12-1 脱出(1)
頭が痛い。体が重たい。香炉の煙を吸わないようにと必死で息を堪えていたせいか、喉と肺も苦しい。打ち付けられた全身も熱を持っているようで、髪もドレスも乱れているどころかべっとりと張り付いた赤い血が気持ち悪い。もう散々だ。
マグキリアン・ペステロープが何を考えているのか分からない。
ギュスターブには味方と認識されていたことは先程の短い一瞬からも察せられた。だがはっきりと目にはしなかったものの、多分キリアンはそのギュスターブの首を掻き切った。それも何の躊躇いもなく。さも慣れていますとばかりに、あっけなく。
かといって担ぎ上げたリディアーヌをマクシミリアン達の元に返してくれるわけでもなく、あのまま煙の壁を利用してとっとと真逆の方向へ歩いて行ったキリアンは、リディアーヌが意識を朦朧とさせている内にもどこかの暗い部屋に連れ込んで、ご丁寧にもソファーに寝かせ、薬まで口に押し込んで、がちゃがちゃと外から厳重に鍵だか何だかをかけて出て行ってしまったのだ。
今はこの、おそらく東棟ではあるだろうがどこかわからない部屋で、訳も分からず転がっている次第である。
まったく……一体何がどうなっているのだろう。何が、彼をこうもおかしくしているのだろう。
「……気持ち悪い」
だがまずは何より、この体調である。
ギュスターブがどんな薬を使うのかはキリアンも最初から知っていたのだろうか。先程口に詰め込まれた薬は強烈な苦みと独特の風味が気持ち悪さを増長させたものの、リゼット系の薬による体の弛緩作用はかなり和らいだ。今全身がずきずきと重たいのは投げ出された時の打ち身のせいだろう。あれからどのくらいの時間がたったのかははっきりとわからないが、随分と動けるようになってきた。
それでも体が重たいことに変わりはないが、なんとか体を起こして、ずるりと滑り落ちるようにしてソファーから降りる。まだ多少足がおぼつかない。いや……これは薬のせいだけではなく、恐怖心のせいなのかもしれない。
もう十分に荒事は見慣れたものだと思っていた。かつてはベルテセーヌの処刑場で、誰かを自らの意思で死に追い詰め、その命が断たれる瞬間すらも冷静に見た。だからこんなことなんともないと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。
確かに、あの時は目の前で見たといっても随分な距離があったし、処刑場という場にあってある程度の覚悟も備わっていた。だが今回はまったく思いがけもせず、すぐ目の前で、その血を浴びるほどの距離で凶行を見たのだ。さすがにショックが大きすぎたようである。
一体、首を切られたギュスターブはどうなったのだろうか……?
「……心に慮っている時間はないわよ、リディアーヌ……しっかりなさい」
自分で自分に言い聞かせながら、ペシンと震える足を叱咤する。
だからとすぐに立ち直れるほど感情というのは甘いものではなかったけれど、何度かそうしているうちにも少し落ち着いてきた。
懸命に足を立たせて何とか立ち上がることに成功さえすれば、安堵の息が零れ落ちる。ようやく踏ん切りがついた。同時にようやく、状況に対しての頭も回り始めた。
とにかく少しでもこの体のだるさをどうにかしないと、動けるものも動けない。
ご丁寧なことに、キリアンはこの部屋に水差しまで用意してくれていったから、コップに水を灌ぐと聖痕から取り出した鍵を沈め、フレデリクのくれた旅の守りのブレスレットに入れているベルブラウの粉末を溶かした。ただのお守り代わりだったのに、以前も今回もこれには助けられる。
あとはこれに月明かりの一つでもあればいいのだがと部屋を見渡す。部屋は薄暗いけれど、目が慣れればこの暗がりの中でも部屋の形やどこに何があるのかが見える。どこかしらから光は入ってきているのだろう。
その光源をきょろきょろと探していたら、おそらく外に面しているのであろう壁際に小さな板扉のようなものがあるのに気が付いた。おそらく窓があるのだろう。隙間から漏れている明かり随分と強い。
板扉は簡単には開いてくれず、こっちか、あっちかとかきむしっている内に指先がじんと痛んだけれど、構ってなんていられない。
模索している内にも、真ん中の留め具に固く針金が巻き付けてあるのに気が付いた。暗いせいでよく見えないが、それでも何とかちくちくと手を突き刺しながら、窓の解放に成功した。
