11-52 硝煙
「ねぇミリム。ちょっと貴方のお兄さんと、じっくり二人きりでお話しする必要性があると思うのだけれど。この手、放してくれない?」
「義兄上だけは止めてって言ったよね? なんでうちのリディさんは私の嫌な人にばかり惹かれるのかな?」
「嫌な人って? 他に誰かいた?」
「……トゥーリとか」
思わずふふっと笑い声をあげたところで、「聞こえているぞ」というそのアルトゥールさんの声がした。まぁ、あちらのアルトゥールよりもずっと何を考えているのかよく分からないお兄さんにそういう感情を抱いたことは微塵もない。むしろマクシミリアンと容姿の系統が似ているせいで、味方でなかった彼ともこんな距離感だったのだろうか、などと不愉快な想像をしてしまい、どちらかというと苦手だ。
「それこそリディは私に対して、その話をしてこい、と義兄上の所に差し向けるべきなんじゃないかな?」
「すっかり隠し扉に精通していることを露呈してしまった貴方はこの場における皆にとっての“安心”でしょうし、それに仮にも皇帝戦という最中、私が貴方にクロイツェン派閥のお兄様と密談させているだなんて噂させるわけにもいかないと思わない?」
「リディが私の義兄上と密談していても十分よからぬ噂だと思うけど」
う、うん、まぁ。だからってフィリックやパトリックと密談させるのもどうかと思うし。正々堂々、リディアーヌである方がまだましなのではあるまいか。それに不安ならもう一人、巻き込んでしまえばいい。
「ウィクトル公子も一緒に話に参加させるわ。それならどう?」
「……」
まだマクシミリアンの表情は芳しくなかったけれど、やがて仕方がないとばかりにため息を吐くと、「でも義兄上に見惚れるのはナシだよ?」と念を押してきた。心配せずともそれは無い。まぁ、マクシミリアンの十年後はこういう感じかな、とか、頬が緩んだりしたことがなかったわけでもないけれど。でも錯覚はしないので安心してほしい。
そう説得したところで、「話はつきましたか?」と、ラルカンジュ侯の方から声をかけてきた。隠すつもりもなく話していたから、部屋中に内容は筒抜けだったのだろう。おかげさまで、所々から生暖かい視線を感じる気がしないでもない。
ただ話が聞こえてくれていたおかげで、一際ニヤニヤしているコランティーヌ夫人に取っ捕まって大人しく座らされていたウィクトル公子の顔色が悪い。変なことに巻き込まれてしまったとばかりにげんなりした様子である。だがこれは公子も耳に入れておくべき内容だ。だからあえて、コランティーヌ夫人ではなくウィクトル公子を指名したのだ。
「このように筒抜けの場で話す話でもありませんし、少し場所を変えましょう。ウィクトル公子、ご一緒していただけますか?」
「……ハイ」
まだ気乗りしない様子だったが、夫人にジロリと睨まれると、仕方なさそうにウィクトル公子も席を立った。ラルカンジュ侯が文句を言う様子はないから、公子には知られてもいいと思ったのか、あるいはついてきたところでどうとでもなると思っているのか。
どうやらそれは両方だったようで、人気の捌けている北棟との間のホールに場所を移したところで、ラルカンジュ侯はウィクトル公子に対して、「巻き込まれたくないのであればその辺りにいるといいですよ」と扉の傍に放置した。
頑張れば話が聞こえないわけでもない距離だが、会話に混ぜる気はないと言っているようにも感じる距離感だ。他にもこの部屋には騎士が二人立っていたけれど、その顔を見たラルカンジュ侯が何も言わなかったのを見ると、どうやらクロイツェン派と誼のある騎士であるようだ。
あまりリディアーヌにとって居心地のいい空間ではない。とっとと話すべきことを話して食堂の方に戻るべきだろう。
「まどろっこしい話は無しにしましょう。先程この場で侯がマクシミリアンに囁いた内容は、私もそのまま聞いています。その上で、今のこの事態。一体いつまで口を噤んでいいものかと焦れております。もし貴方から余計なことを聞かなければ、すでに自力でそのことに思い当たり、とっくにそれを口にしていたでしょうに」
「……」
