第二章 ボートが一隻足りない
朝になっても、海は明るくならなかった。
窓の向こうにあるのは、夜が薄く伸ばされたような灰色だった。空と海の境目は曖昧で、遠くを見れば見るほど、どこからが水でどこからが雲なのか分からなくなる。風は昨夜よりも強くなっていた。ガラスが時折、低く鳴る。建物そのものが震えているわけではない。けれど、青燐荘のどこか奥深くで、海の動きに合わせて重心がずれているような気配があった。
真壁彰は、目が覚めた瞬間にその揺れを感じた。
船とは違う。
もっと小さい。
だが、落ち着かない揺れだった。
陸の建物なら、床は人間の下で黙っている。だがここでは違う。壁も床も、海に許されている範囲で立っているにすぎない。そう思うと、部屋の白い壁も、整えられたベッドも、必要以上に頼りなく見えた。
真壁はカーテンを開けた。
海面は昨日より高く見えた。正確な潮位は掲示板を見なければ分からない。だが、波が連絡橋の下部へ当たる音が、昨日より近い。風が走るたび、白い飛沫が橋脚にぶつかり、細かく砕ける。
視線を右へ動かすと、救命ボートの架台が見えた。
昨日、固定具が緩んでいた一隻。
遠目には変わっていない。ボートはそこにある。架台も、ロープも、吊り金具も、そのままの形を保っている。だが、それだけで安心できるなら、昨夜のうちに気分は軽くなっている。
真壁は上着を羽織り、部屋を出た。
廊下にはすでに人の気配があった。宿泊棟の空気は重い。昨夜、浜島莉子が毒物らしきものを口にし、九条雅紀がそれを寸前で止めた。命に別状はない。少なくとも現時点では、そう説明された。
だが助かった事実は、安心にはならなかった。
誰かが彼女を狙った。
もしくは、彼女を狙ったように見せた。
そのことだけが、食堂棟の白いクロスに落ちた嘔吐の跡よりも強く、全員の記憶に残っている。
管理棟へ向かう連絡橋に出ると、風が顔を叩いた。
昨日より冷たい。橋の網床の下で、海が黒く動いている。足元から水音が上がる。橋を渡るだけの行為が、今日はやけに意識を使った。人は足場が不安定になると、口数が減る。青燐荘の朝は、まさにそうだった。
管理棟の掲示板前に、人が集まっていた。
今西琴葉が、潮位表と風向きの図を示しながら説明している。隣では谷本亮一が、マグネットで紙を留めていた。四角い体つきの設備責任者。昨日と同じ作業着。顔に大きな表情はないが、手だけはよく動いている。紙の端を揃え、テープを貼り、掲示物が風で浮かないよう細かく押さえる。
「現在のところ、管理棟、宿泊棟A、食堂棟への連絡橋は通行可能です。ただし、海側の作業通路については波を被る可能性があるため、職員以外の立ち入りを制限します」
今西の声は、朝になっても整っていた。
「昼過ぎの潮位次第では、一部連絡橋を封鎖します。皆さまにはご不便をおかけしますが、安全確保のため、単独行動はお控えください」
「帰ることはできるんですか」
川原由美が言った。
昨夜から顔色が悪い。もともと血色のいい人間ではなかったのかもしれないが、今朝は唇まで薄い。彼女は両手で自分の腕を抱え、掲示板ではなく今西の口元を見ていた。答えの内容より、言い方を見ているようだった。
「現時点で完全に不可能という状況ではありません」
今西は答えた。
「ただし、船の出航は海況判断になります。無理に動くことで危険が増す場合もありますので、関係機関と連絡を取りながら判断いたします」
「つまり、分からないということですね」
浜島莉子が言った。
彼女は椅子に座っていた。九条から休むよう言われているのだろう。顔色はまだ悪いが、目だけははっきりしていた。昨夜、毒物を口にした直後よりも、むしろ強い怒りが戻っている。
