第五章 十三番目の名札
夜が近づくほど、青燐荘は狭くなった。
実際に壁が迫ってくるわけではない。宿泊棟も、管理棟も、食堂棟も、図面上の面積は変わらない。けれど、人が動ける場所は確実に減っていた。
海側の作業通路は封鎖。
食堂棟へ向かう橋は夜間通行制限。
救命ボートは一隻使用不能。
谷本亮一は死に、吉住俊太郎も死んだ。
浜島莉子は助かったが、毒物未遂は全員の口に見えない味を残している。誰も、提供された飲み物をそのまま信じなくなった。個別包装の水でさえ、開封音を互いに確認するようになった。
人間は、閉じ込められた時、まず出口を探す。
出口が減ると、次に誰を見る。
誰が危ないか。
誰が隠しているか。
誰が先に助かろうとしているか。
その視線の変化を、真壁彰はラウンジの隅から見ていた。
高柳真治は窓際から動かない。父の遺品を出し、自分がボートの固定具に手をつけたことを認めてから、全員の疑いが彼に集まり始めている。本人もそれを分かっているのだろう。逃げようとはしない。ただ、誰かが近づくたび、視線だけが一瞬遅れて動く。
浜島莉子は、怒りで体を支えている。今にも倒れそうな顔色なのに、椅子に深く座ろうとしない。自分が弱っていると見られることを拒んでいるようだった。
笠木浩明は沈黙している。元海上保安官としての落ち着きなのか、過去を掘り返されることへの警戒なのか、まだ読みにくい。
今西琴葉は、運営責任者としての顔を崩さない。だが、崩れない顔ほど、今は不自然だった。
黒崎透は会社への連絡を試みている。生見彩音は事故資料を抱え、何かを照合している。白川一冴は展示パネルの前で立ち止まりがちだ。汐崎瑚子は撮影を制限され、不満を隠していない。
そして、安西実結は記録を取り続けている。
真壁は、そのペンの動きが気になっていた。
誰が何を言ったか。何時何分にどこへ移動したか。誰が異常に反応したか。記録係として当然の仕事をしているだけにも見える。だが、安西は時々、記録する言葉を選んでいるように見えた。
全部を残す人間ではない。
残すべきものを選ぶ人間。
それは、報告書を書く人間と似ている。
「嫌な顔してる」
二階堂壮也が隣に立った。
ラウンジの照明は少し落とされている。外が暗くなった分、ガラスには室内の反射が強く映っていた。二階堂の金髪も、紫がかった目も、窓の向こうに薄く重なっている。
「お前もな」
「俺は嫌な顔も品よくできるから」
「自分で言うな」
二階堂は肩をすくめた。
その軽口にも、疲れが混ざっている。谷本と吉住、二人の死体を見た後だ。どれだけ表情を整えても、目元の硬さまでは隠せていない。
「高柳単独犯、厳しくなってきたな」
真壁は言った。
二階堂はラウンジを見渡す。
「うん。高柳さんは仕掛けた。でも、殺しは別。少なくとも全部は違う」
「根拠は」
「高柳さんの言葉の置き方。あれは“見せたい人間”の言い方だよ。殺して黙らせたい人間の言い方じゃない」
「お前らしいな」
「褒めてる?」
「さあな」
二階堂は小さく笑った。
「それに、十三の出方が変だ。高柳さんは十二と十三のズレを知っていた。でも資料室の十三列目や、安西瑠衣の名前には反応が遅い。知らない情報を使って演出してる人間が、どこかにいる」
真壁は、安西実結の方を見た。
彼女は今、生見彩音の話を記録している。生見が事故資料について今西に確認を求めているらしい。安西のペンは静かに動いている。彼女自身は会話に加わらない。
「安西さんか」
二階堂はすぐには答えなかった。
「気にはなる。でも、まだ早い」
「ああ」
「高柳、今西、笠木、安西。あと鳳さんも、できるかできないかで言えば、構造トリックはできる」
「鳳さんはああいう人間だ。見えすぎる」
「九条みたいな言い方」
「似てるからな」
二階堂は軽く息を吐いた。
「似てるけど、違う。九条は死体の扱いが雑な相手に怒る。鳳さんは建物の扱いが雑な相手に怒る。犯人は……人間も建物も、役として扱ってる感じがする」
その時、ラウンジの奥の扉が少し開いた。
江口桜次郎が出てきた。
顔色が悪い。もともと不健康そうな男だが、今はさらに血の気が薄い。目の下のクマが濃く、細い肩に疲労が乗っている。だが、扉を閉める時の手つきは丁寧だった。中にいる生徒たちを驚かせないよう、音を殺している。
