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青燐荘の十三人目 ―海上の追悼施設で、生者が順番に裁かれる―  作者: 二条理|アコンプリス


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第八章 名前を入れ替えられた死体

 生見彩音の死体が運ばれたあとも、ラウンジには無線室の匂いが残っている気がした。

 実際には、そんなはずはない。

 排気の匂いは管理棟奥の無線室にあった。生見が倒れていた部屋の換気口付近に、微かに残っていただけだ。ラウンジまで流れてくるほど強くはなかった。だが、人間の記憶は匂いに似ている。どこかで嗅いだと思った瞬間、実際にはないものまで鼻の奥に残る。

 青燐荘にいる誰もが、もう何かを嗅いでいた。

 海水。

 古い紙。

 金属。

 排気。

 死。

 そして、順番をつけられる気配。

 真壁彰は、窓際に立ったまま、ラウンジの全員を見ていた。

 人は減っている。

 昨日ここへ来た時には、追悼会の参加者と職員、江口桜次郎の生徒たち、外部協力者がそれぞれの席に座り、それなりの距離を保っていた。互いの不信はあったが、それでもまだ会話の余地があった。

 今は違う。

 椅子ひとつ分の空白が、人ひとり分の死を示す。

 谷本亮一の席。

 吉住俊太郎の席。

 黒崎透の席。

 生見彩音の席。

 そして、まだ誰も死んでいないはずの席まで、すでに空白のように見える。

 人間は、次に誰が消えるかを考え始めた瞬間、まだ生きている相手すら欠けたものとして見る。

 それが、犯人の狙いなのかもしれない。

「食事は無理ですね」

 江口が言った。

 扉のそばに立ち、腕を組んでいる。顔色は相変わらず悪い。だが、声の温度だけは保っていた。

「生徒たちには、未開封の飲み物と栄養補助食品だけ渡しました。全員、食欲はありません。僕もありません。教師の胃は今日で殉職です」

 二階堂壮也が返す。

「殉職扱いなら、報告書が要るな」

「やめろ。報告書って言葉がもう怖い」

「俺も怖いよ」

 二階堂は軽く言ったが、目は笑っていなかった。

 彼は今、安西実結の記録用紙と、生見が残した無線ログのコピーを見比べている。そこには、あの奇妙な記録がある。

 十三番、応答なし。

 現行設備には存在しない端末番号。安西瑠衣の「十三番 対象外」と呼応するように現れた記録。高柳真治が仕掛けたものではない可能性が高い、もうひとつの十三。

 十三という数字が、青燐荘の中で増殖している。

 資料室の十三列目。

 展示パネルの十三枚目らしき跡。

 救助対象者確認表の十三番。

 存在しない無線端末の十三番。

 そして、名札に刻まれていた安西瑠衣。

 誰かが数字を置いている。

 あるいは、誰かが消した数字が、今になって浮き上がっている。

 九条雅紀は、ラウンジから少し離れた椅子に座っていた。

 生見の検案を終えた直後だった。顔は変わらない。白い髪も、赤みを帯びた目も、淡々とした口調もいつも通りだ。だが、真壁には分かる。九条は少し疲れている。

 喘息持ちの九条にとって、排気が流れ込んだ無線室はよくない場所だった。本人は何も言わない。言わないから、真壁は余計に見てしまう。

「九条」

「何」

「吸入は」

「まだ大丈夫」

「まだ?」

「必要なら使う」

「必要になる前に使え」

 九条は真壁を見た。

 少しだけ、面倒そうな顔をする。

「真壁は昔から、母親みたいな言い方をする」

「必要なら父親でも兄貴でもやる」

「いらない」

「なら自分で管理しろ」

「してる」

 二階堂が横から言った。

「九条、真壁の過保護を止めるには、ちゃんと吸入した方が早いよ」

「二階堂は黙っていて」

「嫌われた」

「嫌いじゃない」

「出た。九条の最大級の好意表現」

 九条はそれ以上返さなかった。

 それでも、鞄から吸入器を出した。真壁はそれを確認してから、ようやく視線を外した。

 鳳恭介は、白い紙に青燐荘の簡略図を描いていた。

 そこには、これまで事件が起きた場所に印がついている。

 食堂棟。

 作業甲板。

 資料室。

 ボート架台。

 無線室。

 どれも、青燐荘の機能を象徴する場所だった。

 食べる場所。

 点検する場所。

 記録する場所。

 逃げる場所。

 声を届ける場所。

 そして、そこにいた人間は、それぞれの役割で殺された。

 鳳はペンを置き、静かに言った。

「次に狙われる場所も、機能を持つ場所でしょう」

「機能?」

 真壁が訊く。

「青燐荘には、追悼施設としての表の機能と、海上施設としての裏の機能があります。犯人はその裏側を使っている。ボート架台、資料室、無線室。どれも、来館者向けの綺麗な顔ではなく、施設を成立させるための場所です」

