閑話 フォンクラーク離宮にて
side ヴィオレット
「おじ様、どうしてそんなことをなさったんですか!」
「うるさい、騒ぐな、ナディア。もう着いた話だ」
「今の今まで私に何もお話しにならなかったくせに!」
いつも閑静で、穏やかな空気が流れていたはずの離宮に響き渡った突然の怒声に、ついひと月前までの喧騒も緊張もわすれてのびのびと過ごしていたヴィオレットは、一応許可なく出ないようにと言われている離宮の離れの窓から声のする方を見下ろし、すぐに何事だろうかと一階に階段を駆け下りた。
「五日前ならわかりますっ。でも今更……まだヘイツブルグ大公閣下のご意図もしれないというのにっ」
「お前が何を心配しているのかは分かる。だがあちらにはヴァレンティン大公もいらっしゃるだろう」
「ですがギュスターブ王もいます!」
「そこまで情報は伝わらない」
「けれど選議卿らには伝わりますっ。それを、よりにもよってこんな前日になってっ」
「ナディア! 君は馬鹿じゃない! どうして前日までにことを急いだのか、私の立場だって分からないわけではないだろう!」
この離宮の雰囲気が変わったのはほんの数日前。日頃から声をあげるだなんてことが想像できないくらいにおっとりとなさったセリヌエール公爵夫人が、フォンクラークの“次期国王陛下”であると紹介した、あの方がいらしてからだ。
バルティーニュ公爵マディアス称制王殿下――南部の男性らしい屈強な体格と、次期国王というにはラフなお召し物に、周囲の人達とも気さくに言葉を交わす人だ。だがヴィオレットは人目その人を見た時から、そこはかとなく苦手意識を抱いていた。
周囲に向けるにこやかな顔と、しかし背を向けた瞬間に平然と移り変わるであろう冷たい為政者としての顔を混在させたその人に、アルトゥールやリディアーヌのような、到底ヴィオレットには理解しかねるその人達に似たものを感じたせいだ。
あれは多分、ヴィオレットには絶対に優しくはない人だ、と。
けれどその夜、殿下はヴィオレットを客人としてもてなすという理由で晩餐に招いてくれたし、かつてヴィオレットがフォンクラークで広めた物に対しても惜しみない称賛と、これからのビジネスの話、そして隠すことなくフォンクラーク人の好みや、どういうものが受けそうか、などという話もしてくださった。気さくな方であるのは間違いないのだ。
それに彼は気さくな顔と称制王としての顔という二つだけでなく、愛情深い家族への顔というものも持ち合わせていた。どうやら近縁に当たるらしいナディア夫人へはことさらそうで、殿下の前ではナディア夫人も小さな妹のように甘えたし、殿下も夫人に向けるまなざしはいつもの何割増しにも優しくて、夫のセリヌエール公に対しても、多少厳しさも混在はしているようだったものの、きちんと育ててやろうとよく世話を焼いているようだった。
そういう愛情深さ含め、実に“南部人らしい”という人柄だ。
だがそんな仲睦まじい二人が、離宮の庭で、大きな声で言い争っている。喧嘩するほど仲がいいとは言うものの、その様子はとてもじゃないがじゃれているだけとは思えなかった。
それに漏れ聞こえてきた言葉も気になる。
「おじ様、一体オランジェル侯に何を囁かれたのですか?! すでに選帝議会が始まっているというのに、選帝侯閣下方がご不在で、王国議会の一員であるベルテセーヌの国王陛下もいらっしゃいません。なのにこんなことっ」
「分かっている。おそらくユリウス王には後日、今日の議決は棄却を申請される」
「だったら何故ッ」
「分かるだろう、ナディア! ギュスターブに皇帝候補の肩書きが着くことで、国内で再びやつらが活気づいてはならない! ましてやそのような歴史を帝国史に刻まれるなどっ」
「ですがっ」
つかつかと歩いてくる二人の目的地はこの離れの建物であったらしく、物陰から窺っていたヴィオレットはもれなくぱっとこちらを見たバルティーニュ公の視線に見つかった。