二階堂が声をかける。
「桜次郎」
江口は振り返った。
「何。こっちはブラックを極めた教育現場です」
「生徒は?」
「落ち着いてます。全員、こまめに水飲ませて座らせてる」
「何かあったのか」
真壁が訊くと、江口は一瞬だけ目を逸らした。
本当に一瞬だった。
だが、真壁には見えた。
「別に」
江口は言った。
軽く言った。
軽すぎた。
二階堂の表情が変わる。
「桜次郎」
「何だよ」
「笑えてないぞ」
江口は眉を上げた。
「笑ってないからな。僕にも表情管理の自由があります」
「昔から、本当にまずい時ほどそういう逃げ方する」
「高校時代の話を持ち出すな。老ける」
「まーたそういって逃げる」
「嫌な記憶力だよ」
「たいした脳のキャパ使わなくても、お前の逃げ方くらい覚えてる」
江口の口元から、薄い笑みが消えた。
真壁は一歩近づく。
「何を隠してる」
「別に」
「話せ」
「僕に隠せるものなんて、未提出の研修報告書くらいですよ」
「江口」
「怖い顔。生徒に嫌われるやつ」
「何を隠してる」
二度目は、少し低く言った。
江口は視線を外した。
左手が、自分のジャケットの内ポケットのあたりを押さえている。
真壁はそこを見た。
「出せ」
「何をですか」
「ポケットの中身」
江口は笑った。
笑ったが、手が震えていた。
二階堂が、江口の名前を静かに呼ぶ。
「桜次郎」
「……お前、こういう時だけ昔みたいに呼ぶの、ほんとやめてくれる?」
「生徒絡みか」
江口は黙った。
それが答えだった。
二階堂は声を落とした。
「生徒を守るために隠してるなら、なおさら出せ。ここはもう、善意で抱え込んでいい場所じゃない」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「うるさいな」
江口は、ようやく内ポケットから小さなものを取り出した。
金属製の名札だった。
古びている。角が少し丸くなり、表面に細かい傷がある。青燐荘の現在のロゴとは違う、古い意匠が裏に刻まれていた。表面には、黒ずんだ文字。
安西瑠衣。
真壁はその名前を見た。
安西。
記録係の安西実結と同じ名字。
二階堂の目が細くなる。
「どこで見つけた」
真壁が訊くと、江口は答える前に、閉じた扉の方を見た。
「拾ったのは生徒です」
「誰だ」
「それは言いません」
「江口」
「僕が拾ったことにしてください」
「証拠を隠したことになる」
「分かってます」
「ならなぜ隠した」
江口の顔から軽さが消えた。
「子どもが知らない人の名前を持って震えてたんです」
声が低い。
怒っているのではない。押し殺している。
「あの子は、ただ拾っただけです。でも今この場所で、それを出した瞬間、拾った子は“証人”になる。大人たちはその子に、どこで拾った、誰に見せた、何を見たって聞くでしょう。犯人も見る。僕はまず、その手から外したかった」
「そのあと俺たちに出すべきだった」
「はい」
「なぜ出さなかった」
「判断が遅れました」
江口は即答した。
言い訳をしなかった。
「隠すつもりはなかった。でも、出した瞬間にあの子の名前が絡むと思ったら、手が止まった。教師としては正しかったかわかりません。でも事件現場では間違いです。そこは認めます」
真壁は江口を見た。
軽い男だ。
自分を雑に扱う。
自虐で逃げる。
だが、子どもに関する判断だけは逃げなかった。
「拾った場所は」
「展示室の裏手。事故当時の写真パネルの近くです。展示パネルの裏側に落ちていた、と本人は言っていました」
「本人は?」
「白川真昼です。名前を出すなら、僕が拾ったことに」
「もう遅い」
真壁は名札を受け取った。
重い。
小さな金属片なのに、ずしりとした重さがあった。人の名前が刻まれているからだろうか。あるいは、この名前が二十年間どこにも置かれていなかったからか。
九条雅紀を呼ぶと、彼はすぐ来た。
名札を見せる。
「古いな」
九条は言った。
「事故当時のものか」
「可能性はある。ただ、保存状態がいい」
「偽物か」
