第九章 見世物にされた人
汐崎瑚子は、泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
怖がってもいなかった。
少なくとも、表面上は。
彼女はスマートフォンを握り、ラウンジの端でじっと座っていた。背筋は伸びている。膝の上には小型カメラ、隣にはモバイルバッテリーと折りたたみ式のミニ三脚。いつでも撮れるよう、すべてが整えられている。
それは、死者が増えた青燐荘ではひどく異様な姿だった。
谷本亮一。
吉住俊太郎。
黒崎透。
生見彩音。
白川一冴。
すでに五人が死んでいる。
浜島莉子は毒物を口にさせられかけた。
救命ボートは一隻使えず、外の海は荒れ、橋のいくつかは封鎖され、無線室には「十三番、応答なし」という存在しない番号の記録が残った。
その場で、汐崎だけが、まだ外へ向かっているように見えた。
正確に言えば、外へ伝える準備をしていた。
真壁彰は、窓際から彼女を見ていた。
汐崎はSNS記者を名乗っている。既存メディアには所属していないが、災害、行政、追悼事業、隠蔽疑惑などを扱う個人メディアとして、それなりの発信力があるらしい。彼女は最初から青燐荘の追悼事業に疑いを持っていた。事故を防災教育に変えるという綺麗な言葉の裏で、何かが隠されていると感じていた。
その直感は、ある意味で正しかった。
だが、正しい直感が人を救うとは限らない。
時には、人を殺す。
二階堂壮也が、汐崎の前に立った。
「スマホ、しまってください」
柔らかい声だった。
だが、その柔らかさは、相手に逃げ道を作るためのものではない。むしろ、逃げ道を塞ぐための布だった。二階堂は人に圧をかける時、声を荒げない。
汐崎は顔を上げた。
「まだ撮っていません」
「撮るつもりはありますよね」
「記録は必要でしょう」
「記録と配信は違います」
「またそれですか」
汐崎は笑った。
その笑いには、疲労も恐怖も混ざっていた。だが、それ以上に意地があった。
「警察の広報の人って、便利ですね。何でも“今は出せない”って言える」
二階堂は表情を変えない。
「出した瞬間に誰かが危険になる情報は、出せません」
「もう危険でしょう」
「だからです」
「だから、隠すんですか」
「違います」
「どう違うんですか」
二階堂は少しだけ沈黙した。
ラウンジにいる者たちの視線が二人へ集まる。
高柳真治はうつむき、浜島莉子は硬い表情で聞いている。笠木浩明は窓際から動かない。今西琴葉は職員との連絡を終え、疲れた顔で立っていた。安西実結は、記録係としてペンを持ち続けている。
江口桜次郎は、生徒のいる部屋の扉に寄りかかっていた。だが、今は汐崎と二階堂を見ている。高校時代の同級生として、二階堂の声の変化を知っているのだろう。
二階堂は言った。
「見せていいものと、見せた瞬間に誰かを殺すものを分ける仕事です」
汐崎の目が細くなった。
「それ、隠す側の理屈ですよ」
「そう見えるでしょうね」
「実際、そうでしょう。十八年前もそうやって、報告書が整えられた。人の名前が消えた。今度もまた、都合のいい順番で発表するつもりですか」
二階堂の表情が、ほんの少しだけ変わった。
怒った。
真壁には分かった。
汐崎も、二階堂の職能に触れてしまった。
広報。
説明。
発表の順番。
二階堂にとって、それは隠蔽のための技術ではない。むしろ、隠蔽にもっとも近い場所に立つからこそ、言葉で責任を消すことを嫌う。彼は自分の仕事が誤用されることに、誰より敏感だった。
「汐崎さん」
二階堂は静かに言った。
「あなたが今、外へ流そうとしているのは真実じゃない。途中経過です」
「途中経過にも価値はあります」
「あります。ただし、途中経過は、受け取る側が好きに欠けた部分を埋める。犯人がそこに紛れます」
