11-51 煙霧
慌ただしく人が行き交いバタバタとした雰囲気がしばらく続いていたけれど、間もなく、禁事棟の侍従らが沢山の衝立や間仕切りの類、簡易のベッドになり得るものなど備品を揃えて行くと、広々とした食堂も空間が真ん中で仕切られ、手前には少々不格好ながら食堂の机と椅子を用いた選議卿らの会議の場、もう半分には衝立がいくつも立てられて、皇帝候補らとその側近がひとまず休める空間として整えられた。
生憎と彼らを個室に案内するほどの部屋数の余裕はこの東棟に無いし、やはり目の届かない所に籠って何かあっては大変であるからと、一つの部屋に留まる事への理解を得た。
廊下を経たホールは随分と手狭であったが、今は軽症者の休憩場所と薬師達のための場とし、奥の応接間などを利用した四つの部屋に、およそ患者達をまとめた。扉は開けておいて、何かあればすぐにホールから薬師達も駆けつけられるようにとの備えも施した。
アルセール先生はしばらく重症患者を中心にエティエンヌ猊下らと手ずから治療に当たって回った後、報告は猊下に任せ、ラモーディオ猊下と共に隣の家事室で薬の分析に当たっている。家事室では薬の調薬も続いており、また少し落ち着きを取り戻してきたところで、侍女や侍従らがたっぷりとお茶を用意し、配って回った。
そういえばもう時刻も分からないほどにとっぷりと夜が帳を降ろしているが、今は何時頃なのだろうか。まだ夕餐会が終わったばかりなようにも感じるし、あるいはもうすっかりと日付が越えてしまっているかのようにも感じられる。落ち着きと共に危急の事態に対するアドレナリンの分泌も収まり、疲労を感じ始めているのかもしれない。
こんな状況だが、まだ大公達は戻らない。というか、何をするか予想が着かないヘイツブルグ大公を目の届く場所に隔離して置くという名目、いっそこのまま大公達には議会場に閉じこもってもらっておいた方がいい、という……おそらくそういう判断が働いたのであろうというのが、あちらの様子を窺ってきたマクシミリアンの評だ。
もはやこうとなってはギュスターブが塔から逃げ出した件も公にするべきだと思うのだが、大公達はどう考えているのだろうか。リディアーヌがその情報を知っているのは、ラルカンジュ侯の主君への不忠ともいうべき覚悟とマクシミリアンという存在のおかげである。なので軽々しく自分の口からこの場で公表するわけにもいかず、もどかしさを感じている。
幸いうちの放蕩司教は議会棟で教皇聖下のお傍にお仕えしているとの情報があった。疑いかけていたカラマーイに明確なアリバイが存在したことには、内心胸をなでおろした。なので今はひとまず、周りに集まった聖職者や禁事棟の文官、一部選議卿らと状況の整理や対処に当たり続けた。
一番の問題は、禁事棟という閉ざされた場所にあって薬が十分に手に入らないことだ。ひとまず今は全員にいきわたらせることができたが、中毒症状の緩和には長期的な投薬が必要になる。明日で選帝選挙は終わるとはいえ、明日の朝の分まで十分に薬を確保できる見通しがないのというのが問題だった。
これは流石に、外にもコンタクトを取らざるを得ない事態なのではないか、と……そんな意見も多く出たが、外との接触を警戒し、渋る者もあって、中々決断しかねた。まずは各家門から提供してもらった分の確認が済み、明日の朝の分が賄えるかどうかの判断待ちである。
「それから警備班長、北棟の警備体制はどうなっていたのですか?」
「は……そちらはいつも通り。その……」
北棟付の責任者たちから色々と事情も伺う中、ことさら言葉を濁して躊躇を見せたのは警備責任者の騎士だった。
躊躇の理由は分かっている。逃亡したギュスターブ捜索のため、あるべき態勢よりも警備が疎かになっていた自覚があるからだ。だがラルカンジュ侯もいるこの場でザクセオン大公の命令でしたなどと言うわけにもいかず、かといって自分達が警備を怠っていただけですなどとも言うわけにはいかないのだろう。
困らせる質問であることは承知しているが、それでも追及はせざるを得ない。今回のこの事件、それを見過ごした愚かな騎士達の所業に、リディアーヌもそれなりに怒っているのだ。
「言い訳もできないとはね。その件への追及は後日、改めて、大公閣下達を交えて致しましょう。とにかく今は、どうやって地階への侵入を許したのかよ。警備体制はどうなっていたのか、状況を把握するための説明を求めているの」
「はっ……地階の方は事件発生当初、二人の騎士が巡回と警備に当たっていました」
「二人……」
たったの?! と驚嘆したいところだったが、委縮させ口を堅くされるわけにもいかなかったので、トントンと指で額を小突きながら自分を諫め、「侵入者やかわった匂いなどには気が付けなかったのかしら?」と問う。
「そのようです。また今回用いられた薬は意識の昏倒などを引き起こすものだったようで、急ぎ注意喚起や避難を誘導することは不可能で……」