笑っているというよりはただ当たり障りなく口端を少し持ち上げているというだけの面差しで、まどろっこしい話は無しにといったにも関わらずすぐに言葉を返すわけでもなくこちらを伺ってくる。
この人はマクシミリアンや彼の妻であるペトロネッラ様が傍にいる時とそうでない時で、随分と雰囲気が違って感じる気がする。
「どうお考えなのですか? ラルカンジュ侯」
「……」
積極的にここまで付いて来てくださったはずなのに、何も言わないのは何故なのか。何やら少し、苛立ちが募らないでもない。
「なぜ何も仰らないのですか? もしもそれが、自分は何も口を挟まないという意思表示なのでしたら、遠慮なく、こちらで勝手にさせていただきますわよ?」
「……ふっ」
もう無視してしまおうかという態度を見せたところで、おもむろに声に出して笑って見せたラルカンジュ侯に、リディアーヌは顔色を引き締める。笑みとはいうものの、それはあまり好意的という類の表情であるとは思わなかったからだ。
「貴女は本当に物怖じしませんね。それどころか警戒の一つも感じられない」
「私が一体何を警戒しないといけないと?」
「貴女がうちの義弟を誑かして我々から奪ったのです。どうして我々が貴女を害さないと思うのですか?」
「今更ですね」
こんな話をするために連れ出したわけではない。大体、そんな時分ではないだろう。あるいははぐらかされているのかとも思ったが、見る限りそういう雰囲気でもない。
「少なくとも貴方は公私を混同なさらない、見所の有る方だと思っていたのですけれど」
「公私? マクシムのことは、私的なことだとでも?」
マクシム……この人がマクシミリアンをそう呼び捨てるのを初めて聞いた。あるいは公的な場以外ではずっとそう呼んでいたのかもしれない。彼は元々大公家の分家筋であり、もう十年以上も、幼い時分からのマクシミリアンの義兄であり庇護者であったのだから、おかしくはない。だが今になってそれをさらけ出すのは一体どういう心境の変化であろうか。
「私的でなくて何だというのでしょう。まさか公的なことだとでも? 侯は私がミリムを政治利用するために誑し込んだとでも思っていらっしゃるのでしょうか?」
「さすがにそこまでの勘違いは致しませんよ。義弟の公女への溺れっぷりは、正直、大公閣下や彼の実の姉よりもよく分かっていたと自負していますから」
「……まぁ、その。あえて突っ込みは致しませんけれど。であれば公的と言われるのは私達にとって侮辱ですわよ」
「マクシムはそうでしょう。あの子は純粋で優しい子です。けれど貴女はどうでしょう?」
「なんですって?」
思わずピクリと眉を吊り上げる。まさかリディアーヌは、盲目的に追いかけて来るマクシミリアンを甘い言葉で誑かして利用している悪女だとでも思われているのだろうか? 正直、そう見ている人がいないわけではないとは思っていたが、この人にそう見られるのはいくら何でも屈辱的だ。
リディアーヌがどれほどの葛藤を抱えながら、諦めようとしていたのか。どれほどの溢れる思いで、この薬指のブルーサファイアを受け取ったのか。私達の間が数多に飲み込んできた感情とその結論を、どうして身内であるはずの人から否定されねばならないのか。
だがそれについての反論を口にしようとしたところで、いや、今はそんな話にはぐらかされている場合ではないなと、一つ深く吐息を吐きながら感情を諫めた。
「これ以上無意味な会話を続けるだけのつもりなら、この場の対話は切り上げてしまいましょう。特に制止を求められたわけでもなかったと判断して、こちらの都合のいいようにやらせていただきますわ。実際、これ以上に“逃げた罪人”を野放しにはしておけません」
速やかに情報は共有するべきだ。そう結論付けると、とっとと食堂に戻るべく、ウィクトル公子がもじもじと佇んでいる廊下の方向へと足を進めた。ちょうど廊下の先では、食堂側からチョコンとマクシミリアンが顔をのぞかせる。物の数分も我慢できなかったらしい。思わず苦笑が浮かんでしまった。
うちの狼さんは、なんて可愛らしいのだろうか。
思わず足取りも軽く、廊下へと足を踏み入れようとして……たちまち、バタンと背後で開いた重たい扉の音に、ふと後ろを振り返る。
