第一章 追悼の宿
死者を悼う場所で、生者が順番に裁かれていく。
海は、昼を過ぎると少しずつ色を失っていった。
午前中にはまだ、遠くの水面に青が残っていた。陽が雲の切れ目から差すたび、波頭だけが銀色に光り、船の進む先に細い道を作っているようにも見えた。だが沖へ出るにつれ、その道は消えた。空は低く垂れこめ、海と雲の境目は灰色に溶けた。風が船体を横から叩くたび、手すりにかけた指の内側へ、冷たい潮気が入り込んでくる。
真壁彰は、甲板に立ったまま、前方を見ていた。
青燐荘は、海の上にあった。
島ではない。陸続きでもない。浅瀬に打ち込まれた杭と補強桁の上に、いくつもの棟が分かれて建っている。宿泊棟が三つ。管理棟が一つ。食堂棟が一つ。少し離れたところに機械設備棟らしい低い箱型の建物があり、その脇に救命ボートの架台が見えた。
それぞれの棟は、細い連絡橋でつながれている。
橋は、遠目にも頼りなかった。人が二人並んで歩くには狭い。手すりはあるが、風を遮るものはない。橋の下には、灰黒い海が口を開けている。潮位が上がれば床のすぐ下まで水が迫るだろうし、風向きが変われば、一部の橋は使えなくなる。
見るだけで分かった。
嫌な施設だった。
美しくないわけではない。むしろ、遠景としてはよくできている。海に浮かぶ追悼施設。白と青灰色を基調にした外壁。ガラス面の多い食堂棟。夕暮れには、海と灯が混ざって幻想的に見えるのだろう。
だが、人間が逃げる場所として見ると、あまりにも脆い。
「嫌な顔してるな」
隣で二階堂壮也が言った。
風に乱される金髪を片手で押さえながら、それでも二階堂は妙に涼しい顔をしている。薄いグレーのコートの襟を整え、手すりではなく、真壁の視線の先を見ていた。目は笑っていない。
「別に」
「その顔で別には無理がある。着く前から、何人落ちる想定してた?」
「落ちる前提で見てない」
「じゃあ、詰まる場所か」
真壁は答えなかった。
桟橋から管理棟までの距離。連絡橋の幅。海面までの高さ。非常灯の位置。救命ボート架台までの動線。食堂棟から宿泊棟へ戻る経路。暗くなった時、どこが死角になるか。
そういうものを見ているとは、わざわざ言わない。
二階堂は肩をすくめた。
「まあ、俺も人のこと言えないけどな。あの案内図、ちょっと嫌だ」
「もう見たのか」
「船内に置いてあったパンフレット。綺麗すぎる」
「何が」
「言葉」
二階堂は内ポケットから折りたたんだパンフレットを取り出した。厚手の紙に、青燐荘の全体図と施設案内が刷られている。淡い青。白い余白。抑制された書体。
「“事故の記憶を静かに受け継ぐための空間設計”。“命の尊さを学ぶための滞在型追悼施設”。“安全と祈りの場として再生した海上施設”。……嫌な文章だろ」
「普通の広報文に見えるが」
「だから嫌なんだよ。普通に見えるように、角が削られてる。誰が何をしたのか、誰が何をできなかったのか、そういう主語が最初からない」
真壁は施設に目を戻した。
「仕事柄か」
「まあね。綺麗な文章は、時々、誰かの手を洗うために使われる」
その言い方には、いつもの軽さがなかった。
警視庁総務部広報課。二階堂の仕事は、事件が社会へ出ていく時の順序を設計することだ。発表文。会見。質疑応答。公開していい事実と、今は伏せるべき事実。どう言えば誤解を避けられるか。どう言えば責任の所在を曖昧にせずに済むか。
だからこそ、二階堂は言葉で責任を消す文章に敏感だった。
「九条は?」
真壁が船室のほうへ目をやると、二階堂は顎で示した。
「まだ資料読んでる。あの人、船酔いとかしないの?」
「しないんじゃないか」
「人体構造として不公平だな」
船室の窓越しに、九条雅紀の姿が見えた。
白い髪。色素の薄い肌。赤みを帯びた目。膝の上に資料を広げ、船が揺れてもほとんど姿勢を変えない。左手で紙の端を押さえ、右手は使わずにページをめくっている。静かすぎて、そこだけ船の揺れから切り離されているようだった。
大学法医学教室所属の法医学者。警察内部の人間ではない。だが、真壁たちの関わる重大案件では、死体と痕跡を読むために何度も現場へ呼ばれてきた。
今回も、名目上は青燐荘の医療設備確認と、十八年前の事故資料に関する法医学的助言だった。
真壁が船室に戻ると、九条は顔を上げずに言った。
「着く?」
「もうすぐだ」
「そう」
九条は資料の一枚を持ち上げた。十八年前の海難事故に関する概要だった。施設名は当時、青燐荘ではない。海上研修施設として作られ、事故後に閉鎖され、のちに追悼施設として再整備された。
