第四章 報告書に潰された男
資料室の空気は、古い紙と鉄の匂いで満ちていた。
海の上にある施設だというのに、そこだけは陸の役所の地下に似ていた。湿気を吸ったファイル。古いインク。日焼けした背表紙。長く開かれていない箱の埃。そこへ、移動棚のレールに差された機械油の匂いが混ざっている。
吉住俊太郎は、その中に挟まれていた。
胸を棚に押し潰され、片手に古い資料ファイルを握ったまま、もう動かない。
眼鏡は床に落ちて割れていた。右のレンズだけが粉々になっている。破片の一部が、散らばった書類の上に乗っていた。紙に印刷された「事故検証委員会」という文字の上に、細い亀裂が重なって見える。
真壁彰は、最初に遺体を見た時、怒りより先に位置を見た。
扉から遺体までの距離。
棚の開き幅。
足跡の方向。
操作盤の位置。
非常灯の明るさ。
紙の散らばり方。
誰がどこから入り、どこまで進み、どの時点で棚が動いたのか。頭が勝手に線を引いていく。
それは冷たい作業だった。
だが、その冷たさがなければ、死者はただ死んだままになる。
「九条、触れるか」
真壁が訊くと、九条雅紀は棚の隙間を見たまま答えた。
「今は最低限だけ」
「棚が動く可能性がある」
「分かってる」
九条は床へ膝をつき、身体をできるだけ棚に近づけない姿勢で、吉住の首筋へ指を伸ばした。動きに無駄がない。感情を殺しているのではなく、必要なものだけを前に出している動きだった。
その横で、鳳恭介が制御盤を確認していた。
穏やかな顔をした京東大学工学部建築学科准教授は、いま、誰よりも険しい目をしている。人ではなく、建物と機械を見ている目だった。壁の配線。床の沈み。棚のレール。非常用電源のランプ。制御盤の古いラベル。
「主電源は復旧しています。ただ、非常用バッテリーから通常系統へ戻る途中で一度止まった可能性があります」
「分かるのか」
二階堂壮也が訊く。
「ランプの点き方が変です。正常復帰なら緑だけが点くはずですが、黄色が残っている。手動操作から自動復帰に切り替わったあと、途中で負荷がかかって止まったんでしょう」
「負荷って」
鳳は遺体を見た。
「吉住さんです」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
九条が首を横に振った。
「死亡している。圧迫による窒息と循環不全。即死ではない」
その言葉は、資料室の中へ静かに落ちた。
即死ではない。
吉住は、自分の胸が潰されていく時間を持っていた。
助けを呼んだのかもしれない。だが、部屋の壁は厚い。海上施設の古い資料室は、湿気と塩害から紙を守るためなのか、妙に密閉性が高い。外では風が鳴り、波が橋脚を叩いていた。たとえ声を出したとしても、ラウンジまで届いたかどうか。
真壁は奥歯を噛んだ。
「棚を止められるか」
「もう止まっています。ですが、安全確認なしに動かすのは危険です」
鳳は制御盤を見たまま言った。
「この棚、古い型です。センサーはありますが、今の基準ほど精密ではありません。人間を検知して止まるというより、一定以上の抵抗で停止するだけです」
二階堂が低く言う。
「止まった時には、もう遅いってことか」
「はい」
九条が吉住の手元を見た。
「ファイルを持っている」
真壁は頷いた。
「事故検証委員会の原資料だ」
二階堂が床に散った紙を拾い上げた。手袋越しに、端だけを持つ。紙には赤字修正が入っている。
救助順変更。
赤線。
避難誘導の調整。
定員不足。
赤線。
一時的な収容困難。
未救助者。
赤線。
確認遅延者。
二階堂の表情が消えていく。
怒っている時の二階堂は、声を荒げない。むしろ、体温が下がる。顔つきが整い、言葉が硬くなる。真壁は何度もそれを見てきた。
「言葉って、便利だな」
二階堂が言った。
「人間を後ろに回した事実も、文字を置き換えれば“調整”になる」