心配をして降りてきただけなのだが、立ち聞きするような形になってしまったことにおろおろと言葉を探したが、それよりも早く、こちらに気が付いたナディア夫人が「騒がしくしてごめんなさいね、ヴィオレット様」と庇ってくださった。その様子に、頭を抱えたバルティーニュ公が一つため息を吐く。
遠目では分からなかったが、ほんの数日前と比べても、随分とお疲れの顔色だ。
「ナディア、分かってくれ。ギュスターブは先帝陛下との繋がりが深かった。皇宮に既知を得ておくにも、これは必要な事だった」
「……ですが……」
「君が公女贔屓なのはわかっている。私とて、ヴァレンティンの公女のことは気に入っているんだ。だが個人的感情と為政者としての利害とが一致しなければ、私は後者を選ぶ。公女だってそれは理解するはずだ。現に先程届いた公女の手紙は見せただろう? こうやって急いで対処に追われるほどの大変な要求はされたが、恨み言は一つも書かれていなかった」
「だからってっ……」
「私とて、ヴァレンティンの信頼を失いたいわけではない。出来ることはする」
「たとえそれで、望まぬ皇帝が立ってもですか?」
「勘違いをしているようだが、ナディア。私はユリウス陛下の事も買っている。遠い皇宮などではなく、隣国にあのように話の分かる王がいてくれたならばと願っている」
「おじ様っ!」
「この話はもう終わりだ。すでに決議は終わっているんだ。それに、客人の前で話す話でもない」
そうヒラヒラと手を振りながら離れに入っていく後姿に、急ぎ離れの中から出てきたセリヌエール公がそれを出迎えた。どうやら殿下の目的はセリヌエール公だったようだ。
公は少しナディア夫人の事を気にした様子だったけれど、その夫人が足を止め、腰に手を当てて深いため息を吐きながら見送ると、少し手を振ってから殿下を連れて入った。
「あの……大丈夫ですか? 夫人」
「見苦しいものをお見せしてご免なさい、ヴィオレット様。大したことではないのですよ。ただ一方的に鬱憤を吐いて、殿下に甘えていただけですわ。ただの憂さ晴らしですのよ」
そう言いながらも今一度深くため息を吐いた夫人に、どうしたものかとおろおろしていたら、「お茶をお淹れ致しましたよ」と、母屋の方で時折見かける、いつもどこかしらに包帯を巻きつけている奇妙な侍従が声をかけてきた。
「あら、フォール。貴方、こちらへの出入りは夫に禁じられていたのではなくて?」
「称制王殿下から、ナディア様にお茶を淹れるお許しを得ましたので」
「おじ様ったら……貴方がいたら私が目を離せなくなるからと、気を逸らすおつもりね。まったく、私をいくつの子供と勘違いしていらっしゃるのかしら」
そう言いながらも大人しく庭のガゼボに向かうナディア夫人に、自分はどうしたらいいのかとおろおろしていたら、その侍従に「ヴィオレット様もどうぞ」と誘われた。おそらく離れの方は殿下方が大事な話し合いをしていることもあり、ヴィオレットも外にいてもらった方が助かるのだろう。
「改めて、驚かせてしまってごめんなさい、ヴィオレット様」
「いえっ。私こそ、立ち聞きする気は無かったのですが」
この包帯まみれの侍従は見た目と雰囲気がちょっと怪し気でぞっとするのだが、淹れてくれてたお茶はとても香り高くて美味しかった。ミルクで煮出す南部風のそのお茶はチャイにも似ているけれど、それよりもまろやかでさっぱりとしている。おそらくベルテセーヌ出身というヴィオレットのために工夫をしてくださっているのだと思う。実際、本場のものよりもくどくなくて飲みやすい。
「おいしいです」
「フォールは何かと困った子なのですけれど、お茶を淹れるのだけは上手なんですの」
「光栄です、ナディア様」
トロンと目を蕩けさせて感謝するその姿を、ただの困った子で片付けていいのかどうかは甚だ疑問であったけれど、確かにこれは捨ておくには惜しい才能だ。