今西は一拍置いた。
「現時点では、そのように申し上げるしかありません」
「便利ですね。その言い方」
莉子の声に、食堂で嘔吐した直後の弱さはなかった。
今西は言葉を飲んだ。
その沈黙を、谷本が引き取るように言った。
「今の海で無理に出すのは危ないです。午前中は読めます。でも昼からは分からない。風向きが変わると、ボートを下ろす位置も変えなきゃならない」
「ボートは使えるんですよね」
黒崎透が訊いた。
開発会社の社員。今朝も服装はきちんとしている。顔には不安があるが、それを仕事用の表情で抑え込もうとしているようだった。
谷本は頷いた。
「点検します」
「昨日、何か問題があったと聞きましたが」
黒崎の視線が、真壁へ向いた。
真壁は答えず、谷本を見た。
谷本は少しだけ目を細めた。
「固定具が一箇所、甘くなっていました。締め直してあります」
「原因は」
「まだ分かりません。だから今から見るんです」
その言い方に、わずかな苛立ちがあった。
谷本は、理屈を嫌う男ではない。だが、机の上で安全を語る人間を信用していないのだろう。金具、ロープ、潮位、風向き。そういうものを実際に見てからでなければ、何も言えない。そういう種類の人間だった。
真壁は谷本へ近づいた。
「俺も行く」
谷本は即答した。
「大丈夫です」
「昨日の件がある」
「見ました。締め直してあります」
「締め直しただけか」
「原因が分からない以上、まずは異常箇所を潰すしかありません」
「一人で行く理由にはならない」
谷本は掲示板から手を離し、真壁を見た。
年齢は真壁より少し上か。現場で働いてきた人間の目だった。相手を見下ろすでも、怯むでもない。ただ、自分の領分に踏み込まれたことだけを静かに知らせる目。
「毎朝見てる場所です」
「だから危ない」
「どういう意味ですか」
「慣れてる場所ほど、変化を見落とす」
谷本の口元が少しだけ動いた。
「それは刑事さんの理屈ですか」
「現場の理屈だ」
「なら、こっちも現場です。壊れてるかどうかは、見れば分かる。金具は嘘をつかない」
「人間は嘘をつく」
谷本は一瞬黙った。
それから、短く息を吐いた。
「点検ルートを回るだけです。食堂棟外周、作業甲板、ボート架台、可動橋の留め具。三十分で戻ります」
「無線は」
「持っていきます」
「応答してほしい」
「もちろん」
谷本はそう言い、作業用の細長いケースを持ち上げた。重そうには見えない。だが真壁は、持ち上げた瞬間のわずかな重心のずれに引っかかった。
ケースの片側が、一瞬だけ下がった。
工具の偏りかもしれない。
現場の道具箱なら、左右で重さが違うことくらい珍しくない。そう思おうとしたが、妙に残った。
「谷本さん」
声をかけると、谷本は振り向いた。
「何ですか」
「そのケース、いつものか」
「ええ」
「中身は」
「点検工具です」
「昨日と同じか」
谷本の眉が少し寄った。
「……同じです。何か」
「いや」
真壁はそれ以上言わなかった。
まだ違和感でしかない。違和感だけで人を止められるなら、刑事の仕事はもっと簡単だ。
谷本は、作業通路へ向かった。
真壁はその背中を見送った。
大きな背中ではない。だが、施設の重心を一人で持っているような歩き方だった。青燐荘で橋が軋めば、谷本が見る。ボートが動かなければ、谷本が直す。電源が落ちれば、谷本が走る。誰もそれを大きく評価していなくても、その男がいなければ施設は回らない。
そういう人間が、こういう場所では最初に消される。
真壁は、嫌な考えを振り払った。
朝食は、昨夜とはまるで違う形式になっていた。
