第八章 名前を入れ替えられた死体
生見彩音の死体が運ばれたあとも、ラウンジには無線室の匂いが残っている気がした。
実際には、そんなはずはない。
排気の匂いは管理棟奥の無線室にあった。生見が倒れていた部屋の換気口付近に、微かに残っていただけだ。ラウンジまで流れてくるほど強くはなかった。だが、人間の記憶は匂いに似ている。どこかで嗅いだと思った瞬間、実際にはないものまで鼻の奥に残る。
青燐荘にいる誰もが、もう何かを嗅いでいた。
海水。
古い紙。
金属。
排気。
死。
そして、順番をつけられる気配。
真壁彰は、窓際に立ったまま、ラウンジの全員を見ていた。
人は減っている。
昨日ここへ来た時には、追悼会の参加者と職員、江口桜次郎の生徒たち、外部協力者がそれぞれの席に座り、それなりの距離を保っていた。互いの不信はあったが、それでもまだ会話の余地があった。
今は違う。
椅子ひとつ分の空白が、人ひとり分の死を示す。
谷本亮一の席。
吉住俊太郎の席。
黒崎透の席。
生見彩音の席。
そして、まだ誰も死んでいないはずの席まで、すでに空白のように見える。
人間は、次に誰が消えるかを考え始めた瞬間、まだ生きている相手すら欠けたものとして見る。
それが、犯人の狙いなのかもしれない。
「食事は無理ですね」
江口が言った。
扉のそばに立ち、腕を組んでいる。顔色は相変わらず悪い。だが、声の温度だけは保っていた。
「生徒たちには、未開封の飲み物と栄養補助食品だけ渡しました。全員、食欲はありません。僕もありません。教師の胃は今日で殉職です」
二階堂壮也が返す。
「殉職扱いなら、報告書が要るな」
「やめろ。報告書って言葉がもう怖い」
「俺も怖いよ」
二階堂は軽く言ったが、目は笑っていなかった。
彼は今、安西実結の記録用紙と、生見が残した無線ログのコピーを見比べている。そこには、あの奇妙な記録がある。
十三番、応答なし。
現行設備には存在しない端末番号。安西瑠衣の「十三番 対象外」と呼応するように現れた記録。高柳真治が仕掛けたものではない可能性が高い、もうひとつの十三。
十三という数字が、青燐荘の中で増殖している。
資料室の十三列目。
展示パネルの十三枚目らしき跡。
救助対象者確認表の十三番。
存在しない無線端末の十三番。
そして、名札に刻まれていた安西瑠衣。
誰かが数字を置いている。
あるいは、誰かが消した数字が、今になって浮き上がっている。
九条雅紀は、ラウンジから少し離れた椅子に座っていた。
生見の検案を終えた直後だった。顔は変わらない。白い髪も、赤みを帯びた目も、淡々とした口調もいつも通りだ。だが、真壁には分かる。九条は少し疲れている。
喘息持ちの九条にとって、排気が流れ込んだ無線室はよくない場所だった。本人は何も言わない。言わないから、真壁は余計に見てしまう。
「九条」
「何」
「吸入は」
「まだ大丈夫」
「まだ?」
「必要なら使う」
「必要になる前に使え」
九条は真壁を見た。
少しだけ、面倒そうな顔をする。
「真壁は昔から、母親みたいな言い方をする」
「必要なら父親でも兄貴でもやる」
「いらない」
「なら自分で管理しろ」
「してる」
二階堂が横から言った。
「九条、真壁の過保護を止めるには、ちゃんと吸入した方が早いよ」
「二階堂は黙っていて」
「嫌われた」
「嫌いじゃない」
「出た。九条の最大級の好意表現」
九条はそれ以上返さなかった。
それでも、鞄から吸入器を出した。真壁はそれを確認してから、ようやく視線を外した。
鳳恭介は、白い紙に青燐荘の簡略図を描いていた。
そこには、これまで事件が起きた場所に印がついている。
食堂棟。
作業甲板。
資料室。
ボート架台。
無線室。
