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青燐荘の十三人目 ―海上の追悼施設で、生者が順番に裁かれる―  作者: 二条理|アコンプリス


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第三章 未送信の通信

 高柳真治の手は、震えていなかった。

 それが、真壁彰にはかえって不自然に見えた。

 人前で古い遺品を開く者の手ではない。覚悟を決めた人間の手というより、何度も同じ動作を頭の中で繰り返してきた者の手だった。布包みの端を解き、折り目に沿って静かに開く。中にある紙を乱さないよう、指の腹で押さえる。古い封筒を取り出し、宛名のない表面を一瞬だけ見つめる。

 その所作には、祈りに似た慎重さがあった。

 ラウンジに集められた者たちは、誰も口を挟まなかった。

 外では風が鳴っている。ガラス越しの海は、午後になってますます黒くなった。波が橋脚に当たり、白い飛沫を上げる。連絡橋の一部はすでに封鎖された。谷本亮一の遺体が見つかってから、まだ数時間しか経っていない。

 それなのに、青燐荘の中ではもう、時間の感覚が壊れ始めていた。

 昨日、浜島莉子が毒物らしきものを口にした。

 今朝、設備責任者の谷本が作業甲板下で死んでいた。

 救命ボートが一隻、使えなくなった。

 そして今、高柳真治が十八年前の通信控えを出そうとしている。

 ひとつずつなら、説明ができるのかもしれない。

 だが、並べると順番になる。

 真壁は、その順番が気に入らなかった。

「父は、救助順を決めたんじゃありません」

 高柳はもう一度言った。

 声は静かだった。静かすぎるほどだった。

「父は通信士でした。現場からの要請、施設側からの連絡、外部機関とのやり取りをつなぐ立場だった。父が誰を先に助けるかを決める権限なんて、なかった」

 浜島莉子が、椅子に座ったまま高柳を見ていた。

 彼女は朝から何度か横になるよう勧められていたが、聞き入れなかった。毒物未遂の影響で顔色はまだ悪い。だが、目だけは鋭かった。痛みより怒りで立っている人間の目だった。

 笠木浩明は腕を組み、窓際に立っている。

 元海上保安官。

 十八年前の救助現場にいた男。

 その顔は硬い。だが、怒りなのか、苦しみなのか、判別しにくい硬さだった。

 吉住俊太郎は眼鏡の奥で目を細めていた。事故検証委員会の報告書作成に関わった人物。会話より文書に向いた男だと真壁は見ていた。今も、目の前の人間を見ているというより、これから語られる内容をどういう文言に収めるかを考えているように見える。

 今西琴葉は、ラウンジ中央に立っていた。

 運営責任者としての姿勢を崩さない。だが、指先だけが膝の横で強張っている。彼女にとって、青燐荘は現在の職場であると同時に、十八年前の事故を背負った場所でもある。父親世代の判断が、いま自分の肩に落ちてきている。それを理解している顔だった。

 二階堂壮也は、真壁の少し前に立っていた。

 口元にはいつものような柔らかい表情がある。しかし目は違う。紙を見る前から、もう何かを読もうとしている。

 九条雅紀は黙っている。

 長身に細めの身体。目は紙ではなく、高柳の呼吸を見ているようだった。声の震え、首筋の緊張、指先の色。九条は生きている人間の身体からも、嘘や限界を読む。

 江口桜次郎は、ラウンジの奥の扉付近にいた。

 扉の向こうには、引率してきた生徒たちがいる。江口は話を聞きながら、何度も背後の扉へ意識を戻していた。大人たちの過去がどうであれ、彼にとって最優先は今そこにいる子どもなのだろう。