個別包装のパン。未開封の飲料。パック入りのスープ。果物も皮を剥かずに出されている。食堂棟の長いテーブルに並ぶそれらは、食事というより配給に近かった。だが、参加者たちは昨夜より安心した顔をしていた。
誰かが手を加えた料理より、工場で密封されたもののほうが信用できる。
それは理屈として間違っていない。だが、追悼施設の食堂で全員が包装の破れを確認してから口にする光景は、ひどく寒々しかった。
江口桜次郎は、生徒たちを一つのテーブルに集めていた。
「はい、飲み物は自分で開ける。開けられない人は先生に渡す。隣の人のを勝手に開けない。親切心は時々事故ります」
生徒の一人、遠里陽が言う。
「先生、それ昨日のせいでしょ」
「そうです。先生は昨日から胃が小刻みに死んでいます」
「何回死ぬの」
「教師の胃は何回でも死にます。復活はしません」
生徒たちが少し笑う。
笑わせている。
真壁はそう思った。
江口自身が平気なわけではない。目の下のクマは昨日より濃い。食事にもほとんど手をつけていない。だが、生徒たちが沈み込みすぎないよう、あえて軽口を挟んでいる。
その横で、二階堂が紙パックのコーヒーを開けながら言った。
「お前、本当に教師なんだな」
江口は嫌そうに顔をしかめた。
「やめろ。褒め言葉みたいに聞こえる」
「褒めてるんだけど」
「責任が増えるからやめてください」
「昔から褒められると逃げるよな」
「高校の時の話を朝食に持ち込むな。消化に悪い」
二階堂は笑ったが、その目はラウンジの入口を見ていた。
「谷本さん、遅くないか」
真壁は腕時計を見た。
谷本が点検に出てから、四十分近く経っている。
予定では三十分。
海上施設では、五分や十分の遅れは珍しくないのかもしれない。風が強い。足元が濡れている。点検箇所も多い。そう説明はできる。
だが、真壁の中の嫌な感じは、もう言葉を持ち始めていた。
「無線は」
真壁が今西に聞くと、今西はすぐ安西実結を見た。
安西は記録用のバインダーを抱えたまま、無線機のそばにいた。
「先ほどから呼んでいますが、応答がありません」
声は落ち着いていた。
だが、ペンの先だけが紙の同じ場所を押していた。彼女のメモ用紙には、時刻がきっちり記されている。
八時十八分、谷本点検開始。
八時四十五分、定時応答なし。
八時五十分、再呼出。
八時五十五分、応答なし。
記録が速い。
速すぎるほど正確だった。
「どこを回ると言った」
真壁が訊くと、安西は即座に答えた。
「食堂棟外周、作業甲板、ボート架台、可動橋の留め具です」
今西が言う。
「職員を向かわせます」
「俺が行く」
真壁はすでに立ち上がっていた。
九条も椅子を引いた。
「俺も行く」
「危ない」
「死体になる前なら医者が要る。死体になった後でも俺が要る」
九条は静かに言った。
冗談ではない。だから誰も笑わない。
鳳も立ち上がった。
「作業甲板なら、構造を知っている人間がいた方がいいでしょう」
二階堂は資料を閉じる。
「俺はこっちで人を動かさないようにしておく。全員が勝手に走ると、二次災害になる」
江口は生徒たちを見た。
「僕は残ります。子どもを動かしたくない」
真壁は頷いた。
「それでいい」
江口は軽く笑った。
「初めて意見が合いましたね。怖い」
「ふざけてる場合か」
「ふざけてないと、生徒が怖がるんです」
その声は低かった。
真壁は、それ以上言わずに外へ出た。
食堂棟の外周へ出ると、風はさらに強くなっていた。
通路の手すりが濡れている。網床の一部には、白い塩の跡が残っていた。波を被ったのだろう。安西が案内役としてついてきたが、途中で笠木浩明も合流した。
「作業甲板なら、俺も行く」
笠木は言った。
元海上保安官。海と救助の現場を知る男。今は施設職員ではないが、こういう時に身体が動くのは自然だった。
