第七章 声の届かない部屋
黒崎透の死で、青燐荘は完全に沈黙した。
それまでにも、人は死んでいた。
谷本亮一が作業甲板で死に、吉住俊太郎が資料室で潰された。浜島莉子は毒物を口にさせられかけ、黒崎は救命ボートのそばから海へ押し出された。
それでもどこかで、まだ誰かは思っていたのかもしれない。
外から助けが来れば終わる。
海が落ち着けば帰れる。
警察が到着すれば、事件は捜査に変わる。
自分が次ではないかもしれない。
だが、黒崎の濡れた遺体が管理棟へ運ばれた時、その薄い期待は剥がれ落ちた。
救命ボートのそばにいた人間が、ボートに乗れずに死んだ。
それは、あまりに分かりやすい死だった。
分かりやすいということは、残酷だ。
意味があるように見えてしまうからだ。
真壁彰は、管理棟ラウンジの窓際に立ち、外の海を見ていた。
日没はとっくに過ぎている。窓の外は黒い。青燐荘の照明が、連絡橋と波の一部だけを白く浮かび上がらせている。遠くの陸は見えない。船の灯もない。海上施設の内部にいるというより、闇の中に浮いた建物に閉じ込められているようだった。
ラウンジの空気は悪い。
誰も大声を出さない。声を出すこと自体が何かの引き金になるのではないかと、全員が無意識に思っている。低い囁き。椅子を引く音。紙コップを置く音。誰かの息を吸う音。
それらが、やけに大きく聞こえた。
二階堂壮也は、テーブルに広げた資料と安西実結から受け取った救助対象者確認表のコピーを見比べていた。
表には十二人の名前。
欄外には、手書きで一行。
十三番 対象外。
二階堂はその文字を何度も見ていた。怒っているわけではない。少なくとも、表面上は。けれど、目は冷たかった。
「対象外って、誰が考えたんだろうな」
彼が呟いた。
「人間に使う言葉じゃない」
真壁が言うと、二階堂は頷いた。
「だから使ったんだろうね。人間じゃなくするために」
九条雅紀は、少し離れた椅子に座っていた。黒崎の検案を終えたばかりだ。濡れた手袋を外し、新しい手袋を鞄から取り出している。顔色は変わらないが、いつもより静かだった。
死体に慣れている人間などいない。
九条は死体を見ることに慣れているのではなく、死体を雑に扱われることへ怒りを先送りするのに慣れているだけだと、真壁は思う。
鳳恭介は、青燐荘の施設図を机に置き、赤いペンでいくつかの経路に印をつけていた。
管理棟。
資料室。
ボート架台。
食堂棟。
無線室。
機械設備棟。
彼の視線は、建物の血管を辿る医師のようだった。九条が人体の血管や傷を読むなら、鳳は建物の傷と流れを読む。
江口桜次郎は、生徒たちがいる部屋の扉近くに立っていた。
壁にもたれ、腕を組んでいる。目の下のクマはひどい。疲労は隠しようがない。だが、扉がわずかに動くたび、彼の視線はすぐそちらへ向く。生徒の誰かが水を欲しがれば渡し、誰かが外を見ようとすれば「今は先生の顔だけ見ておいてください。顔面偏差値は低いですが無料です」と軽口で戻す。
軽口の奥で、彼はずっと怒っている。
子どもを誘導に使われたこと。
名札を拾わせられたこと。
大人たちの過去に、子どもの手が触れさせられたこと。
その怒りは、まだ収まっていなかった。
生見彩音は、ラウンジの中央から少し外れた席で資料を広げていた。
防災NPO職員。落ち着いた雰囲気の女性だが、今は目が鋭い。彼女は安西瑠衣という名前に、明らかに反応していた。第五章で名札が出てから、彼女は自分の資料を何度も見直している。
真壁は近づいた。
「生見さん」
生見は顔を上げた。
「はい」
「安西瑠衣について、何を知っている」
彼女はすぐには答えなかった。
手元の資料を見下ろし、それからラウンジ全体を見た。高柳真治、今西琴葉、笠木浩明、安西実結。誰の前でどこまで話すべきか、考えている顔だった。
「確証はありません」
「今はそれでいい」
「正式な資料では、安西瑠衣という名前は出てきません。少なくとも、青燐荘が現在公開している資料にはありません。十八年前の事故報告書にも、追悼展示にも、死者名簿にも」