「次も裏側か」

「可能性は高い」

「どこだ」

 鳳は図面を見た。

「低温保管庫」

 その言葉に、九条の目が動いた。

「何のための部屋?」

「表向きは食材保管です。ただ、青燐荘では資料保存にも使っています。古い写真、フィルム、海水で劣化した紙資料の一時保管。湿度と温度を安定させるためです」

 二階堂が顔をしかめた。

「食材と資料を同じ系統で冷やしてるの?」

「本来は分けるべきです」

 鳳は淡々と言った。

「ですが、改修時に予算を削ったのでしょう。食材用の低温設備に、資料保存用のスペースを追加した形です。衛生管理としても、資料管理としても、あまり良くない」

「青燐荘らしいな」

 二階堂が低く言った。

 安全と記録と景観を、都合よく一つの箱に詰めている。

 真壁は図面の低温保管庫の位置を見る。

 食堂棟の裏側。

 冷却設備に隣接。

 夜間は人の出入りが少ない。

 犯人が使うには十分な場所だった。

 その時、白川一冴が立ち上がった。

 彼はずっと黙っていた。元施設職員の息子。二十年前の事故後、父が何かを隠していたらしいと語っていた男だ。年齢は若いが、顔には疲労が濃く出ている。

「低温保管庫に、父の資料があるかもしれません」

 全員の視線が彼へ向いた。

 真壁が訊く。

「どういうことだ」

「父は、事故後に施設を辞めました。その後、自宅にいくつか資料を持ち帰っていたんです。でも全部ではありません。青燐荘に残したものもあると、母から聞いています」

「それが低温保管庫に?」

「古いフィルムと、海水で濡れた紙資料を保管していたと。父は、保存状態を気にしていました。普通の資料室では劣化すると」

「何の資料だ」

 白川は言い淀んだ。

「安西瑠衣に関するものかもしれません」

 ラウンジの空気が張り詰める。

 安西実結のペンが止まった。

 ほんの一瞬。

 まただ。

 真壁は見た。

「なぜ今まで言わなかった」

 白川は顔を伏せた。

「確信がなかったんです。父のメモには、名前が断片的にしか出てこない。安西、瑠、食堂、十三。そんな言葉だけで。今回、名札を見て、ようやく繋がった気がしました」

「そのメモは?」

「部屋にあります。コピーを持ってきています」

「取りに行く」

 真壁が言うと、白川はすぐに頷いた。

「一人では行きません」

「当然だ」

 真壁は白川に向き直る。

「今から行く。資料を取って、戻る。低温保管庫には勝手に行くな」

「はい」

 白川は素直に答えた。

 だが、その目には焦りがあった。

 真壁はそれを見て、嫌な予感を覚えた。

 人は、恐怖に追い詰められると、言われたことを破る。助かるために。真実を掴むために。誰かに先を越されないために。

 白川は、父の遺した何かを見つけたい。

 その欲が、危ない。

 真壁は立ち上がりかけた。

 その時、今西琴葉の端末が鳴った。

 彼女は画面を見て、顔を強張らせる。

「低温保管庫の温度異常です」

 鳳がすぐに反応した。

「下がったんですか、上がったんですか」

「設定値より低下しています。警告が出ています」

 白川一冴が、顔を上げた。

「資料が」

「待て」

 真壁が言うより早く、白川は動いていた。

「白川さん!」

 彼はラウンジを飛び出した。

 真壁が追う。

 九条、鳳も続く。二階堂はラウンジ側へ残ろうとしたが、江口が生徒の扉前から言った。

「俺がここ見ます。二階堂、行け」

「桜次郎」

「広報の目が要るんだろ。行け」

 二階堂は一瞬だけ江口を見た。

「生徒から離れるなよ」

「離れるわけないだろ」

 二階堂も走った。

 食堂棟へ向かう橋は、風で揺れていた。