誰もいないと思っていたのに、ホールに面した応接間に人がいたのだろうか。だとすれば、一応問題となっている出来事をはっきりと口に出さずに会話をしていて良かった、なんて安堵をしようとしたのも束の間。
「ッ……!」
思わず驚嘆して身構えたのは、現れたのが、今まさに問題にしているその張本人に他ならなかったからだ。
ふてぶてしい風体をギラギラとした装飾の衣服で包みながら、手入れの滞った乱れた髪型と乱れたクラバット、さらに腰にじゃらじゃらと下げた不釣り合いなベルトと無骨な装飾品が凋落的な雰囲気を漂わせている。
この数日で驚くほど老け込んだ気がしないでもないが、それはこの禁事棟塔での軟禁生活において、ろくに世話を焼く人すらいなかったからだろうか。思わず一瞬誰だろうかと混乱したが、それでも見間違えることは無い。
廃王ギュスターブ、その人である。
「ふむっ、どうしたことだ? 私の予定では誰も彼も、力を失くしてぐったりと床に倒れ込んでいるはずだったのだが……」
どすんどすんと扉を出てきたギュスターブが、おもむろに腰からぶら下げている香炉のような金属の装飾品をガラガラと揺らす。するとその香炉からうっすらと煙が立ち上ったものだから、はっとしてリディアーヌは袖口で鼻と口元を塞いだ。
それに遅れる形でパッと口元を覆ったラルカンジュ侯も、さすがにジリジリと距離を取ると、「話し合いどころではなくなりましたね」と呟いた。もとよりそんな様子でもなかったが、さすがにこれは予想外だった。
目を放すわけにもいかないが、この件についてラルカンジュ侯は敵ということもあるまい。そちらは任せてすぐにマクシミリアンに、こちらに近づかないことと、騎士を呼んでほしいことを伝えようと振り返ったのだが、その体の向きを変える不安定な体勢の中で、クンッと首後ろを引っ張られる感覚と共に、リディアーヌの体は宙へと投げ出された。
突然の浮遊感と、何故か視線に飛び込んできた天井。
もつれた足にドレスの裾が絡まって、何とか堪えようと思ったものの、そんな思考が体を突き動かすよりも早く、思いのほか強く飛んだ体がドスンッとぶよぶよとした肉の塊にぶつかって制止した。
「ッ、義兄上!」
リディアーヌよりも早く反応したのは、この視線のずっと先、廊下の向こうから駆け寄ってくるマクシミリアンだった。
一体今、何があったのだろうか?
中途半端に手を掲げてぼうっとしているラルカンジュ侯の顔に激しい感情の色は無く、ただマクシミリアンの声にははっとしたように振り返り、駆けつけてきた義弟を咄嗟に腕を出して制したのを見た。
それでいい。ひとまず、それはいい。だが今はそれよりも。
「何が起きたかわからんが、一先ずおかしな真似はせぬことだ。何かあれば、今ここで公女の首を掻っ切ってくれるぞ!」
自分の状況が正確に把握できたのは、太い腕が自分の体にまとわりつき、危機感よりも先に膨れ上がった嫌悪感を自覚した瞬間だ。
自分の体は突如現れたギュスターブに羽交い絞めにされており、ゆらゆらと立ち上るリゼットの香りが体から抵抗力を奪い、思考を麻痺させる。非常にまずい状況だ。
今そこでマクシミリアンがらしくもない焦燥を露わにした顔できつく義理の兄に声を荒げているのを見るに、恐らく自分はラルカンジュ侯によってギュスターブの方へと投げ飛ばされたのだ。
ラルカンジュ侯はマクシミリアンが見ていることに気が付いていなかったのだろうか。それともわざとだろうか。
「リディッ……」
ひとしきりラルカンジュ侯を罵ったマクシミリアンが今一度こちらに歩を寄せようとしたが、それは再び、呆然とした様子だったラルカンジュ侯が引き止めた。
「冷静になりなさい、マクシム」
「どいてくださいッ、義兄上! まさか身内に裏切られるとは!」
「それは……いや……」
ラルカンジュ侯の『しまったな』とでもいうような表情と言い訳の一つもなく口を曲げている様子を見ると、あるいはそれは咄嗟に体が動いてしまった類のものなのかとも思われた。
どうやら自分は思わずギュスターブに向かって突き飛ばされるほどに嫌われていたらしい。
「お前達に用はない! そこをどけ。お前達は……そう、北棟に。そっちに行け。私が良いというまで出て来るな!」