「だが、別の資料にはある」
「はい」
生見は一枚のコピーを出した。
「これは、事故当時の勤務予定表の一部です。完全な原本ではありません。私が独自に調べていた資料のコピーです」
真壁は紙を見る。
日付。
勤務時間。
職員名。
食堂棟補助。
欄外に手書きで、安西瑠衣。
「臨時補助」
「そうです。食堂棟の手伝いとして入っていた可能性が高い。ただ、正式な雇用契約書や勤務実績には残っていません。日雇いに近い扱いだったのかもしれません」
「事故当夜にいたのか」
「勤務予定表上は、十八時まで。でも事故発生はその後です。ただ、当時の施設は荒天のため滞在者を一部食堂棟へ集めていた。臨時職員が予定時間を過ぎても残っていた可能性はあります」
「可能性ばかりだな」
生見は唇を噛んだ。
「だから調べていました」
「なぜそこまで」
「防災施設としての青燐荘の監修依頼を受けた時、違和感があったんです」
「違和感?」
「この施設は、事故を教訓にしていると言いながら、事故の構造を説明していない。避難訓練のプログラムは整っています。展示もきれいです。でも、なぜ救助順が変わったのか、なぜボートが足りなかったのか、誰がどこに取り残されたのか。そこをぼかしている」
二階堂が資料から顔を上げた。
「ぼかしている、というより、きれいに消している」
「ええ」
生見は頷いた。
「私は、防災教育に必要なのは“助かりました”の話だけではないと思っています。助からなかった理由も、助けられなかった判断も、残す必要がある。そうでないと同じことが起きる」
江口が扉の前で低く言った。
「そういう話なら、生徒にも聞かせたいですね。本来は」
「今は聞かせる状況じゃない」
真壁が言うと、江口は頷いた。
「分かってます。だから腹が立つんですよ」
生見は、江口へ少しだけ視線を向けた。
「江口先生の怒りは、正しいと思います」
「やめてください。正しいと言われると口が重くなる」
江口はいつものように軽口で返したが、目は笑っていなかった。
その時、笠木浩明が窓際から歩いてきた。
「生見さん」
低い声だった。
「その資料、誰から手に入れたんですか」
生見は笠木を見た。
「複数の関係者です」
「関係者?」
「事故当時の施設関係者、元職員の家族、地域の方。正式な取材として話してくれた方もいれば、匿名を条件に資料を見せてくれた方もいます」
「古い資料は、文脈を失います」
笠木は言った。
「紙だけ見ても、現場は分からない」
「現場を知る人が語らなかったから、紙を探しているんです」
生見の返しは静かだった。
だが、強い。
笠木の眉が動く。
「俺たちが何も語らなかったと?」
「少なくとも、記録には残っていません」
「記録できる現場ばかりじゃない」
「記録しなかった現場は、誰かに都合よく語られます」
その言葉が、笠木に刺さったのが分かった。
真壁は二人を見ていた。
笠木は、浜島莉子に責められた時よりも深く反応している。生見の言葉は、遺族の怒りではない。調査する側の言葉だ。記録、資料、検証。その領域から責められることに、笠木は弱いのかもしれない。
生見は続けた。
「笠木さん。十八年前の事故当夜、無線は本当に届かなかったんですか」
ラウンジの空気が止まった。
笠木は答えなかった。
生見は手元の資料をめくる。
「報告書では、通信混乱とあります。でも、通信ログの一部には、特定の時間帯だけ、送信記録と受信記録が食い違っています。送った側は送信した。受けた側には記録がない。無線機器の不調だけなら、もう少しばらつきが出るはずです」
「何が言いたい」
「届かなかったのではなく、届かない場所があったのではないかと」
笠木の目が細くなる。
「施設の構造の話なら、鳳先生に聞くべきです」
鳳は顔を上げた。
「無線室の話ですか」
生見は頷いた。
「当時の無線室は、今の管理棟奥にある部屋と同じ位置ですか」
「ほぼ同じはずです。改修はされていますが、コア部分は変わっていない」