 外へ出た瞬間、潮の匂いが濃くなる。海は近い。遠くで雷のような音がしたが、実際には波が構造物にぶつかった音だろう。橋の照明が足元に白い線を作る。

 白川は速かった。

 恐怖からではない。焦りからだ。

 父の資料。

 安西瑠衣。

 十三人目。

 それらが、彼を前へ押している。

「止まれ!」

 真壁が叫ぶ。

 白川は一瞬振り返った。

 その顔は、追い詰められた動物のようだった。

「資料が消されるかもしれないんです!」

「お前が消えるぞ!」

 真壁の声に、白川は足を止めかけた。

 だが、食堂棟側の扉が開いていた。

 誰が開けたのか。

 真壁がそれに気づいた時には、白川は中へ入っていた。

 食堂棟の裏手は、表のガラス張りの空間とはまるで違う。

 厨房、配膳通路、保管室。白い壁とステンレスの設備。足元には滑り止めの床材。照明は青白い。表の追悼膳の静けさはなく、業務用の冷たさがある。

 低温保管庫は、その奥にあった。

 扉は厚い。

 金属製。

 小さな窓は霜で曇っている。

 温度異常の赤いランプが点滅していた。

 白川の姿は、扉の前にない。

「中か」

 真壁は扉に手をかけた。

 開かない。

 内側からロックされているのか、外側から凍りついているのか、手応えが重い。

 鳳が制御盤を見る。

「ロックがかかっています」

「開けられるか」

「非常解除を」

 鳳がパネルを開ける。二階堂がライトを当てる。九条は鞄から手袋を出しながら、扉の窓を覗いた。

「中にいる」

 真壁の背中が冷えた。

「生きてるか」

「分からない」

 九条の声が低くなる。

「床に倒れてる」

 真壁は扉を叩いた。

「白川さん! 聞こえるか!」

 返事はない。

 低温保管庫の中からは、機械音だけが聞こえる。冷却装置の低い唸り。空気を回すファンの音。人間の声はない。

 鳳が非常解除を操作する。

 反応しない。

「凍りついているかもしれません」

「何が」

「ロック部分です。温度異常で庫内が下がりすぎている。扉周辺の結露が凍って、固定されています」

「壊せ」

 真壁が言う。

 鳳は頷いた。

「工具が要ります」

 二階堂がすぐ厨房へ走る。真壁は扉をもう一度叩く。九条は窓から中の様子を見ている。

「九条」

「倒れてる。呼吸は見えない」

「何分もつ」

「状況による。薬で動けないなら、もっと悪い」

「薬?」

「分からない。でも、普通なら中で倒れた時点で扉へ向かう。あの位置は変だ」

 真壁は窓を覗いた。

 霜で曇っている。だが、床に倒れた白川の身体が見えた。片手が資料ケースに伸びている。顔は見えない。吐息で窓が曇ることもない。

 心臓が嫌な音を立てる。

 二階堂が工具を持って戻った。

 鳳が扉のロック部に工具を入れる。真壁も手を貸す。金属が軋む。凍りついた部分が割れる音がした。

 数十秒。

 いや、数分だったかもしれない。

 時間の感覚が歪む。

 ようやく扉が開いた。

 冷気が一気に流れ出る。

 白い霧のように、足元へ広がった。

 真壁は中へ踏み込もうとしたが、九条が止めた。

「待って。床が凍ってる」

 九条は先に入った。慎重に足を置き、白川のそばへ膝をつく。手袋をした指で頸動脈を確認する。

 その横顔で、結果が分かった。

「死亡している」

 短い言葉だった。

 真壁は扉の枠を掴んだ。

 まただ。

 また、間に合わなかった。

 白川一冴は、床に倒れていた。

 顔は青白く、唇に色がない。睫毛に霜がついている。口元にも白い結晶がある。右手は資料ケースへ伸び、左手の指先には細かな傷があった。爪の間に、何か白い粉のようなものが入っている。

