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青燐荘の十三人目 ―海上の追悼施設で、生者が順番に裁かれる―  作者: 二条理|アコンプリス


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第六章 景観のためのボート

 警告灯は、海の上で赤く瞬いていた。

 救命ボート架台の区画は、管理棟から見て食堂棟のさらに外側にある。正規の宿泊者が立ち入る場所ではない。追悼施設として整えられた青燐荘の表側から、少しだけ外れた場所。ガラス越しに海を眺めるための動線からは見えにくく、施設案内図でも小さく記されているだけだった。

 真壁彰は走りながら、そのことを思い出していた。

 鳳恭介が言っていた。

 安全設備なのに、避難動線の中心にない。

 景観のために外されている。

 その言葉が、今になって嫌な重さを持った。

 連絡橋へ出ると、風がまともに顔へ当たった。夕方の海は黒い。昼間よりさらに潮位が上がっている。橋の下で波が跳ね、網床の隙間から白い飛沫が一瞬見えた。

 先頭を走る真壁の後ろに、二階堂壮也、九条雅紀、鳳恭介が続く。

 誰も余計なことを言わなかった。

 こういう時、沈黙の質で人間の状態が分かる。二階堂の沈黙は、怒りを整理するためのもの。九条の沈黙は、すでに負傷者が出る可能性を計算しているもの。鳳の沈黙は、頭の中で図面と現場を重ねているもの。

 真壁は、足元と前方を同時に見た。

 風。

 橋。

 海面。

 警告灯。

 ボート架台。

 そして、そこへ向かったはずの黒崎透。

 黒崎はついさっきまでラウンジにいた。開発会社の社員として、青燐荘の信用や事業の継続を気にしていた。安西瑠衣の名札が出て、施設の根幹が揺らぎ始めた直後、彼は姿を消した。

 逃げたのではない。

 おそらく、確かめに行った。

 自分の目でボート架台の状況を見て、責任説明に使える言葉を探すために。

 そういう人間はいる。

 危険を見に行くのではなく、危険を説明できる形へ整えるために現場へ向かう人間。

 だが、この青燐荘では、それだけで十分に命取りだった。

 ボート架台の区画に近づくと、赤い警告灯の光が足元を切った。警報音は大きくない。職員用の設備警報なのだろう。短い電子音が、風に流されながら断続的に鳴っている。

 そこに、黒崎の姿はなかった。

「黒崎さん!」

 真壁が叫ぶ。

 返事はない。

 架台は、昨日見た時と同じ場所にある。

 いや、違う。

 角度が違う。

 一隻使えなくなっていた救命ボートの架台が、海側へ不自然に傾いていた。完全に崩れてはいない。ボートそのものも落ちていない。だが、吊り具の一部が外れ、支点の片側がずれている。安全ピンが半分抜けた状態で、金属部品が風に揺れている。

 床には、黒崎の社員証が落ちていた。

 ストラップが千切れている。

 そのすぐ先、手すりの切れ目付近に、片方の靴が引っかかっていた。

 真壁は手すりまで走り、海を覗き込む。

 黒い水面がうねっている。

 一瞬、何も見えない。

 次の波で、暗い服の袖が浮いた。

「下だ!」

 真壁は手すりを掴んだ。

 海面は近い。だが、飛び込める状態ではない。波は架台の下で複雑に巻き、構造物の脚にぶつかっては引いている。無闇に入れば、二人目が死ぬ。

 笠木浩明が少し遅れて駆けつけた。

 元海上保安官の顔になる。年齢を感じさせない速さで状況を見た。

「飛び込むな。流れが巻いてる。ロープを」

 真壁は頷いた。

 九条がすでに救助バッグの位置を見ていた。鳳が架台下の構造を見ながら、足場を指示する。

「この下、横梁があります。直接引き上げるなら、そこの作業用梯子から降りた方が早い。ただし、左側は波を被ります」

「右は」

「ボート架台の影で少し弱い」

「そこだ」

 真壁はロープを取った。

 二階堂が即座に周囲へ声を飛ばす。

「全員下がってください。ここに集まらない。職員は照明、ロープ、毛布。誰も勝手に手すりへ近づかない」

 声はよく通った。

 軽い男ではない。場を制御する時の二階堂は、言葉を刃物のように使う。誰に何をさせ、何をさせないか。迷っている人間の足を止めるために、声を置く。

 真壁はロープを腰へ回し、作業用梯子へ向かった。

「俺が行く」

「真壁」

 九条が呼ぶ。

「頭を打っている可能性がある。引き上げる時、首を無理に曲げるな」

「分かってる」

「あと、海水飲んでるなら時間がない」

「ああ」

 真壁は梯子を降りた。

 風が強い。足元は濡れている。下の作業台は狭く、波が時折足首を洗う。ロープを手すりに通し、笠木が上で支える。黒崎の身体は架台の脚に引っかかりかけていた。完全に流されていないのは幸運だったが、波が来るたびに身体が構造物へ叩きつけられている。