「偽物というより、誰かが長く持っていたものかもしれない。海辺の施設に十八年放置されたにしては、腐食が少ない」
鳳恭介も近づく。
名札の裏のロゴを見て、すぐに言った。
「これは、青燐荘の前身施設のロゴですね」
「分かるのか」
「改修履歴の資料にありました。現在の青燐荘になる前、海上研修施設だった頃のものです。十八年前の施設関係者が使っていた形式に近い」
二階堂が低く言う。
「安西瑠衣」
その名前が、ラウンジに静かに広がった。
安西実結のペンが止まった。
ほんの一瞬。
真壁は見た。
すぐに彼女は顔を上げる。
「……何でしょうか」
二階堂が訊く。
「安西さん。この名前に心当たりは?」
安西実結は、名札を見た。
表情はほとんど変わらない。
「ありません」
「同じ名字ですね」
「よくある名字です」
答えるまで、わずかに間があった。
長すぎる沈黙ではない。誰かに追及されれば、普通に発生する程度の間。だが、二階堂はその間を見逃さなかった。
「そうですね」
彼はそれ以上、今は追及しない。
今西琴葉が名札を見た瞬間、顔色を変えた。
それは安西実結よりはっきりしていた。青ざめたというほどではない。だが、知っている名前を不意に見た人間の反応だった。
「今西さん」
真壁は名札を見せた。
「この名前を知っているな」
今西は唇を引き結んだ。
「……資料で、見たことがあります」
「どの資料だ」
「父の遺品の中に、古い職員関係のメモがありました。正式な職員名簿ではありません。臨時雇用者の控えのようなものです」
「安西瑠衣は、青燐荘にいたのか」
「前身施設に、いた可能性があります」
「事故当夜は」
「分かりません」
「本当に?」
今西は真壁を見返した。
整っていた表情が崩れかけている。
「本当に、分からないんです。私は当時子どもでした。父が亡くなった後、断片的な資料を見つけただけで」
浜島莉子が立ち上がった。
「またですか」
声が低い。
「また、分からないんですか。資料がない。正式じゃない。可能性はある。でも分からない。そうやって、誰かの名前を消したんですか」
「浜島さん」
「その人は、死んだんですか。生きてるんですか。どっちですか」
今西は答えない。
答えられないのか。
答えたくないのか。
高柳真治が名札を見つめていた。
その顔には、驚きがあった。
真壁はそこを見た。
「高柳さん」
「……はい」
「この名前を知っていたか」
「いいえ」
「父親の資料には」
「少なくとも、僕が見た中にはありませんでした」
「十三人目の話も?」
高柳の喉が動いた。
「父は、救助対象の人数がおかしいとは言っていました。十二ではない、数が合わない、と。でも、具体的な名前は……」
「知らなかった」
「はい」
真壁は、二階堂と目を合わせた。
高柳は知らなかった。
少なくとも、安西瑠衣という名前については演技に見えない。
つまりこの名札は、高柳の仕掛けとは別の筋から出てきた可能性が高い。
生見彩音が、資料を抱えたまま近づいた。
「その名前、私も見たことがあります」
全員の視線が集まる。
「どこで」
真壁が訊くと、生見は迷うように資料を握り直した。
「事故後の臨時雇用者に関する、非公開に近い資料です。正式な死者名簿にも、生存者名簿にもありません。ただ、事故当夜の勤務予定者リストの欄外に、同じ名前がありました」
「欄外?」
「はい。正規の職員表ではなく、手書きで。安西瑠衣、臨時補助、食堂棟、と」
真壁は食堂棟の方向を見た。
昨夜、浜島莉子が毒物を口にした場所。
追悼膳が出された場所。
その食堂棟に、十八年前、安西瑠衣という臨時職員がいた。
「死者名簿にないのはなぜだ」
「分かりません」
生見は悔しそうに言った。
「だから調べていました。青燐荘の追悼事業は、死者十二名を前提に組まれている。でも古い資料には、時々、十三人目の影が出る。名前が出たり消えたりするんです」
二階堂が言う。
「出たり消えたりする名前ほど、誰かが触ってる」
黒崎透が不快そうに口を挟んだ。
「待ってください。未確認の名前だけで、施設全体の信用を損なうような話は」
江口が、黒崎を見た。
目が笑っていない。
「信用って、誰のためのものですか」
「それはもちろん、施設を利用する方々の」