 近くには割れた保存ケースがあり、古い紙片が散らばっていた。

 そのうち一枚が、霜で床に貼りついている。

 九条は白川の身体を見ながら言った。

「低温死に見える」

「違うのか」

「まだ断定しない。でも、変だ」

「何が」

「倒れている位置。体温の下がり方。指先の傷。口元の霜。全部が少しずつ合わない」

 二階堂が扉の外から言う。

「九条、寒いから長居しないで」

「分かってる」

 九条は淡々と返しながら、白川の指先を見た。

「真壁、この資料ケースを」

「分かった」

 真壁は慎重にケースを取った。割れているが、中に紙が残っている。古いメモ、写真のコピー、施設職員の名簿らしきもの。

 その中に、一枚だけ白川の手書きメモがあった。

 文字は震えている。

 だが読める。

 ――十三人目は、死者じゃない。

 二階堂が息を呑んだ。

「死者じゃない?」

 真壁はメモを見つめた。

 十三人目は、死者じゃない。

 なら、何だ。

 生きているのか。

 安西瑠衣は生存者なのか。

 それとも、安西実結が本人なのか。

 いや、年齢が合わない。

 死者じゃない、という言葉の意味が分からない。

 九条が白川の首元を見ながら言った。

「そのメモ、いつ書いたかが重要だな」

「死ぬ直前だろう」

「そうとも限らない」

「どういう意味だ」

「手が震えている。低温のせいにも見える。でも、筆圧は一定している。中で書いたのか、入る前に書いたのか、確認した方がいい」

 鳳が低温保管庫の温度ログを見ていた。

「温度が急激に下がっています」

「いつから」

「警告が出る少し前。ただ、その前に一度、庫内温度が上がっています」

「上がった?」

「はい。扉が開いたか、冷却が一時停止したか」

 二階堂が眉を寄せる。

「犯人が出入りした?」

「可能性はあります」

 真壁は庫内を見た。

 白川は、低温保管庫に閉じ込められて死んだように見える。

 だが、九条は違和感を持っている。

 鳳も、温度ログの不自然さに気づいている。

 つまり、これは単純な閉じ込めではない。

 また、役を与えられた死だ。

 名前を入れ替えられた者。

 白川は、安西瑠衣の名前に近づいた。

 名簿から外された人間に近づいた。

 そして、自分自身の死亡時刻と状況を曖昧にされて死んだ。

「出すぞ」

 真壁が言う。

 九条は頷いた。

「動かし方に注意。低温で硬直が始まっているように見えるけど、実際の死亡時刻と合わないかもしれない」

「何?」

「外で話す」

 白川の遺体は、低温保管庫の前室へ移された。

 九条は冷えた指を温めることもせず、検分を続ける。真壁はその手を一瞬見たが、今は止めなかった。止めても、九条は続ける。

 白川の身体には、外傷らしい外傷は少ない。だが、右腕に小さな注射痕のようなものがあった。

「薬か」

 真壁が訊くと、九条は頷いた。

「可能性が高い。動けなくするためか、意識を朦朧とさせるためか」

「低温で殺したんじゃないのか」

「低温は使われている。でも、それだけじゃない」

 九条は白川の手を見た。

「指先の傷は、扉を叩いたものじゃない。位置が合わない。低温保管庫内で暴れたなら、手のひらや拳にも傷が出る。これはもっと細いものを掴もうとした傷だ」

「資料ケースか」

「それか、氷の固定具」

 鳳が反応した。

「氷?」

 九条は扉を見た。

「扉が凍りついていた。自然に凍ったにしては、ロック部だけ強い」

 鳳が扉のロック部分を確認する。

「結露防止用の加温ラインがあります。本来は凍結を防ぐためですが、冷却異常と組み合わせれば、局所的に氷を作れるかもしれない」

 二階堂が言う。

「氷で外から固定して、あとで溶かして痕跡を消す?」

 鳳は頷いた。