「今は検証が先だ」
真壁が言うと、二階堂は頷いた。
「分かってる」
だが、紙を持つ指先には力が入っていた。
資料室の外には、今西琴葉、高柳真治、浜島莉子、笠木浩明、安西実結、それに江口桜次郎が来ていた。扉の外で足を止めさせている。中に入れれば現場が乱れる。
江口は生徒たちを別室に残してきたのだろう。顔色は悪い。目の下のクマがさらに濃く見えた。それでも、扉の向こうへ生徒が来ないよう、体を半分廊下側へ向けている。
「中、見せない方がいいですね」
江口が言った。
軽口はなかった。
「見るな」
真壁は短く返した。
「はい。僕も見たくはないです」
「なら下がってろ」
「生徒がこっちへ来たら止めます。大人は……まあ、自分で止まってください」
二階堂がちらりと江口を見る。
「大丈夫か、桜次郎」
「大丈夫じゃないけど、今それ言うと責任が増えるから大丈夫ってことにしておく」
「昔からその言い方する時、大体まずいんだよな」
「今は昔を懐かしんでいる場合じゃないだろう、二階堂刑事」
二階堂はわずかに口元を動かしたが、すぐに表情を戻した。
廊下の奥で、浜島莉子の声がした。
「吉住さんは、殺されたんですか」
誰も答えなかった。
真壁は資料室の床へ視線を落とした。
足跡はある。
吉住のものと思われる靴跡が、入口から棚の奥へ向かっている。そこから戻った跡はない。散乱した紙の上にも、他人の靴跡は見えない。もちろん、現場保存前に踏まれていなければの話だが、少なくとも犯行直後に誰かが慌てて出入りしたような乱れはない。
操作盤には、吉住の指紋が残っている可能性が高い。
移動棚は、吉住自身が動かした。
そう見える。
だが、見えることと真実は違う。
「鳳さん」
「はい」
「この棚は、外から動かせるか」
「通常は、この制御盤からです。遠隔操作機能はありません。ただし、停電時には手動レバーを使います」
「手動レバー」
鳳は棚の側面を指した。
「ここです。電源が落ちた時、レバーでロックを外し、手で棚を動かせる。古い資料室ではよくあります」
二階堂が眉を寄せる。
「さっき照明が落ちた」
「はい。短時間ですが停電、あるいは資料室周辺だけの電源低下があった可能性があります」
「その間に吉住さんが手動で棚を動かした?」
「あり得ます。奥の資料を取るために」
真壁は吉住の手元のファイルを見た。
古い茶色のファイル。背表紙には、「事故検証委員会 補助資料」とある。まさに彼が見に来たものだ。
「誰かが、そのファイルを奥に置いた」
二階堂が言った。
「吉住さんが自分で取りに行くように」
「そうだろうな」
真壁は棚の奥を見た。
奥の棚には、古い資料が詰め込まれている。だが、吉住が持っているファイルだけは、背表紙の色が少し違う。最近動かされたものに見える。埃の付き方が周囲と合っていない。
九条が言う。
「吉住さんは、圧迫されてから少し抵抗している。右手の爪が割れてる。棚を押し返そうとしたか、ファイルを離そうとしたか」
「声は」
「出しただろう。でも、すぐ呼吸が制限されたはずだ」
真壁は壁を見た。
厚い。
資料室の壁は防音のためではないだろうが、湿気対策と耐火のために、普通の内壁より厚く作られている。扉も重い。廊下で機械音は聞こえた。悲鳴も短くは届いた。だが、それは棚が動いてからだった。
それ以前に助けを呼んでも、届かなかった可能性がある。
九条は遺体を見たまま、静かに言った。
「嫌な死に方だな」
二階堂が答えた。
「自分が何に潰されてるか、分かっただろうからね」
紙。
報告書。
自分が整理した言葉。
それに潰される。
この殺し方は、意味を持ちすぎていた。
真壁は意味の濃い殺人が嫌いだった。人を殺した上で、死体に役を背負わせる。そこには犯人の欲が出る。死者を使って、誰かへ何かを見せようとする欲。
