第二章 十二脚の椅子と十三人分の荷重
食堂棟の中央には、十二脚の椅子が円形に並べられていた。
追悼膳のための席だと今西は説明した。
事故で亡くなった十二人へ、毎年同じ料理を供える。参加者はその外側の長机に座り、最初の十分間だけ黙祷する。
「死者の席を中心にする設計です」
今西の言葉に、二階堂が小さく眉を動かした。
「中心にして、囲むんですね」
「追悼の形として、開設時から」
「誰が決めたんです」
「設計委員会です」
「主語が大きいな」
江口は十二脚を見た。
すべて同じ木製の椅子だった。背もたれに番号が刻まれている。一から十二。
五十嵐が十一番と十二番の椅子の間へしゃがみ込む。
「何してる」
「床に跡があります」
円形の床には、椅子の脚でついた細かな擦り傷があった。そのうち一か所だけ、現在は何も置かれていない場所に四つの小さな窪みがある。
「もう一脚あった跡?」
江口が訊く。
鳳も腰を落とした。
「重さは同程度。長期間ではありません。最近、何度か置かれた」
今西が近づく。
「予備の椅子を仮置きしたことはあると思います」
「記録は?」
真壁が訊く。
「確認いたします」
安西がすでにメモしている。
ペンを持つ手に、わずかに力が入っていた。
夕食まで四十分ほどあった。
鳳は空いている床の窪みより、椅子の輪の外側へ埋め込まれた金属板を見た。
「これは椅子の固定具ではありません。荷重を測るロードセルです」
今西が説明書を探し、古い図面を広げた。追悼膳の設営時、床全体の総重量を記録する設備。事故当時の救命艇と同じメーカーが寄贈したものだった。
五十嵐が現在の表示を確認する。十二脚の椅子と十二膳の器。表示は、理論値より六十三キログラムだけ重い。
「人一人分ですね」
江口が言う。
「平均値にすれば」
五十嵐は床を見た。
「でも、人とは限りません」
汐崎がカメラの電源を切り、長机の端へ置いた。
「撮っていないので訊きます。皆さん、今夜ここで何を確認したいんですか」
「取材ですか」
今西が警戒する。
「取材なら回しています。これは私が知りたいだけ」
誰もすぐには答えなかった。
最初に口を開いたのは浜島だった。
「兄が、何番目に死んだかではなく、どうして帰れなかったのか」
写真を机へ置く。
「兄は泳げませんでした。海の研修へ行く前、家族で笑ったんです。救命胴衣があるから大丈夫だって。報告書には『水への恐怖が強く、誘導に時間を要した可能性』とある。でも兄は、怖い時ほど冗談を言う人でした。泣いて動けなかったのか、誰かを待っていたのか。それすら分からない」
「遺族の聞き取りは実施しました」
今西が言う。
「兄を知るためじゃなく、展示に使える話を選ぶためでしょう」
今西の背筋がさらに伸びた。
「私は、施設を続けるために来ました」
その返答に、浜島の眉が動く。
「十二人の死を利用したいわけではありません。事故の場所を閉鎖して更地にすれば、責任まで見えなくなる。建物を残し、毎年人を入れ、記録を更新し続ける。それが私の仕事だと思っています」
「更新されていないから、今夜があるんじゃないですか」
汐崎が言う。
今西は彼女を見たが、否定しなかった。
高柳は耐衝撃ケースへ両手を置いた。
「僕は父が卑怯だったのか知りたい」
言い切ってから、唇を噛む。
「通信担当だったのに、記録を家へ持ち帰った。公開もしないで死んだ。隠蔽に加わったのか、告発しようとしてできなかったのか。息子だから良い方に考えたい。でも、そのままでは父のために事実を曲げることになる」
「家族が真実を知れば、必ず楽になるとは限らない」
笠木が静かに言った。
「救助された方の中には、今も事故の話を聞けない人がいます」
「だから黙るんですか」
浜島が鋭く訊く。
「黙れとは言っていない。誰に何を伝えるか、順番が要ると言っています」
「順番を決める人が、いつも生き残った側だから嫌なんです」
浜島の返事は速かった。
笠木は反論せず、机の木目を見た。