「霜取り運転が入れば、小さな氷の固定具は消えます。今回は異常低温で残った部分もありますが、普通なら分かりにくい」

「密室もどきか」

 真壁が言った。

「そうですね」

 鳳は扉を見たまま続ける。

「外から閉じ込めた。しかし発見時には、内側からロックされたように見える。もしくは、事故で閉じ込められたように見える」

 九条が白川の口元を示す。

「口元の霜も変だ」

「何が」

「呼気で自然についた霜なら、鼻周辺にも出る。でも口元に偏っている。倒れた後に冷気を当てられたか、姿勢を変えられた可能性がある」

 二階堂が顔をしかめる。

「死んだ後に?」

「いや、生きている間かもしれない。どちらにしても、見た目より死の経過が複雑だ」

 真壁は白川の腕の注射痕を見た。

「犯人は白川を薬で動けなくし、低温保管庫に入れ、死亡時刻をずらした」

「まだ仮説だ」

 九条は言う。

「でも、単純な事故ではない」

「死亡時刻は」

「難しい。低温が絡むと体温だけでは読めない。ただ、発見時刻よりかなり前に意識を失っていた可能性がある」

「つまり、俺たちが白川を追って走った時には」

「もう助からなかった可能性が高い」

 その言葉は、真壁にとって慰めにはならなかった。

 助けられなかった事実が消えるわけではない。

 ただ、犯人が自分たちを走らせた理由は分かった。

 間に合うかもしれないと思わせるため。

 目の前で扉を壊させるため。

 死に、救助失敗の形を与えるため。

 真壁は低く言った。

「また見せられたな」

 二階堂が頷く。

「犯人は、死体を見つけさせる順番まで作ってる」

 九条は白川のメモを見た。

「十三人目は、死者じゃない」

 静かに読み上げる。

「どういう意味だと思う」

 二階堂が訊く。

 九条は少し考えた。

「言葉通りなら、十三人目は死んでいない。でも、それなら安西瑠衣の年齢が合わない可能性がある。別の意味なら、公式記録上は死者ではない」

 真壁は顔を上げた。

「死んだが、死者に数えられていない」

「うん」

 九条は頷いた。

「白川さんは、それに気づいたのかもしれない」

 死者ではない。

 死んでいない、ではなく。

 死者として扱われていない。

 その可能性が、真壁の中で重く沈んだ。

 白川一冴は、父の資料から安西瑠衣の扱いに近づいた。彼女が死んだのに、死者名簿に入れられなかったことへ。

 だから殺された。

 低温保管庫で。

 資料と食材を同じ冷気の中へ押し込めた部屋で。

 名前を保存するための場所で、名前を入れ替えられたように。

 九条の検分が終わる頃、ラウンジから数人が食堂棟前まで来ていた。

 今西琴葉、浜島莉子、高柳真治、安西実結、笠木浩明。江口は生徒の側を離れられないため、管理棟に残っている。

 安西実結は、白川の死を聞いても表情を変えなかった。

 だが、真壁は彼女の手元を見た。

 ペンが、いつもより強く握られている。

 高柳は白川のメモを見せられると、顔を歪めた。

「僕じゃない」

 まだ何も聞いていないのに、彼はそう言った。

 真壁は彼を見た。

「十三人目の演出は、あんたじゃないな」

「違います」

「無線ログも?」

「違います」

「名札も?」

「違います」

「白川さんを殺したか」

「殺していません」

 高柳の目には恐怖があった。

 自分が犯人に見られている恐怖ではない。自分が始めた告発劇が、知らない誰かの殺人劇に上書きされている恐怖だ。

「僕は……こんなことをするつもりじゃなかった」

 二階堂が冷たく言った。

「その台詞で済む段階は、もう過ぎています」

 高柳はうつむく。

「分かっています」

「でも、殺人は別です。あなたが何を仕組んだかは、全部話してもらう。これ以上、犯人に使われる前に」

 高柳は小さく頷いた。

 浜島莉子は白川のメモを見つめていた。