鳳は施設図を手元に引き寄せた。
「ただ、気になっていた場所ではあります」
「何が」
真壁が訊く。
「無線室の壁です」
鳳は図面を指差す。
「この部屋だけ、壁が厚い。外の風音や機械音を遮るためでしょうが、現在の改修では防音性がさらに上がっています。無線室としては不自然ではありません。ただ、少し過剰です」
「過剰?」
「外の音を遮るだけなら、ここまで閉じる必要はない。むしろ、中の音も外へ逃げにくい」
九条が静かに言った。
「声が届かない部屋か」
その言い方に、生見が反応した。
「そうです。私、それを確認したかった」
「無線室へ行くつもりか」
真壁が訊くと、生見は迷った。
「できれば。通信ログと機器の型番を確認したいんです」
「今は単独行動禁止だ」
「同行してもらえれば」
「俺が行く」
真壁が言った瞬間、別の職員がラウンジに入ってきた。
「今西さん、食堂棟の連絡橋について確認を」
今西が顔を上げる。
「すぐ行きます」
「待て」
真壁が制した。
「職員だけで動くな。二人以上だ」
「分かっています」
今西は言ったが、目に疲れが見えた。
青燐荘は綻び始めている。現場ごとに問題が起き、責任者はそのたびに対応へ引っ張られる。全員を一箇所に集めておきたいのに、施設は分散している。橋があり、棟があり、機械室があり、無線室がある。
犯人は、その分散を利用している。
真壁は、二階堂に言った。
「生見さんを無線室へ連れて行く。お前はここを」
「分かった」
二階堂はすぐ頷いた。
「ただ、真壁」
「何だ」
「高柳さんから目を離すなって言いたいところだけど、たぶんそれだけじゃ足りない。安西さんも」
「分かってる」
二階堂は安西実結を見た。
安西は、今のやり取りを記録していた。彼女のペンは止まらない。
「安西さん」
二階堂が声をかける。
「はい」
「ラウンジの記録を続けてください。ただし、ここからはあなたも単独行動禁止です」
「承知しました」
安西は静かに答えた。
生見は資料を抱え、立ち上がった。
笠木が言う。
「俺も行きます」
真壁は笠木を見た。
「なぜ」
「無線のことなら、多少は分かる。海保にいた頃、旧式機器も扱った」
「無線室に詳しいのか」
「当時の青燐荘の機器を直接触ったわけじゃない。だが、海上施設の無線なら、見れば分かることもある」
生見が笠木を見た。
その目には警戒がある。だが同時に、彼から聞き出したいこともあるのだろう。
真壁は少し考えた。
笠木をラウンジに残すか、連れて行くか。
生見は笠木に十八年前の無線不達を問いかけた。もし笠木が何かを知っているなら、この場で離すのは危険かもしれない。だが、同行させれば目の届く範囲に置ける。
「いい。来てください。ただし俺の前を歩いてほしい」
笠木は頷いた。
九条も立ち上がった。
「俺も行く」
「無線室に医者は要るか」
「要るかもしれない」
その答えだけで十分だった。
鳳も図面を手に取る。
「構造を見るなら、僕も必要でしょう」
結局、真壁、生見、笠木、九条、鳳が無線室へ向かうことになった。
江口は生徒の部屋の前から言った。
「僕は残ります」
「ああ」
「何かあったら呼んでください」
二階堂が言う。
「桜次郎、お前はこっちで生徒を見てろ」
「言われなくても」
「あと、自分も座れ」
「命令すんな。高校の時の文化祭実行委員長か」
「お前がサボるからだろ」
「サボってない。効率よく気配を消してただけ」
二人の短いやり取りに、場の空気が少しだけ緩んだ。
その緩みすら、今は貴重だった。
無線室は、管理棟の奥にあった。
廊下は途中で細くなり、外の風音が遠くなる。壁が厚くなるのが分かった。照明は白く、やや冷たい。床材もラウンジとは違い、硬質なものに変わっている。無線室の扉は金属製で、小さな窓がついていた。
鳳が扉の前で立ち止まる。
「やはり、重いですね」
「扉が?」
「はい。防音扉に近い。気密性も高い」
真壁はドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていない。