真壁は止めなかった。
「足元に気をつけろ」
「そっちこそ」
食堂棟の裏へ回ると、表の追悼施設らしい顔が剥がれた。
裏側は、ただの海上構造物だった。配管。補強材。錆止めの塗装。古いボルト。新しい金具。後から足された手すり。波を被った痕跡。建物は表では美しく整えられていたが、裏では必死に海に抗っていた。
鳳が足を止めた。
「ここ、床勾配が違います」
「床?」
「作業通路全体が、海側へ逃げています。排水のためでしょう。ただ、この先の甲板だけは古い。傾き方が均一ではない」
「今それが関係あるのか」
「たぶん」
鳳は短く答えた。
その時、風に混じって、別の音が聞こえた。
一定の間隔で何かが当たる音。
ごん。
ごん。
ごん。
波音ではない。金属でもない。もっと鈍い。柔らかいものが、硬いものへぶつかる音。
真壁は足を止めた。
「下だ」
作業通路の一部から、下の低い甲板へ降りる梯子があった。普段は職員しか使わない場所だろう。覗き込むと、海面がすぐそこにあった。波が来るたび、甲板の端を洗い、そのたびに何かが縁へぶつかっている。
灰色の作業着。
最初、それが人間だと認識するのに一瞬かかった。
安西が息を呑んだ。
「谷本さん……」
「下がってろ」
真壁は梯子へ足をかけた。
九条が上から言う。
「真壁、足元」
「分かってる」
低い作業甲板へ降りる。床は濡れている。海藻のような滑りがある。真壁は手すりを掴み、膝を折って遺体へ近づいた。
谷本亮一は、仰向けに近い状態で甲板の縁に引っかかっていた。
頭部に損傷。出血は海水で薄まっている。片方の袖だけがひどく濡れていた。右手の手袋は手から外れ、少し離れたボルトの近くに落ちている。左の手袋はまだ嵌められている。工具ケースはさらに向こう、通路の縁近くに転がっていた。
波が来る。
谷本の肩が甲板の縁にぶつかった。
ごん。
さっきの音だ。
真壁は奥歯を噛んだ。
九条が降りてきた。濡れた床でも足取りは乱れない。細身だが、身体の使い方に無駄がなかった。
九条は谷本の首、瞼、口元を確認した。それから、濡れた衣服、靴、手の位置を見る。
「駄目だ」
短い言葉だった。
上から笠木が訊く。
「死亡確認か」
「うん」
九条の声は低かった。
「ただ、転落即死と決めるには早い」
「何が見える」
真壁が訊く。
「頭は打っている。でも、落ちた後に少し動いたかもしれない。水を吸ってる。即死じゃなかった可能性がある」
真壁は谷本の顔を見た。
助けを呼んだかもしれない。
波と風の音の中で。
誰にも届かなかったかもしれない。
その考えが、胸の奥を重くした。
「落ち方は」
九条は靴を見る。
「左右で濡れ方が違う。右足の靴底に油膜みたいなものがある。左は少ない。あと、手袋の位置が変だ」
「突き落とされた?」
「断定はできない」
九条は作業甲板の上方を見た。
「でも、完全に制御を失った落ち方じゃない気がする。落ちる前に、一瞬踏ん張ってる。なのに、踏ん張った足が滑ってる」
鳳が上から言った。
「柵の擦過痕が、落下位置と合いません」
真壁は顔を上げた。
「何?」
「今いる位置の真上ではなく、少し手前です。体が一度、柵に当たって、それから斜めに落ちた可能性があります」
真壁は周囲を見た。
柵の下部に、新しい擦れがある。だが遺体が引っかかっている真上ではない。少し手前。つまり谷本は、そこからまっすぐ落ちたのではなく、何かで体勢を崩し、柵に当たり、斜めに滑り落ちた。
工具ケース。
真壁はそれに近づいた。
ケースは半開きになっていた。中には点検工具が入っている。ドライバー、レンチ、結束バンド、予備の金具。だが片側に、通常の点検には使わなさそうな重い部品が寄せられていた。