死者十二名。
負傷者多数。
荒天による通信混乱。
救命ボートの運用不備。
避難誘導の遅れ。
報告書には、そういう単語が綺麗に並んでいる。
「変な資料だな」
九条が言った。
「どこが」
「死因より、救助順のほうが詳しい」
二階堂が船室の入口にもたれた。
「九条先生もそこ見る?」
「見るよ」
「死因が薄いのは、古い事故だからじゃないの」
「それもある。でも、薄いというより、薄くしてある」
九条は紙面を指先で叩いた。
「誰が、どこから、何番目に運ばれたか。そこは妙に丁寧。でも、その人がどんな状態で、どれくらい待って、何が致命的だったのかは曖昧」
「救助活動の検証資料だからじゃないか」
真壁が言うと、九条は少しだけ首を傾けた。
「検証なら、なおさら身体の情報が要る」
「身体?」
「冷えたのか、溺れたのか、外傷があったのか、呼吸できたのか。助けられなかった理由は、順番だけじゃ分からない。でもこの資料は、順番を見せたがってる」
二階堂が低く言う。
「死んだ人間の記録じゃないってことか」
九条はようやく顔を上げた。
「助けられなかった順番の記録に見える」
船底を叩く波の音が、そこで少しだけ大きくなった。
真壁は窓の外を見た。
青燐荘が近づいている。白い外壁が、灰色の海の上に浮かんでいる。食堂棟のガラスに、空の鈍い光が反射していた。
追悼のための施設。
だが真壁には、海の上に並べられた白い箱が、人を数えるための容器に見えた。
船が桟橋へ寄る。
係員がロープを投げ、青燐荘側の職員が受け取った。波で船体が桟橋へ軽くぶつかる。鈍い音が足裏に伝わった。
最初に出迎えたのは、濃紺のスーツを着た女性だった。四十代半ばほど。背筋が伸び、表情も声も整っている。襟元には青燐荘のロゴ入りバッジ。
「ようこそ、青燐荘へ。運営責任者の今西琴葉です。本日は遠いところをお越しいただき、ありがとうございます」
その挨拶は、過不足がなかった。
丁寧で、落ち着いていて、どの相手にも同じ温度で届くように調整されている。葬儀場のスタッフにも、ホテルマンにも、自治体の担当者にも見える声だった。
二階堂が名刺を出した。
「警視庁総務部広報課の二階堂です。今回は再検証に伴う対外説明の確認と、関係資料の整理補助という形で伺いました」
「承知しております」
今西は頷く。
その頷き方まで、事前に練習したように滑らかだった。
真壁も名乗り、九条も短く自己紹介する。九条が法医学者だと知ると、今西はとくに丁寧に頭を下げた。
「医療スペースの確認もお願いしてしまい、恐縮です。海上施設ですので、念のため設備は整えております」
「念のため、か」
九条が小さく言った。
「はい?」
「いえ。あとで見せてもらいます」
九条は穏やかに返したが、今西が一瞬だけ言葉を探したのを、真壁は見逃さなかった。
船を降りると、足元がわずかに揺れた。
桟橋から管理棟へ向かう連絡橋は、金属製の網床だった。下が透けて見える。海面は思ったより近い。波が橋脚へぶつかるたび、足元のどこかで低く響く。風が横から吹き抜け、身体が一瞬、手すりのほうへ流された。
「風が強い日は、一部の橋を封鎖することがあります」
今西が歩きながら説明する。
「夜間は特に。潮位と風向きによって、通行できる棟が制限される場合もございます」
二階堂が訊いた。
「封鎖された場合、宿泊者の移動は?」
「職員が誘導いたします。現時点では問題ありません」
「現時点では、ね」
二階堂が小さく繰り返した。
管理棟に入ると、海の音が急に遠のいた。
暖房が効いている。床は乾き、照明は穏やかで、外の風を忘れさせるように調整されていた。ロビーには、事故に関する展示パネルと献花台が並んでいる。
十八年前の事故。
当時の施設写真。
救助活動の時系列。
追悼事業の沿革。
再整備計画。
どれも見やすく、文字も美しい。悲しみを乱さないよう、情報は抑制されている。だが、その抑制がかえって、何かを削ぎ落としているように見えた。
二階堂は展示文を眺めて、薄く笑った。
「さっきのパンフレットと同じだ」
「何が」
「主語の消し方」
九条は展示パネルより、床の擦れを見ていた。真壁は非常口と連絡橋への扉を確認した。
その時、ロビーの一角から、妙に気の抜けた声が聞こえた。
「はい、集合。海見てテンション上がるのは分かりますが、落ちたら先生の胃が死にます。胃はもう半分死んでます。大事にしてください」
数人の高校生が笑った。