どれも、青燐荘の機能を象徴する場所だった。
食べる場所。
点検する場所。
記録する場所。
逃げる場所。
声を届ける場所。
そして、そこにいた人間は、それぞれの役割で殺された。
鳳はペンを置き、静かに言った。
「次に狙われる場所も、機能を持つ場所でしょう」
「機能?」
真壁が訊く。
「青燐荘には、追悼施設としての表の機能と、海上施設としての裏の機能があります。犯人はその裏側を使っている。ボート架台、資料室、無線室。どれも、来館者向けの綺麗な顔ではなく、施設を成立させるための場所です」
「次も裏側か」
「可能性は高い」
「どこだ」
鳳は図面を見た。
「低温保管庫」
その言葉に、九条の目が動いた。
「何のための部屋?」
「表向きは食材保管です。ただ、青燐荘では資料保存にも使っています。古い写真、フィルム、海水で劣化した紙資料の一時保管。湿度と温度を安定させるためです」
二階堂が顔をしかめた。
「食材と資料を同じ系統で冷やしてるの?」
「本来は分けるべきです」
鳳は淡々と言った。
「ですが、改修時に予算を削ったのでしょう。食材用の低温設備に、資料保存用のスペースを追加した形です。衛生管理としても、資料管理としても、あまり良くない」
「青燐荘らしいな」
二階堂が低く言った。
安全と記録と景観を、都合よく一つの箱に詰めている。
真壁は図面の低温保管庫の位置を見る。
食堂棟の裏側。
冷却設備に隣接。
夜間は人の出入りが少ない。
犯人が使うには十分な場所だった。
その時、白川一冴が立ち上がった。
彼はずっと黙っていた。元施設職員の息子。二十年前の事故後、父が何かを隠していたらしいと語っていた男だ。年齢は若いが、顔には疲労が濃く出ている。
「低温保管庫に、父の資料があるかもしれません」
全員の視線が彼へ向いた。
真壁が訊く。
「どういうことだ」
「父は、事故後に施設を辞めました。その後、自宅にいくつか資料を持ち帰っていたんです。でも全部ではありません。青燐荘に残したものもあると、母から聞いています」
「それが低温保管庫に?」
「古いフィルムと、海水で濡れた紙資料を保管していたと。父は、保存状態を気にしていました。普通の資料室では劣化すると」
「何の資料だ」
白川は言い淀んだ。
「安西瑠衣に関するものかもしれません」
ラウンジの空気が張り詰める。
安西実結のペンが止まった。
ほんの一瞬。
まただ。
真壁は見た。
「なぜ今まで言わなかった」
白川は顔を伏せた。
「確信がなかったんです。父のメモには、名前が断片的にしか出てこない。安西、瑠、食堂、十三。そんな言葉だけで。今回、名札を見て、ようやく繋がった気がしました」
「そのメモは?」
「部屋にあります。コピーを持ってきています」
「取りに行く」
真壁が言うと、白川はすぐに頷いた。
「一人では行きません」
「当然だ」
真壁は白川に向き直る。
「今から行く。資料を取って、戻る。低温保管庫には勝手に行くな」
「はい」
白川は素直に答えた。
だが、その目には焦りがあった。
真壁はそれを見て、嫌な予感を覚えた。
人は、恐怖に追い詰められると、言われたことを破る。助かるために。真実を掴むために。誰かに先を越されないために。
白川は、父の遺した何かを見つけたい。
その欲が、危ない。
真壁は立ち上がりかけた。
その時、今西琴葉の端末が鳴った。
彼女は画面を見て、顔を強張らせる。
「低温保管庫の温度異常です」
鳳がすぐに反応した。
「下がったんですか、上がったんですか」
「設定値より低下しています。警告が出ています」
白川一冴が、顔を上げた。
「資料が」
「待て」
真壁が言うより早く、白川は動いていた。
「白川さん!」
彼はラウンジを飛び出した。