 真壁はタイミングを測った。

 波が引く。

 手を伸ばす。

 黒崎の腕を掴む。

 冷たい。

 重い。

 生きている人間の重みなのか、もう死んだ人間の重みなのか、手だけでは分からない。

「引く!」

 上で笠木がロープを張った。

 真壁は黒崎の上半身を支え、波の合間に作業台へ引き寄せる。九条が途中まで降りてきて、足場の安全を見ながら手を伸ばした。

「頸部、固定」

「頼む」

 二人がかりで黒崎を上げる。

 黒崎はぐったりしていた。額に打撲。口元に海水。スーツの片側が裂け、腕には金属で擦ったような傷がある。

 九条がすぐに呼吸を確認した。

 一秒。

 二秒。

 その沈黙が長い。

「呼吸、弱い」

 九条の声が低くなる。

「上げる。真壁、肩。笠木さん、ロープをゆっくり」

 上へ引き上げるまでの数分が、異様に長かった。

 黒崎の身体は、ようやく架台区画の床へ戻された。九条が濡れた上着を開き、胸部の動きを見た。真壁は膝をついたまま、黒崎の顔を見ていた。

 開発会社の男。

 景観のために安全設備を目立たない場所へ押し込めた側の人間。

 そう思うのは簡単だった。

 だが、目の前にいるのは、海水を吐きながら死にかけている一人の人間だった。

「黒崎さん」

 九条が呼びかける。

 反応は薄い。

 胸部圧迫。

 気道確保。

 海水を吐かせる。

 九条の指示は短く、正確だった。真壁は言われた通りに身体を支え、二階堂は毛布を受け取り、周囲の人間を遠ざける。

 黒崎の喉が鳴った。

 水が出る。

 九条の目がわずかに動いた。

「まだだ」

 その言葉に、誰も息をするのを忘れた。

 しかし、数分後。

 黒崎の呼吸は戻らなかった。

 九条は最後にもう一度、頸動脈を確認した。

 それから、静かに手を止めた。

「死亡確認」

 風が吹いた。

 赤い警告灯が、黒崎の濡れた顔を照らした。

 真壁は立ち上がれなかった。

 ほんの十数分前まで、黒崎はラウンジで「事業として」「施設の信用として」と言っていた。言葉は軽かった。腹立たしくもあった。

 だが、人間が死ぬ時に、言葉の軽さは消える。

 残るのは、濡れた身体と、動かない胸だけだ。

「事故ですか」

 誰かが言った。

 職員の一人だった。

 真壁は答えなかった。

 代わりに、鳳が架台を見ていた。

「事故に見せる気は、あったでしょうね」

 その声は静かだった。

 二階堂が振り向く。

「どういう意味ですか」

 鳳はボート架台の支点を指した。

「これは、ボートが落ちたのではありません」

「落ちてないですね」

「ええ。だから最初は変だと思いました。ボートは落ちていない。黒崎さんだけが海へ落ちた。普通、架台が壊れればボートごと落ちるか、吊り具が外れる。人だけが弾き出されるのは不自然です」

 真壁は立ち上がり、架台へ近づいた。

「弾き出された?」

「はい」

 鳳は金属支点を示す。

「ここです。安全ピンが半分抜けています。完全には外れていない。支点も折れていない。ただ、固定レバーを引いた瞬間に、架台の一部が跳ねるように動く状態になっている」

「黒崎さんが自分でレバーを引いた」

「おそらく。点検か確認のために」

 二階堂が言う。

「黒崎さんは、ボートを直そうとしたわけじゃない。状態を確認して、説明材料にしようとした」

「でしょうね」

 鳳は床の擦過痕を見た。

「ここに靴跡があります。黒崎さんは海側に立っていた。通常の点検位置としては危険ですが、外側から破損箇所を確認しようとすると、ここに立つことになる」

「そこに立つと」

「レバーを引いた瞬間、架台のアームが膝下へ当たります。強い力ではない。ただ、足元が濡れていて、手すりの切れ目が近く、風が海側へ吹いている。人間一人をバランス崩させるには十分です」