そこで責任を追及するよりも庇う言葉が出て来るあたり、警備責任者としての自覚のなさを感じざるを得ない。これにはラルカンジュ侯も渋い顔をなさっておいでだった。
騎士の配置は三侯の一人、セナンゼル侯がその配置に当たっているが、人選にはクロイツェンやオランジェル侯の意向も含まれている。その警備責任の追及が、彼らの進退にも影響を与えないということはない。
すでにラルカンジュ侯も、彼らを見限るという選択肢が思い浮かび始めているのではなかろうか。そうであってくれると話が早くていいのだが。
「運び込まれた者達には騎士も多かったようだけれど……一階より上にはそれなりに数がいたのかしら?」
「それについては私から」
そう手を挙げたのは、いち早くこの場の対処に当たっていたエティエンヌ猊下だ。
「騎士達の被害の大半は、こちらに逃げ込んできた方々を介抱する間、あるいは何かあったのかとこちらから北棟に入って被害を受けた二次被害がほとんどです。すぐに察して我々の方で受け入れ態勢を整えましたが、すでに多くが北棟に救助に向かっておりましたので」
「なるほど。速やかな退避と深刻な被害がなかったのは彼らの勇敢さのおかげですね」
「ええ、まったく」
まぁ本当に勇敢さが理由なのかどうかは知らないが、自分の責任問題にあるのではとびくびくしている騎士達の肩の力をほぐさせ、口を軽くさせるための方便でもある。
「リディ、リヴァイアン殿下の方も症状は落ち着いたよ。大丈夫そうだ」
そこに状況の記録と皇帝候補側近らや選議卿らが静かに過ごすせるよう見て廻っていたマクシミリアンがやって来て、すっかりと分厚くなった報告書をおいてくれた。書記役として着いて回っていた文官殿は、随分と筆まめなタイプだったようだ。
「リディ、そろそろまとまった報告をしてくれるんだろうな?」
そんな私達を放っておいてはくれない面倒な……困った友人に、さっとマクシミリアンがアルトゥールとリディアーヌの間を隔てて押しとどめてくれた。頼もしい。
「はいはい、皇子様はゆっくりと休んでなよ。暇ならアルセール先生によく眠れる薬でも処方してもらう?」
「忙しい先生に余計な真似をして怒られろと? 悪質だな」
「じゃあ私がお茶でも淹れてあげようか? 蜂蜜とミルク多めで」
「嫌な予感しかしない」
マクシミリアンのお茶? なんだそれ。興味しかないのだが。いや、彼にそんなスキルは無かったはずだ。
「こほんっ」
まぁ今はそれはどうでもいい。
ところでアルトゥールがこんな状況を放っておいてはくれずにしゃしゃり出てくることは想定内として、もう一人の皇帝候補さんはどうしたのだろうか。チラチラと見回してみるけれど、少なくとも衝立の向こうで大人しくしている雰囲気は無い。というか、完全に人気が無い。
さらに辺りを見回したところで、家事室側の扉の傍にリュシアンの背中を見つけたので、「少し失礼を」と席を立ってそちらに歩み寄ってみれば、禁事棟の騎士やフィレンツィオらと何やら話し込んでいる様子だった。
「リュス? もう平気なの?」
ただでさえ体の弱い人だ。心配を滲ませながら歩み寄ると、「ちょうどいい」と歓迎された。何事だろうか。
「薬師に鎮痛薬が不足していると聞いたが、北の三階にそれなりの量の備蓄がある。それから気付け系の薬も。あちらに取りに入ることはできないものかと思ってな」
なるほど、と思わずここからは見えない北棟の方角を見てしまった。
元々リュシアンは塔への幽閉時代からの後遺症を抱えている。頭痛や不眠は日常茶飯事で、神経障害をはじめとする身体的な不調に、胃腸も弱り、免疫力も改善していない。なので禁事棟への荷物には典医がこれでもかというほどのありとあらゆる薬を持たせたとかなんとか、誰かが言っていた気がする。
皇帝戦という最中、皇帝候補の明らかな虚弱を喧伝することはできないが、リュシアンの日常には必要なものでもある。
「換気はおこなっていると聞いたけれど……助けになるかもしれないという理由で、見計らって北棟への物資の運び出しが出来ないか、勘案しましょう。リュス、貴方もこちらに来て座っていただける?」
「あぁ、そうしよう」
とりあえず大人しく座っておいてほしいとの意図は伝わってくれたようで、少し苦笑してから大人しく席に促されてくれたリュシアンに、未だにマクシミリアンと他愛のないやり取りの応酬をしていたらしいアルトゥールもそれを見るや否や、「だったら俺も座っていいよな?」と当たり前のようにリュシアンのすぐ目の前に着席した。
実は仲がいいのだろうか。
「あぁ、もう。この勝手な皇子様は」
「有難う、ミリム。とりあえずいいわ」
皇子様の相手をしてくれていたマクシミリアンを労わって手招きすると、ひょんと飛んできて大人しく頭を差し出してきた。
「……」
「……」
これはなんだろう。え、えっと。えーっと。とりあえず……撫でる?