真壁が追う。
九条、鳳も続く。二階堂はラウンジ側へ残ろうとしたが、江口が生徒の扉前から言った。
「俺がここ見ます。二階堂、行け」
「桜次郎」
「広報の目が要るんだろ。行け」
二階堂は一瞬だけ江口を見た。
「生徒から離れるなよ」
「離れるわけないだろ」
二階堂も走った。
食堂棟へ向かう橋は、風で揺れていた。
外へ出た瞬間、潮の匂いが濃くなる。海は近い。遠くで雷のような音がしたが、実際には波が構造物にぶつかった音だろう。橋の照明が足元に白い線を作る。
白川は速かった。
恐怖からではない。焦りからだ。
父の資料。
安西瑠衣。
十三人目。
それらが、彼を前へ押している。
「止まれ!」
真壁が叫ぶ。
白川は一瞬振り返った。
その顔は、追い詰められた動物のようだった。
「資料が消されるかもしれないんです!」
「お前が消えるぞ!」
真壁の声に、白川は足を止めかけた。
だが、食堂棟側の扉が開いていた。
誰が開けたのか。
真壁がそれに気づいた時には、白川は中へ入っていた。
食堂棟の裏手は、表のガラス張りの空間とはまるで違う。
厨房、配膳通路、保管室。白い壁とステンレスの設備。足元には滑り止めの床材。照明は青白い。表の追悼膳の静けさはなく、業務用の冷たさがある。
低温保管庫は、その奥にあった。
扉は厚い。
金属製。
小さな窓は霜で曇っている。
温度異常の赤いランプが点滅していた。
白川の姿は、扉の前にない。
「中か」
真壁は扉に手をかけた。
開かない。
内側からロックされているのか、外側から凍りついているのか、手応えが重い。
鳳が制御盤を見る。
「ロックがかかっています」
「開けられるか」
「非常解除を」
鳳がパネルを開ける。二階堂がライトを当てる。九条は鞄から手袋を出しながら、扉の窓を覗いた。
「中にいる」
真壁の背中が冷えた。
「生きてるか」
「分からない」
九条の声が低くなる。
「床に倒れてる」
真壁は扉を叩いた。
「白川さん! 聞こえるか!」
返事はない。
低温保管庫の中からは、機械音だけが聞こえる。冷却装置の低い唸り。空気を回すファンの音。人間の声はない。
鳳が非常解除を操作する。
反応しない。
「凍りついているかもしれません」
「何が」
「ロック部分です。温度異常で庫内が下がりすぎている。扉周辺の結露が凍って、固定されています」
「壊せ」
真壁が言う。
鳳は頷いた。
「工具が要ります」
二階堂がすぐ厨房へ走る。真壁は扉をもう一度叩く。九条は窓から中の様子を見ている。
「九条」
「倒れてる。呼吸は見えない」
「何分もつ」
「状況による。薬で動けないなら、もっと悪い」
「薬?」
「分からない。でも、普通なら中で倒れた時点で扉へ向かう。あの位置は変だ」
真壁は窓を覗いた。
霜で曇っている。だが、床に倒れた白川の身体が見えた。片手が資料ケースに伸びている。顔は見えない。吐息で窓が曇ることもない。
心臓が嫌な音を立てる。
二階堂が工具を持って戻った。
鳳が扉のロック部に工具を入れる。真壁も手を貸す。金属が軋む。凍りついた部分が割れる音がした。
数十秒。
いや、数分だったかもしれない。
時間の感覚が歪む。
ようやく扉が開いた。
冷気が一気に流れ出る。
白い霧のように、足元へ広がった。
真壁は中へ踏み込もうとしたが、九条が止めた。
「待って。床が凍ってる」
九条は先に入った。慎重に足を置き、白川のそばへ膝をつく。手袋をした指で頸動脈を確認する。
その横顔で、結果が分かった。
「死亡している」
短い言葉だった。
真壁は扉の枠を掴んだ。
まただ。
また、間に合わなかった。
白川一冴は、床に倒れていた。