 九条が黒崎の脚を確認した。

「右膝下に打撲。高さが合う。手すりにぶつかった痕もある」

「つまり」

 二階堂が低く言う。

「ボートは落ちてない。ボートに乗る前に、人間だけが外へ押し出された」

 鳳は頷いた。

「これは落下装置ではありません。押し出し装置です」

 その言葉が、周囲へ広がった。

 押し出し。

 青燐荘の罪に、あまりにも似た言葉だった。

 人を殺すのではなく、順番から押し出す。

 救助対象から押し出す。

 名簿から押し出す。

 黒崎透は、ボートに触れながら、ボートに乗れずに死んだ。

 見立ては明らかだった。

 真壁は、架台の安全ピンを見た。

「誰がここを触れる」

 谷本は死んだ。

 設備に詳しい人間は限られる。

 谷本の後に触った者。

 高柳は、ボートの固定具を緩めたことを認めた。しかし彼は、完全に使えなくするつもりではなかったと言った。嘘かもしれない。だが、この架台の細工は、固定具を緩める程度ではない。黒崎を特定の位置に誘導し、自分でレバーを引かせ、人だけを海へ落とす。

 準備が要る。

 観察が要る。

 構造を知る必要がある。

「鳳さん」

 真壁は言った。

「あなたなら、これを作れるか」

 鳳は一瞬、真壁を見た。

 その表情には、驚きより諦めがあった。自分が疑われることを、最初から想定していたような顔だった。

「理屈だけなら」

「実行は」

「僕なら、もっと安全に作ります」

 二階堂が顔をしかめた。

「殺人装置に安全も何もあるんですか」

「あります」

 鳳は真面目に答えた。

「事故に見せるなら、壊れすぎてはいけない。部材が派手に破損すれば、故意の細工が見えやすくなる。今回の仕掛けは、構造としては粗い。けれど目的には合っています」

「目的」

 真壁が言う。

「黒崎さんを、ボートに乗れない側へ押し出すことです」

 鳳の声は低かった。

 九条が黒崎の遺体に毛布をかけた。

「殺意は十分だな」

「ええ」

 鳳は架台を見つめた。

「ただ、これは建築や機械だけではありません。黒崎さんがどう動くかを読んでいる。自分で確認したがること。外側から壊れた箇所を見ようとすること。レバーに手をかけること。そこまで含めて仕掛けている」

「人間の癖か」

 真壁が言うと、鳳は頷いた。

「谷本さんの時と同じです」

 谷本は、慣れた点検動作を利用されて落とされた。

 黒崎は、責任説明のために現場を確認する動きを利用されて海へ押し出された。

 犯人は、設備だけではなく、人の行動の癖を使っている。

 その時、ラウンジ側から江口桜次郎が走ってきた。

「生徒は無事です」

 息が上がっている。

「さっき、遠里が“先生が呼んでる”って職員通路の方に誘導されかけました。でも僕、呼んでません」

 真壁の目が鋭くなる。

「誰が言った」

「姿は見てません。職員っぽい人に言われたって。声は低かった、とだけ」

「どこへ」

「宿泊棟と食堂棟の間の通路。僕が気づいて止めました」

 二階堂が呟く。

「黒崎さんを一人にするためか」

 江口の顔が変わる。

 その目から、疲れが消えた。

「子どもを使ったんですか」

 誰も答えなかった。

 答えられなかった。

 江口は、濡れたボート架台、黒崎の遺体、赤い警告灯を順に見た。

 それから、静かな声で言った。

「次に子どもを使ったら、怒ると言いましたよね」

「もう怒ってるだろ」

 二階堂が言う。

「まだ教師として怒ってる」

 江口は二階堂を見なかった。

「次は大人として怒る」

 その声は低かった。

 真壁は江口を見る。

 この男は、怒鳴らない。

 ただ、声の温度を下げる。

 だから余計に怖い。

 江口は黒崎の遺体から目を逸らした。死体を見ることに慣れていない。そのことを隠そうとはしていない。だが、逃げもしない。

「黒崎さんは」

 江口が言う。

「死んだ」

 真壁が答える。

「そうですか」

 江口は小さく息を吐いた。

「嫌な死に方ですね。ボートのそばで死んだのに、ボートには乗れない」

 二階堂が江口を見る。

 真壁も同じことを考えていた。

 この事件は、見立てになっている。

 それを江口も感じ取っている。

 江口は、教師だ。刑事でも法医学者でも建築学者でもない。だが、順番や役割を押しつけられることへの感度は鋭い。子どもたちの教室では、席順ひとつで空気が変わる。誰を前にし、誰を後ろにし、誰を一人にするか。江口は、そういう小さな配置の残酷さを知っているのかもしれない。