 鳳恭介は壁際に立ち、施設図を折りたたんでいた。

 さっきから図面を見ていない。代わりに床を見ている。ラウンジの床材の継ぎ目、展示パネルの位置、椅子の配置、窓と扉の距離。人が話す中で、建物だけを静かに読んでいる。

 安西実結は、記録係として座っていた。

 膝の上にバインダー。右手にペン。左手には小型カメラ。彼女だけが、発言者の名前と時刻を淡々と書き留めている。

 高柳は古い封筒から、一枚の紙を取り出した。

「父の遺品です」

 紙は黄ばんでいる。端は少し丸まり、湿気を吸って波打っていた。高柳はそれをテーブルの上へ置いた。誰もすぐには触らなかった。

 二階堂が先に近づいた。

「見ても?」

 高柳は頷いた。

 二階堂は紙の端だけを持ち、視線を落とした。

 その瞬間、彼の表情が変わった。

 普段、人当たりよく整えられている顔から、余分なものが消える。広報課の顔ではない。二階堂壮也という個人が、言葉そのものに怒っている顔だった。

 真壁も紙を覗き込んだ。

 そこに書かれていた文面は短かった。

 ――救助順を変更せよ。

 その上に、日時。符号。送信元らしき略号。下には走り書きのような文字がある。

 確認待ち。

 再送不要。

 先方了承済み。

 記録外処理。

 たったそれだけだった。

 だが、それだけで十分だった。

 ラウンジの空気が変わった。

 浜島莉子がゆっくり立ち上がる。

「やっぱり」

 声は大きくない。

 だが、その一語だけで部屋の温度が下がった。

「やっぱり、順番を変えたんですね」

「浜島さん」

 今西が言いかける。

 莉子は今西を見なかった。

 彼女が見ていたのは紙だった。

「兄は、最初のボートに乗るはずだったと聞いています。けがをしていたから。意識があったから。助かる可能性が高かったから。なのに、次の便になった。次の便は来なかった」

 誰も答えなかった。

 窓の外で、波が橋脚を叩く音がした。

 笠木が低く言う。

「現場は混乱していた」

 莉子はゆっくり笠木を見た。

「出た」

「何だ」

「その言葉です。現場は混乱していた。状況が悪かった。誰かを責めても戻らない。そういう言葉で、何回同じ話を終わらせたんですか」

 笠木の眉がわずかに動いた。

「あの夜を知らない人間が、簡単に言うな」

「知りませんよ」

 莉子の声は震えていなかった。

「知らないまま、兄だけがいないんです。だから知りたいんです。誰が兄の順番を変えたのか」

 沈黙が落ちた。

 高柳は紙を見たまま言った。

「父は、その通信を受けた後、救助記録に修正が入ったと言っていました」

「言っていた?」

 二階堂が訊く。

「父は、事故の話を家でほとんどしませんでした。けれど、酔った夜に何度か同じ言葉を言ったんです。順番を変えさせられた。俺が決めたことにされた。……子どもだった僕には意味が分からなかった。でも、その言葉だけは耳に残りました」

 高柳は、かすかに唇を噛んだ。

「父は事故後、正式には処分されていません。でも実質的に仕事を失った。家の中も壊れた。母は、父の話をしなくなりました。父も、自分から何も言わなくなった。けれど、死ぬ前にこれを残していた」

 高柳は紙を指差した。

「僕は、父が無実だったと言いたいわけではありません。通信士として記録を残すべきだった。命令を止められなかった。責任はあります。でも、父一人が順番を決めたわけじゃない」

「では誰が決めたんですか」

 吉住俊太郎が言った。

 声は冷静だった。

「高柳さん、それが重要です。通信文らしきものがあるからといって、ただちに救助順変更の全体像が明らかになるわけではありません。当時の指揮系統、現場判断、気象条件、施設側の状況、救助可能人数、すべてを総合的に」