真壁は眉を寄せる。
朝、谷本がケースを持ち上げた時の、わずかな片下がり。
あれは気のせいではなかった。
「九条」
「何」
「ケースの重心が偏ってる」
九条は見た。
「わざとか」
「分からない。だが、谷本さんがいつも使ってるなら、気づくはずだ」
鳳が言う。
「歩いている間は気づきにくいかもしれません。作業姿勢に入る時、初めて効く」
「どういうことだ」
「この甲板、海側へわずかに傾いています。ケースの重心が海側へ寄った状態で、身を乗り出せば、身体も持っていかれる」
九条が靴底を見る。
「そこに油膜か」
真壁は、床の一点を見た。
水に濡れた金属床の上に、薄く虹色が浮いている。油。ごく薄い。海水で流れかけているが、完全には消えていない。谷本の右足が滑った場所。
突き落とされたのではない。
谷本は、自分でいつもの場所へ立ち、いつもの手順で点検し、いつもの動作で身を乗り出した。
そこへ、重心の偏った工具ケース。
傾いた甲板。
油膜。
風。
潮位。
人を殺すには、十分だった。
真壁は立ち上がった。
「犯人は、谷本さんの癖を知ってる」
九条は頷く。
「それか、何度も見ていた」
鳳が静かに言う。
「この施設で設備点検の手順を知っている人間は、限られます」
「谷本さん本人は死んだ」
真壁は言った。
「次に詳しいのは誰だ」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
上で、安西実結が記録している。青ざめた顔で、それでもペンを動かしている。笠木は海を見ていた。元海上保安官の顔から、さっきまでの落ち着きが少し消えている。
真壁は谷本の胸ポケットに目を留めた。
作業着の内側に、何かが入っている。海水で濡れてはいるが、ポケットの奥までは完全には浸みていない。
「九条」
「見る」
九条が慎重に取り出した。
小さく折られた紙だった。
古い紙にも見える。だが、青燐荘の湿気と潮気なら、数日で紙は傷む。新しいか古いかは、見ただけでは分からない。
九条が広げる。
文字は短かった。
――順番を変えろ
それだけだった。
風が吹いた。
紙の端が震える。
真壁はその言葉を見つめた。
順番を変えろ。
命令なのか。
懇願なのか。
過去の言葉なのか。
今朝、谷本のポケットに入れられたものなのか。
何の順番を変えろというのか。
救助順か。
席順か。
殺す順番か。
上から二階堂の声がした。
「真壁!」
振り向くと、二階堂が作業通路を走ってきていた。いつも整えられた髪が風で乱れている。彼が走る時は、ろくな知らせではない。
「ボートだ」
声が硬い。
「一隻、使えない」
真壁は紙から目を離した。
「何があった」
「固定具だけじゃない。滑車がやられてる。下ろそうとしたら途中で止まる」
谷本の遺体。
工具ケース。
油膜。
順番を変えろ。
そして、ボート。
真壁は梯子を上がった。
手が冷えている。海水で濡れた手すりの感触が、皮膚に残った。上に戻ると、風がさらに強く感じた。二階堂の顔は白かった。寒さのせいではない。
「案内しろ」
「こっち」
救命ボート架台のある区画へ向かう。
そこにはすでに人が集まっていた。今西、黒崎、浜島莉子、川原由美、高柳真治、吉住俊太郎。江口も生徒たちを安西のそばへ預けて来ていた。鳳は真壁たちの後ろから合流する。
問題のボートは、昨日真壁が見た一隻だった。
見た目にはそこにある。
だが、近づけば分かる。固定具の片側が外され、吊り下げ用の滑車の一部が歪んでいる。金具が完全に壊れているわけではない。むしろ、中途半端だった。
だからこそ危ない。