 今西琴葉が遅れて到着した。

 息が乱れている。だが、表情を整えようとしている。

「黒崎さんは……」

 九条が首を横に振る。

 今西は一瞬、目を閉じた。

 すぐに開く。

「遺体は管理棟へ。現場は封鎖します。職員は」

「待て」

 真壁が言った。

「ここは触るな。現場保全が先だ」

「ですが、潮位が上がると」

「だから急ぐ。二階堂、写真。安西を呼べ。記録を取らせる。ただし、彼女一人にはするな」

「了解」

 二階堂はすぐ動いた。

 鳳は架台周辺の寸法を確認し始める。九条は黒崎の身体の損傷を見ている。真壁は周囲の人間の位置を確認した。

 黒崎がラウンジを出た時、誰が見たか。

 警告灯が鳴る前、誰がどこにいたか。

 江口の生徒を誘導しようとした声は誰か。

 安西実結が落とした紙は何だったか。

 すべてが同時に頭の中へ押し寄せる。

 その中で、鳳が言った。

「黒崎さんは、ここに呼び出された可能性があります」

「呼び出し?」

「この架台、外側から見ると破損箇所が分かりやすい。黒崎さんは施設の開発担当です。安全設備の不備が問題になれば、責任を問われる。誰かに“今のうちに確認した方がいい”と言われたら、来るでしょう」

「誰に」

「分かりません。ただ、彼は専門家ではない。自分で直すためではなく、説明するために見に来た」

 二階堂が戻ってきて言う。

「黒崎さんのスマホ、上着の内ポケットにありました。防水ケース入り。メモアプリが開きっぱなしです」

「内容は」

 二階堂は画面を見た。

「“ボート架台 補修必要/景観配慮による配置変更の経緯確認/安全基準上の問題なしと説明可能か”」

 江口が低く笑った。

「死ぬ直前まで説明文を考えてたんですか」

 二階堂は答えなかった。

 彼も同じことを思ったのだろう。

 黒崎は、危険を消そうとしたのではない。

 危険を説明可能な形へ整えようとした。

 それが彼の仕事だったのかもしれない。

 だが、その仕事が青燐荘の過去と同じ構造を持っている。

 安全より景観。

 命より説明。

 人間より施設の体裁。

 真壁は、黒崎の死が犯人にとってどういう意味を持つのかを考えた。

 景観のために外されたボート。

 ボートに乗れなかった男。

 それは、あまりにも整っている。

 整いすぎている。

 誰かが黒崎に、その役を与えて殺した。

 その頃、安西実結が二階堂に付き添われて現場へ来た。

 記録係の腕章が風で揺れている。彼女は黒崎の遺体を見ると、わずかに顔色を変えた。だが、すぐにカメラを構える。

「撮影してよろしいでしょうか」

「現場記録としてな。遺体に近づきすぎるな」

 真壁が言う。

「はい」

 安西は淡々と撮影する。

 架台。

 安全ピン。

 床の靴跡。

 社員証。

 手すりの切れ目。

 黒崎の靴。

 警告灯。

 撮る順番が整っている。

 二階堂が彼女の横で見ていた。

「安西さん」

「はい」

「さっきラウンジで落とした紙、後で確認させてください」

 安西はシャッターを押した後、少しだけ間を置いた。

「記録用の控えです」

「それはさっき聞きました」

「提出します」

「今ではなく?」

「現場記録を終えてからでよろしいでしょうか」

 二階堂は笑った。

「ええ。逃げないでくださいね」

「逃げる理由がありません」

「そうですね」

 二階堂の声は柔らかい。

 だが、真壁には分かった。

 二階堂は安西を見始めている。

 安西も、それに気づいている。

 現場保存を終えた後、黒崎の遺体は管理棟へ運ばれた。九条が最低限の検案を行うため、真壁と鳳も付き添った。

 黒崎の死因は溺死と外傷。海へ落ちた際に頭部と胸部を構造物に打ち、海水を吸った。右膝下の打撲は、架台のアームが当たった位置と一致する。手のひらには、レバーを握ったような擦過痕がある。