そんな脅し文句も、段々と頭がぼうっとし始めたリディアーヌにはうまく内容が読み込めない。
これは本格的に不味い。せめてその腰の香炉を打ち落とせたらいいのだが、鈍った思考でおもむろに手をばたつかせて叩き落そうとしたところで、手に力は籠らず、無意味に気持ちの悪いギュスターブの腹肉を探るだけだった。そのせいで余計にニヤニヤとしたギュスターブが、あからさまに下唇を舐め、いやらしく体を押し付けてくるものだから、薬の効果三倍増しで気持ちが悪くなった。
「リディに触るなッ、この駄豚ッ!」
憤ってくれるのはありがたいけれど、そんなことを入ったら豚さんに失礼よ、ミリム……だなんて、思ってはみたもののだるくて言葉にならない。いや、この状況でこんなことを考えていること自体、思考が鈍ってきている証拠だ。あまりこの煙を吸っていては良くない。
だがさすがにこの騒ぎである。「何事だ」「何があった」と少しずつ食堂側から人がやってき始め、ギュスターブもその予定外であろう状況には忌々しそうに腕の力を強め、金属の冷たい感触が感じられるほどにぴったりとリディアーヌの首元に刃を添える。
その様子に誰かがぎょっとして声をかけたのか、見慣れた人達まで飛んできてしまう。
「これは一体どういうことだ、ミリムっ」
アルトゥールの声までし始めたところで、どうにも冷静ではないマクシミリアンが、「トゥーリはラルカンジュ侯を捕まえておけ!」といつになく荒々しい声と、「とにかく落ち着いてください」とパトリックらがそれを諫めている声がした。さすがにうちの臣下らは冷静で助かる。
もっとも、この場にフィリックがいたらどうなっていたか……あぁ、いかん。無駄に背筋がブルリと震えてしまった。なぜだろう、ギュスターブではなくリディアーヌの方が『一体何をうかつなことをしているんですか』と怒られるところを想像してしまったのは。おかげさまで朦朧としていた意識がすこしくっきりした気がする。
その目端に扉横の装飾台から燭台を掴むエリオットの姿を見た。マクシミリアンとその周りが騒いでいるおかげで誰も気が付いていない。
後は少しのタイミングさえあれば……。
「えぇいっ、下がれ、下がれっ! 全員、我が命に従え!」
ギュスターブが刃物を持つ手をリディアーヌから遠ざけ、騒ぐ連中に向かって突き出したその瞬間、なけなしの力を振り絞って、羽交い絞めるもう一方の手をぐっと押し上げてしゃがみ込む。
その行動が上手くいったのかどうかはよく分からないが、それを自ら意識するよりも早く、ブンッッと飛んできた燭台に「ぎゃあ!」と叫んだギュスターブの声がその結果を明らかにしていた。
「姫様!」
頭で理解するよりも早く体を動かす。もつれる足を必死に動かして解けた腕から抜け出し、転がるように進み出る。
「リディっ!」
抑え込む人たちを振り払ったマクシミリアンが手を伸ばす。
あと少し。あの手にさえ、飛び込めれば……。
ドン――ッ。
「っっ!」
なのにそのあと少しの距離も空しく、再び横から突き飛ばされた感触に、体は宙に浮いた。
今度はラルカンジュ侯ではない。彼は今困惑した顔のアルトゥールの隣で大人しく突っ立っている。
それにこの衝撃は正面でも後ろでもなく、横から感じた。
どさりと地面に倒れ込んだ体が痛い。
「ひ、ひひっ。や、やったっ。これで、ひひつ」
「ッ、貴様ッ、テッサーリ!」
「ッ、確保いたします!」
あぁ、そうか。ギュスターブが塔から抜け出しているのだ。同じくそちらに捕らえられたもう一人が逃げ出していない保証は無い。どうして失念していたのか。
「テッサーリ、修道士……」
それは禁事棟への侵入とヴァレンティンの個室で盗み聞きをしていたところを捉えられたアンジェッロ司教の近侍だ。その恰好が今この瞬間も東棟内を忙しく行き来している修道士と同じなものだから、彼が北棟側から現れた時、皆も一瞬それに対する反応が遅れたのだ。
幸い、リディアーヌの代わりにそちらの確保に当たったエリオットが捕らえてくれたようだが、だが突き飛ばされたリディアーヌはまたその安全地帯から遠ざかってしまった。それでも先程違い、倒れ込んだ先は同様にギュスターブからも遠ざかった。