中は狭い部屋だった。
壁際に無線機器。古い機材と新しい機材が混在している。デスク、椅子、ログブック、予備電源。天井近くに換気口。窓はない。外から海が見えない部屋は、青燐荘では逆に珍しかった。
生見はすぐ機器の前へ行った。
「ログを確認します」
「触る前に写真」
真壁が言うと、鳳が頷いてスマートフォンで撮影した。
九条は部屋の空気を確かめるように、わずかに眉を寄せた。
「匂うか」
真壁が訊く。
「少し。機械油と、排気のような匂い」
「排気?」
「微量だけど」
笠木が換気口を見上げた。
「古い施設だ。発電機室と換気系統が近いのかもしれない」
鳳が図面を見る。
「近いですね。というより、近すぎる」
「どういうことだ」
「発電機室の排気ダクトと、無線室の換気系統が、改修後にかなり接近しています。通常なら分離するはずですが、既存配管を活かしたせいでしょう」
「逆流するか」
真壁が訊くと、鳳はすぐには答えなかった。
「通常はしません。ただし、切替弁が誤作動すれば、短時間なら」
生見が機器を見ながら言った。
「送信ログがあります」
「いつ」
「昨夜と今朝、それから……今日の午後。黒崎さんの事件の後にも、短い送信履歴があります」
「誰が送った」
「番号だけです。十二番までの施設内端末番号が表示されています」
生見は手を止めた。
画面を見つめる。
「……十三番」
真壁は彼女の横へ行った。
小さな画面に、短いログが残っている。
13 応答なし。
時刻は、黒崎の死後。
真壁は眉を寄せた。
「十三番の端末はあるのか」
鳳が図面を確認する。
「現行の設備一覧では十二番までです」
笠木が言う。
「古い端末番号が残っているのかもしれない」
「そんなことがあるのか」
「あり得る。機器更新の時に、番号だけ残ることはある」
生見が低く言った。
「でも、応答なしという表示は、端末が呼び出された時のものです。存在しない端末に呼びかけたのか、存在していた端末が応答しなかったのか」
「十三番」
真壁は呟いた。
十三番 対象外。
安西瑠衣。
存在しないはずの端末。
存在しないはずの人間。
どこかで、誰かが同じ数字を呼び続けている。
「このログ、保存できるか」
生見は頷いた。
「できます。コピーを」
その時、廊下から職員の声がした。
「真壁さん!」
真壁は振り返る。
今西の部下が立っていた。
「食堂棟の連絡橋で、固定センサーに異常が出ています。今西さんが対応を」
「今西さんだけで行かせるな」
「二階堂さんが止めています。ただ、確認が必要で」
真壁は迷った。
無線室。
生見。
笠木。
十三番のログ。
そして、食堂棟の連絡橋。
犯人は、こうやって人を分散させる。
「鳳さん、ここを見ててくれ。九条、生見さんから目を離すな。笠木さんもここに」
「真壁」
九条が言う。
「俺が残る。お前は行け」
真壁は九条を見る。
「いいのか」
「生見さんは俺と鳳さんで見る。笠木さんもいる。無線室は管理棟内だ」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
管理棟内だから安全。
吉住の時も、そうだった。
だが、連絡橋で別の事故が起きれば、被害は広がる。
真壁は決断した。
「すぐ戻る」
「うん」
真壁は無線室を出た。
その時、笠木が生見へ向き直るのが見えた。
「生見さん」
低い声。
真壁は足を止めかけた。
だが、職員が焦った声で呼ぶ。
「真壁さん、早く」
真壁は舌打ちし、廊下を走った。
連絡橋の固定センサー異常は、結果として大きな事故ではなかった。
食堂棟へ向かう橋の一部に、波を被ったためセンサーが誤反応していた。今西と二階堂が職員を止め、鳳の代わりに施設図を見ながら確認していた。危険はあったが、即座に人命に関わるものではない。
真壁が戻るまで、十分もかからなかった。
だが、その十分が、青燐荘では十分すぎる時間だった。
管理棟へ戻る途中、真壁は異変に気づいた。