「死んだかもしれない人の名前より、施設の信用が先ですか」
「そうは言っていません」
「そう聞こえました」
江口の声は静かだった。
「ここ、防災学習施設なんですよね。子どもに何を教えるんですか。記録にない人間は、いなかったことにしていいって?」
黒崎は言葉に詰まった。
二階堂が小さく息を吐いた。
「お前、ほんと教師だな」
「やめろ。その気になってしまうから」
江口はそう返したが、目は黒崎から離さなかった。
真壁は名札を安西実結へもう一度見せた。
「本当に知らないか」
安西は頷いた。
「はい」
「同じ名字でも?」
「はい」
「記録係なら、過去資料に触れる機会はあったはずだ」
「資料整理は今西さんと別の担当が行っていました。私は今回の追悼会の記録係です」
「今回から?」
「はい」
答えは整っている。
だが、整いすぎている。
真壁は名札を袋に入れるよう二階堂に合図した。
「この名札は証拠として保管する」
江口が言った。
「白川の名前は」
「出す必要があれば出す」
「出さずに済ませられますか」
真壁は少しだけ江口を見た。
「約束はできない」
「でしょうね」
江口は苦く笑った。
「でも、できるだけお願いします。あの子は、死体を見るためにここへ来たんじゃない」
「誰もそうだ」
「大人は自分で来てる。でも子どもは、僕が連れてきた」
その言葉には、責任の重さがあった。
真壁は頷いた。
「分かった」
江口は少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。まだ何もしてない」
「それもそうですね。じゃあ取り消します」
「面倒な奴だな」
「よく言われます」
ラウンジの空気は、名札ひとつで別のものになっていた。
それまでは、高柳の父が受けた通信文、救助順変更、ボート不足、報告書の改竄が中心だった。だが、安西瑠衣という名前が出たことで、問題はより具体的になった。
誰かが、いた。
名簿にいない誰か。
十二人の死者として追悼されず、生存者としても扱われず、職員としても正式に残らない誰か。
十三人目。
それは数字ではなく、名前を持つ人間だった。
真壁は、名札の文字を思い出した。
安西瑠衣。
安西実結は知らないと言った。
今西琴葉は父の遺品で見たと言った。
生見彩音は古い資料で見たと言った。
高柳真治は知らなかった。
反応の差が、頭の中で並ぶ。
そこへ、扉の向こうから小さな物音がした。
江口が即座に振り返る。
扉が少し開き、白川真昼が顔を出した。
小学生ではない。中学生だ。けれど、今は年齢より幼く見えた。顔色が悪く、片手で扉の縁を握っている。目は江口を探していた。
「先生」
江口はすぐに近づいた。
「どうした。気分悪い?」
「違う。……言ってなかったことがある」
真壁も近づく。
江口が一瞬、真壁を止めるように見た。
だが、真昼は自分から真壁を見た。
「私、拾った時、パネルの裏って言いました。でも……」
「ゆっくりでいい」
江口が言う。
真昼は頷いた。
「落ちてたんじゃないと思います」
真壁は目を細めた。
「どういう意味だ」
「展示パネルの裏に、テープの跡がありました。名札が、そこに貼ってあったみたいな跡です。でも、テープは新しかった。埃がついてなくて」
「名札は、最近そこに置かれた?」
「たぶん」
真昼の声が震えた。
「私が見つけるように、置いてあったんだと思います」
ラウンジの空気がさらに冷えた。
江口の表情が変わる。
生徒が偶然、過去の証拠を見つけたのではない。
誰かが、生徒に見つけさせた。
真壁は訊く。
「誰かを見たか」
真昼は首を振る。
「見てません。でも、展示室の近くで、足音がしました。大人の靴の音。私が振り向いた時には、誰もいなかった」
「時間は」
「吉住さんが死ぬ前です。先生がラウンジに行ってる時」
江口が目を閉じた。
自分がいない間に、生徒が事件の核心に触れさせられた。
その事実が、彼の中で何かを切ったのが分かった。
「真昼」
江口は、彼女の前にしゃがんだ。
「話してくれてありがとう。怖かったな」
真昼は小さく頷いた。
「私、何か悪いことした?」
「してない」
江口の声は、はっきりしていた。