「総合的に?」

 莉子が遮った。

「また、まとめるんですか」

 吉住は眼鏡を押し上げた。

「感情的に断定するべきではないという意味です」

「感情的になるしかないでしょう。兄は死んだんです」

「だからこそ、事実を慎重に」

「慎重に、十八年経ったんですよ」

 吉住は言葉を失った。

 二階堂が紙を見たまま言った。

「吉住さん」

「何でしょう」

「この“救助順を変更せよ”という文面、正式報告書には出ていませんよね」

「私はすべての原資料を把握しているわけではありません。当時、私は委員会の補佐的立場でしたから」

「でも、報告書の文案には関わった」

「表現の整理には関与しました」

「表現の整理」

 二階堂がその言葉を繰り返した。

 声に棘はない。

 棘がないから、かえって冷たかった。

「いい言葉ですね」

「どういう意味ですか」

 二階堂は手元の資料を取り出した。青燐荘の展示パネルのコピー。事故報告書の抜粋。再整備事業のパンフレット。彼はそれらをテーブルに並べた。

「ここ、見てもらえますか」

 吉住は眉を寄せた。

 二階堂は事故報告書の一節を指差す。

「“救助活動は、当時の気象条件および施設状況を踏まえ、現場判断により柔軟に進められた”。それからこっち。“避難手段は、状況に応じて有効活用された”。青燐荘の展示では、“安全確保のため、関係者の判断に基づき避難誘導が行われた”。」

 そこまで読み上げて、二階堂は顔を上げた。

「主語がない」

 吉住は黙る。

「誰が判断したのか。誰が命じたのか。誰が変更したのか。誰が後回しにされたのか。全部、文章から消えてる」

「報告書とは、混乱した状況を整理するためのものです」

「整理と削除は違います」

 吉住の目がわずかに鋭くなった。

「君は、報告書というものを単純に考えすぎている。現場の全てをそのまま書けばいいわけではありません。憶測や未確認情報を載せることはできない。誰かを不用意に傷つけることもある」

 二階堂は笑った。

 笑ったが、目は笑っていない。

「不用意に傷つけないために、傷つけた人間の名前を消したんですか」

 空気が揺れた。

 今西が口を開く。

「二階堂さん、今ここで断定的な言い方は」

「断定はしていません。文章を読んでいるだけです」

 二階堂は、穏やかな声で続けた。

「言葉には癖が出ます。この報告書と、今の青燐荘の展示文は同じ癖を持ってる。責任の主語を置かない。受け身にする。判断を“状況”のせいにする。人の名前を数字と役割に変える」

 真壁は二階堂を見た。

 こういう時の二階堂は怖い。

 怒鳴らない。

 詰め寄らない。

 相手が逃げるために置いた言葉を、ひとつずつ拾い、目の前に並べていく。すると相手は、自分が作った逃げ道で自分の首を絞められる。

 吉住の頬が強張った。

「私は、事実を残すために報告書に関わりました」

「ええ」

 二階堂は頷いた。

「だから聞いています。何を事実として残し、何を事実ではないことにしたんですか」

 吉住は答えなかった。

 代わりに、笠木が口を開いた。

「二階堂さん。あんたの言うことは、机の上では正しい」

「現場では違うと?」

「違う。あの夜、海は荒れていた。通信は途切れた。ボートは定員通りには動かない。けが人もいた。泣き叫ぶ人間もいた。救助する側にも限界がある。誰かを先に運び、誰かを後にする判断は、きれいな文章で語れるものじゃない」

「それは分かります」

 二階堂は即答した。

 笠木が少しだけ黙る。

「分かる?」

「ええ。現場には限界がある。優先順位をつけざるを得ないこともある。全員を同時に助けられない状況もある。そこは否定しません」

 二階堂は紙を指差した。

「でも、それと、後から“誰が変えたか分からない文章”にすることは別です」

 笠木は答えなかった。

 真壁は、笠木の横顔を見た。

 元海上保安官の男は、二階堂の言葉に怒っているようにも、救われているようにも見えた。現場の事情を言い訳に使われることにも、現場の事情を無視されることにも、同じくらい耐えがたい。そんな顔だった。