「では、誰が完成版を作るんですか。警察ですか。施設ですか。報告書ですか」
二階堂は答えなかった。
汐崎は畳みかける。
「死者が出ています。五人も。未遂を含めれば六つの事件です。安西瑠衣という名前も出た。十三人目。救助対象外。無線の十三番。これを外に出さずに、この施設の中だけで抱えていたら、また綺麗な言葉にされるんじゃないですか」
その問いは、間違っていない。
だから厄介だった。
真壁は窓の外を見た。
海は黒い。
青燐荘の内部で起きていることは、外から見えない。
見えない場所で何が起きたのかを、後から言葉にする者がいる。十八年前もそうだった。報告書。検証委員会。追悼展示。パンフレット。言葉は現場のあとに来て、現場を整える。
整えることそのものが悪ではない。
だが、整え方を間違えれば、人は二度殺される。
汐崎は、それを恐れている。
二階堂も、それを恐れている。
同じものを恐れているのに、立つ場所が違うから衝突している。
江口が、扉のそばから言った。
「二階堂、怒ってるな」
二階堂は振り向かない。
「怒ってない」
「高二の文化祭で、実行委員の予算表を勝手に書き換えた奴に怒った時と同じ顔してる」
「記憶力いいな、嫌な方向に」
「お前、昔から段取りを汚されると怖かった」
「段取りじゃない。人が困る」
「ほら、怒ってる」
二階堂は息を吐いた。
汐崎が、そのやり取りを見ていた。
「高校の同級生ですか」
「そうです」
江口が答えた。
「高二と高三で同じクラス。部活も一緒。二階堂は昔から顔がよくて、段取りがよくて、人に好かれる努力まで品がよかったです。腹立つでしょう」
汐崎は少しだけ笑った。
場が一瞬緩む。
だが、それは長く続かなかった。
汐崎はスマートフォンを握り直す。
「私は配信します」
二階堂の目が冷える。
「許可できません」
「許可はいりません」
「ここは事件現場です」
「事件現場だからこそです」
「あなたの配信で、犯人が動く可能性がある」
「もう動いています」
「被害者の情報が外へ出る」
「出さなければ、被害者の名前はまた消される」
二階堂は一歩近づいた。
「汐崎さん」
声が低くなる。
「あなたは、誰のために流すんですか」
「真実のためです」
「違います」
「違う?」
「あなたは今、順番を奪おうとしている」
汐崎の顔が強張る。
二階堂は続けた。
「犯人が何を見せたいのか、まだ分からない。でも、この事件は順番で作られている。誰を何番目に殺し、どこで見つけさせ、どういう意味を与えるか。犯人はそれを管理している。あなたが外へ流せば、その順番が壊れる」
「壊れて困るのは犯人でしょう」
「犯人は、壊された順番を取り戻そうとするかもしれない」
「脅しているんですか」
「警告しています」
汐崎は黙った。
真壁は二階堂を見た。
彼は今、ほとんど真相に近い場所を触っている。
犯人は、世間に知られたくないのではない。
知られる順番を奪われたくない。
それは、記録に執着する人間の感覚だ。
安西実結が、ペンを止めていた。
ほんの一瞬。
まただ。
真壁は見逃さなかった。
汐崎は、スマートフォンをバッグに入れた。
その動作を見て、二階堂が少しだけ肩の力を抜く。
だが、真壁は安心しなかった。
汐崎の目は、諦めた人間の目ではなかった。
納得していない。
むしろ、決めた目だった。
その夜、食堂棟への橋は制限つきで通行可能だった。
施設側は、食事の提供を中止し、非常食だけを管理棟へ運んだ。生徒たちと負傷者、体調不良者には未開封の水と栄養補助食品が配られた。誰も味を気にしなかった。食べることは、もはや生命維持の作業だった。
真壁は、ラウンジから食堂棟の方を見た。
ガラス張りの食堂棟は、夜になると別の建物に見えた。