「悪いことをしたのは、君にそれを拾わせた大人です。君じゃない」
真昼の目に涙が浮かぶ。
江口は急かさない。
「中へ戻ろう。遠里が先生の胃を心配してるかもしれない。胃のほうが先に死にそうだから」
真昼が少しだけ笑った。
江口は彼女を部屋へ戻し、扉を静かに閉めた。
それから振り返る。
目が低くなっていた。
「子どもを使いましたね」
誰に向けた言葉でもない。
だが、その場にいる全員に向けられていた。
「名札を出したいなら、自分で出せばいい。僕たち大人の誰かに拾わせればいい。なのに、子どもに拾わせた」
江口の声は静かだった。
「次に子どもを使ったら、僕は教師としてではなく、大人として怒ります」
それは脅しではなかった。
宣言だった。
真壁は、江口のその顔を見て、確信した。
この男は犯人ではない。
少なくとも、この名札を生徒に拾わせた人間ではない。江口なら、そんなことを絶対にしない。
真壁は、展示室へ向かった。
二階堂、九条、鳳が続く。江口もついてこようとしたが、真壁は止めた。
「生徒のそばにいろ」
「でも」
「お前が必要なのは、向こうだ」
江口は唇を噛んだ。
「……分かりました」
「あとで確認する」
「お願いします」
展示室は、ラウンジから短い廊下を曲がった先にあった。
十八年前の事故を伝えるパネルが整然と並んでいる。
事故当時の写真。
海上施設の図面。
救助活動の時系列。
死者十二名の名前。
献花台。
照明はやわらかく、見学者が暗くなりすぎないよう工夫されている。だが今は、そのやわらかさが不気味だった。
鳳はすぐにパネルの裏側へ回った。
「ここですね」
壁とパネルの間に、細い隙間がある。展示物を固定する金具。配線。埃。鳳が懐中ライトを当てると、確かにパネル裏の一部にテープの跡があった。
新しい。
埃がそこだけ抜けている。
真壁がしゃがむ。
「最近貼られたな」
二階堂が言う。
「名札はここにあって、真昼ちゃんが見つけるように落とされた?」
「もしくは、落ちかけた状態で置かれていた」
鳳が補足する。
「パネルの裏は、子どもの目線で覗き込みやすい高さです。大人なら気づきにくい。しゃがんだ子どもなら見つけやすい」
二階堂の表情が険しくなる。
「最悪だな」
九条がパネルの表を見た。
そこには死者十二名の名前が記されている。
整った文字。
白い背景。
淡い青の装飾。
ひとりひとりの名前の横に、短い紹介文がある。年齢、立場、事故当時の状況。言葉は丁寧だ。死者を悼むための展示として、必要な配慮もある。
だが、そこに安西瑠衣の名前はなかった。
「十二人」
九条が言う。
「でも、裏に十三人目」
二階堂が短く息を吐いた。
「表に出せない名前を、裏に貼ったってことか」
真壁はパネルを見た。
誰かが、安西瑠衣の名札をここに置いた。
そして、江口の生徒に見つけさせた。
目的は何だ。
安西瑠衣の存在を知らせるため。
高柳の計画にない十三人目を浮かび上がらせるため。
あるいは、江口とその生徒を事件に巻き込むため。
「真壁さん」
鳳が展示パネルの下部を見ていた。
「ここにもあります」
「何が」
「固定跡です」
パネルの足元、床にごく小さな古い穴が並んでいた。現在のパネル配置とは少しずれている。
「昔は、ここにもう一枚パネルがあった可能性があります」
二階堂が言う。
「十三枚目?」
「分かりません。ただ、現在の十二名分の展示とは配置が合わない」
鳳は床をなぞるように見た。
「この施設、数字を整え直した跡が多すぎます」
資料室の十三列目。
展示室のパネル跡。
死者名簿の十二名。
ボート定員。
どれも、同じ方向へ整えられている。
十三を消し、十二へ。
真壁はゆっくり立ち上がった。
「安西瑠衣は、死者だったのか」
九条は答えない。
死体を見ていない以上、九条は断定しない。
二階堂が言った。
「死者でも生存者でもない扱いだったんだろうな」
「どういう意味だ」
「記録から外された人間は、そうなる。死んだと書かれなければ死者じゃない。生きて帰ったと書かれなければ生存者でもない。ただ、いなかったことになる」
真壁はパネルの十二名を見た。
それぞれの名前がある。
花がある。