廊下が静かすぎる。
無線室のある奥へ向かうと、九条の声が聞こえた。
「真壁!」
走った。
無線室の扉が開いている。
九条が床に膝をついていた。
その前に、生見彩音が倒れている。
鳳は換気口を見上げ、手にハンカチを当てていた。笠木は扉の外に立ち、顔色を変えている。
部屋には、かすかな異臭があった。
排気の匂い。
油と金属と、焦げたような空気。
「何があった!」
真壁が叫ぶ。
九条は答えない。
生見の気道を確保し、脈を確認している。顔色が悪い。唇にわずかに青みがある。爪の先に傷がある。無線機の送信ボタンが押されたままになっている。
九条の表情が変わった。
それだけで、真壁には分かった。
「駄目か」
「……駄目だ」
九条は低く言った。
「死亡している」
真壁は一瞬、音を失った。
さっきまで、生見はここで資料を見ていた。
十三番のログを見つけた。
安西瑠衣の存在へ近づいていた。
それから十分。
たった十分で、彼女は床に倒れて死んでいる。
「どういう状況だ」
真壁は自分の声を押さえた。
九条は生見の喉、口元、爪、目を確認する。
「窒息に近い。酸欠と排気吸入の可能性がある。すぐに意識を失ったわけじゃない」
「助けを呼んだか」
「呼ぼうとしている」
九条は無線機を指した。
送信ボタン。
押されたまま。
「でも、誰も聞いてない」
鳳が青ざめた顔で言う。
「マイクがミュートになっています」
二階堂が遅れて駆けつけた。
「生見さんは」
九条が首を横に振る。
二階堂の顔から表情が消えた。
「……無線室で?」
「声の届かない部屋でな」
真壁が言うと、鳳が換気口を見た。
「排気が逆流した可能性があります」
「今か」
「はい。さっきまで換気口から微かな風がありました。今は止まっています。おそらく、短時間だけ発電機室側の排気がこちらへ流れた」
「操作は」
「切替弁です。図面上は、無線室の外、廊下奥の点検パネルから触れます」
真壁は笠木を見た。
笠木は扉の外に立っている。
「笠木さん」
「俺じゃない」
早かった。
早すぎた。
「まだ何も聞いてない」
真壁が言うと、笠木は唇を結んだ。
「俺は、廊下にいた。生見さんと話していた。途中で鳳先生が換気口を見ると言って脚立を取りに出た。九条先生はログをコピーしていた。俺は扉の外で、職員に呼ばれて少し離れた。その後、戻ったら……」
「どのくらい離れた」
「数分だ」
「誰に呼ばれた」
「分からない。職員服の男だった。発電機室の警告が出ていると言われた」
「その職員は」
笠木は答えない。
見失ったのだろう。
真壁は無線室の中を見た。
生見の指先には、壁を引っ掻いたような傷がある。
爪の下に白い塗料片。
無線機のボタン。
ミュート表示。
机の上には、生見が開いていたコピー。
安西瑠衣。
救助対象外処理。
そして画面のログ。
13 応答なし。
九条が静かに言った。
「声帯に、叫ぼうとした痕跡がある」
「叫んだのか」
「うん。でも誰も聞いていない」
鳳が扉を見た。
「この部屋は、中の声が外へ出にくい。防音扉です。マイクがミュートなら、無線も届かない」
二階堂が低く言った。
「通信が届かなかった者」
誰も反論しなかった。
生見彩音は、防災NPO職員として、通信が届かなかった過去を調べていた。
そして今、自分の声が届かない部屋で死んだ。
見立ては、また成立していた。
真壁は拳を握った。
犯人は、青燐荘そのものを使っている。
橋。
棚。
ボート。
無線室。
換気。
人の役割。
全部を、死に変えている。
「鳳さん」
「はい」
「この排気逆流、誰ができる」
「施設の旧設備を知っている人間なら。図面を見れば僕にも理屈は分かります。ただ、実際に切替弁を短時間だけ操作するには、位置と癖を知っている必要があります」
「旧設備に詳しい人間」
真壁は笠木を見た。
笠木は静かに真壁を見返した。
「俺を疑っているのか」
「候補には入る」
「そうか」
笠木は怒らなかった。
その反応が、また真壁には引っかかった。