「死者じゃない……」

 その声は掠れていた。

「じゃあ、何なんですか。死んだのに死者じゃないって、そんなことがあるんですか」

 誰も答えない。

 九条が静かに言う。

「記録上は、ある」

 莉子は九条を見た。

「そんなの、おかしいでしょう」

「おかしい」

 九条はすぐに言った。

「でも、おかしいことが起きたから、今ここで人が死んでいる」

 その場が静まり返った。

 九条の言葉は多くない。

 だから、短い一言が空気を止める。

 今西琴葉が、白川のメモを見る。

 顔が青ざめている。

「父の資料に……似たような表現がありました」

「何?」

 真壁が問う。

「“死者扱い不可”。その意味が分からなかった。でも、もしかしたら」

「安西瑠衣か」

 今西は頷いた。

「正式な宿泊者でも、正規職員でもなかった。だから、死者として公表すると、救助対象者数そのものが変わる。そういう判断があったのかもしれません」

「誰の判断だ」

「分かりません」

 今西の声が震えた。

「でも、父は知っていたのかもしれない」

 その告白を、安西実結が記録している。

 彼女の顔は静かだ。

 静かすぎる。

 二階堂が安西を見た。

「安西さん」

「はい」

「今の“死者扱い不可”、記録しましたか」

「はい」

「消さないでください」

「消しません」

 安西の声は平坦だった。

 二階堂は笑わなかった。

「それを聞いて、安心できる状況じゃないんですよ」

 安西は何も答えなかった。

 白川一冴の死は、ラウンジに戻った時、全員をさらに追い込んだ。

 これで死者は五人。

 谷本、吉住、黒崎、生見、白川。

 浜島莉子の未遂を含めれば、六つの事件。

 青燐荘は、もう追悼施設ではなかった。

 人が死ぬたびに、十八年前の事故が形を変えて戻ってくる。

 橋を渡れなかった者。

 報告書に潰された者。

 ボートに乗れなかった者。

 通信が届かなかった者。

 名前を入れ替えられた者。

 そして、喉を塞がれた第一救助者。

 順番表が、少しずつ埋まっていく。

 ラウンジに戻ると、江口桜次郎がすぐに近づいてきた。

「白川さんは」

 真壁は首を横に振った。

 江口は目を閉じた。

「そうですか」

「生徒の白川真昼とは関係ない」

「分かってます」

 江口は即答した。

「でも、同じ名字です。あの子、怖がる」

「伝え方は任せる」

「任されました。嫌な任され方ですね」

 江口は苦く笑った。

 その笑みはすぐ消える。

「どう死んだんですか」

「低温保管庫」

「食堂棟の?」

「ああ」

「……資料も入れてる部屋ですよね」

「知ってたのか」

「防災学習の説明で聞きました。古い写真とかフィルムとか、保管してるって。食べ物と死者の記録を同じ冷蔵庫に入れるの、なんか嫌だなと思ってました」

 二階堂が言った。

「その嫌な感じ、正しいよ」

 江口は扉の向こうを見た。

「子どもに説明することが増えすぎです。もう防災学習じゃない。大人の失敗学習ですよ」

「それも必要かもしれない」

 二階堂が言うと、江口は首を横に振った。

「必要なら、大人だけでやってください。子どもを教材にするな」

 その声は静かだった。

 真壁は、江口の怒りがだんだん深くなっているのを感じた。

 怒鳴らない。

 だが、根が深い。

 子どもを守るという一点において、江口は真壁たちと違う種類の覚悟を持っている。

 その時、ラウンジの奥で声が上がった。

「九条先生なら、できるんじゃないですか」

 発言したのは、汐崎瑚子だった。

 SNS記者の彼女は、スマートフォンを手にしたまま、九条を見ている。撮影はしていない。二階堂に止められているからだ。だが、その目はすでに記事の見出しを作っているようだった。