昼間は海を眺めるための透明な壁だったガラスが、今は鏡になっている。室内の灯りを反射し、人の影を重ね、向こう側にあるものとこちら側にあるものを曖昧にする。
鳳が隣に来た。
「気になりますか」
「あのガラスか」
「はい」
「何かあるのか」
「夜間は強い反射が出ます。外が暗く、室内が明るいと、向こうを映すのではなく、こちら側を映す。あるいは、別の空間を重ねる」
「別の空間?」
「食堂棟の構造は少し複雑です。客席の外周にガラス、裏手に配膳通路、そのさらに奥に厨房と保管庫。角度によっては、ガラスに映った配膳通路が、客席内にあるように見える」
真壁は鳳を見る。
「使えるか」
「錯覚には」
「殺人にも?」
鳳は一拍置いた。
「使えます」
その答えは、控えめだが明確だった。
「ただし、かなり条件が限定されます。灯りの位置、スマートフォンの角度、人の立ち位置、ガラスの反射率。偶然では難しい」
「計算すれば?」
「可能です」
真壁は食堂棟のガラスを見た。
そこに人影が揺れている。
実際には誰もいないはずの場所に、何かが動いたように見えた。
錯覚。
だが、錯覚は事件では証言になる。
人は、自分が見たものを信じる。
そして、見たものが何だったかを簡単に間違える。
その頃、汐崎瑚子はラウンジから姿を消していた。
最初に気づいたのは、安西実結だった。
「汐崎さんがいません」
記録係の声は小さかったが、妙に通った。
二階堂が顔を上げる。
「いつから」
「二十二時十三分まではラウンジにいました。二十二時十六分に、席を離れています」
「記録してるんですか」
「はい」
「どこへ」
「化粧室へ行くと」
真壁は立ち上がった。
「戻っていない?」
「はい」
二階堂の顔が変わる。
「スマホは?」
「持っていました」
「くそ」
彼は低く吐き捨てた。
汐崎は配信を諦めていない。
「食堂棟だ」
真壁が言うと、鳳も頷いた。
「ガラスを背景にするなら、あそこです」
「行くぞ」
真壁、鳳、九条が走る。
江口が扉の前から声を上げた。
「生徒は俺が見ます!」
「ああ!」
二階堂は振り返らず答えた。
橋へ出ると、風が強かった。
海は暗い。遠くの波音が、金属の床を通して足裏に伝わる。食堂棟のガラスには、室内の灯りがぼんやり映っている。人影はないように見える。だが、ガラスは信用できない。鳳の言葉が頭に残っていた。
食堂棟に入ると、客席は薄く照明がついていた。
誰もいない。
長いテーブルは片づけられ、椅子が壁際へ寄せられている。昨夜、浜島莉子が毒物を口にした場所は、清掃されていた。だが、真壁には白いクロスの上に残った吐瀉物の跡がまだ見える気がした。
鳳がスマートフォンを取り出す。
「汐崎さんのアカウント、配信開始しています」
「見せろ」
画面には、食堂棟のガラスが映っていた。
配信タイトル。
【青燐荘連続死】公式記録にない十三人目/救助順を変えたのは誰か
視聴者数は少ない。だが、録画は残る。外へ出る。
画面の中で、汐崎の声がしていた。
「ここは青燐荘の食堂棟です。十八年前の海難事故を追悼するための施設で、現在、複数の不審死が起きています。公式には死者十二名とされてきた事故ですが、現場では“十三人目”の存在を示す資料が――」
真壁が歯を食いしばる。
「止める」
その瞬間、画面の奥に影が映った。
ガラス越し。
汐崎の背後。
金色に見える髪。
細身のシルエット。
汐崎が振り返る。
「あなた……」
映像が揺れる。
画面の端に、紫がかった光が一瞬走ったように見えた。
次の瞬間、汐崎の声が途切れた。
小さな悲鳴。
何かが倒れる音。
スマートフォンの画面が床を映す。
赤いものが、ガラスの反射の中で広がっていく。
「汐崎さん!」
真壁が走り出した。
九条も続く。
映像では、汐崎は客席側のガラス前で倒れたように見えた。だが、客席には誰もいない。床に血もない。
「どこだ!」