青燐荘では、もう二度目だった。
浜島莉子は、食卓で喉を塞がれた。
谷本亮一は、橋を渡る前に落とされた。
吉住俊太郎は、報告書に潰された。
順番。
見立て。
誰かが、十八年前の救助順を現在の死へ変換している。
「真壁さん」
鳳が床を指した。
「ここを見てください」
資料室の奥。移動棚のレールが十二列分並んでいる。そのさらに壁際に、細い穴と擦れた跡が並んでいた。現在は棚がない。床材も少し違う。だが、そこには明らかに何かが固定されていた痕があった。
「昔は十三列あったんだな」
真壁が言うと、鳳は頷いた。
「はい。後から一列撤去されています。床の補修跡を見る限り、かなり前です。追悼施設への改修時か、それ以前か」
二階堂が近づく。
「資料室の棚を一列減らしただけなら、別に不自然じゃないんじゃない?」
「それ自体は不自然ではありません。ただ、番号の振り方が変です」
「番号?」
鳳は棚の側面を指す。
現在ある移動棚には、番号札がついている。
一、二、三、四。
十二まで。
だが、よく見ると札の古さが揃っていない。
「一から十二まで綺麗に振り直されています。でも、床の固定跡から見ると、もとは十三列あった。つまり、単に十三列目を撤去したのではなく、番号全体を十二に整え直している」
二階堂の目が細くなった。
「十三を消して、十二に見せた」
「そう見えます」
鳳は控えめに言った。
真壁は、床の跡を見つめた。
十三。
さっきから、その数字が青燐荘のあちこちに影を落としている。
救助対象者の数。
ボート定員。
資料室の棚。
そして、公式記録にない何か。
「この施設は、十二にしたがっている」
二階堂が呟いた。
「死者十二名。追悼展示も十二。資料棚も十二。ボート定員も、十二なら説明がつく。……でも十三だと、何かが合わない」
真壁は答えなかった。
廊下から今西の声がした。
「中に入ってもよろしいでしょうか」
「まだ駄目です」
真壁は即答した。
「現場保全が先です」
「分かりました」
今西の声は落ち着いていたが、そこに張りがあった。
施設内で三件の重大事件が起きている。
毒物未遂。
転落死。
圧殺。
それでも、運営責任者として場を保とうとしている。あるいは、保っているふりをしている。真壁にはまだ判断できなかった。
廊下で浜島莉子が言った。
「吉住さんは、何を隠していたんですか」
今度は、高柳が答えた。
「隠していたかどうかは分かりません」
「でも、報告書を作った側でしょう」
「そうです」
「なら、兄の順番を変えたことを、言葉で消した側です」
高柳の声が少しだけ沈んだ。
「父も、その言葉の中に閉じ込められました」
浜島莉子は黙った。
敵同士のようで、同じ穴を覗いている。二人とも、十八年前の「言葉」に誰かを奪われた側だった。ただし、奪われたものが違う。
莉子は兄を。
高柳は父の名を。
そこへ、笠木が口を挟んだ。
「今は決めつけるな」
低い声だった。
「吉住さんが何を知っていたか、まだ分からない」
「笠木さんは、何を知ってるんですか」
莉子が言う。
笠木は一瞬黙った。
「俺は、現場にいた。それだけだ」
「それだけで十八年黙れるんですか」
「黙っていたわけじゃない」
「じゃあ、何を言ったんですか。兄を助けられなかった理由を、誰に、何回、何て言ったんですか」
笠木の横顔がこわばる。
真壁はその反応を見ていた。
笠木は、責められることに慣れている。
だが、浜島莉子の問いには別の刺さり方をしている。救助現場にいた者としての罪悪感か。あるいは、もっと具体的な何かか。
真壁はまだ判断しない。
資料室の中へ意識を戻す。
「安西さん」
真壁が呼ぶと、廊下側で記録を取っていた安西実結が顔を上げた。
「はい」
「停電の時刻は」
「ラウンジの照明が落ちたのは、十四時十七分です。非常灯に切り替わったのは数秒。通常照明に戻ったのは十四時十八分になる前でした」