生見の手元に、小型録音機が落ちていた。
二階堂が見つける。
「これ」
「触るな」
真壁が言うと、二階堂は手袋をして拾った。
録音機はまだ動いている。音声ファイルが保存されている。
再生すると、最初に生見の声が入っていた。
小さな声。
おそらくメモ用だ。
「無線室ログ、十三番応答なし。現行端末に十三番は存在しない。安西瑠衣の救助対象外処理との関連を要確認」
短いノイズ。
次に、別の声。
笠木の声だった。
「その名前を、今ここで出すな」
生見の声。
「なぜですか」
笠木。
「死人が増える」
生見。
「もう増えています」
沈黙。
それから、生見の声が少し低くなる。
「笠木さん。あなたは、無線が届かなかったんじゃなく、届かない場所を知っていたんですね」
そこで録音は、大きなノイズに飲まれた。
真壁は再生を止めた。
全員が笠木を見ていた。
笠木浩明は、黙っていた。
元海上保安官の顔に、疲れが深く刻まれている。怒りでも、恐怖でもない。十八年間、海の底に沈めていたものが、水面に浮かびかけているような顔だった。
「説明してもらう」
真壁が言った。
笠木はしばらく黙った。
そして、低く答えた。
「今は、何を言っても疑われる」
「言わなければ、もっと疑う」
「……あの夜、届かない場所はあった」
その一言で、部屋の空気が変わった。
笠木は続けた。
「波と風で、通信が乱れたのは事実だ。だが、それだけじゃない。管理棟奥の無線室から、食堂棟側の一部へは声が届きにくかった。建物の構造と、当時の機器の問題だ」
「知っていたのか」
「後からだ」
「本当に?」
笠木は真壁を見た。
「現場では、全部は分からない」
「便利な言葉だな」
二階堂が低く言った。
笠木は二階堂を見なかった。
「便利でも、事実だ」
「生見さんは、それを知ったから殺されたのか」
「俺は殺していない」
笠木の声が硬くなる。
「俺が彼女を殺す理由はない」
真壁は録音機を見た。
理由ならある。
生見は笠木の過去に近づいていた。
だが、それだけで決めるわけにはいかない。
九条が生見の爪を確認していた。
「爪に金属粉がある」
「金属粉?」
「壁を引っ掻いた時の塗料片とは別。古い金具の粉みたいなもの」
鳳が点検パネルの方を見た。
「切替弁の金具かもしれません」
「生見さんが触った?」
「可能性はあります。最後に操作しようとしたのかもしれない」
真壁は生見の倒れていた位置を見た。
彼女は無線機の前から、壁側へ移動しようとしていた。換気口の下。点検パネルの近く。
排気が流れ込み、異変に気づく。
無線で助けを呼ぶ。
マイクはミュート。
声は扉の外へ届かない。
彼女は壁を引っ掻き、切替弁のある方向へ行こうとする。
届かなかった。
声も、手も。
「ミュートにしたのは誰だ」
二階堂が言う。
誰も答えない。
それは簡単な操作かもしれない。
しかし、無線機を触れる機会が必要だ。
生見自身が誤ってミュートにした可能性もある。だが、彼女は防災NPO職員で、機器に不慣れな素人ではない。助けを呼ぶ時に、そんな初歩的なミスをするか。
犯人が事前にミュートにしていた。
そう考える方が自然だった。
「十三番のログは」
真壁が訊く。
鳳が確認する。
「残っています。ただ、さっき生見さんがコピーしようとしていた途中で止まっています」
「消せるか」
「機器に詳しければ」
笠木が口を開く。
「古い型なら、ログの一部は消せる。だが、完全には消えない」
「詳しいな」
真壁が言うと、笠木は目を伏せた。
「昔、扱った」
その言葉は事実だろう。
だが、事実だからこそ、彼は疑わしい。
二階堂が、部屋の外へ視線を向けた。
「真壁、これをラウンジでどう説明する?」
「殺人だ」
「それはそうだけど」
「通信が届かなかった者として殺された。そう言えば、全員に伝わる」
「伝わりすぎる」
二階堂の声には苦味があった。
「犯人はそれを狙ってる。分かりやすい死を積み上げて、全員に次の順番を数えさせてる」