谷本が鼻から短く息を吐いた。
「俺は設備の数字を確かめる。それだけだ」
「十八年前のことは?」
五十嵐が訊く。
「設備の数字に含まれてる」
谷本はぶっきらぼうに答えた。
「ボートの定員、ポンプの圧力、潮位計の誤差。人間は後から『仕方なかった』と言えるが、機械はその時の値しか残さない。だから嫌いなんだ。言い訳ができない」
五十嵐は、初めて谷本を敵ではなく、同じ種類の人間を見る目で見た。
吉住は資料鞄の留め金を撫でていた。
「私は、報告書のどこからが事実で、どこからが文章上の処理だったのかを明らかにします」
「文章上の処理?」
二階堂が訊く。
「『確認できなかった』と『存在しなかった』は違う。『救助が困難だった』と『救助しなかった』も違う。私は当時、その違いを曖昧にする表現を選んだ」
吉住は顔を上げた。
「命令されたから、だけではありません。読み手が受け入れやすい文書にしたかった。混乱を鎮めることが正しいと思った。今は、その文章が誰を消したのか確かめるために来ています」
二階堂の目つきが少し変わった。
「言葉を選んだ人が、選んだ責任を話す。それは必要です」
「あなたは広報でしょう。言葉を整える側では」
「だから怖さを知っています。文章は、人より長く生きる」
鳳は十二脚の椅子と床の窪みを交互に見た。
「私は、図面から消えたものを確認します」
「建物の話ですか」
汐崎が訊く。
「建物は、人が決めたことの堆積です。塞いだ通路、付け替えた壁、外した案内板。口では忘れても、材料の継ぎ目には残る」
「建物が証言する?」
「証言ではありません。建物は意味をつけない。ただ、何をしたかだけ残します」
九条は資料から目を上げなかった。
「私は死者の身体に書かれていることを読む」
「それだけですか」
「それ以上を勝手に書くと、死者を利用することになる」
短い答えだった。だが浜島は、初めて誰かの言葉に反発しなかった。
真壁は全員を見回した。
「俺は、今夜新しい被害者を出さない」
「再検証は?」
汐崎が訊く。
「生きている人間の安全が先です。真相を急いで、証人を死なせたら捜査ではない」
最後に視線が安西へ集まった。
「私は記録します」
安西は言った。
「漏れなく?」
江口が訊く。
「漏れがないか、後から確認できる形で」
「あなた自身が確かめたいことは」
安西のペンが一度だけ止まった。
「記録にいない人が、本当にいなかったのか」
それだけ言うと、また書き始めた。
夕食が始まる前、江口と五十嵐は施設の安全設備を見て回った。
連絡橋には風速計があり、秒速十五メートルを超えると自動警報が出る。海面が規定位置を越えると、機械設備棟へ向かう下段通路は封鎖される。救命ボートは二隻。一隻は管理棟側、一隻は東宿泊棟側の架台に収められている。
「定員十二名」
五十嵐はボート脇の表示を読んだ。
「十八年前と同型ですか」
谷本に訊く。
「基本設計は同じだが、別物だ。事故後の基準に合わせてエンジンも通信機も更新した。座席配置も変えて、今の定員は十二名だ」
「定員に操船者は含みますか」
「当然だろう」
谷本の返事が、わずかに強かった。
五十嵐は表示へ視線を戻した。
「五十嵐先生」
江口が呼ぶ。
「はい」
「質問の順番」
「普通です」
「相手が嫌がったら、少し休め」
「嫌がる理由があるなら、なおさら確認したい」
谷本が鼻で笑った。
「若い教師は、机の上の数字が全部正しいと思ってる」
五十嵐の目が細くなった。
負けず嫌いの顔だった。
「僕は、正しくない数字を見つける仕事をしています」
「理科教師が?」
「生徒の実験結果も、設備表示も同じです。合わないなら、原因がある」
谷本は答えず、救命ボートの格納カバーを下ろした。
江口は五十嵐の袖を軽く引いた。
「今は引け」
「納得してない」
「知ってる。顔に『再検証します』って書いてある」
「江口先生の顔には『面倒だけど止められない』って書いてあります」
「よく読めました」