「……」
「……」
「おい、俺は一体、何を見せつけられているんだ?」
「あ、やっぱり違った?」
「いや、正解だよ、リディ。やる気が出た」
どうやら満足したらしいマクシミリアンがふっと体を起こしたのと同時に、リディアーヌの鼻腔にいつもの彼の甘苦いような香りと違う、ほのかな薬と、そして燻したバニラのようなツンと漂う嗅ぎなれない香りを感じた。
確かに彼はどこでもいつでもポケットに菓子を忍ばせているから、そんないつもとは違う香りを感じてもおかしくはない。だがマクシミリアンが体を起こして遠ざかったにも関わらず、一層その香りは濃くなっている気がする。
「ミリム、何か甘ったるい焼き菓子のような……そういう菓子をポケットに詰め込んでない?」
「ん? 甘いものが欲しくなった? 生憎と今は飴玉くらいしか持ってないよ。ハチミツか、黒糖か……あ、チョコレートも一つか二つくらいは……」
くらいしか、といいながら飴玉が瓶ごとごろごろと出てきたのにはリディアーヌだけでなく机についている皆がぎょっとしたのだが、もうそんなことでは驚かない。それよりも、ポケットからどんどんと菓子が出てきたところで、匂いが強くなるわけでもなければそれらしいものがあるようにも見えない。だったら隣の部屋で煎じられている薬だろうか。
そう思っていたのだが、ふとフィレンツィオが「何か妙な匂いがしませんか?」と口にしたものだから、ぱっと振り返ったマクシミリアンがすぐに危機感を覚えたように辺りを見回し、リディアーヌにハンカチを突き付けた。
その行動のせいで皆も同じものを察したようで、優秀な騎士や文官達が急ぎ主人達を立ち上がらせ、ハンカチで口を覆わせる。その中で一人、逆に身を屈めてスンと鼻を働かせたのはフィレンツィオで、すぐにぱっと口元を袖で覆うとマクシミリアンに向かって頷いて見せた。
間違いない。今かすかに鼻腔をついているこの匂いは、以前リンテンで散々な目にあったあの時に感じたものだ。食事の場のテーブルに焚かれていた食事のうまみを阻害するほどの甘ったるい菓子のような香り。そこに交じる青臭さと煙っぽさ。教会の祭壇で焚かれる香木にも少し似ているが、サントベロの爽やかさは無い、まとわりつくように重たい南部の香りだ。
「公子様、食堂に通じる通風箇所は」
「隣の二部屋だけっ」
すぐに動いたのはエリオットだ。マクシミリアンがこの建物の中、裏道まで丹念に調べ上げていたことを存じているため質問に迷いは無く、マクシミリアンの返答も早かった。
暖炉は煙が上に抜けるだけで、下には通じていない。なので使用人用の家事室側への扉を開け放ったエリオットに、そちらにいた猊下方やアルセール先生がぎょっと振り返った。だが薬師達がいる部屋から漂っているのであれば、彼らがすぐに気が付いている。
「あとは……あー……」
もう一つの部屋も確認して以上が無いのを見たエリオットが、次の指示を求めるように、何やら考え込んでいるマクシミリアンに視線を寄越す。
そのマクシミリアンが一瞬躊躇を伺わせたが、すぐに「多分ここだ」と暖炉に近づくと、火の入っていないその暖炉の中を覗き込み、かと思うと腕で口元を塞ぎながらパタパタと空気を仰いだ。
「エリオット卿っ、多分ここっ。奥の煉瓦を押したら壁が外れるはずだからっ」
「なっっ」
どこかで誰かが声をあげる。マクシミリアンが躊躇したのも無理はない。こんな場所にまで隠し部屋の類があるだなんて、誰も思っていなかっただろう。