真壁が叫ぶ。
鳳がガラスと照明の角度を見た。
「配膳通路です!」
食堂の裏手へ回る扉がある。そこを開けると、細い通路が続いていた。ステンレスの棚、配膳台、冷たい床。そこに、汐崎瑚子が倒れていた。
腹部から血が広がっている。
スマートフォンは、通路の端に落ちている。まだ配信が続いている。画面には、倒れた汐崎ではなく、ガラスの反射と床の一部が映っていた。
九条がすぐに膝をつく。
真壁は周囲を見る。
凶器は見当たらない。
通路の奥には厨房。
反対側には客席へ戻る扉。
誰かが逃げたなら、どちらかだ。
二階堂は通路の入口で固まっていた。
顔が白い。
理由は分かる。
配信映像に映った影は、二階堂に似ていた。
金髪。
細身。
そして汐崎との直前の口論。
真壁は二階堂を見た。
「お前、どこにいた」
二階堂は真壁を見返した。
「ラウンジから一緒に来た」
「来る前だ」
「ラウンジ。江口、安西、今西さんたちといた」
「一瞬、席を外したか」
二階堂は少しだけ唇を引き結んだ。
「外した」
「いつ」
「汐崎さんがいなくなる少し前。廊下で職員に呼ばれた。高柳さんが裏口へ向かったと聞いて確認に行った」
「誰に呼ばれた」
「職員服の男」
まただ。
真壁は奥歯を噛んだ。
生見の時、笠木も職員服の男に呼ばれている。
「顔は」
「廊下の暗いところだった。はっきり見てない」
「戻った時には」
「汐崎さんがいないと安西さんが言った」
九条が顔を上げた。
「死亡している」
短く、それだけだった。
汐崎瑚子の口は、少し開いたままだった。
最後に何か言いかけたような顔。
スマートフォンには、まだ外の世界がつながっている。
二階堂がそれを見て、ひどく低い声で言った。
「配信を止める」
「待て」
真壁が制した。
「証拠だ」
「でも外に流れてる」
「止めても録画は残る。触る前に記録する」
二階堂は一瞬だけ葛藤した。
それから頷いた。
「分かった」
鳳がスマートフォンの位置を撮影する。九条は遺体の傷を確認する。
「刺創は腹部に一箇所。かなり深い。即死ではないが、短時間で失血している」
「凶器は」
「この場には見えない」
真壁は通路を見た。
血痕は汐崎の周囲に集中している。
客席側にはない。
つまり、配信映像で客席側に見えた倒れる場面は、ガラス反射か錯覚だった。
鳳が言う。
「やはり、映像に映っていたのは客席ではありません」
二階堂が顔を上げる。
「何?」
「ガラスに反射した配膳通路です。スマートフォンは客席側へ向けられていたように見えますが、実際にはこの通路奥の反射を拾っている」
「でも、影は」
「作れます」
鳳は通路の壁に貼られた非常用反射シートを見た。
一部が剥がされている。
「金髪に見えたものは、おそらく反射シートです。光を受ければ、黄色や金色に映る。人の頭部に重ねれば、髪のように見える」
二階堂は映像を見直した。
画面の中、汐崎の背後に現れた金色の影。
確かに、髪というより反射に近い。輪郭が不自然に平たい。
「紫に見えた光は」
真壁が言う。
鳳は少し考えた。
「非常灯の青紫の反射でしょう。二階堂さんの目に見せかけたのかもしれません」
二階堂が低く笑った。
「ずいぶん丁寧に俺っぽくしてくれたな」
笑いに温度はなかった。
真壁は映像を確認した。
「時計が逆だ」
「え?」
二階堂が覗き込む。
画面の端に映った壁時計。
針の位置が左右反転している。
「映像は鏡像だ」
二階堂の目が変わる。
自分への疑いを忘れた目ではない。
疑いを解く側の目だった。
「待って。これ、ガラス越しの直接映像じゃない。反射を撮ってる。だから左右が逆になる。非常灯の位置も逆。つまり、汐崎さんが見ていた相手は、画面に映っている場所にはいない」
真壁は頷いた。
「殺害現場は配膳通路。映像上の影は、ガラスに反射した別角度の影」