「リディアーヌ様にお預けしてしばらくは大人しくてとても良い子だったのですけれど、最近また度が過ぎてきましたね、フォール。もう一度あちらに調教をお願いしましょうか」
「またも放置プレイですか? あれはあれでとても楽しゅうございました」
「……やめておきましょう。これ以上リディアーヌ様にご迷惑をおかけはできないわ」
再び頭を抱えたナディア夫人に、フォールというらしいその侍従はクスと微笑みながら、真っ白なお砂糖ではなく黒糖のシュガーポットを差し出した。そちらが夫人の好みらしい。
「あの、夫人。先程、少しお話が聞こえてしまったのですが……何かあったのですか? その、お話しできないことなら構わないのですがっ」
「すでに決議が下ったものだそうですから、隠すことでもありませんわ。フォンクラーク本国でギュスターブ王の廃立が決まり、殿下はこちらでも皇帝候補の資格の棄却を議会にご提出なさっていたのです。私はてっきり皇帝戦が終わった後、今年の春の帝国議会で請求するものだとばかり思っていたのに……」
「資格の、棄却……つまりギュスターブ王は、禁事棟にいらっしゃるのに、皇帝資格を失ったのですか? あれ? えっと……そもそも現在は、資格があるのですよね?」
口にしてからすぐに、名ばかりとはいえ皇帝候補の妃としてあまりにも初歩的すぎる質問が恥ずかしくなったのだが、夫人は気にすることなく、「そうですよ」と教えてくれた。
「皇帝候補は、帝国が管理する王籍簿に名があることが条件です。あぁ、配偶者などではなく、当人が王籍簿の系譜の中に生まれていること、という意味です」
それは存じている。だからいかにヴィオレットが皇帝候補アルトゥールの妃であっても、クリストフ一世の庶出であるヴィオレットの母やヴィオレット自身には皇帝候補の資格はない。このナディア夫人も、王家傍流の生まれであり現在王弟殿下の夫人であるとはいえ、資格は持たないことになる。
どこまで王籍簿に系譜を載せるのかは国によってもまちまちだというが、フォンクラークでは庶出であるセリヌエール公も王籍簿には名が無く、先王や現王の項目に備考として記されているばかりだという。
「我が国ではおじ様……バルティーニュ公が政権を掌握し、ギュスターブ王の廃立を成し遂げましたけれど、廃立というのは王籍簿から名を消して初めて成立します。ただこの王籍簿は皇帝陛下が管理するものであって、陛下ご不在中には改変ができないのが原則です」
「あ……はい。そうですね」
「しかしバルティーニュ公はそれを破り、王籍簿への改変を要求し、今日の王国議会でその審議が通過、議決されてしまったのですわ」
「二日まで待てば、皇帝陛下が立たれるのにですか?」
「一度でも皇帝候補として名が挙がってしまえば、王籍簿から消せなくなるからと急いだのです」
「え?」
「勿論、廃立すること自体は無理ではありません。けれど皇帝候補資格を取り消され、皇帝候補であった事実自体が無くなれば、名は罪状と共に線引きされるのに対し、皇帝候補を経験した上での廃立となると、名を消されるのではなく、ただの廃立として刻まれることになるんです。たとえもう二度と皇帝候補になる心配がなかったとしても、七王家王室にとって王籍簿にその名がどう記されているのかは大事なことなのです」
「名前が削られるか、ただ廃立と刻まれるか……」
ヴィオレットが王籍簿をその目で見たのは、アルトゥールとの婚姻を結んだ時の一度きりだ。皇帝陛下と皇宮国教局局長、婚儀を受け持ってくださった枢機卿猊下が立ち会い、王籍簿が禁書庫から持ち出され、それを刻まれた。じっくりと見たわけではないけれど、この帝国の歴史を象徴するかのような分厚い書物で、そこに細かい文字でびっしりと複雑な系譜が刻まれていた。ここに名を刻むことは神事としての側面もあるという。