 九条はそれを見て言った。

「自分で引いたな」

「レバーを?」

「うん。手の内側に金属の粉が残ってる。握った状態で力を入れている」

「誰かに押された可能性は」

「ゼロではない。でも、背中に強い押圧痕はない。外から突き落とされたというより、足元を払われて落ちた」

 鳳が架台の簡易図を描く。

「黒崎さんがここに立ち、レバーを引く。半抜きの安全ピンで支点がずれ、アームがこの方向へ跳ねる。膝下を払う。ここに手すりの切れ目がある。落下」

「なぜ手すりに切れ目がある」

 真壁が訊くと、鳳は少しだけ顔をしかめた。

「ボートを下ろすための作業口です。本来は作業時以外、可動柵を閉じておくべきです」

「開いていた」

「はい」

「誰が開けた」

「黒崎さん自身か、犯人か。そこはまだ」

 二階堂が、黒崎のスマホを見ながら言う。

「黒崎さんのメモに、“可動柵確認”ってある。自分で開けた可能性はある」

「自分で開け、自分でレバーを引き、自分で落ちたように見える」

 真壁が言う。

「犯人の手は、ほとんど残らない」

「谷本さんの時と同じだね」

 二階堂の声が硬い。

 谷本は、自分の点検動作を使われて落ちた。

 吉住は、自分で棚を操作したように見えた。

 黒崎は、自分でレバーを引いたように見える。

 犯人は、自分の手で直接人を殺していない。

 人が自分の役割通りに動くよう、道具と状況を整えている。

 それが、真壁にはひどく不快だった。

「人を、自分の仕事で殺してる」

 江口が入口で言った。

 いつの間にか来ていた。生徒は職員と二階堂の指示で安全区画にいるらしい。江口は遺体の方を直視しない。それでも、会話は聞いていた。

「谷本さんは設備点検。吉住さんは資料確認。黒崎さんは安全説明。みんな、自分の仕事をしようとして死んでる」

 真壁は江口を見た。

 確かにそうだった。

 犯人は、被害者の役割を利用している。

 人間を、その人間が社会で担っていた役に閉じ込めて殺している。

 九条が短く言った。

「役で殺してる」

「嫌な言い方ですね」

 江口が言う。

「でも、そうだと思います」

 二階堂がスマホを閉じた。

「なら次に狙われるのも、役で決まるかもしれない」

 その場に沈黙が落ちた。

 誰が次か。

 その問いを、誰も口にしなかった。

 口にしなくても、全員が考えている。

 救助者。

 記録者。

 開発者。

 遺族。

 教師。

 法医学者。

 建築学者。

 広報担当。

 刑事。

 それぞれが、この青燐荘で役を持っている。

 犯人は、その役に死を与えている。

 ラウンジへ戻ると、黒崎の死はすでに全員に伝わっていた。

 浜島莉子は、目を閉じていた。祈っているのではない。怒りを外に出さないよう、押し込めている顔だった。

 高柳真治は震えている。

 黒崎の死は、高柳の計画にもなかったのだろう。真壁はそう見た。

 生見彩音は資料を抱えたまま、黒崎のいない席を見ていた。

 白川一冴は、何かを言いかけてはやめる。

 汐崎瑚子は、スマートフォンを握りしめている。撮りたい。伝えたい。だが、二階堂に制限されている。その苛立ちが、彼女の顔に出ていた。

 今西琴葉は、黒崎の死を聞いた時、表情を失った。

 彼女にとって黒崎は、外部の開発会社社員であり、青燐荘の再整備に関わる相手だった。施設の未来を語る人間が、施設の安全設備で死んだ。その意味は重い。

「青燐荘は、閉鎖すべきです」

 生見彩音が言った。

 今西が彼女を見る。

「今この場で判断することでは」

「今この場で判断しなかった結果が、これです」

 生見の声は静かだが、強かった。

「ボート配置、通路幅、無線、資料保管、作業導線。どれも危険です。十八年前に問題があった施設を、追悼施設として整えただけで安全になったことにした。その結果、人が死んでいます」

「生見さん」

 黒崎がいれば反論したかもしれない。

 だが、もう黒崎はいない。

 今西は答えに詰まった。

 鳳が静かに言う。

「建物は、隠した妥協を後から請求してきます」

「請求?」

 今西が問う。

「ええ。景観を優先したこと。ボートを目立たない場所へ移したこと。資料室に重すぎる棚を置いたこと。通路を狭いままにしたこと。全部、その時は小さな妥協だったのかもしれません。でも、積み重なると人が死ぬ」