 江口が扉際から一歩前へ出た。

「すみません」

 声は軽くなかった。

「僕は部外者ですし、教師ごときが何を言うんだって話なんですけど」

「江口先生」

 今西が制しようとする。

 江口はそれを遮らなかった。ただ、静かに続けた。

「防災学習で子どもに教えるんですよ。まず人数を確認すること。勝手に動かないこと。弱っている人を放置しないこと。助けを呼ぶこと。できないことは、できないって言うこと」

 生徒たちがいる扉を、江口は一度だけ振り返った。

「ここ、そういうことを教える施設なんですよね」

 今西は答えられない。

「だったら、大人が最初にやるべきなのは、綺麗に言うことじゃないでしょう。何人いたのか。誰を先にしたのか。誰を後にしたのか。誰を助けられなかったのか。それを言わないまま、子どもに“命の尊さ”とか教えるんですか」

 江口の声は、少しだけ低くなった。

「子どもに嘘を教えるくらいなら、大人が恥をかけばいいでしょう」

 ラウンジに沈黙が広がった。

 二階堂が江口を見ていた。

 その目には、ほんのわずかに懐かしさがあった。高校時代にも、この男はこういう怒り方をしたのだろうか。普段は軽く、雑で、自分を安く見せる。だが、子どもや弱い者が雑に扱われる場面では、声の温度が変わる。