聞いた話では、冬の間にリディアーヌ様を皇帝候補に担ぎ出さんとした人がいたことも、ベルテセーヌの王籍簿にその名前があるせいだという。名前が削られておらず、ただ薨去と書かれているだけだから、それを誤記と認めるだけで十分に皇帝資格を持ちうるのだとか。
名が削られることと、ただそこに言葉が書き添えられるだけであること。この二つには大きな違いがあるのだ。
なるほど。だからバルティーニュ公は、徹底的にギュスターブ王の存在をフォンクラークの正統性の中から排除するためにも、王籍簿からその名前を削りたかったのだ。
バルティーニュ公は、二代前の王バルバドルの同母弟であるが、その直系ではない。他にもバルバドル王の血を引く王族がいる中で王権を掌握するのに、その正統性を主張せねばならない。
先王ジュドワールは皇帝候補として全うしたせいで、すでに王籍簿から削られるという事が出来なくなっている。だがジュドワールには直系の子孫がいないため、問題ない。
一方で現王ギュスターブにも直系の子孫はいないが、弟であり罪人として皇宮で処されたグーデリックの息子がいる。だから王籍簿からギュスターブの名を削らない限り、あくまでもバルティーニュ公……少なくともその娘は“傍系王族”になってしまうのだ。
「つまりバルティーニュ称制王殿下は、傍系王族ではなく直系王族としてフォンクラークの玉座を引き継ぐために、ギュスターブ王の王籍簿での名を削りたいのですか?」
「そういうことです。私は別に、おじ様やティアンナ姫が傍系だろうが直系だろうが気にいたしません。けれどそれを煩く問題にしたがる者もいるのです。後継者となるティアンナ様のためにも少しでもそうした雑音を抑え込みたいというお気持ちが分からないわけではありませんわ。ただ……」
今は選帝議会の真っただ中。すでに議会が始まっているのに、いまさら資格の取り消しだなんてことをしては、駆け引きが行われているであろう禁事棟の中でどんな騒動が起きるともしれない。
しかもその問題のギュスターブ王が、禁事棟の中にいるのだ。ナディア夫人が柄にもなく声を荒げるほどの不安を抱くのも無理ない話だった。
「ですがナディア夫人、先程の口ぶりだと、どうせ後からこの審議は棄却される、みたいなことを仰っていませんでしたか?」
「当然ですわ。そもそも今回の件は利害が一致した三侯のお一人オランジェル侯が仕切っており、それから……クロイツェンの皇王陛下などがご協力になっておきている案件です」
少し夫人が言い辛そうにしたのは、ヴィオレットにアルトゥールの妃という肩書きが残っているからだ。クロイツェンの皇王は義父に当たる。これは少しばかり気まずい。
「先の皇帝陛下がクロイツェンから立っておられますから、今のクロイツェン派の臣下で埋め尽くされている皇宮では何かと皇王陛下の影響力は大きいのです。けれど本来、皇帝陛下ご不在時の皇帝政務は、皇帝陛下御直臣の筆頭である選帝侯閣下方のお役目。当たり前ですが、たとえ内皇庁の長であろうと、七王家の王であろうと、そのような国の大事を独断で決める権利はないのです」
「では、なぜ……」
「あら、ヴィオレット様は春の帝国議会の流れをご存じないのですね」
「……ふ、不勉強で……」
「あぁ、ごめんなさい。責めているわけではないのですよ」
説明の段取りのために確認しただけです、とフォローはしていただいたものの、正直、恥ずかしさでいっぱいだった。
アルトゥールとの関係は、契約結婚だ。アルトゥールはヴィオレットがリベルテ商会を誘致することも支援してくれたし、原作で知っていた危機に対する助言も重宝された。それですっかりクロイツェンという国に関わっている気になっていたが、今になって思うと、本来の“皇太子妃”としての仕事にはほとんど関わっていなかったように思う。そもそも口を挟もうにも、アルトゥールは一言の提案だけでぱっと物事を綺麗に片付けてくれるものだから、一体どんな方法でそれが実施されているのかなど気にする暇もなかった。