二階堂はさらに映像を止める。
「ここ。俺に似た影が近づく直前、足元が映ってない。体の下半分がガラスの縁で切れてる。人間の位置を誤認させるためだ」
鳳が補足する。
「スマートフォンの高さも計算されています。床に置いたのではなく、低い配膳台に固定されていた可能性があります」
「汐崎さん自身が置いた?」
「配信のために置いたのでしょう。ただ、置く位置を誘導された可能性があります」
真壁は汐崎のスマホ周辺を見た。
小型三脚。
角度調整。
配信者である汐崎なら、自分でセッティングする。犯人は、その習性を利用した。
まただ。
被害者の仕事を利用している。
汐崎は、見せるためにカメラを置いた。
そのカメラが、彼女自身を見世物にした。
二階堂が、ひどく静かな声で言った。
「映像は嘘をつかないって、よく言うけど」
彼は画面を見つめている。
「嘘をつかないのは記録だけだ。見た人間の解釈は、いくらでも騙せる」
真壁は彼を見る。
この事件は、二階堂への挑発だった。
広報。
映像。
見せ方。
世間にどう読まれるか。
犯人は、それを使って二階堂を犯人に見せようとした。
だが、同時にそれは二階堂の領域でもある。
だからこそ、二階堂は怒っている。
汐崎の死体が管理棟へ運ばれた後、ラウンジは一気に混乱した。
すでに映像の一部は外へ流れている。視聴者数は少ないが、録画が保存されている可能性がある。職員が通信を遮断しようとしたが、完全にはできない。海上施設である青燐荘は外部連絡が不安定だが、不安定だからこそ、何がどこまで出たか分からない。
そして、映像に二階堂らしき影が映っていたことは、すぐ全員に伝わった。
汐崎を刺したように見える金色の影。
直前に汐崎と口論していた二階堂。
短時間の所在不明。
条件だけを並べれば、疑う余地はある。
浜島莉子が二階堂を見た。
「あなたが?」
その声には、疑いと願いが混ざっていた。
二階堂が犯人であってほしくない。
だが、誰かが犯人でなければならない。
そんな声だった。
二階堂は静かに答えた。
「違います」
汐崎の死体を見た直後より、むしろ落ち着いていた。彼はこういう時、自分を整える。弱っている時ほど、身なりや口調を崩さない。それが二階堂壮也という人間の癖だった。
汐崎のスマートフォンから保存した映像を、鳳の端末で再生することになった。
全員が見る。
江口は生徒たちを奥へ下がらせた。
「君たちは見なくていい。というか見せません。先生の顔でも見ていてください。素材は悪いですが、死体よりはマシです」
生徒の一人が泣きそうな顔で頷いた。
江口はその子の肩に手を置き、扉を閉めた。
ラウンジ中央のテーブルに、映像が映る。
汐崎の声。
青燐荘連続死。
公式記録にない十三人目。
救助順を変えたのは誰か。
そして、背後に現れる影。
何度見ても、ぱっと見では二階堂に見える。
金色。
細身。
柔らかい輪郭。
汐崎が振り返り、息を呑む。
画面が揺れる。
崩れる。
血のような赤。
浜島莉子が目を逸らす。
高柳は青ざめている。
今西は口元を押さえる。
笠木は映像ではなく、二階堂を見ている。
安西実結は記録している。
そのペンの動きが、真壁にはやけに気になった。
二階堂は映像を一時停止した。
「ここを見てください」
声は冷静だった。
「壁時計が逆です」
彼は画面の端を示す。
「実際の食堂棟の時計は、入口から見て右側にあります。でも映像では左側に見える。つまりこれは直接映像ではなく、ガラスの反射を撮っています」
鳳が続ける。
「食堂棟のガラスは、夜間、鏡になります。汐崎さんのスマートフォンは、客席を撮っているように見えて、実際には配膳通路の反射を拾っています」
二階堂が次の場面を示す。