 二階堂の声が冷えた。

「何がですか」

「低温で死亡時刻をずらすとか、薬で動けなくするとか。そういうの、一番詳しいのは法医学者でしょう」

 空気が凍った。

 真壁が一歩前へ出る。

「言葉を選べ」

 汐崎はひるまなかった。

「疑問を言っただけです。九条先生は、浜島さんの時も気づくのが早すぎた。白川さんの死体も、見ただけで低温死じゃないって言った。普通、分からないでしょう」

 九条は黙っていた。

 怒っているようには見えない。

 だが真壁には、九条の沈黙が少し深いことが分かった。

 汐崎は続ける。

「死体をどう見せればいいか、一番分かるのは九条先生じゃないんですか」

 真壁の声が低くなった。

「もう一度言ったら、外に出す」

「外、嵐ですけど」

「なら黙ってろ」

 二階堂が、汐崎の前に立った。

 笑っている。

 だが、目がまったく笑っていない。

「疑うのは自由です。ただ、疑うなら根拠を出してください。雰囲気で人を犯人にするのは、報告書より雑です」

 汐崎が唇を結ぶ。

「広報の方は、身内に甘いんですね」

「身内だからではありません。雑だから止めています」

 九条がようやく口を開いた。

「俺なら、こんな死体にはしない」

 全員が九条を見る。

 真壁も見る。

 九条は淡々としていた。

「低温偽装にしては霜の使い方が雑。死亡時刻のずらし方も中途半端。薬の痕跡も残っている。犯人は知識がある。でも、身体の変化を最後まで読めていない」

 二階堂が小さく言った。

「九条、それは弁明としてどうなのよ」

「事実を言った」

「だろうね」

 真壁は九条を見た。

「九条」

「何」

「今のは、もう少し言い方がある」

「そう?」

「そうだ」

 九条は少し考えた。

「なら、俺は犯人じゃない」

 二階堂が頭を抱えた。

「遅いし、短い」

 江口が、ふっと小さく笑った。

「九条先生、疑われ慣れてるんですか」

「よくある」

「よくあっていいことじゃないでしょう」

「教師も似たようなものだろう」

「僕は生徒をちゃんと見てると、だいたい面倒が増えます」

「じゃあ、同じだ」

 江口は少しだけ意表を突かれた顔をした。

 それから、嫌そうに笑った。

「法医学者って、死体を読めたらいいんじゃないんですか」

「生きている人間のほうが、死体より雑に証拠を残す」

「嫌なこと言うなあ」

 その短いやり取りで、ラウンジの緊張がわずかに緩んだ。

 だが、九条への疑いが消えたわけではない。

 浜島莉子は九条を見ている。

 汐崎瑚子はまだ納得していない。

 高柳はうつむいている。

 安西実結は記録している。

 その中で、真壁は白川のメモを見た。

 十三人目は、死者じゃない。

 この一文は、必ず人を迷わせる。

 犯人が白川に書かせたのか。

 白川自身が気づいて書いたのか。

 どちらにしても、これによって安西瑠衣の意味は変わる。

 死んでいないのか。

 死者として扱われていないのか。

 あるいは、十三人目とは安西瑠衣ではないのか。

 真壁は二階堂に言った。

「白川のメモ、筆跡確認。父親の資料も全部押さえる」

「了解」

「九条、薬の痕跡は」

「簡易検査では限界がある。でも鎮静系の可能性はある」

「鳳さん、低温保管庫のログを保全」

「分かりました」

「江口先生」

「はい」

「生徒を絶対に一人にするな」

「最初からそのつもりです」

 真壁は頷いた。

 人が死にすぎている。

 だが、まだ終わらない。

 それが分かる。

 犯人は、青燐荘のどこかに次の役を置いている。

 そして残された人間は、自分がその役に当てはまるのではないかと考え始めている。

 外では、海が荒れている。

 中では、名前が荒れている。

 安西瑠衣。

 安西実結。

 白川一冴。

 十三人目。

 死者ではない者。

 その言葉が、ラウンジの空気の中でゆっくり冷えていく。

 低温保管庫の霜のように。

 白く、薄く、しかし確実に、人の息を奪う形で。


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