 ラウンジは静まり返った。

 黒崎がいなくなったことで、彼が守ろうとしていた言葉だけが空中に残った。

 事業。

 景観。

 説明可能。

 安全基準上問題なし。

 二階堂が、黒崎のスマホに残っていたメモを読み上げた。

「“安全基準上の問題なしと説明可能か”」

 誰も顔を上げなかった。

 二階堂は続ける。

「黒崎さんは、死ぬ直前まで説明文を考えていた。たぶん、仕事としては間違っていなかったんでしょう。でも、ここで必要だったのは説明じゃない。止めることだった」

 江口が小さく言った。

「説明で人は助からない時がありますからね」

 それは教師の言葉だった。

 真壁は、安西実結へ目を向けた。

「さっきの紙を見せてくれ」

 今度ははっきり言った。

 安西はバインダーを膝の上で閉じた。

 全員の視線が彼女に集まる。

 安西は静かに答えた。

「分かりました」

 バインダーの奥から、一枚のコピーを取り出す。

 黄ばんだ原本を複写したものらしい。

 題名は、真壁が見た通りだった。

 事故当夜 救助対象者確認表。

 表には十二人の名前がある。

 浜島莉子の兄の名前。ほかの死者。生存者。施設関係者。順番らしき数字。

 そして欄外。

 小さな手書きで、こうあった。

 ――十三番 対象外。

 真壁は目を細めた。

「これはどこで」

 安西は答えた。

「資料整理中に見つけたコピーです」

「いつ」

「今日の午前です」

「なぜ出さなかった」

「真偽が確認できていませんでした」

 二階堂が静かに言う。

「真偽が確認できないから出さない。便利な理由ですね」

 安西は目を伏せない。

「不用意に出せば、混乱を招くと思いました」

「もう十分混乱してる」

「はい」

「なら、なぜ今まで隠した」

 安西は少しだけ黙った。

「隠したつもりはありません」

 二階堂は笑わなかった。

「記録係の人が、“出していない”ことを“隠していない”と言うのは、少し怖いですね」

 真壁はコピーを見た。

 十三番 対象外。

 対象外。

 人間に使う言葉ではない。

 だが、報告書の世界では、人間はこういう言葉に変えられる。

「安西瑠衣か」

 真壁が言うと、安西は答えなかった。

「この十三番が安西瑠衣だと知っていたか」

「分かりません」

「本当に?」

「はい」

 彼女の答えは、また整っていた。

 真壁はコピーを二階堂へ渡した。

「保管しろ」

「了解」

 生見彩音が、その紙を見て顔色を変えた。

「それ……私が見た資料と同じ系列です」

「系列?」

「救助対象者一覧の下書きです。正式版では、その欄外が消えていました」

「誰が消した」

「分かりません。でも、吉住さんが関わった報告書の段階では、すでに十二人に整えられていたはずです」

 浜島莉子が立ち上がった。

「対象外って、何ですか」

 誰も答えない。

「人間を対象外って、誰が決めたんですか」

 高柳が、震える声で言った。

「救助対象から外した、という意味かもしれません」

 莉子は高柳を見た。

「つまり、兄を後回しにした理由は、その人を外すためだったんですか。それとも、その人を外したから、兄が後回しになったんですか」

 高柳は答えられなかった。

 真壁にも、まだ答えはない。

 だが、ひとつだけ分かっていた。

 十二なら説明できる。

 十三なら説明できない。

 そのために誰かが「対象外」にされた。

 そして今、青燐荘では、人間がまた順番から押し出されている。

 黒崎透の死は、その見立てだった。

 ボートのそばで、ボートに乗れず、海へ押し出された男。

 それは偶然ではない。

「犯人は」

 真壁は言った。

 全員が彼を見る。

「十三人目を知っている。そして、二十年前の救助順を現在の死に置き換えている」

 江口が扉の方へ目をやった。

 生徒たちのいる部屋。

「次は誰ですか」

 その問いに、誰も答えなかった。

 だが答えがないことこそ、恐怖だった。

 外で、ボート架台の警告灯がまだ赤く点滅している。

 海は黒い。

 青燐荘は白い灯をつけている。

 そしてその灯の中で、人々は初めて、死者の数ではなく、自分の順番を数え始めていた。


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