 真壁は、江口を見る目をまた少し変えた。

 江口は大人に対しては嘘をつく。

 たぶん、自分にも嘘をつく。

 だが子どもの前では、嘘の種類を選ぶ。

 その違いは大きかった。

 九条が、紙を見つめたまま言った。

「この通信文、送信済みなのか」

 高柳が首を振る。

「分かりません。父の封筒には“未送信”と書かれていました。でも、同じ内容の命令が別経路で伝わった可能性はあります」

「未送信なら、なぜ父親はこれを持っていた」

「父は……たぶん、記録として残そうとしたんだと思います。自分が命じたのではないと示すために」

「でも正式記録には出なかった」

「はい」

 二階堂が低く言う。

「出せなかったのか、出さなかったのか」

 高柳は答えない。

 吉住がようやく口を開いた。

「その資料の真偽を確認する必要があります」

「確認?」

 莉子が言った。

「そうです。古い紙一枚で、十八年前の事故検証をひっくり返すわけにはいきません」

 高柳の表情が変わった。

 静かだった顔に、初めて怒りが浮かぶ。

「ひっくり返す?」

「言葉の綾です」

「ひっくり返って困るんですか」

「そういう意味ではありません」

 吉住は高柳から視線を逸らした。

「原資料を確認します。検証委員会の資料の一部は、この施設の資料室にも保管されているはずです。私が見れば、当時の整理番号や文書形式で、ある程度は判断できます」

 二階堂がすぐに言った。

「一人では行かないでください」

「なぜです」

「谷本さんが死んだばかりです」

「資料室は管理棟内です。外の作業通路ではない」

「場所の問題じゃない」

 真壁も口を挟んだ。

「行くなら同行する」

 その時、扉の向こうから小さな声がした。

「先生……」

 江口の生徒の一人だった。

 白川真昼。青白い顔をした女子生徒が、扉を少しだけ開けている。呼吸が浅い。怖がっているのに、声を出すことに罪悪感を抱いている顔だった。

 江口が即座にそちらへ行った。

「どうした。ゆっくりでいい」

「遠里くんが、気持ち悪いって……」

「分かった。大丈夫。先生が見る」

 江口は真壁たちを見た。

 目が一瞬だけ迷った。

 生徒と、ここで出されている証拠。

 どちらが重要かではない。

 自分がどちらへ行くべきかだ。

 真壁は言った。

「行け」

「すみません」

「謝るな」

 江口は扉の向こうへ消えた。

 そのわずかな間に、吉住は資料を抱えた。

「私は資料室へ行きます。時間を無駄にしたくない」

 二階堂が舌打ちしそうな顔をした。

「待てって言ってるでしょう」

「すぐ戻ります。管理棟内です」

「吉住さん」

 真壁が低く呼んだ。

 吉住は足を止めたが、振り返らない。

「一人で動くな」

「刑事さん」

 吉住は振り返った。

 その表情には、苛立ちと恐怖が混ざっていた。

「私は逃げるわけではありません。むしろ、今出された資料が本物かどうか確認しようとしている。あなた方にとっても必要な作業でしょう」

「だから同行すると言ってる」

「この場を離れられますか」

 吉住の視線が、ラウンジ全体を指した。

 高柳はまだ紙の前に立っている。浜島莉子は怒りで立っている。笠木は沈黙している。今西は施設側の立場として何かを制御しようとしている。江口は生徒のもとへ行った。谷本は死んだ。ボートは使えない。

