますか?」
「あぁ、私の方で預かる。大したものでもないが、奥の部屋に放り込んで置こう。いや、それよりも閣下だ。あぁ、まったく。まったく、どうしたらいいのか!」
「私より早く、中央棟に入る資格のある協力者と繋ぎを得られないのですか?」
「出来たらこんなところで焦ってはいない!」
「……」
カチャカチャとインク瓶を閉める音と共に、「ほら!」と苛立たしい声がして、話している誰かが「おあずかりします」と受け取る声がする。
どうする。どうしたものか。奥の部屋に放り込む、と言っていた。もしかしたら、ブリス卿はこの部屋に来てしまうかもしれない。どうする。
「ブリス卿! ブリス卿はいるのか?!」
だがそこに、天からの助け……さらに外からの、大きく響く声がした。
「次から次に……役立たずのギャロワめが……」
そう悪態をつきつつ、「ですがお相手をせねばもっと厄介になりますよ」などという誰かがガチャリと扉を開ける音がする。寝室の方ではない。外の、廊下に面する方の扉だ。
「如何なさいましたか。私めはここに」
さらにブリス卿がそちらに出ていく音がした途端、これは日頃ちっとも役に立ってくれない神様が珍しくいい仕事をしたのだと、リディアーヌは咄嗟に持ち出しやすい場所に置いていた鍵のかかった箱と手紙の束を掴み、ランプの灯を消したまま放置し、音を殺して扉を開け、大急ぎでブリス卿の寝室を横ぎり大公の寝室の方へ飛び込んだ。
ドクリドクリと、嫌に心臓が早鐘を打っている。だがまだ油断は出来ない。外ではまだ話し声がしている。音をたてないように寝室の内扉の鍵をガチャリとかけて、ソロソロと壁に耳を寄せる。
「はぁ、まったく。この大変な時に! あぁ、ルーセル卿、貴方はこちらを持って出来るだけ早く閣下にお知らせを! あぁ、あぁ、まったく。どうしてこんなことに……」
再びぶつぶつと同じ嘆きを繰り返しながら、早くもブリス卿が書斎の方に戻ってきてしまった。そんなブリス卿の文句から逃げるように、ルーセル卿と呼ばれたもう一人の男が「それでは私はこれで」と逃げるように去って行く。
ひとまず人は減ったが、まだブリス卿がいる。それに先ほどギャロワ侯が来たと言っていたか。外の現状がよく分からないが、一所に集まっていたはずの選議卿が今は好き勝手にうろうろする状況になっているのだろうか。
先程外の廊下を通った時はまったく人気が無く感じていたが、今となっては外にも誰がいるとも限らない。このままブリス卿のいる書斎の隣を通過して、白々しく廊下に出るのは無理だ。だがそのブリス卿が隠し部屋に入って異変に気が付くのももはや時間の問題である。
だとしたら……。
「……結局、こうなるのかしら」
思わず視線を寄越したのは、他よりは多少大きめに設けられたこの部屋の窓だった。
先程の小部屋よりは通り抜けるのにも容易い大きさだ。内窓なので柵の類は最初からない。それに風通し程度にしか開かない窓であろうが、リディアーヌほどの体格ならなんとか窓を壊さずとも外に出られる程度には開くはず。実際にケーリックはその小さな窓からぎりぎり身を乗り出しながら鳥を呼んでいた。
ただ問題は、ここがまだ東棟の二階……事実上の三階であるということだ。
ブリス卿がまだ隣でガタガタと物音を立てている内に、タイミングを合わせて窓を押し開く。少し大きな音が立ってしまったのでビクリと身がすくんだが、幸い息をひそめてみたところで、ブリス卿が何か気にする動きを見せる様子はなかった。そのかわり、ガチャガチャと寝室への鍵を開ける音がする。
もはや猶予もない。