「資料室の機械音は」
「十四時十八分ごろです」
「悲鳴は」
「同じく、十四時十八分。正確には機械音の後です」
即答だった。
真壁は彼女を見る。
「復旧時刻は記録しているか」
安西は一瞬だけペンを止めた。
「ラウンジ側の通常照明の復旧なら、十四時十七分台です」
「資料室側の復旧は」
「見ていません」
「なぜ」
「ラウンジにいましたので」
もっともな答えだった。
だが、真壁は違和感を覚えた。
安西は記録係として、異常事態の時刻を細かく残している。谷本の無線応答記録も正確だった。高柳の資料提示時刻も、停電の発生時刻も、悲鳴の時刻も。
しかし、資料室側の復旧時刻だけはない。
記録できなかった。
それは事実だろう。
だが、記録していないものこそが重要になることは、事件ではよくある。
二階堂も同じことを考えたのか、安西へ柔らかく訊いた。
「安西さんは、停電の瞬間、何をしていました?」
「高柳さんの発言を記録していました」
「カメラは?」
「手元にありましたが、停電で一度停止しました」
「停止?」
「照明が落ちたので、録画状態を確認していました」
「その映像、後で確認させてください」
「分かりました」
安西はそれ以上、何も言わなかった。
表情は変わらない。
控えめで、静かで、職務に忠実。
だが、真壁は彼女のペン先を見ていた。
安西は、必要な時だけ記録するのではない。
記録しないことも選んでいる。
まだ根拠はない。だが、そういう印象が残った。
「真壁」
九条が呼んだ。
「吉住さんの右手を見て」
吉住の右手は、ファイルを握っている。左手は棚と胸の間に挟まれ、ほとんど動かせない状態だった。右手の指先には、紙の繊維が付いている。
「ファイルを離さなかったのか」
「それもある。でも、指先に赤いインクがついてる」
「赤いインク?」
九条はファイルの表紙を少しだけ示した。
そこには、赤字の修正がある。吉住が触ったのは、その部分だろうか。
「吉住さんは、死ぬ直前にこれを見ている。もしくは、見せられている」
二階堂がファイルを覗き込む。
赤字の一部が、指で擦れていた。
――救助順変更。
そこに線が引かれ、横に「避難誘導の調整」とある。
二階堂の声が低くなった。
「自分が消した言葉を、最後に握らされたってことか」
九条は短く言った。
「その可能性はある」
鳳が棚の奥を見ていた。
「このファイル、もともとここにあったとは思えません」
「なぜ」
「埃です。周囲のファイルには積もっていますが、これだけ薄い。最近ここに置かれた」
真壁は頷いた。
「吉住さんを誘い込む餌だな」
「はい」
「誰が置いた」
鳳は答えない。
分からないからだ。
だが、置ける人物は限られてくる。
資料室に入れる者。
古い資料の所在を知る者。
吉住がそのファイルを見れば動くと分かっている者。
そして、停電と移動棚の復旧動作を利用できる者。
高柳。
今西。
安西。
あるいは吉住自身。
もっと他にもいるかもしれない。
真壁はひとつずつ名前を置いていった。
その時、廊下の奥から江口の声が聞こえた。
「真壁さん」
真壁は振り返った。
江口は、いつもの軽い顔ではなかった。
「生徒は落ち着きました。軽い吐き気だけです。怖さでパニックになっただけで、今は座らせてます」
「そうか」
「で、こっちの進捗は?」
江口は資料室の中を見ないようにしながら訊いた。
「吉住さんが死んだ」
「……そこまでは把握しています」
「見るな」
「見ません。僕、死体見て耐えられるほど立派な教師じゃないので」
「教師は死体を見る仕事じゃない」
「助かります」
江口は少しだけ笑おうとした。うまく笑えていなかった。
二階堂が廊下へ出た。
「桜次郎」
「何」
「顔色悪いぞ」
「お前に言われたくない」
「俺は顔色まで計算してるから」