背後で、工具箱の蓋が閉まる音がした。
「五十嵐先生」
谷本が追いついてきた。謝る顔ではない。古びた設備手帳を左脇へ抱えている。
「さっきの定員の話だが、質問が悪いとは言ってない」
「では、答えてください」
「そういうところが嫌なんだよ」
谷本は顔をしかめたが、手帳を開いた。
十八年前の救命艇の仕様書が、透明な袋に挟まれている。定員十三名。小さな手書きで、操船者を含む、と追記されていた。
「これを書いたのは俺だ。事故の三か月前、訓練で十二人と操船者を乗せた。波が高いと、定員内でも船尾が沈む」
「事故当日は何人乗ったんです」
谷本の指が紙の上で止まる。
「その話は、会議で全員の前でする」
「今では駄目ですか」
「一人にだけ話したら、また伝言になる。十八年前、それで失敗した」
ぶっきらぼうな声が、最後だけ低くなった。
「俺は機械が好きなんじゃない。機械なら、あとから言い方を変えないから信用してる」
谷本は手帳を閉じた。
「食事の後、質問しろ。嫌でも答える」
それが、五十嵐が谷本から聞いた最後の約束になった。
食堂へ戻る途中、二人は海側の窓の前で足を止めた。
夕暮れの水面に、青い光が散っていた。
波頭が崩れるたび、暗い海の中で細い火花が走る。
「夜光虫」
五十嵐が言った。
「青燐って、これか」
「たぶん施設名の由来です。プランクトンが刺激で発光する。水が綺麗だから出る、とは限らないですけど」
「観光パンフレットが泣く説明だな」
「綺麗なものに、綺麗な理由しか認めない方が変です」
江口は青い光を見た。
「お前、こういうの好きだろ」
「好きです」
「素直」
「江口先生は?」
「綺麗だと思うよ」
少し間を置いてから、江口は続けた。
「綺麗だから、怖い」
五十嵐が隣を見る。
江口は海ではなく、ガラスに映る自分たちを見ていた。
「物語にしやすい。青く光った夜に十二人が死んだ。海が覚えている。追悼施設の名前にもなる。そうすると、誰がボートを出さなかったかとか、通信を切ったかとか、急に野暮な話になる」
「野暮でも、必要です」
「うん」
江口は短く答えた。
夕食は午後六時半に始まった。
参加者が長机へ着き、中央の十二脚へ料理が供えられる。
海藻の吸い物。白身魚。炊き込みご飯。十八年前の研修施設で最後に出された献立を再現したものだという。
黙祷の直前、浜島莉子が立ち上がった。
「一つ、確認してもいいですか」
今西が頷く。
「どうぞ」
「追悼する十二人の名前を、全員読み上げてください」
空気が固くなった。
「例年、黙祷は静かに――」
「名前を呼ぶと静かじゃなくなるんですか」
浜島の声は震えていない。
「兄は、施設の理念のために死んだんじゃありません。浜島圭介という人間でした。十二人とまとめられるたび、また少し薄くなる」
今西は数秒黙り、追悼板の複写を手に取った。
一人目から、名前を読む。
食堂には、波と換気扇の音だけが残った。
十一人目。
十二人目。
今西が紙を置こうとした時だった。
中央の円の、空いていた場所に椅子が一脚あった。
誰も、運び込まれるところを見ていない。
古い木製椅子だった。
他の十二脚とは形が違う。背もたれの中央に、黒い札が結ばれている。
白い文字で、十三、と書かれていた。
汐崎のカメラが動く。
「撮らないでください」
二階堂が即座に言った。
「でも、これは――」
「記録と拡散は違う。今は下ろして」
汐崎は唇を噛み、カメラを下げた。
真壁が椅子へ近づく。
「誰が置いた」
誰も答えない。
安西のペンが止まっていた。
江口はそれを見た。
同時に、五十嵐も見たらしい。二人の視線が一瞬だけ合う。
真壁が札へ手を伸ばす直前、館内放送が鳴った。
古いスピーカー特有の、乾いた起動音。
『十三番』
女の声だった。
『応答してください』
安西の顔から血の気が引いた。
『十三番。あなたの席は、まだ空いています』
放送が切れた。
次の瞬間、機械設備棟の方角から警報が上がった。
谷本亮一の席が空いていた。