だがそれは、帝国の五選帝侯家と七王家による重大な議会の手順を全く知らない理由にはならない。自分はそれを知ろうという自発的な行動を何ら起こすこともなく、それでいてアルトゥールに対し、自分は皇帝戦の結果を知っているからとドヤっていたのだ。
これではアルトゥールに信頼を得られなかったのも当たり前である。
「春の帝国議会は、各国の王達による話し合いという王国議会、それから皇帝陛下の御世を監査する選帝侯議会の二つからなります。王達は自国の立場や利益のために議題の提出を行い、皇帝陛下はその仲介を担いつつ、帝国としての方針について話し合います。選帝侯はその議会において皇帝陛下が公平であることを監督し、また七王家の要求を精査する役目も担っています。もっとも、選帝侯議会の長はその皇帝陛下を擁立した家門から立てられますから、皇帝陛下の御世に対する監視などというのは言い過ぎですが」
「えっと……先帝陛下の時代におけるザクセオン大公ということですね」
「ええ。一年間の帝国議会での決定に対して、皇帝陛下が正しくその方針を履行しているかどうかを監督し、実質、皇帝陛下と七王家との間を介する存在ですね。その役割は皇帝陛下のご不在時にはことさらで、内皇庁が皇帝陛下の権限を犯して身勝手な差配をしないよう抑止し、また七王家がその機会に皇帝権力を犯さないことの監視も担いますから、皇帝陛下不在の今、選帝侯閣下方は皇帝代理ともいえる権限をお持ちなのです」
「そこまでですか?!」
「……ベルテセーヌは独自の気風が高いとはリディアーヌ様も仰っておいででしたけれど」
さすがに少し呆れた顔をなさったナディア夫人に、ヴィオレットも自分の言葉が選帝侯家を侮っていたことを明言するものであったことに気が付き、恥じ入ってしまった。
これまで選帝侯家は、ただ皇帝陛下を選ぶ権限を与えているだけのイメージを持っていた。だから王家が選帝侯家に過分な配慮をするのは皇帝戦のためだと。だがその認識自体が間違っていたのだ。あぁ、どうりでこの件でアルトゥールと意見が合わず、リディアーヌ様にも睨まれたはずである。
リディアーヌ王女が“公女”になることは、いわゆる“格下げ”なのだと思っていた。だがこの様子だと、それはとんだ勘違いだったのかもしれない。
「選帝侯家は皇帝陛下をご選出する家門というだけでなく、唯一、現役の皇帝陛下に対して、その統治資格の是非について議題に挙げることを許されている家でもあります。それは選帝議会中であっても変わりません」
「……では」
「ええ。事情がどうあれ、ヘイツブルグ選帝侯閣下により皇帝候補に立てられた人物に対してケチをつける行いはまったく褒められたことではなく、選帝侯閣下、さらには選議卿閣下方にも批難される“越権行為”です。選帝議会前までに資格失効の申し立てをするならまだしも、議会が始まってから……しかも最終選挙の前日だなんて。誰が何と言い訳しようとも、棄却は間違いありません。完全な皇王陛下とオランジェル侯の越権ですわ」
確かに。
だがどうしてわざわざ棄却されると分かっていて審議にかけたりしたのかが分からない。そう首を傾げたヴィオレットには、ナディア夫人が再び丁寧に教えてくれた。
「これはあくまでも、後日棄却の訴えを受けることを理解した上で、その訴えを説得して事後承諾を得ることを目的にしているのです。正直、皇宮はアルトゥール殿下が皇帝になられると思っております。オランジェル侯を留任させ父皇王陛下に責などと負うはずもないアルトゥール殿下であれば、越権も見過ごして下さいましょう。そうでなくともおじ様は、国同士の関係として既知を得ているユリウス陛下であっても交渉は可能だと思っているのです」
「えっと……言わんとしていることは分かりますけれど、リディアーヌ様がそんなことで許してくれますかね?」