「腹立つな。昔からそういうところが腹立つ」
二階堂は江口の横に立った。
「本当に大丈夫か」
江口はしばらく黙った。
廊下の向こうでは、生徒たちのいる部屋の扉が閉まっている。中から小さな声が聞こえた。誰かが泣きそうなのを、別の生徒が慰めているようだった。
「大丈夫じゃないよ」
江口は言った。
「でも、僕が大丈夫じゃないって顔したら、あの子たちがもっと怖がる」
「そうやってまた、自分を後回しにする」
「教師ってだいたいそういう仕事だろ」
「違う。少なくとも、そういう顔で言うものじゃない」
江口は二階堂を見た。
二階堂は静かに続ける。
「お前は昔から、自分を嫌いなふりをして、自分を罰する場所だけは丁寧に選ぶ」
江口は少しだけ目を細めた。
それから、困ったように笑った。
「褒め言葉として受け取っとく。最悪の褒め方だけど」
「褒めてない」
「じゃあ余計最悪だ」
二人の間に、高校時代から続く何かがあった。
真壁には、その全部は分からない。
だが、分からなくても伝わるものがある。江口は軽い男ではない。軽く見せて、自分を守っている。その奥に、子どもだけは雑に扱わない固さがある。
この事件に江口を巻き込むのは、危険だった。
だが同時に、江口がいるから守れるものもある。
真壁は資料室へ戻った。
「鳳さん、棚の動作を再現できるか」
「完全には難しいです。ですが、推測はできます」
「話せ」
鳳は制御盤の前に立った。
「まず、吉住さんはこの資料室へ一人で来た。おそらく、古い補助資料を確認するためです。彼は奥の棚に目的のファイルを見つけた。もしくは、そこにあると知っていた」
「ファイルは犯人が置いた」
「その可能性が高いです」
「それから」
「停電が起きた。電動棚は停止します。この型は、停電時に手動レバーで棚を動かせる。吉住さんは奥の通路を開くため、手動で棚を動かした」
「自分で」
「はい。操作盤にも、レバーにも吉住さんの指紋が残るはずです」
二階堂が言う。
「それなら事故にも見える」
「一見は」
鳳は続ける。
「ただ、問題は復旧です。非常用バッテリーが戻った時、棚は直前の操作状態を基準に自動復帰を始める設定になっているようです。本来なら人がいればセンサーで止まる。しかしこの棚は古い。抵抗がかかってから停止する」
「つまり、人が挟まれてから止まる」
「はい」
「床の傾きは?」
「ここです」
鳳はレールを指した。
「資料室は海側に向かって、ほんのわずかに沈んでいます。移動棚の重みと、長年の湿気で床が狂っている。棚は水平に見えて、実際には閉じる方向へ自重がかかる」
「復旧動作に、床の傾きが加わった」
「ええ。棚は本来より速く、強く閉じた可能性があります」
九条が補足する。
「吉住さんの圧迫痕は、一気に押し潰されたというより、徐々に圧が増している。機械が動き、重みが乗り、抵抗で止まるまでの間に挟まれた」
真壁は棚を見た。
犯人は吉住をこの場に誘い、停電を起こし、手動操作させ、復旧動作で殺した。
吉住自身の指紋を残し、他人の痕跡を最小限に抑えた。
作者都合ではない。
犯人にとって、この方法を選ぶ理由がある。
吉住を「報告書に潰された男」にするため。
同時に、直接手を下さずに殺すため。
誰かが、見立てと実用を両立させている。
「真壁」
二階堂が言った。
「高柳さんがやったと思う?」
「動機はある」
「でも?」
「高柳さんの目的が父親の汚名を晴らすことなら、吉住さんは生きていた方がいい」
二階堂は頷いた。
「証言させたい相手だよな」
「殺せば黙る」
「黙らせたい人間が別にいる」
二階堂の声は低かった。
真壁はそれに答えず、廊下を見た。
高柳真治は壁際に立っている。顔色は悪い。吉住の死に動揺している。それが演技かどうか、今はまだ断定できない。
だが、高柳の目にあるのは、達成感ではなかった。