一仕事終えた心地で開け放つと、思った通り月明かりが注ぎ込んだ。窓は十字に格子が入っており、相変わらず空気の入れ替え用に少ししか開かない仕様になっている。外側には柵もかかっていて、これでは窓を開けても外を窺うことすらろくにできまい。だがひとまず聖水を作る月明かりは確保できそうだ。
あるいはこの窓ガラスさえなければ、もう少しくらい外の様子も分かるのではなかろうか。
手っ取り早く部屋の隅にゴロゴロと転がっているいい感じの板材に目を付け、その中から自分の手にも馴染みやすい小さめの、だが硬いものを選んで持ってくると、えいっ! と窓ガラスに向けて打ち付けた。このような緊急事態だから、器物損壊も仕方あるまい。
しかしただでさえ小さな窓なのに、窓の格子が邪魔で中々思うように狙った所に当たらない。当たったとしても中々割れない。ガラスというのは結構頑丈なものだったらしい。
だったら今度はこの椅子を投げつけて……うん。リディアーヌの力では無理だった。物を投げるって、結構力がいるらしい。
「いっそもっと軽くて小回りがきくものの方がいいのかしら……」
ポイと椅子を投げだして、周囲を見渡す。
そもそもこの部屋は一体何なのだろうか。壁際には使われていないような備品が積まれているが、備品用の物置というには小綺麗で、リディアーヌが寝かされたこのソファーも、横になれるくらいに立派なものだ。その前には硬そうなテーブルもあり、絨毯も敷かれている。それにしては無造作に物も積まれているから、元応接室、現物置みたいなものだろうか。そんなに広くない部屋だから、あるいは使用人達のための休憩室的なものだったのかもしれない。
暖炉の一つでもあれば火掻き棒を探したが、生憎とその手のものは見えない。ただ火の入っていないオイルランプの類は見つけた。小ぶりだし、形も握りやすい。上の硝子部分は危険なので取り外したが、下の土台の部分は金属製だからそれなりに硬さもある。
ついでに拝借した備品を埃から守るためのシーツで、ランプ台を持つ自分の手の周りをしっかりと覆う。利き手に怪我でもしたら困る。大きすぎるシーツがずるずると床を引きずって邪魔だったけれど、それはまぁいい。
再び窓辺に寄ったところで、窓を閉ざし、えいっと手を振り上げる。目測を誤って窓の真ん中ではなく端にぶつかったのだが、どうやらこちらを狙うのが正解だったようだ。ひびが入った。
次は最初から端を狙って叩きつけると、バリバリと大きな亀裂を作った。ここまで割れれば後は早い。ひたすら叩いている内に、見事一枚目のガラスがバリバリと崩れ、外側の柵との間に割れたガラスが落ちた。足元にもガラスの破片が落ちてきたので、シーツでぱっぱと振り払い、次の窓ガラスに取り掛かる。左側が済んだら次は右側だ。先に上を崩して、それから下。一度できると後は早かった。
だがそれで調子に乗りすぎたのだろうか。最後の一つを割ろうとしたところ、割れたガラスと窓の内側の格子枠にランプ台の突起が引っかかってしまった。それ引き抜こうとグラグラ引っ張っていたら、今度はすぽりと手の方からランプ台がすっぽぬけてしまった。
咄嗟にランプ台を掴みなおそうと手を伸ばしたのだが、いや、でもこの窓で最後だからもういらないのか? などとも考えてしまい、その一瞬躊躇のせいで手がドンッと、全く予想外の窓の格子枠を叩いてしまった。
たちまち体が浮遊感に包まれる。
「ッっ!! おちっっっ!!」
っるかと思った!
びゅうと頬を殴った強い風に息を飲む。窓からすっかりせり出してしまった体に夜風が吹き付け、ひっっ、と青褪めながら慌てて体を引っ込めた。同時に、ガシャーンッという甲高い音が響き、肩を跳ね上げて目をつむる。
音に驚いた……わけではない。事故。そう、事故だ。ただちょっと窓ガラスを割ろうとしていただけなのに、思わずちょっと手で押してしまっただけなのに、あろうことか、窓の格子枠が外れて外の柵にぶつかり、柵がそのまま窓枠ごと外に向かって落ちてしまったのだ。
ついでにリディアーヌも落ちかけて慌てて窓の外枠を掴んで耐えたのだが、下手したらこのまま真っ逆さまだった。さすがに青褪める。
こ、こ、ここまで建物を壊す気は……なかったのだけれど。怒られ……る、か?