無理に下ろそうとすれば、途中で引っかかる。ボートが傾く。人が乗っていれば、海へ投げ出される可能性がある。
笠木が低く言った。
「この状態では使えない」
「直せないんですか」
黒崎が言う。
「工具があれば応急はできる。ただし、海に出すなら保証はできない」
「谷本さんなら」
安西が言いかけて、口を噤んだ。
その場にいた全員が、同じことを考えた。
谷本なら、直せたかもしれない。
だが、谷本はもう死んでいる。
真壁はボートの定員表示を見た。
数字。
冷たい数字だった。
残っているボートの定員。参加者。職員。江口の生徒。負傷者。搬送が必要な浜島莉子。海を扱える人間。動けない人間。
頭が勝手に計算を始める。
誰を先に乗せるか。
誰を待たせるか。
誰を残すか。
真壁は、その計算を嫌悪した。
だが、止められない。
救うためには数えなければならない。数えた瞬間、人間は名前ではなく人数になる。
「また順番をつけるんですか」
浜島莉子の声がした。
誰も答えなかった。
彼女は立っていた。九条に休むよう言われていたはずだが、来てしまったのだろう。顔色は悪い。それでも、視線だけはまっすぐだった。
「昨日、私は食べる順番で殺されかけた。今度は逃げる順番ですか」
「浜島さん、落ち着いて」
今西が言う。
莉子は笑わなかった。
「落ち着いて。安全確保のため。状況に応じて。偏りなく。そうやってまた、誰かを後ろにするんでしょう」
今西の顔が強張る。
吉住俊太郎が口を開いた。
「現実問題として、優先順位をつける必要がある状況はあります」
「その言い方、報告書みたいですね」
莉子が返した。
吉住は黙った。
高柳真治は、ボートの定員表示を見つめていた。柔らかな顔立ちが、今は硬い。彼の父は十八年前の通信士だったという。救助順が変わった夜、その言葉をどこかで聞いていたのかもしれない。あるいは、聞かされなかったからこそ、今ここにいるのかもしれない。
江口が低い声で言った。
「生徒は動かしません」
真壁は江口を見た。
「今はそれでいい」
「今は、じゃなくて、最後までそうしてください」
「状況による」
江口の目が変わった。
「子どもを順番表に入れるなら、先に僕を入れてください」
軽口ではなかった。
二階堂が江口を見た。
高校時代の旧友を見る目ではない。今そこにいる大人を見る目だった。
「桜次郎」
「分かってる。邪魔はしない。でも、子どもを数に入れるな」
「入れないと助けられない時もある」
「じゃあ、数え方を間違えるな」
その言葉が、真壁の胸に残った。
数えるな、ではない。
数え方を間違えるな。
今西が、場を収めようとした。
「全員、一度ラウンジへ戻ってください。単独行動は禁止します。設備区画への立ち入りも制限します。海上保安部への連絡は続けています」
「続けています、じゃなくて、いつ来るんですか」
川原が言った。
「海況次第です」
「また、それですか」
今西は答えられなかった。
真壁はボートを見ていた。
一隻使えない。
それだけだ。
だが、その一隻が、青燐荘を完全に別の場所へ変えた。
逃げ道がある施設から、逃げ道を選ばされる施設へ。
人々はラウンジへ戻された。
谷本の遺体は、一時的に管理棟の空き部屋へ運ばれることになった。九条が最低限の確認を行う。真壁は、現場保全の指示を出し、安西に記録を取らせた。
安西は黙って頷いた。
顔色は悪い。だが、ペンは止まらない。
「安西さん」
二階堂が声をかけた。
「はい」
「谷本さんの無線応答記録、あとで見せてください」
「分かりました」
「あと、ボート点検の通常記録も」
「はい」
二階堂は一拍置いて言った。
「記録係って、大変ですね」