恐怖。
それに近い。
自分が開けた扉の奥から、想定していない死体が出てきた人間の顔。
真壁はそう見た。
「高柳さん」
真壁が呼ぶと、高柳はゆっくり顔を上げた。
「はい」
「あんた、吉住さんを殺したか」
ラウンジの空気が凍った。
高柳は、一瞬だけ目を閉じた。
そして、首を横に振った。
「殺していません」
「資料室にファイルを置いたか」
「置いていません」
「停電を起こしたか」
「違います」
「ボートに細工したか」
高柳は少しだけ唇を噛んだ。
その反応を、真壁は見逃さなかった。
「答えろ」
「……ボートには、触りました」
周囲がざわめいた。
浜島莉子が目を見開く。
今西が一歩前へ出る。
「高柳さん」
高柳は両手を握りしめた。
「壊したわけではありません。昨夜、固定具を緩めた。完全に使用不能にするつもりはなかった。ただ、点検で気づかせるつもりでした」
「何のために」
二階堂が訊く。
「十八年前も、ボートが足りなかった。それを見せるためです」
「見せる?」
「十二人なら足りる。でも十三人なら足りない。青燐荘の救助計画は、ずっと十二人で成立するように作られている。僕は、それを見せたかった」
「谷本さんは死んだ」
真壁が言った。
高柳の顔が歪んだ。
「殺していません」
「だが、ボートに触った」
「はい」
「その後、誰かがさらに細工した可能性がある」
「……分かりません」
二階堂が静かに言った。
「高柳さん。あなたは何を仕組んだ?」
高柳は黙った。
「席順。展示順。通信控えの公開。ボートの固定具。どこまで?」
高柳は答えない。
真壁は言った。
「今答えなければ、次に死ぬ人間が出るかもしれない」
高柳の肩が震えた。
「僕は……殺すつもりはなかった」
「聞いているのは、何をしたかだ」
高柳は顔を上げた。
そこには、父の名誉を取り戻そうとしていた男の顔と、自分の仕掛けが殺人に変わっていくのを見ている男の顔が重なっていた。
「追悼会の席順を、二十年前の救助予定順に近づけました」
声はかすれていた。
「展示の一部も、当時の記録順に並べ替えた。通信控えは、今日出すつもりでした。ボートの固定具を少し緩めたのも僕です。点検で見つかれば、ボートが足りないという話を避けられなくなると思った」
「谷本さんのポケットのメモは?」
「知りません」
「順番を変えろ」
高柳は首を振った。
「僕じゃない」
「吉住さんの資料室は」
「違います」
「十三列目の棚は」
高柳の顔に困惑が浮かんだ。
「十三列目?」
真壁はじっと見た。
演技には見えなかった。
高柳は、十二と十三のズレを告発しようとしていた。だが、資料室の十三列目のことまでは知らなかった可能性がある。
つまり、誰かが高柳の計画に別の「十三」を重ねている。
真壁の背筋に冷たいものが走った。
これは、高柳の単独計画ではない。
誰かが、彼の用意した舞台を使っている。
安西実結が、記録用紙に何かを書いている。
真壁は彼女を見た。
「安西さん」
「はい」
「今の高柳さんの発言、記録したか」
「はい」
「その前に、吉住さんが資料室へ向かった時刻も」
「十四時十四分です」
「誰と一緒だった」
「お一人でした」
「本当に?」
安西は真壁を見た。
目立たない女の、静かな目。
「少なくとも、私が見た限りでは」
見た限りでは。
その言い方は正しい。
だが、正しすぎる。
真壁はそれ以上追及しなかった。
今はまだ、彼女を追い込む段階ではない。
九条が資料室から出てきた。
「遺体は一時的にこのまま保全した方がいい。動かすと棚の痕跡が壊れる」
「分かった」
真壁は頷いた。
「ただし、全員をここから離す。二次被害がある」
今西が言う。
「ラウンジへ戻します」
「全員、単独行動禁止だ。職員も含めて二人以上で動いてください」
「承知しました」
今西の声は整っていた。