顔は青白く、唇に色がない。睫毛に霜がついている。口元にも白い結晶がある。右手は資料ケースへ伸び、左手の指先には細かな傷があった。爪の間に、何か白い粉のようなものが入っている。
近くには割れた保存ケースがあり、古い紙片が散らばっていた。
そのうち一枚が、霜で床に貼りついている。
九条は白川の身体を見ながら言った。
「低温死に見える」
「違うのか」
「まだ断定しない。でも、変だ」
「何が」
「倒れている位置。体温の下がり方。指先の傷。口元の霜。全部が少しずつ合わない」
二階堂が扉の外から言う。
「九条、寒いから長居しないで」
「分かってる」
九条は淡々と返しながら、白川の指先を見た。
「真壁、この資料ケースを」
「分かった」
真壁は慎重にケースを取った。割れているが、中に紙が残っている。古いメモ、写真のコピー、施設職員の名簿らしきもの。
その中に、一枚だけ白川の手書きメモがあった。
文字は震えている。
だが読める。
――十三人目は、死者じゃない。
二階堂が息を呑んだ。
「死者じゃない?」
真壁はメモを見つめた。
十三人目は、死者じゃない。
なら、何だ。
生きているのか。
安西瑠衣は生存者なのか。
それとも、安西実結が本人なのか。
いや、年齢が合わない。
死者じゃない、という言葉の意味が分からない。
九条が白川の首元を見ながら言った。
「そのメモ、いつ書いたかが重要だな」
「死ぬ直前だろう」
「そうとも限らない」
「どういう意味だ」
「手が震えている。低温のせいにも見える。でも、筆圧は一定している。中で書いたのか、入る前に書いたのか、確認した方がいい」
鳳が低温保管庫の温度ログを見ていた。
「温度が急激に下がっています」
「いつから」
「警告が出る少し前。ただ、その前に一度、庫内温度が上がっています」
「上がった?」
「はい。扉が開いたか、冷却が一時停止したか」
二階堂が眉を寄せる。
「犯人が出入りした?」
「可能性はあります」
真壁は庫内を見た。
白川は、低温保管庫に閉じ込められて死んだように見える。
だが、九条は違和感を持っている。
鳳も、温度ログの不自然さに気づいている。
つまり、これは単純な閉じ込めではない。
また、役を与えられた死だ。
名前を入れ替えられた者。
白川は、安西瑠衣の名前に近づいた。
名簿から外された人間に近づいた。
そして、自分自身の死亡時刻と状況を曖昧にされて死んだ。
「出すぞ」
真壁が言う。
九条は頷いた。
「動かし方に注意。低温で硬直が始まっているように見えるけど、実際の死亡時刻と合わないかもしれない」
「何?」
「外で話す」
白川の遺体は、低温保管庫の前室へ移された。
九条は冷えた指を温めることもせず、検分を続ける。真壁はその手を一瞬見たが、今は止めなかった。止めても、九条は続ける。
白川の身体には、外傷らしい外傷は少ない。だが、右腕に小さな注射痕のようなものがあった。
「薬か」
真壁が訊くと、九条は頷いた。
「可能性が高い。動けなくするためか、意識を朦朧とさせるためか」
「低温で殺したんじゃないのか」
「低温は使われている。でも、それだけじゃない」
九条は白川の手を見た。
「指先の傷は、扉を叩いたものじゃない。位置が合わない。低温保管庫内で暴れたなら、手のひらや拳にも傷が出る。これはもっと細いものを掴もうとした傷だ」
「資料ケースか」
「それか、氷の固定具」
鳳が反応した。
「氷?」
九条は扉を見た。
「扉が凍りついていた。自然に凍ったにしては、ロック部だけ強い」
鳳が扉のロック部分を確認する。
「結露防止用の加温ラインがあります。本来は凍結を防ぐためですが、冷却異常と組み合わせれば、局所的に氷を作れるかもしれない」
二階堂が言う。
「氷で外から固定して、あとで溶かして痕跡を消す?」