説明がある。
誰かが年に一度、黙祷する。
安西瑠衣には、それがなかった。
死んだかどうかも分からない。
だが、名前だけはあった。
名札に刻まれていた。
真壁たちがラウンジに戻ると、空気はさらに張り詰めていた。
浜島莉子が今西を問い詰めている。
「運営責任者なら、分かるでしょう。この施設は、誰の名前を外したんですか」
今西は答えない。
黒崎透が間に入ろうとする。
「まだ正式な確認が」
「正式、正式って」
莉子の声が少し上がった。
「正式じゃなければ、人は死んでいないんですか」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味ですか」
黒崎は口を閉じた。
生見彩音が、静かに言った。
「安西瑠衣という名前は、事故当夜の勤務予定者リストにあります。ただし、その後の救助対象者一覧にはありません」
全員が生見を見る。
彼女は資料を開いた。
「私が持っているのはコピーです。完全な原本ではありません。でも、食堂棟の臨時補助として名前がある。事故当夜の十八時まで勤務予定。その後の所在は不明」
「不明って」
江口が言った。
いつの間にか戻ってきていた。生徒の部屋の扉前に立ち、こちらを見ている。
「人間の所在に不明って書く時、普通は探すんじゃないんですか」
生見は苦い顔をした。
「探された形跡が、正式資料にはありません」
その言葉で、ラウンジの空気が沈んだ。
探されなかった人間。
数えられなかった人間。
安西瑠衣。
安西実結は、記録を続けている。
だが、そのペン先はさっきより遅かった。
二階堂が、安西に訊いた。
「安西さん」
「はい」
「今の発言、記録しましたか」
「はい」
「“正式資料には探された形跡がない”まで?」
「はい」
「消さないでくださいね」
安西は、二階堂を見た。
「記録係ですから」
二階堂は柔らかく笑った。
「そうですね。記録係なら」
真壁は、二人の間に流れた微かな緊張を見た。
安西は静かだ。
だが、二階堂に見られていることを分かっている。
高柳真治が、ぽつりと言った。
「父が、数が合わないと言っていました」
全員が彼を見る。
「十二なら、説明できる。でも本当は、もう一人いた。そう言っていた気がします。でも、名前までは……」
浜島莉子が言った。
「その一人を外したから、兄は死んだんですか」
「分かりません」
「また」
「本当に分からないんです」
高柳の声が震えた。
「でも、もし十三人目がいたなら、ボートは足りなかった。救助順を変えなければならなかった。誰かを後回しにしなければ、数字が合わなかった」
「数字じゃない」
江口が言った。
「人間です」
高柳はうつむいた。
「分かっています」
「分かってる人は、人を数字にしない」
江口の声は厳しかった。
二階堂が江口を見た。
「桜次郎」
「何」
「今のは、自分にも刺さってるだろ」
江口は少しだけ笑った。
「お前、そういうところ本当に嫌い」
「昔からだろ」
「昔から嫌い」
短いやり取りだったが、江口の怒りが少しだけ冷えた。
ラウンジの中央に、名札が置かれた。
安西瑠衣。
誰も触れない。
小さな金属片が、青燐荘全体の中心になったようだった。
真壁は言った。
「確認する。安西瑠衣は、事故当時の臨時職員。食堂棟勤務の可能性がある。死者名簿にも生存者名簿にもない。名札は展示室のパネル裏に、最近置かれた可能性が高い。拾ったのは江口の生徒」
江口が小さく言った。
「名前は出さない方向でお願いします」
「必要なら出す」
「分かってます」
真壁は続けた。
「この名札を置いた人間は、安西瑠衣の存在を知っている。高柳の計画に便乗した可能性がある」
高柳が顔を上げた。
「便乗……」
「お前が仕掛けたのは、救助順の告発だ。だが、この名札はお前が知らない名前を使っている」
「はい」
「なら、お前以外に、十三人目を知る人間がいる」
その言葉に、何人かが反応した。
今西。
生見。
安西実結。
笠木。
そして白川一冴。
白川は、さっきからずっと展示パネルの方を見ていた。彼は元施設職員の息子だ。父が事故後、何かを知っていた可能性がある。
真壁が声をかける。
「白川」