真壁は頷いた。
まさにそうだった。
人が死ぬたびに、意味がつく。
意味がつくたびに、残された人間は自分の役割を意識する。
役割を意識した瞬間、次は自分かもしれないと思う。
それが犯人の狙いだ。
青燐荘全体を、巨大な順番表に変えること。
生見彩音の遺体を管理棟の一室へ運ぶ時、ラウンジの空気はまた変わった。
四人目、いや、現在の死者としては谷本、吉住、黒崎、生見で四人。浜島莉子の未遂を含めれば、五つの事件。
生見の死が知らされた瞬間、安西実結のペンが止まった。
真壁は見た。
彼女は顔を上げ、生見の遺体が運ばれていく廊下を見た。表情はほとんど変わらない。だが、目の奥だけが暗くなったように見えた。
二階堂が、その横に立つ。
「安西さん」
「はい」
「記録してください」
「……はい」
「生見彩音さん。無線室で死亡。送信ボタンを押したが、声は届かなかった」
安西はペンを持ち直した。
「はい」
二階堂は続ける。
「あと、“十三番、応答なし”のログも」
安西の指が止まった。
ほんの少しだけ。
それから、彼女は書いた。
十三番、応答なし。
その文字を、真壁は横から見た。
安西実結の筆跡。
整った、癖の少ない字。
だが、「十三」の文字だけが、わずかに強かった。
江口が、生徒の部屋から出てきた。
「また、ですか」
真壁は頷いた。
「生見さんが死んだ」
「どこで」
「無線室」
江口は目を閉じた。
「声、届かなかったんですか」
真壁は江口を見た。
「なぜそう思う」
「顔です」
「誰の」
「全員の」
江口は疲れた声で言った。
「ここにいる大人、みんな今、“届かなかった”って顔してます」
その言い方は、ひどく的確だった。
ラウンジの人々は、生見の死に怯えているだけではなかった。
何かを思い出している。
十八年前、届かなかった声。
届かなかった通信。
届かなかった救助。
そのすべてが、生見彩音の死で戻ってきた。
浜島莉子が、笠木を見た。
「あなた、知ってたんですか」
笠木は答えない。
「無線が届かなかったんじゃなくて、届かない場所があったって」
「……後からだ」
「また後から」
莉子の声は震えた。
「全部、後からなんですね。兄が死んだ後。報告書ができた後。追悼施設になった後。人が死んだ後」
笠木は黙っていた。
沈黙は、時々、言葉より多くを語る。
真壁はその沈黙を記憶した。
生見彩音が残した録音。
笠木の反応。
金属粉。
切替弁。
無線室の構造。
まだ答えではない。
だが、一本の線が見え始めていた。
笠木は何かを知っている。
そして、おそらく何かを隠している。
それが十八年前だけのことか、今の死に関わることかは、まだ分からない。
だが、生見の死だけは、他の事件と少し温度が違う。
真壁はそう感じていた。
谷本、吉住、黒崎の死は、見立てが整いすぎている。
生見の死も見立てにはなっている。
だが、どこか急いでいる。
何かを止めるために殺した匂いがある。
犯人の順番に合わせた死ではなく、誰かの秘密に近づいたから消された死。
真壁は、笠木を見た。
笠木は窓の外を見ていた。
元海上保安官の背中は大きくない。だが、海を見ているその背には、長年背負ってきたものの重さがあった。
その重さが罪なのか、後悔なのか。
まだ分からない。
夜はさらに深くなった。
青燐荘の外では、海が黒くうねっている。
内部では、記録が増えていく。
毒物未遂。
転落。
圧殺。
溺死。
窒息。
それぞれの死に、意味が与えられていく。
そしてその意味を、安西実結が一つずつ紙に書いている。
真壁は、彼女の手元を見た。
十三番、応答なし。
その文字は、ラウンジの薄い光の下で、妙に濃く見えた。
生見彩音の声は届かなかった。
だが、届かなかった声を聞き続けていた者が、この場所にはいる。
真壁はそう思った。
その者が、犯人なのか。
それとも、十八年間、名前を呼ばれなかった死者なのか。
まだ分からない。
ただ、青燐荘の中で、十三番目の沈黙だけが、少しずつ形を持ち始めていた。