 真壁がここを離れれば、場が崩れる可能性がある。

 二階堂はそれを察した。

「俺が行く」

 しかしその瞬間、高柳が別の封筒を取り出した。

「まだあります」

 二階堂の動きが止まる。

 高柳の声はかすれていた。

「父の手帳です。通信の時刻だけが残っている箇所があります。内容は書かれていません。でも、変更命令の前後に、何度も確認が入っている」

 二階堂は、吉住と高柳を見比べた。

 一瞬の判断。

 その一瞬が、後から何度も思い出されることになる。

 二階堂は高柳の手帳へ向かった。

「真壁」

「ああ」

 真壁は吉住を追おうとした。

 だが、今西が言う。

「資料室なら、こちらです。安西、案内を」

 安西実結が立ち上がる。

「はい」

 吉住は安西を見た。

「一人で分かります」

「でも」

「すぐ戻ると言っています」

 吉住はそう言い残し、ラウンジを出た。

 安西は一歩だけ追いかけかけ、止まった。

 真壁は眉を寄せた。

 今すぐ追うべきだ。

 そう思った時、九条が低く言った。

「真壁」

「何だ」

「高柳さん、過呼吸に入りかけてる」

 高柳の呼吸が浅くなっていた。父の遺品を出したことで、感情の支えが崩れたのかもしれない。顔から血の気が引いている。

 九条はすでに動いていた。

「座らせる。袋はいらない。ゆっくり吐かせて」

 真壁は一瞬、吉住の去った扉を見た。

 資料室は管理棟内。

 遠くない。

 すぐ戻ると言った。

 だが、ここで高柳が倒れれば、場は完全に崩れる。

 真壁は奥歯を噛んだ。

「二階堂、吉住さんを」

「分かってる」

 二階堂が動こうとした。

 その時だった。

 管理棟の照明が、一瞬落ちた。

 完全な停電ではない。

 ぱち、と光が揺れ、非常灯の緑が壁に浮かぶ。すぐに通常照明へ戻る。だが、その短い瞬間、ラウンジの全員が息を止めた。

 風の音。

 海の音。

 そして、建物の奥から、低い機械音が聞こえた。

 ごとん。

 何かが動く音。

 次に、重いものが擦れる音。

 金属の棚が、床の上をゆっくり移動するような音だった。

 鳳が顔を上げた。

「資料室です」

 次の瞬間、短い悲鳴が聞こえた。

 男の声。

 すぐに途切れた。

 その後に続いたのは、紙が崩れる音だった。

 大量の紙が、棚から床へ落ちる音。

 ばさばさと、長く続く。

 真壁は走っていた。

 二階堂も続く。九条が高柳を椅子に座らせ、今西へ指示を飛ばしてから立ち上がる。鳳は施設図を片手に、真壁たちより少し後ろを走った。

 廊下は長くない。

 だが、その数十メートルが異様に遠く感じた。

 資料室の扉は半開きだった。

 中から紙の匂いが流れてくる。古い紙。湿気。埃。そこに、金属と油の匂いが混ざっている。

 真壁は扉を押し開けた。

 中は薄暗い。照明は復旧しているが、一部が点滅していた。壁際に電動移動棚が並んでいる。通路は狭い。棚の一部が不自然な位置で止まっていた。

 そして、その間に吉住俊太郎が挟まれていた。

 眼鏡が床に落ちて割れている。

 手には、古い資料ファイル。

 胸部が棚に圧迫され、身体があり得ない角度に歪んでいる。

 真壁は一瞬で状況を見た。

「九条」

「分かってる」

 九条が前へ出る。

 だが、鳳が鋭く言った。

「待ってください。床が沈んでいます」

「今それが関係あるのか」

 真壁が言うと、鳳は棚の下部を指差した。

「あります。この棚、まだ動く可能性があります」

 その言葉に、真壁は足を止めた。

 鳳は床を見ている。棚のレール。傾き。非常用電源のランプ。移動棚の列番号。

「電源が完全に切れていない。復旧動作が残っているかもしれません」

 二階堂が舌打ちした。

「止められる?」

 鳳は制御盤へ走った。

「手動停止を探します」

 真壁は吉住の顔を見た。

 彼の目は開いていた。

 何かを見たまま、止まっている。

 九条は慎重に近づき、脈を確認した。わずかな間。

 それから、首を横に振った。

「死亡している」

 部屋の外で、今西が息を呑む音がした。

 真壁は周囲を見回した。

 棚の列番号。

 散らばった書類。

 床に落ちたファイル。

 吉住の指先。

 制御盤のボタン。

 誰かがここで殺したのか。

 それとも、吉住自身が操作したのか。

 ボタンには吉住の指紋が残っているだろう。

 足跡はどうか。

 扉は開いている。

 だが、棚の間に他人が入った形跡は、見える範囲ではない。

 まるで吉住が自分で資料を探し、自分で棚を動かし、自分で挟まれたように見える。

 だが、そんな偶然はない。

 二階堂が、床に落ちた資料を見て言った。

「真壁」

「何だ」

「これ」

 彼が拾い上げたのは、事故報告書の草稿だった。

 赤字で修正が入っている。

 救助順変更。

 その文字が、赤線で消されている。

 横に書かれた修正案。

 避難誘導の調整。

 別の箇所。

 定員不足。

 赤線。

 一時的な収容困難。

 さらに別の箇所。

 未救助者。

 赤線。

 確認遅延者。

 二階堂は、それを見つめたまま言った。

「報告書に潰された、か」

 その声は低かった。

 真壁は吉住の遺体を見た。

 紙の山。

 動いた棚。

 消された言葉。

 圧迫された胸。

 この殺し方には、意味がある。

 ただ殺したのではない。

 誰かが、吉住俊太郎に役を与えて殺した。

 報告書に潰される男。

 真壁は、背後で息を殺す人々の気配を感じながら、移動棚の奥を見た。

 棚番号は十二まである。

 だが床には、もう一列分の古い固定痕があった。

 鳳がそれに気づき、静かに言った。

「この資料室、昔は十三列ありました」

「何?」

「今は十二列です。でも床には、十三列目の跡が残っています」

 二階堂が顔を上げた。

 真壁も、その跡を見た。

 十三。

 その数字が、また現れた。

 高柳の通信控え。

 救助順を変更せよ。

 谷本のメモ。

 順番を変えろ。

 そして、資料室の消された十三列目。

 青燐荘は、過去を隠しているのではない。

 過去を、綺麗に十二へ整えている。

 その整え方に、誰かが死体を置き始めていた。

 真壁は、吉住の開いたままの目を見た。

 この事件は、もう止まらない。

 そう思った。

 そして同時に、まだ始まったばかりだとも思った。


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