鳳は頷いた。
「霜取り運転が入れば、小さな氷の固定具は消えます。今回は異常低温で残った部分もありますが、普通なら分かりにくい」
「密室もどきか」
真壁が言った。
「そうですね」
鳳は扉を見たまま続ける。
「外から閉じ込めた。しかし発見時には、内側からロックされたように見える。もしくは、事故で閉じ込められたように見える」
九条が白川の口元を示す。
「口元の霜も変だ」
「何が」
「呼気で自然についた霜なら、鼻周辺にも出る。でも口元に偏っている。倒れた後に冷気を当てられたか、姿勢を変えられた可能性がある」
二階堂が顔をしかめる。
「死んだ後に?」
「いや、生きている間かもしれない。どちらにしても、見た目より死の経過が複雑だ」
真壁は白川の腕の注射痕を見た。
「犯人は白川を薬で動けなくし、低温保管庫に入れ、死亡時刻をずらした」
「まだ仮説だ」
九条は言う。
「でも、単純な事故ではない」
「死亡時刻は」
「難しい。低温が絡むと体温だけでは読めない。ただ、発見時刻よりかなり前に意識を失っていた可能性がある」
「つまり、俺たちが白川を追って走った時には」
「もう助からなかった可能性が高い」
その言葉は、真壁にとって慰めにはならなかった。
助けられなかった事実が消えるわけではない。
ただ、犯人が自分たちを走らせた理由は分かった。
間に合うかもしれないと思わせるため。
目の前で扉を壊させるため。
死に、救助失敗の形を与えるため。
真壁は低く言った。
「また見せられたな」
二階堂が頷く。
「犯人は、死体を見つけさせる順番まで作ってる」
九条は白川のメモを見た。
「十三人目は、死者じゃない」
静かに読み上げる。
「どういう意味だと思う」
二階堂が訊く。
九条は少し考えた。
「言葉通りなら、十三人目は死んでいない。でも、それなら安西瑠衣の年齢が合わない可能性がある。別の意味なら、公式記録上は死者ではない」
真壁は顔を上げた。
「死んだが、死者に数えられていない」
「うん」
九条は頷いた。
「白川さんは、それに気づいたのかもしれない」
死者ではない。
死んでいない、ではなく。
死者として扱われていない。
その可能性が、真壁の中で重く沈んだ。
白川一冴は、父の資料から安西瑠衣の扱いに近づいた。彼女が死んだのに、死者名簿に入れられなかったことへ。
だから殺された。
低温保管庫で。
資料と食材を同じ冷気の中へ押し込めた部屋で。
名前を保存するための場所で、名前を入れ替えられたように。
九条の検分が終わる頃、ラウンジから数人が食堂棟前まで来ていた。
今西琴葉、浜島莉子、高柳真治、安西実結、笠木浩明。江口は生徒の側を離れられないため、管理棟に残っている。
安西実結は、白川の死を聞いても表情を変えなかった。
だが、真壁は彼女の手元を見た。
ペンが、いつもより強く握られている。
高柳は白川のメモを見せられると、顔を歪めた。
「僕じゃない」
まだ何も聞いていないのに、彼はそう言った。
真壁は彼を見た。
「十三人目の演出は、あんたじゃないな」
「違います」
「無線ログも?」
「違います」
「名札も?」
「違います」
「白川さんを殺したか」
「殺していません」
高柳の目には恐怖があった。
自分が犯人に見られている恐怖ではない。自分が始めた告発劇が、知らない誰かの殺人劇に上書きされている恐怖だ。
「僕は……こんなことをするつもりじゃなかった」
二階堂が冷たく言った。
「その台詞で済む段階は、もう過ぎています」
高柳はうつむく。
「分かっています」
「でも、殺人は別です。あなたが何を仕組んだかは、全部話してもらう。これ以上、犯人に使われる前に」
高柳は小さく頷いた。