安西は表情を変えなかった。
「仕事ですので」
「全部、残りますからね」
「残すためにいます」
その答えに、二階堂は少しだけ目を細めた。
「そうですね」
ラウンジに戻ると、空気はさらに悪くなっていた。
誰も大声を出さない。むしろ、声を潜めている。だが、潜められた声ほど、部屋のあちこちに残る。誰が怪しい。高柳が何か知っている。九条はなぜ昨日すぐ分かった。設備を触れるのは谷本以外にもいるのか。ボートが一隻減ったら何人残るのか。
数が、人の顔を変えていた。
真壁は窓際に立ち、外を見た。
ボート架台が見える。
その横で、海が黒く動いている。
九条が隣に来た。
「谷本さんのポケットの紙」
「ああ」
「古い紙に見せてるけど、書かれたのは最近かもしれない」
「根拠は」
「インクの滲み方。紙は潮気を吸ってる。でも、文字の一部はまだ生きてる。十八年前のものではないと思う」
「今朝入れられた?」
「可能性はある」
「本人が持っていたのか、持たされたのか」
「それは分からない」
九条は静かに言った。
「ただ、谷本さんは死ぬ前に、それを読んだ可能性がある」
「なぜ」
「折り目が一度開かれてる。濡れる前に」
真壁は目を細めた。
谷本は、順番を変えろという紙を読んだ。
その後、点検に向かった。
あるいは、それを読んだから点検に向かったのか。
「谷本さんは何を変えようとした」
「ボートか、橋か、救助順か」
「殺害順かもしれない」
九条は否定しなかった。
その時、二階堂が資料を持って近づいてきた。
「ちょっと見て」
「何だ」
「十八年前の事故資料と、今のボート定員」
二階堂は紙を広げる。
事故当時の救命ボート配置図。現在の配置図。再整備後のパンフレット。数字が並んでいる。
「十八年前の初期報告では、一時避難用ボートの定員合計が足りてない。でも後の正式報告では、なぜか“全員収容可能な救助手段が確保されていた”って表現に変わってる」
「増えたのか」
「違う。数字が増えたんじゃない。表現が変わってる」
二階堂は指で文面を叩いた。
「“救命ボート”が“避難手段”に変わってる。ボートだけなら足りない。でも、避難手段なら、桟橋、浮体、作業台、何でも含められる。つまり、足りなかった事実を、言葉の範囲を広げて隠してる」
真壁は資料を見た。
たしかに、数字の矛盾はわずかだった。だが、わずかだからこそ見逃される。報告書の文章が綺麗に整っていれば、なおさら。
「一隻足りなかったのか」
二階堂は顔を上げた。
「たぶんね。十八年前も」
九条が言う。
「今と同じだな」
二階堂は頷いた。
「そう。今、ボートが一隻使えない。十八年前も、たぶん一隻分、足りなかった。犯人はそれを再現してる」
「高柳さんか」
真壁が呟く。
通信士の息子。父の汚名を晴らしたい男。救助順の変更を疑っている男。
動機はある。
だが、真壁の中でまだ何かが合わなかった。
谷本を殺せば、設備について話せる人間が消える。ボートを壊せば、逃げ道が減る。それは告発というより、実際に人を追い込む行為だ。
高柳がそこまでやるか。
今は分からない。
九条が言った。
「谷本さんの死に方は、かなり手間がかかってる」
「だから高柳さんじゃないと?」
「そうは言ってない。ただ、谷本さんの点検動作を知っているか、観察していた人間じゃないと難しい」
「記録係なら」
二階堂が言った。
真壁は彼を見る。
「何だ」
「いや。安西さん、点検開始時刻も応答記録も正確に残してた。あの人は多分、全員の動きを見てる」
「記録係だからだろ」
「そう。記録係だから見ていても怪しまれない」
その言葉は、ラウンジの空気の中へ静かに沈んだ。