だが故意に壊したわけではない。多分……そう、多分、最初から老朽化していたのだ。
「……こほんっっ!」
仕方がない。これは仕方がないのである。悪いのはリディアーヌじゃない。リディアーヌを閉じ込めたキリアンである。だから私は悪くない。
とりあえずそう自分を落ち着けたところで、一つ深呼吸し、もう一度窓の外、正しくは窓の下を見下ろしてみた。
なるほど、どうやらここは二階だったらしい。二階といっても、建物の構造上、高さ的には三階だ。
地面には砕け散った窓と、大きな音を立てた原因の窓の柵、そしてすっかり割れた窓の格子枠とが折り重なっている。結構な音がしたはずなのに誰も駆けつけてこないのも奇妙なことだが、おかげでやって来た誰かに助けを求めるという作戦は考える前に頓挫した。同時に、ここから身を乗り出して飛び降りる、という選択肢も露と消えた。“ああ”はなりたくない。
ひとまず見なかったふりをしておいて、すっかり開放的になった窓の枠に、聖女の鍵とベルブラウの粉末を混ぜた水のグラスを置いておいた。
それから改めて、外の様子を見渡してみる。今宵は月が二つ出ているので、暗くともそれなりに物の様子が良く見える。正面は同じ目線の高さの建物で、右手は建物の影でよく見えないが、おそらく開けている。左を見ればすぐに塀と、良く見知った選帝侯議会棟が見える。だったら正面の二階建ての建物は中央棟だ。つまりこの部屋は東棟の二階。おそらく南西側の端に近い場所にある。ということはヘイツブルグの部屋が並ぶ辺りだ。
「……これは、うん……」
変なところで、結びつかないでほしかったものと結びついてしまった。だからといっていきなりキリアンとギュスターブ、そしてヘイツブルグ大公の結びつきを決めつけたりはしないが、こうなってくるとどうしてもそれを考えざるを得ない。
思えば、この禁事棟にいるはずのないキリアンが当たり前のようにここにいたこともおかしい。この物置っぽいのに埃っぽくはなく、妙な生活感を感じるこの部屋も……もしかして、今までキリアンが潜伏していた部屋なのではあるまいか。
いや、今は無駄なことを考えるのは止めよう……。
もう一度窓の外を見回してみると、うっすら庭の向こうの方で月明かりとは違う煌々とした明かりを感じた。さすがに禁事棟内の騒ぎに気が付いて、外でも動揺が起きているのかもしれない。
だが安易に外に手助けを求めるのも考えものだ。選議卿以外のいかなる存在にも介入されてはならない選帝議会という重要な儀に、問題があったからといって外からの介入を許す先例だけは作りたくない。それに外を取り巻いているのが内務を司るオランジェル侯の手配した者達だとしたら、彼らはまず間違いなくザクセオン大公とアルトゥールに従う。それは最終選挙前日にあって絶対に看過できない。
だがまずは何にせよ、ここから脱出するのが先決だ。
しかし下に窓の残骸が落ちていなかったとしても、この高さを下りるのは難しい。はしご……なんてものが、あるいはこの備品の山の中にないだろうかと物色をしてみるが、さすがにそんなものは無かった。あったとしてもこの高さは無理だろう。
一応内扉の方も確認したが、こちらは思った通り、厳重に締め切られている。鍵などは見当たらないのに扉がビクともしないということは、向こう側から扉が打ち付けられるか何かして押さえつけられているのだろう。だがそれでも、あの窓から出るよりは現実的なのではなかろうか。
ひとまず、「よしっ」と瀟洒なドレスの袖をめくり、どんどんと扉を叩いてみる。先程と同様にビクともしない。体を酷使するのは嫌だが、一応意を決してドンッと扉に体当たりもしてみたが、ぶつけた肩や腰がジンと痛むだけだった。
いっそ蝶番から根本的にどうかするべきかとも思ったが、なにしろこの禁事棟は妙に扉の作りが頑丈なのだ。蝶番もそれにふさわしく頑丈で、そこら辺の棒きれで叩いたり、椅子を投げたりして見たが、やはりビクともしなかった。というか、無駄に息が上がって体の色々なところがきしんだ。
「無駄に体が痛んだだけだったわ……」