「ふぅ……まったくです。おじ様は私の敬愛する友人を舐めすぎですわ。ただまぁ、先程その公女様からご腹心の文官が寄越されて、有無を言わさぬ“補填”を命じられましたから、もしかするとお許しも……いいえ、そんなのは甘い考えですわね。いずれにしても私、これではリディアーヌ様に合わせる顔がありませんわ」
そう言って再びため息を吐いた夫人に、ヴィオレットもかける言葉を思いつかなかった。
原作では、皇帝戦というのはそんなに複雑なものではなかった。そもそもギュスターブ王自体が皇帝戦に関与していない。そもそも他の皇帝候補達すらまったく印象にも残っていない。五日間の選帝議会が始まるより前にリディアーヌ公女がアルトゥールと将来を誓い合ったことで、皇帝戦はもはや何の問題も起きようがなく、たった数行でアルトゥールが皇帝になり得たのだ。
それどころかリュシアン“王子”は原作第二部で解放され皇帝候補に立てられたとはいえ、ベルテセーヌではまだ王権転覆は完了しておらず、またバルティーニュ公がフォンクラークで王権転覆をおこすのも皇帝戦の後だった。すべてはアルトゥールが皇帝に、そしてリディアーヌがその許嫁という立場になった後、国を取り戻すべく奮闘するヴィオレットを主人公に書かれていたのが原作第三部だ。
しかし今やそんな原作は何の意味もないほどに状況が変わっている。そして実際にその渦中に身を置いてみれば、ただのロマンス小説がどれほど上辺だけをなぞった浅い内容だったのかと実感するほどに複雑だ。ヴィオレットはこの状況の流れを理解するだけでも手いっぱいだ。
それもそうだろう。自分は今まで少しとして、理解しようという努力をしたことが無かったのだから。だって、上辺だけでも十分に原作のままに進むものだと思っていたから。
「禁事棟の中は、どうなっているのでしょう……」
「ヴィオレット様には中に入る資格もあったのですが、結果的に私が引き止める形になってしまいましたね。お恨みになっていませんか?」
「とんでもありませんっ。どのみち中にいたところで何の役にも立たず、アルの……皇太子殿下のご迷惑になっただけでしょうから」
「あえて否定は致しませんよ」
そうクスクスと笑った夫人に、ヴィオレットも苦笑を浮かべた。下手な慰めよりも、そちらの方がすんなりと受け入れられる。
「しかしきっと、貴女一人でも引き止められたことは、私の英断であったと思います。今この瞬間も、あの中で一体どれほどの出来事が起きているのか。不安でたまりませんもの」
「ナディア様は、それでさっき、あのように」
「私とて、おじ様の公的な立場は理解いたしますわ。ですが……」
言葉を飲み込んで遠くを見やったその横顔に、再びヴィオレットは言葉を飲み込んだ。
あぁ、私は本当に、何も分かっていなかったのだ。
その恐怖とも心配とも取れる表情は、今まで一度としてヴィオレットがしたことのない顔だ。そう、恋だ愛だといいながら、今までヴィオレットは一度もアルトゥールの心配などしたことは無い。原作で、彼が何憂うことなくその地位を手にしたからだ。
だがナディア夫人は違う。彼女にとってはアルトゥールもリディアーヌも、そしてザクセオンの公子や、たしか聖職者の中にも知り合いがいたはず。その皆が彼女にとっては大切な友人で、思い出有る人達であり、傷ついて欲しくない人達なのだ。
「あぁ……私は、なんて上っ面だったのかしら」
思わず呟いた言葉にナディア夫人は一つ目を瞬かせ、それからそっと笑みを浮かべたけれど、決してそれを否定するような優しい言葉はかけてくれなかった。
ええ、その通りですよ。ようやく気が付いたんですね、と。そう言われているようだった。
そして私達は彼女のその不安が的中したことを、そろそろ夢に落ちようかという時分になって知ることとなった。
柔らかな布団に横たわり、目を閉じる事すらできない。深い後悔と心配と焦燥にぐちゃぐちゃになりながら、ただ祈るしかできないもどかしさ――それを知った、夜だった。