「次に、この金色の影。これは髪ではありません。反射シートです。現場の配膳通路から剥がされた非常用反射材と一致する可能性が高い」
真壁が言う。
「汐崎さんは、配信のために自分でカメラを置いた。犯人はその位置を誘導し、反射で別の場所の影を映した」
「そして、二階堂さんに似せた」
鳳が言う。
二階堂は頷いた。
「俺を疑わせるためでしょうね。直前に彼女と口論していた。俺は金髪で、細身で、映像の見せ方を扱う仕事をしている。犯人にとっては都合がいい」
汐崎が死んだ。
その直後に二階堂が自分への疑いを解いている。
それは奇妙な光景だった。
だが、説得力はあった。
映像の中の時計。
非常灯の位置。
血痕の場所。
汐崎の倒れた実際の位置。
九条が遺体の刺創角度から補足する。
「映像の影が近づいた方向と、刺された方向は合わない。汐崎さんは配膳通路側で、右斜め前から刺されている。映像上の影は、ガラスに映った反射にすぎない」
江口が小さく言った。
「要するに、みんな映像を見たけど、見ていた場所を間違えたんですね」
二階堂が頷く。
「そう」
「怖いですね」
「映像は怖いよ。分かりやすいから」
二階堂は端末を閉じた。
「人は分かりやすいものほど疑わない」
真壁はラウンジの全員を見た。
二階堂への疑いは完全には消えていない。だが、少なくとも映像だけでは彼を犯人にできないことは分かったはずだ。
しかし、別の問題が残っている。
汐崎はなぜ殺されたのか。
彼女は何を知ったのか。
真壁は、汐崎のスマートフォンに残っていた配信前の短い動画を再生した。
それは本配信の直前に撮られたらしい。カメラの角度調整のためか、映像は揺れている。汐崎の声が近い。
「あなた、十三人目の関係者なんですね」
相手の声は入っていない。
映像の端に、腕が一瞬映る。
腕章。
記録係。
真壁は再生を止めた。
ラウンジが静まり返る。
安西実結の顔を見る。
彼女は何も言わない。
二階堂が静かに訊いた。
「安西さん」
「はい」
「汐崎さんと、配信前に会いましたか」
「会っていません」
「この腕章は」
「私と同じものに見えます」
「同じもの?」
「記録係の腕章は、予備があります。職員用備品として」
「誰でも使える?」
「職員なら」
答えは整っている。
だが、整いすぎている。
真壁は映像の端をもう一度見た。
腕章は確かに記録係のものに見える。だが、顔は映っていない。安西本人とは断定できない。
犯人が安西に見せかけた可能性もある。
あるいは、本当に安西なのかもしれない。
真壁はまだ決めない。
ただ、二階堂はもう安西から目を離していなかった。
「汐崎さんは、十三人目の関係者に会った」
二階堂が言う。
「その直後に殺された。理由は、配信そのものか、彼女が相手の正体に近づいたからか」
「両方だろうな」
真壁は言った。
「犯人は、事件の順番を外へ流されたくなかった」
二階堂が頷く。
「知られたくないんじゃない。知られる順番を奪われたくなかった」
その言葉に、安西実結の指がわずかに動いた。
真壁は見た。
まただ。
彼女は反応を抑えている。
だが、完全には消せていない。
浜島莉子が震える声で言った。
「次は誰なんですか」
誰も答えなかった。
答えれば、そこに次の役が生まれるからだ。
ラウンジの外では、食堂棟のガラスに青燐荘の灯りが映っている。
そこには、いくつもの影が重なっていた。
本物の影。
反射の影。
見間違えた影。
見せられた影。
汐崎瑚子は、事件を見せようとして殺された。
そして最後に、彼女自身が見世物にされた。
映像は外へ流れた。
止めることはできなかった。
だが、その映像が映していたものは、真実ではなく、真実の形をした罠だった。
真壁は窓の外を見た。
海はまだ荒れている。
青燐荘はまだ閉じている。
そして犯人は、死体だけでなく、見え方まで支配し始めていた。