だが、彼女の顔からは少しずつ色が失われている。青燐荘が守ってきた「追悼施設」という顔が、事件のたびに剥がされていく。その下に何があるのか、彼女自身も直視し始めているのかもしれない。
ラウンジに戻る途中、江口が真壁の隣に来た。
「高柳さん、全部やったわけじゃなさそうですね」
「なぜそう思う」
「顔です」
「顔?」
「自分で火をつけたけど、燃え方が想定と違う人の顔してました」
真壁は江口を見る。
「教師は、そういう顔を見るのか」
「見ますよ。悪ふざけのつもりで始めたことが、誰かを本当に傷つけた時の顔です。子どもにもあります。大人にもあります」
「高柳さんは子どもじゃない」
「そうですね。だから責任は取らせるべきです。でも、殺人犯の顔とは少し違う気がしました」
江口はそこで、いつものように軽く笑おうとした。
やはり、うまく笑えなかった。
「すみません。素人の感想です」
「いや」
真壁は短く答えた。
「覚えておく」
江口は少し驚いた顔をした。
「真壁さん、意外と人の話聞くんですね」
「必要ならな」
「遠回しに褒めてます?」
「もちろん。重要な見解だ」
「責任が増えるのでやめてください」
「増やしておけ」
「最悪だ」
二階堂が後ろから言った。
「お前ら、仲良くなってない?」
「なってない」
江口が即答する。
真壁も答えなかった。
ラウンジに戻ると、空気はさらに重くなっていた。
窓の外は夕方に近い。だが、陽は見えない。海は黒いまま、低くうねっている。橋の照明が早くも点き始めていた。青燐荘の灯りは、海に浮かぶ白い箱の輪郭を頼りなく照らしている。
人々は、それぞれ距離を取って座った。
浜島莉子は高柳を見ている。
高柳は、膝の上で両手を組んでいる。
笠木は窓際に立つ。
今西は職員へ連絡を取っている。
黒崎は自分のスマートフォンを何度も確認している。外部へ連絡しようとしているのか、会社への報告文を考えているのか。
生見彩音は、資料の束を抱えていた。防災NPO職員の彼女は、先ほどから安西瑠衣という名前を何度か口の中で転がしているように見えた。まだ誰にも言っていない何かを、知っているのかもしれない。
白川一冴は、展示パネルの方を見ている。
汐崎瑚子はスマートフォンを構えていたが、二階堂に制されている。
「今は撮らないでください」
「記録は必要でしょう」
「記録と配信は違います」
「警察の広報の人に言われると、説得力ありますね。悪い意味で」
二階堂は笑った。
「悪い意味でも、今は聞いてください」
汐崎は不満そうにスマートフォンを下ろした。
安西実結は、それらを記録している。
真壁は、その光景を見ながら思った。
ここには、記録する人間が多すぎる。
報告書。
通信控え。
展示パネル。
SNS。
記録係。
それなのに、十八年前に一番記録されるべきだった何かが消えている。
十二に整えられた数字。
消された十三。
資料室の十三列目。
真壁は、窓の外の救命ボートを見た。
一隻、使えないボート。
それが青燐荘の外に、黒い影のように残っている。
事件は、閉じた。
逃げ道も、情報も、人間関係も。
すべてが青燐荘の中で絡まり始めている。
その時、生見彩音が小さく言った。
「安西瑠衣……」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
だが、真壁には聞こえた。
安西実結のペンが、一瞬止まった。
ほんの一瞬。
次にはもう、何事もなかったように記録を続けていた。
真壁はその動きを見た。
見ただけだ。
まだ意味は分からない。
だが、資料室の床に残っていた十三列目の跡と同じように、その一瞬は消えずに残った。
夜が来る。
青燐荘は、海の上で灯りをつけ始めていた。
追悼のための灯りではない。
誰かが次の順番を読むための灯りに見えた。




