第四章 青く光る死体
嵐が去るまで、船は来られない。
沿岸の海上保安部署と県警には連絡がついたが、風速はすでに十八メートルを超え、夜間の接近は危険と判断された。最短でも夜明け。青燐荘にいる人間だけで、少なくとも七時間を耐えなければならない。
真壁は参加者を管理棟へ集めた。
宿泊棟へ戻ることは禁止。単独行動も禁止。連絡橋を渡る時は二人以上。鍵とカードキーはすべて回収する。
「犯人がこの中にいる前提ですか」
浜島が訊いた。
「外から来た人間の痕跡はありません」
「海からなら」
笠木が言う。
「小型艇で接近することは不可能ではない。ただ、この風では音も灯りも隠せない。係留跡が残る」
「あなたならできますか」
汐崎が訊いた。
笠木は彼女を見た。
「できることと、やったことは違う」
二階堂が間へ入る。
「質問は順番に。今ここで誰かを犯人に見立てても、得するのは本物だけです」
真壁は全員の所在を確認する。
六時二十二分、谷本が食堂を出る。
六時二十二分十四秒、谷本の保守端末に《東側ボート水圧異常》が表示される。後のログ解析で、センサー発報ではなく保守系統から手動入力された警報だと分かった。
六時二十五分、江口と五十嵐が食堂へ戻る。
六時三十分、追悼膳開始。
六時三十五分、笠木が食堂へ入る。
六時四十分、黙祷。
六時四十二分、十三脚目の椅子が発見される。
六時四十三分、最初の放送。
六時四十四分、格納警報。ただし後に確認すると、これは架台カバーの異常警報で、ボート本体の解放時刻ではなかった。
七時二十九分、水圧式解放装置が作動した記録。
七時四十六分、ボート発見。
「つまり、谷本さんは六時二十二分から笠木さんが食堂へ入る六時三十五分まで、十三分の間に殺された可能性がある」
高柳が言う。
「死亡時刻はまだ確定していません」
九条が答える。
「でも、その後は全員食堂にいた」
全員ではない。
江口と五十嵐は六時二十五分まで廊下にいた。
谷本と接触できる時間がある。
汐崎の視線が二人へ移った。
江口は先に言った。
「僕ら、六時十五分頃に東側ボートを見てます。その時は格納されてた。谷本さんとも話した」
「何を」
真壁が訊く。
五十嵐が答える。
「定員に操船者が含まれるか。十八年前の艇と同型か」
「谷本さんの反応は」
「嫌がってました」
「言い方」
江口が小さく言う。
「事実です」
五十嵐は譲らなかった。
「最後に見た時、変わったことは?」
五十嵐は考えた。
「右手に油が付いていました。黒いグリース。格納装置を触ったのかもしれない」
「服は」
「作業着。袖口は乾いてた」
「そこまで見てたのか」
真壁が言う。
「数字を聞いたら、相手も見ます」
江口が横から付け足す。
「理科教師なので。観察される側はだいたい嫌な気分になります」
「江口先生は毎日です」
「毎日?」
江口は咳払いした。
「職場で毎日、な」
二階堂が顔を背けた。
九条は谷本の簡易検案を続けていた。
医療室の診察台に遺体を置き、照明を近づける。
「索状痕の位置が低い」
九条が真壁を呼ぶ。
「後ろから係留索を回し、体重をかけて締めた。皮膚に付着している繊維は青色のポリエステル。東側ボートの係留索と一致する可能性が高い」
「ボートの近くで殺した?」
「可能性はある。でも、袖の水が変」
五十嵐が採水瓶を光へかざした。
「船底の水と周囲の海水は塩分濃度がほぼ同じです。でも、谷本さんの袖口から取った水は低い。淡水が混じってる」
「雨じゃないの」
汐崎が訊く。
「雨なら上半身にも付く。これは海水と淡水が混じった水です。しかも夜光虫の密度が高い」
鳳が施設図を広げる。
「機械設備棟の取水槽だ」
「取水槽?」
「海水を取り込み、熱交換器や非常用消火設備へ回す前に一度溜める。雨水排水が接続されているため、降雨時は表層だけ塩分が下がる」
五十嵐が頷く。
「谷本さんは、機械設備棟の取水槽周辺で濡れた。そこからボートへ運ばれた可能性が高いです」
「運ぶ経路は」
真壁が鳳を見る。
管理棟から機械設備棟へ向かう上段橋にはカメラがある。六時以降、谷本以外の通行記録はなかった。
鳳は図面へ指を置いた。
「現在の利用者動線なら、ありません」
「現在の?」
「改修前の保守通路が残っていれば別です」
十八年前の施設図と現在の図面を重ねる。
機械設備棟の床下から資料棟の基礎へ、細い点検路が伸びている。海面すれすれに設けられた、配管確認用の通路だった。
「今は閉鎖済みとあります」
今西が言う。
「入口を埋めた記録は?」
鳳の問いに、今西は安西を見る。