浜島莉子は白川のメモを見つめていた。
「死者じゃない……」
その声は掠れていた。
「じゃあ、何なんですか。死んだのに死者じゃないって、そんなことがあるんですか」
誰も答えない。
九条が静かに言う。
「記録上は、ある」
莉子は九条を見た。
「そんなの、おかしいでしょう」
「おかしい」
九条はすぐに言った。
「でも、おかしいことが起きたから、今ここで人が死んでいる」
その場が静まり返った。
九条の言葉は多くない。
だから、短い一言が空気を止める。
今西琴葉が、白川のメモを見る。
顔が青ざめている。
「父の資料に……似たような表現がありました」
「何?」
真壁が問う。
「“死者扱い不可”。その意味が分からなかった。でも、もしかしたら」
「安西瑠衣か」
今西は頷いた。
「正式な宿泊者でも、正規職員でもなかった。だから、死者として公表すると、救助対象者数そのものが変わる。そういう判断があったのかもしれません」
「誰の判断だ」
「分かりません」
今西の声が震えた。
「でも、父は知っていたのかもしれない」
その告白を、安西実結が記録している。
彼女の顔は静かだ。
静かすぎる。
二階堂が安西を見た。
「安西さん」
「はい」
「今の“死者扱い不可”、記録しましたか」
「はい」
「消さないでください」
「消しません」
安西の声は平坦だった。
二階堂は笑わなかった。
「それを聞いて、安心できる状況じゃないんですよ」
安西は何も答えなかった。
白川一冴の死は、ラウンジに戻った時、全員をさらに追い込んだ。
これで死者は五人。
谷本、吉住、黒崎、生見、白川。
浜島莉子の未遂を含めれば、六つの事件。
青燐荘は、もう追悼施設ではなかった。
人が死ぬたびに、十八年前の事故が形を変えて戻ってくる。
橋を渡れなかった者。
報告書に潰された者。
ボートに乗れなかった者。
通信が届かなかった者。
名前を入れ替えられた者。
そして、喉を塞がれた第一救助者。
順番表が、少しずつ埋まっていく。
ラウンジに戻ると、江口桜次郎がすぐに近づいてきた。
「白川さんは」
真壁は首を横に振った。
江口は目を閉じた。
「そうですか」
「生徒の白川真昼とは関係ない」
「分かってます」
江口は即答した。
「でも、同じ名字です。あの子、怖がる」
「伝え方は任せる」
「任されました。嫌な任され方ですね」
江口は苦く笑った。
その笑みはすぐ消える。
「どう死んだんですか」
「低温保管庫」
「食堂棟の?」
「ああ」
「……資料も入れてる部屋ですよね」
「知ってたのか」
「防災学習の説明で聞きました。古い写真とかフィルムとか、保管してるって。食べ物と死者の記録を同じ冷蔵庫に入れるの、なんか嫌だなと思ってました」
二階堂が言った。
「その嫌な感じ、正しいよ」
江口は扉の向こうを見た。
「子どもに説明することが増えすぎです。もう防災学習じゃない。大人の失敗学習ですよ」
「それも必要かもしれない」
二階堂が言うと、江口は首を横に振った。
「必要なら、大人だけでやってください。子どもを教材にするな」
その声は静かだった。
真壁は、江口の怒りがだんだん深くなっているのを感じた。
怒鳴らない。
だが、根が深い。
子どもを守るという一点において、江口は真壁たちと違う種類の覚悟を持っている。
その時、ラウンジの奥で声が上がった。
「九条先生なら、できるんじゃないですか」
発言したのは、汐崎瑚子だった。
SNS記者の彼女は、スマートフォンを手にしたまま、九条を見ている。撮影はしていない。二階堂に止められているからだ。だが、その目はすでに記事の見出しを作っているようだった。
二階堂の声が冷えた。
「何がですか」