白川一冴は、びくりと肩を揺らした。
「はい」
「安西瑠衣を知っているか」
「名前だけなら」
「どこで」
「父の古いメモに……たぶん、ありました。でも、はっきり覚えていません」
「そのメモは」
「家にあります。コピーを一部持ってきていますが、全部ではない」
「見せろ」
白川は鞄を開けようとして、手を止めた。
「すみません。部屋に置いてきました」
「取りに行く」
「一人で行かせないでください」
白川の声には、明らかな恐怖があった。
自分が次に狙われるかもしれないと理解している。
真壁は頷いた。
「俺が同行する」
その時、黒崎透が言った。
「少し待ってください。全員が勝手に過去資料を持ち出すと、情報が混乱します。これは施設としても、開発事業としても」
江口が低く笑った。
「まだ開発事業の話してるんですか」
「江口先生、そういう意味では」
「どういう意味ならいいんですか。人が二人死んで、名簿にない人の名前が出てきて、ボートも足りない。それでまだ“事業として”って言えるの、逆に才能ですよ」
黒崎の顔がこわばる。
「私は現実的な対応を」
「現実って、誰にとってのですか」
江口の声が低くなる。
「子どもに言うんですよ。命は数字じゃないって。避難訓練は本気でやれって。そう教える場所で、大人がずっと数字の都合を優先してたなら、僕は何を教えればいいんですか」
黒崎は答えなかった。
今西が、かすれた声で言った。
「調査は、行います」
全員が彼女を見る。
今西は名札を見つめていた。
「青燐荘として、安西瑠衣さんの記録を確認します。父の遺品も、施設の保管資料も、すべて」
浜島莉子が言う。
「今さら?」
「はい」
今西は顔を上げた。
「今さらです。それでも、やります」
その声には、初めて、整えられていないものが混ざっていた。
二階堂は黙ってそれを聞いていた。
真壁は、今西の変化を覚えておく。
人は追い詰められた時、本音を見せる。
今西琴葉は、青燐荘を守ろうとしていた。
だが、いま初めて、青燐荘が守ってきた嘘の方を見た。
それが本当なら、彼女は犯人ではない可能性が上がる。
ただし、罪がないことにはならない。
外で、強い風が吹いた。
窓が鳴る。
安西実結の手元から、一枚の紙が床へ落ちた。
彼女はすぐ拾った。
本当に一瞬だった。
だが、真壁の位置から、紙の端が見えた。
表の題字。
事故当夜 救助対象者確認表。
その下に、十二人分の名前らしき行。
そして、欄外に小さく手書きで何かがある。
安西はすぐに紙をバインダーへ戻した。
「今の紙」
真壁が言うと、安西は顔を上げた。
「記録用の控えです」
「見せろ」
安西は一瞬だけ固まった。
「今ですか」
「今だ」
二階堂が静かに近づく。
「安西さん。記録係なら、見せられますよね」
安西はバインダーを開いた。
差し出したのは、追悼会の進行記録だった。
真壁はそれを見た。
さっき床へ落ちた紙ではない。
「違う」
安西の表情は変わらない。
「何がでしょう」
「今落とした紙だ」
「こちらです」
「違う」
沈黙。
安西の目が、ほんのわずかに揺れた。
その時だった。
廊下の奥から、職員が駆け込んできた。
「今西さん!」
全員が振り向く。
「ボート架台の区画で警報が……黒崎さんが、勝手に外へ!」
黒崎透は、さっきまでラウンジにいたはずだった。
しかし、いない。
真壁は反射的に窓の外を見た。
救命ボート架台の方で、赤い警告灯が点滅している。
安西の紙のことは、一瞬、後回しになった。
真壁は舌打ちした。
事件は、こちらがひとつの名前を掴んだ瞬間に、次の場所へ移っている。
誰かが、順番を進めようとしていた。
江口が生徒の部屋の前に立つ。
「僕は残ります」
「そうしろ」
真壁は走り出した。
二階堂、九条、鳳が続く。
ラウンジを出る直前、真壁は振り返った。
安西実結は、落としたはずの紙をバインダーの奥へ押し込んでいた。
彼女の表情は静かだった。
だが、その指先だけが白くなっていた。
安西瑠衣。
十三人目。
その名前は、過去から出てきたのではなかった。
誰かが今、この場に置き直している。
そしてその誰かは、次の死体をもう用意しているのかもしれなかった。