すぐにマクシミリアンをそこから遠ざけたクラウスに変わって、エリオットが暖炉に駆け寄ると、ペタペタと暖炉の上をあさり、上に乗っていた花瓶を振り払うとおもむろに天板を開き、思いにもよらない方向に炉室の壁をゴリゴリとこじ開けた。まさかそんな風に開くだなんて。
成人男性の胸元ほどの高さまで開けた煤けた煉瓦の壁に、色の違う煉瓦が一つ。それを剣鞘でガツンと突けば、またガチャリと何かの外れる音がした。
煉瓦の合わせ目から二つに割れた壁板は、すでに扉にしか見えない。だがそこを開け放ったところで、奥の暗がりの向こうに人気があるわけでもなく、煙も漂ってこない。
「灰落としを塞いでください!」
そこにどこからともなく飛んだ声に、ぱっと炉室内を見渡したエリオットははぎ取ったマントで隅の窪みを塞ぎ、さらに気の利くクラウスが水瓶を寄越したものだから、ばしゃりと上から水をかぶせた。煙が原因ならこれで随分とマシになるだろう。
「煙は収まりましたか?」
そう歩み寄ってきたのはアルセール先生だ。どうやら先程の声も先生だったらしい。
「灰落としかぁ。ということは煙が焚かれたのは地階? どういう構造だろう?」
「この食堂は王侯が常に出入りをする場ですから、灰掻きに時間をかけないよう、灰落としの類があるだろうと思ったんです。やっぱり……北棟と同じパターンですね」
どうやら北棟も同様の焚かれ方から広まったようだ。
「まさかこんなところにも隠し扉があるとは思わなかったけれど……」
もう大丈夫だろうかと近づいてみたところで、「念のためにこれ以上は駄目ですよ」とアルセール先生に止められた。一番近くで薬を嗅いだかもしれないエリオットには、家事室の方から飛んできたラモーディオ猊下が念のためにと薬湯を渡して下さっている。他の皆も慌ただしく窓を開け放って換気を促しており、ざわついてはいるが落ち着いた様子だ。
しかし北棟に続けてこの東棟まで……まだ犯人は逃走中という事だ。
「騎士達は警戒態勢、ならびに中毒対策の上、地階を探索! 薬はリゼット系だそうよ。南部出身で耐性が備わっている方がいれば、香炉の回収に優先的に配置!」
ぱっと振り返って指示を飛ばしたところで、禁事棟の騎士達も我に返ったように姿勢を正した。
あまりこの場を手薄にはしたくないが、煙の穴をふさいだ程度でどうにかなるものとは限らない。これ以上、この大人数をどこか別の場所に移す余力もなく、原因をすぐに取り除いておきたい。
「公女殿下、うちの騎士達をお連れ下さい。リゼット系ならセトーナにも自生しているので、ある程度の自然耐性があります」
そう申し出てくれたのはアブラーン王子で、正直、とても有難い申し出だった。
しかし耐性という言葉を繰り返していると、益々犯人が誰なのかという点で、一人の人物が頭に浮かんでしまう。リゼットの類を簡単に手に入れられて、かつ耐性が存在している人物……思い当たるのは、この禁事棟にただ一人だけだ。
どうしたものかと、思わずラルカンジュ侯に視線がひきつけられたところで、すぐにこちらを見ていたらしい侯と視線が合った。
どうしてこちらを見ていたのだろうか。リディアーヌが今にも、『もしかしたらギュスターブが』などと言いださないよう、注意を払っていたのだろうか? それとも別の何かだろうか?
計りかねる何の感情も伺わせない表情を暫く見ていたところで、「何で義兄上と見つめ合ってるの?」とマクシミリアンに目を塞がれた。
相変わらず目敏い。
※また少し長めにお休みさせていただきます。中途半端なところで申し訳ないです。