安西が資料端末を検索する。
「閉鎖工事の完了報告が……ありません」
鳳は二枚の図面の角を完全に揃え、指先で押さえた。
「建物は、使わない経路から忘れられます。最初は案内板から消える。次に清掃計画から消える。最後に図面上で『閉鎖済み』という言葉だけになる」
「詩的ですね」
汐崎が言う。
「構造の話です」
鳳は本気で訂正した。
真壁が図面へ手を伸ばす。
「入れる場所が見つかっても、許可なく入るな」
谷本は設備責任者だった。
古い通路を知っていた。
そして、事故当時からこの施設を知る人間は、谷本だけではない。
笠木が図面を見下ろす。
「当時、救助隊も使った通路だ」
真壁が顔を上げる。
「知っていたんですね」
「事故後の現場確認で一度入った。十八年前だ。今も残っているとは思わなかった」
「誰が使える」
「潮が引いている間だけだ。入口が海面より下になる。今は――」
五十嵐が腕時計を見る。
「次に露出するのは、午前零時四十分頃。今から三時間以上あります」
真壁は事故資料へ視線を落とした。
「犯人は、谷本さんを六時台に機械設備棟で殺した。床下通路を使って東側架台へ運び、ボートに乗せた。七時二十九分に水圧解放装置を作動させ、全員が食堂にいる時間にボートだけを海へ出した」
「遠隔で?」
鳳が答える。
「事前に圧力を溜め、時限弁を使えば可能です。設備に詳しい人間なら」
設備に詳しい谷本自身が死んでいる。
今西の顔がこわばった。
「青燐荘の職員に、そんなことをする者は」
「犯人が職員とは限りません」
二階堂が言う。
「古い施設を知り、海と救命設備を扱え、今夜の潮位を読める人間ならいい」
視線が笠木へ集まる。
笠木は動かなかった。
「疑うのは当然だ」
低い声だった。
「だが、六時三十五分には私は食堂にいた。谷本を殺して運んで戻るには、十三分しかない」
「通路を使えば何分ですか」
五十嵐が訊く。
「昔なら二分」
答えた後で、笠木は口を閉じた。
五十嵐の目が、わずかに変わった。
昔、一度入っただけの人間が、所要時間を即答した。
真壁も気づいたはずだったが、追及しなかった。
長机の端で、吉住が資料鞄を開いた。
「真壁さん」
呼びかけた声は、普段より掠れていた。
「これを預かっていただけますか」
差し出しかけたのは、赤字だらけの原稿だった。だが、真壁が手を伸ばす前に、吉住は引き戻した。
「いや。まだ説明が要る」
「何の原稿です」
二階堂が訊く。
「十八年前の報告書の、提出前の版です。委員会で削られた記述と、私自身が削った記述が分かる」
「なぜ今まで持っていたんです」
「捨てられなかったからです」
吉住は、書類の角を揃えた。
「公文書に採用された文章が正しく、没になった文章が誤りだと、自分に言い聞かせるために保管していました。時々読み返して、採用版の方が整っていると確認した」
「整っていることと、正しいことは別でしょう」
二階堂の声は厳しかった。
「ええ」
吉住は意外なほど素直に頷いた。
「文章は整えるほど、書いた人間の手垢が見えなくなる。主語を『施設側』にし、『判断された』と受け身にし、誰も決めていない文書を作った。私は、命令に従ったのではなく、命令が読みやすくなるよう手伝った」
浜島が彼を見た。
「兄のことも?」
「浜島圭介さんについて、『恐慌状態により移動困難』と書きました」
「兄は閉所が苦手でした。海が怖かったんじゃない。狭い通路に人が詰まったら、後ろへ下がる癖があった」
「聞き取り記録にはありました」
「それを消した」
「はい」
吉住の顔から血の気が引いていた。それでも目を逸らさなかった。
「個別事情を並べると、報告書が長くなり、責任の所在が曖昧になると言われた。私は逆でした。個人を消したから、誰の責任かも消えた」
彼は原稿を鞄へ戻した。
「全員の前で説明してから渡します。今度は、文書だけに語らせたくない」
真壁が言った。
「単独では動かないでください」
「承知しています」
吉住は丁寧に答えた。
だが、その直後に届いた一行は、彼が十八年間恐れていた原本を名指しした。
その時、安西の端末が音を立てた。
資料棟の入室通知だった。
午後九時十一分。
吉住俊太郎のカードキーが、資料保管室を開けていた。
真壁が長机を見る。
吉住の席は空だった。
彼が抱えていた資料鞄も消えている。
「単独行動は禁止だと伝えた」
今西が青ざめる。
安西は画面を見たまま言った。
「吉住さん宛てに、館内メッセージが届いています」
差出人は空欄。
本文は一行だった。
『報告書の原本を、二番目の棚へ戻してください』