「低温で死亡時刻をずらすとか、薬で動けなくするとか。そういうの、一番詳しいのは法医学者でしょう」
空気が凍った。
真壁が一歩前へ出る。
「言葉を選べ」
汐崎はひるまなかった。
「疑問を言っただけです。九条先生は、浜島さんの時も気づくのが早すぎた。白川さんの死体も、見ただけで低温死じゃないって言った。普通、分からないでしょう」
九条は黙っていた。
怒っているようには見えない。
だが真壁には、九条の沈黙が少し深いことが分かった。
汐崎は続ける。
「死体をどう見せればいいか、一番分かるのは九条先生じゃないんですか」
真壁の声が低くなった。
「もう一度言ったら、外に出す」
「外、嵐ですけど」
「なら黙ってろ」
二階堂が、汐崎の前に立った。
笑っている。
だが、目がまったく笑っていない。
「疑うのは自由です。ただ、疑うなら根拠を出してください。雰囲気で人を犯人にするのは、報告書より雑です」
汐崎が唇を結ぶ。
「広報の方は、身内に甘いんですね」
「身内だからではありません。雑だから止めています」
九条がようやく口を開いた。
「俺なら、こんな死体にはしない」
全員が九条を見る。
真壁も見る。
九条は淡々としていた。
「低温偽装にしては霜の使い方が雑。死亡時刻のずらし方も中途半端。薬の痕跡も残っている。犯人は知識がある。でも、身体の変化を最後まで読めていない」
二階堂が小さく言った。
「九条、それは弁明としてどうなのよ」
「事実を言った」
「だろうね」
真壁は九条を見た。
「九条」
「何」
「今のは、もう少し言い方がある」
「そう?」
「そうだ」
九条は少し考えた。
「なら、俺は犯人じゃない」
二階堂が頭を抱えた。
「遅いし、短い」
江口が、ふっと小さく笑った。
「九条先生、疑われ慣れてるんですか」
「よくある」
「よくあっていいことじゃないでしょう」
「教師も似たようなものだろう」
「僕は生徒をちゃんと見てると、だいたい面倒が増えます」
「じゃあ、同じだ」
江口は少しだけ意表を突かれた顔をした。
それから、嫌そうに笑った。
「法医学者って、死体を読めたらいいんじゃないんですか」
「生きている人間のほうが、死体より雑に証拠を残す」
「嫌なこと言うなあ」
その短いやり取りで、ラウンジの緊張がわずかに緩んだ。
だが、九条への疑いが消えたわけではない。
浜島莉子は九条を見ている。
汐崎瑚子はまだ納得していない。
高柳はうつむいている。
安西実結は記録している。
その中で、真壁は白川のメモを見た。
十三人目は、死者じゃない。
この一文は、必ず人を迷わせる。
犯人が白川に書かせたのか。
白川自身が気づいて書いたのか。
どちらにしても、これによって安西瑠衣の意味は変わる。
死んでいないのか。
死者として扱われていないのか。
あるいは、十三人目とは安西瑠衣ではないのか。
真壁は二階堂に言った。
「白川のメモ、筆跡確認。父親の資料も全部押さえる」
「了解」
「九条、薬の痕跡は」
「簡易検査では限界がある。でも鎮静系の可能性はある」
「鳳さん、低温保管庫のログを保全」
「分かりました」
「江口先生」
「はい」
「生徒を絶対に一人にするな」
「最初からそのつもりです」
真壁は頷いた。
人が死にすぎている。
だが、まだ終わらない。
それが分かる。
犯人は、青燐荘のどこかに次の役を置いている。
そして残された人間は、自分がその役に当てはまるのではないかと考え始めている。
外では、海が荒れている。
中では、名前が荒れている。
安西瑠衣。
安西実結。
白川一冴。
十三人目。
死者ではない者。
その言葉が、ラウンジの空気の中でゆっくり冷えていく。
低温保管庫の霜のように。
白く、薄く、しかし確実に、人の息を奪う形で。