安西実結は、少し離れた席でメモを取っている。聞こえているのかいないのか、表情は変わらない。
真壁は彼女を見た。
目立たない。
だが、目立たない人間ほど、場の端に長くいられる。
午後に近づくにつれ、風はさらに強くなった。
外部からの到着見込みは、まだ立たない。潮位の上昇により、海側作業通路は完全封鎖となった。食堂棟への橋も、夜間には制限される可能性がある。
青燐荘は、少しずつ閉じていく。
その閉じ方は、扉に鍵がかかるような分かりやすいものではなかった。橋が一本使えない。ボートが一隻使えない。通信が少し不安定になる。風が強まる。潮位が上がる。
助かるための条件が、ひとつずつ減っていく。
夕方前、真壁は再び谷本の遺体が安置された部屋へ向かった。
九条が作業着の確認を続けている。遺体に対する扱いは丁寧だった。死体を証拠としてだけでなく、一人の人間として扱っている。それが九条の仕事の仕方だった。
「何か出たか」
真壁が訊くと、九条は小さく頷いた。
「右手の爪に、金属片が少し。柵か工具箱かはまだ分からない。あと、口の中に海水。やっぱり落ちた後、少し呼吸してる」
真壁は黙った。
「助けを呼べたか」
「声を出せる状態だったかは分からない。頭を打ってる。ただ、完全に即死ではない」
九条は手を止めた。
「嫌な殺し方だ」
「珍しいな、お前がそう言うの」
「死ぬまでに、自分が落ちた理由を考える時間があったかもしれない」
真壁は谷本の顔を見た。
設備責任者。
橋と金具を信じていた男。
その男が、金具ではなく、自分のいつもの手順に殺された。
部屋の扉が開き、二階堂が入ってきた。
「高柳さんが、父親の資料を出すって」
「今?」
「うん。谷本さんのメモを見て、黙ってられなくなったらしい」
「何の資料だ」
二階堂は少しだけ表情を硬くした。
「未送信の通信控え」
真壁は眉を寄せた。
二階堂が低く言う。
「“救助順を変更せよ”って書いてあるらしい」
九条は顔を上げた。
部屋の外で、風が鳴った。
青燐荘のどこかで、金属が軋む音がした。
真壁は、谷本のポケットから出た紙をもう一度思い出した。
順番を変えろ。
その言葉は、過去から来たものかと思っていた。
だが違うのかもしれない。
十八年前に変えられた順番が、今、もう一度誰かの手で変えられようとしている。
そして今回は、まだ死者が一人で済むとは限らなかった。
ラウンジへ戻ると、高柳真治が立っていた。
彼の手には、古い布包みがある。
浜島莉子が、その包みを睨むように見ている。今西琴葉は表情を整えていたが、指先が強張っていた。吉住俊太郎は眼鏡を押し上げ、すでに言い訳の言葉を探しているように見えた。安西実結は記録用紙を新しいページに替えていた。
江口は生徒たちを奥の部屋へ下がらせていた。扉の前に立ち、こちらを見ている。
鳳は壁際で施設図を持っている。目は図面ではなく、床を見ていた。何かを測るように。
高柳が口を開いた。
「父は、順番を決めたんじゃありません」
声は震えていなかった。
しかし、長く押さえ込んできたものを出す時の硬さがあった。
「変えろと言われたんです」
布包みが開かれる。
古い紙。
短い通信文。
真壁には、まだ内容は見えない。
だが、二階堂の顔が変わったことで、そこに何が書かれているか分かった。
救助順を変更せよ。
青燐荘の空気が、一段深く沈んだ。
真壁は窓の外を見た。
ボートは一隻、使えない。
設備責任者は死んだ。
そして今、十八年前にも同じように、誰かが誰かの順番を変えたことが、紙の上から戻ってこようとしている。
海は相変わらず、黒く動いていた。
誰を先に助けるか。
誰を後にするか。
その問いは、もう過去のものではなかった。