ぜぇぜぇと肩で息をし、まだ作り始めたばかりの窓辺の簡易聖水をごくごくと飲む。サントベロの灰もないし、ベルブラウも乾燥させた粉末だ。どれほどの効果があるのか心配だったが、ひとまず節々の痛みと呼吸は整った。ただ一杯ではまったく足りなかったので、もう一杯水を注ぎ、鍵を落とし、残りのベルブラウの粉末を溶かして二杯目を作っておく。
「いつぞやはパトリックの無茶ぶりに平然と渡り廊下に飛び降りるミリムに呆れたものだけれど……」
だがこれはもう致し方ない。扉が駄目である以上、やはり窓から、壁を這ってでも降りるしかない。
とはいえどこぞの無駄なスキルを持っているマクシミリアンさんとは違うので、安全に降りるための手段が必要だ。一番手っ取り早いのは、この部屋に沢山あるシーツを裂いてロープを作ることだろうか。でもこういうロープは突然ちぎれたりして悲惨なことになると、世の中の物語が教えて……こほんっ。いや、大丈夫。現実で早々、そんなことは起こらないはずだ。
なのでまずはそこら中からシーツを集めてみる。中には少し埃っぽいものもあって嫌悪感があったが、今は贅沢も言っていられない。ポケットに入っていたハンカチで口元を覆い、先程窓ガラスを割るのに使ったシーツがいい具合に破れていたので引き裂いて、割れたガラスの破片に巻き付け、出来るだけ鋭いガラスの先でゴリゴリとシーツを削る。
シーツの破り方なんて知らないけれど、思ったよりも簡単に裂ける。どうやら向きによって裂けやすいか裂けにくいかも違うようだ。どういう構造なのだろう。それも気になるが、今は裂けやすい方向に向かってどんどんと裂いてゆく。
だが裂いただけでではどんどんと端からほつれていってしまう。これでは身を任せるには頼りない。それに裂けやすい方向が短い方にあって、これではいくつもいくつも結び付けていかねばならない。一体どれだけ時間がかかるのか。
「案外、シーツで窓から降りようなんて非常識なんじゃ……」
試しに一つ裂き切ったシーツを結んで一本のロープにして窓から垂らしてみたが、案の定、すぐ下の階の窓枠にすら届かなかった。
「裂きにくくても縦に裂いた方が強度が保てるのかしら。でも……」
こんなガラス片で縦にゴリゴリと裂くのも大変だ。それにいくらシーツが沢山あるといっても、三つか四つがいいところ。これで足りるかどうか。
いっそのことここにあるものをどんどんと窓から放り出して誰かに気が付いてもらうのはどうだろう。あるいは大きなものを落とせば、地面が近くなるのでは。いや、だがその大きなものを一人で持ち抱えるのは勿論、この小さな窓からは出せないか。うーん。
困った。手詰まりだ。
「……」
こうなったら何としてでも扉をこじ開けるか、何としてでもロープを完成させるしかない。ひとまず散々部屋の中を物色して、これでもないあれでもないと考えてみたのだけれど、まったく使えそうな物も考えも思いつかなかった。大人しくちまちまとロープを作るしかないのだろうか。
だがじっくり考えようと立ち止まって息を吐くと、たちまちジンと体の痛みを思い出してしまった。いつの間にか爪が欠け、指先に血が滲み、それにあちらこちら身に覚えのない傷も沢山出来ているではないか。どうして表面を切っただけのような浅い傷の方が痛く感じるのだろう。手の甲が妙にジンジンとする。ガラスの破片で切ってしまったのか。
どうやらじっとしていると、無駄に色々なところの不調に気が付いてしまいそうだ。なので立ち止まるのは止めて、再び窓辺で作っていた聖水に歩み寄り、カラコロと鍵をかきまぜた。先程より月が傾いたからか、光が良く当たっていて、水もほんのりと光を蓄え始めている。これなら先程よりは効きそうだ。
だがベルブラウはこれが最後であるし、無駄遣いは出来ない。もう少し待とう。いや、だが待ったところで何ができるのか……。
「……よし、やりましょう」
今できるのは、せっせとロープをこしらえる事だけである。公女様ともあろう私が、地べたにしゃがみこんでせっせとガラスの破片を手にシーツを切り裂くだなんて、屈辱だ。
でもそうやって何とかすべてのシーツを裂いて、よしあとは結ぶだけだとごっそりシーツを抱えて立ち上がったら……。
「……」
「……」
「……えっと、お取込み中で?」
なんか、床下から、“クク”が生えてきた。
※大変ながらくお待たせいたしましたm(´◇`)m
しばらくは1日おき更新です。