問題はない……と、くらくらとする体を起こそうとしたのだが、すぐ近くで影を落とした人の気配に、あぁ、まったく……とため息を吐きたい心地で顔を上げた。
一体どこから現れたのか。
「おぉ、遅かったではないか、そなた! さぁ、早く邪魔者どもを消せ! それがお前の仕事だろう!」
じっとこちらを見下ろしたその顔も、その瞳も。見間違えることなんてない懐かしい顔だ。
決して敵ではないはずの顔なのに、だがギュスターブの言葉は間違いなく、彼にかけられている。この次から次へと舞い込んでくる情報量に、余計に頭がくらくらしそうである。
「キリィ……」
振り絞ってこぼした声に、じっとこちらを見る暗い眼差しが揺らぐこともない。
ただ延ばされた手にびくりと体がすくんだことについては、少しだけ……ほんの少しだけ、彼の……キリアンの顔に、複雑な色が過った気がした。
だがそれも気のせいだったのか。先程のギュスターブのいやらしくも乱暴な手つきとは違うとはいえ、決してリディアーヌを安全な場所に送り届けてくれるとは思えない様子でリディアーヌを担ぎ上げたかつての幼馴染に、どうしようもないため息が零れ落ちる。
一体今まで、何処で何をしていたのか。何故ギュスターブに存在を知られていて、何故こんなことに加担する破目になっているのか。
「貴方が……もしも貴方が私の王に手を出すのなら、私は貴方を許さないわ……マグキリアン・ペステロープ」
脱力する体に無理を聞かせて声を振り絞ったところで、果たしてその声が届いたのかどうかは分からない。軽々と片手でリディアーヌを担ぎ、もう片方の手に抜き取ったナイフを弄び。その足が一体どちらに向くのかという緊張感の中で、キリアンが足を向けたのはギュスターブの方だった。
「おぉおぉ、ほれ、人質を寄越せ。憎き弟の仇だ。余がたぁんと可愛がってやろうぞ」
背中がぞわぞわとする。
何があったのかは知らないけれど、それでもまさかギュスターブに売り払われるほどの恨みを買った覚えはないのだが。まさか本気じゃないでしょうね、と何とか身を起こし、振り返ろうとしたのだけれど。
「ッ、っ!」
「きゃあっっ!」
声ならぬ声と、驚いたらしい誰かの叫び声と。けれど何が起きたのかを確認する前に、振り返ろうとしてしまったリディアーヌの目元にも飛んできた生ぬるい感触とどろりとした真っ赤な液体が、言葉よりも鮮明に、そして言葉よりも残酷に、状況を理解させた。
「ぐふっ……ぐっ。き、きさっッ……ゴフッッ」
ドスンと目の前で崩れ落ちたのはギュスターブの方だ。
ダラダラと広がる赤い鮮血。溢れる血に喉がおぼれ、声にならない声でもがく。
その状況を作り出したのは、間違いなく、いまそこでナイフを片手に冷たい目でギュスターブを見下ろしているかつての幼馴染だった。
一体何がどうなってこうなっているのか。
「私の主に、よくもその汚い体を押し付けてくれたな、ギュスターブ」
低い罵り声と、追い打ちをかけるようにギュスターブの贅肉を踏み潰すキリアンが、まるでリディアーヌの知るその人とは別人のようで、思わず腕の中でもがいた。
それに気が付いたのか、ふと落ちそうなリディアーヌを押さえたキリアンの眼差しが、ごくりと息をのむ連中を振り返る。
一体彼は、味方なのか。それとも敵なのか。
だがそんなものは、あるいは考えるまでもなかったのかもしれない。
「お前達はせいぜい、この贅肉の処置でもしておけばいい」
「ッ、貴様ッ。姫様のご恩をッ」
パトリックの憤る声なんて初めて聴いたんじゃないだろうか。
あぁ、そんなことしか考えられないほどに、頭がぼうっとしてきた。
そうか。ギュスターブが倒れた拍子に香炉の蓋が開いてしまったのだ。
「ッ、殿下方はお下がりくださいッ! 司教様ッ、司教様をすぐに!」
わっと慌ただしくなる彼らの中で、クラウス卿にぎゅっと抑え込まれながらも必死に手を伸ばしてくれたマクシミリアンの姿を見た。
でもどうやらここは危険なようだから、どうかそんなに取り乱して危険に突っ込まないでもらいたい。もっと自分を大事にして、私を安心させてほしい。
「だいじょう、ぶ……だから」
だからそんな顔をしないで、マクシミリアン。
第十一章 完