声の主は、二十代後半くらいの男だった。
痩せ気味。三白眼。目の下に濃いクマ。服装はきちんとしているが、本人から漂う生活感がどこか不健康だった。寝不足のまま無理やり笑顔を作っているような顔。だが、生徒を見る目だけは柔らかい。
生徒の一人が、不安そうに海側の窓を見る。
男はその子の隣へ自然に移動した。腰を少し落とし、視線の高さを合わせる。
「怖いなら怖いでいいです。怖くないふりして橋を渡るほうが危ない。怖い時は、先生の袖を掴んでください。先生の袖は、そのためにあります。たぶん」
生徒が小さく頷く。
真壁は、その男への見方を少し変えた。
軽い。だが、子どもへの反応が早い。
隣で二階堂が足を止めた。
「……桜次郎?」
男が振り向く。
一瞬、目が丸くなった。次に、露骨に嫌そうな顔になる。
「うわ。最悪。顔がいいやつに限って、こういう場所で再会する」
二階堂の口元が上がった。
「雪桜以来だな」
「そういう重い固有名詞を、再会一発目に出すなよ。胃に悪い」
「こっちもお前の顔色を見ると胃に悪い」
「社会人ってすごいよな。人間の彩度を落とす」
「教師だろ」
「人生最大のバグ」
二人の間に、妙な親しさがあった。
遠慮がない。だが、不快ではない。長く会っていなかった相手にだけ許される、雑な距離感だった。
江口の視線が真壁に移る。
軽口の奥で、ほんの一瞬だけ表情が硬くなった。雪桜の旧校舎。散りかけた桜。名前を返すために立っていた男の背中。真壁は、それを思い出した。
「江口先生。久しぶりだな」
「どうも、真壁さん」
江口桜次郎は軽く頭を下げた。
「先日は大変お世話になりました、って言うと、ものすごくまともな人間っぽいですね」
「まともじゃない自覚があるなら、少しは直せ」
「自覚があるだけ偉いと思ってください」
九条が近づく。
江口は九条を見るなり、片手を上げた。
「九条先生も。相変わらず、船の揺れとか人生の揺れとか、全部関係なさそうな顔ですね」
「関係はある」
「あるんですか」
「見せないだけだ」
「嫌な返しだな」
九条は江口の顔をじっと見た。
「睡眠不足」
「久しぶりに会って第一声がそれ?」
「栄養も偏っている。慢性疲労は前より強い」
「医療系の人間、再会の情緒が死んでる」
「あと、後悔は減っていない」
江口の笑みが、ほんの少しだけ揺れた。
雪桜の下で、彼は誰にも届かない手紙を書いた。もう返せない返事を、声に出した。あの事件は解決した。犯人は捕まり、消された名前は戻った。だが、それで人間がすぐに救われるわけではない。
江口は肩をすくめた。
「後悔って、消耗品じゃないんで。残量表示もないし」
「二階堂の友人ってみんなこんななの」
「こんなって、言い方……!」
二階堂が真壁たちを見た。
「こいつは特別だよ」
「高校で一緒なんだっけ」
「高二と高三で同じクラス。昔からこういうやつ」
「昔からって言うな。僕にも成長という概念がある」
「どこが」
「責任から逃げる速度が落ちました」
「それは成長なのか」
「老化かもしれない」
江口は言ってから、生徒たちのほうへ視線を戻した。
「はい、先生は旧友と再会して心にダメージを負っていますが、業務は続きます。君たちは安西さんの説明を聞いてください。海側の窓に近づきすぎない。スマホを落とさない。先生の寿命も落とさない」
生徒たちが、近くにいた記録係らしき女性の方へ移動する。
その女性は二十代後半ほどだった。黒髪を低くまとめ、胸に「記録係」と書かれた腕章をつけている。控えめな印象だが、メモを取る手だけが速い。
「安西実結です。本日は記録と案内補助を担当いたします」
彼女は静かに頭を下げた。
声に特徴はない。だが、誰がどこに立ち、誰が何を言ったかを、目の端で拾っているのが分かった。記録係としては有能なのだろう。目立たないことも含めて。
真壁が江口を見ていると、江口はすぐに気づいた。
「怖い顔の人に観察されてる」
「観察される覚えがある顔をしている」
「ひどい。善良な教師ですよ」
「自分で言うな」
「善人扱いされると蕁麻疹が出るので、先に自己申告しておこうと思いまして」
二階堂が横から言う。
「こいつ、昔からこういう逃げ方するんだよ」
「逃げてない。歩いて遠ざかってるだけ」
「同じだ」
軽い。
だが真壁は、江口が生徒たちの位置をずっと把握していることに気づいていた。話しながらも、視線は必ず生徒へ戻る。誰が不安そうか。誰が一人で動きかけたか。誰の顔色が悪いか。
この男は、大人相手には表面で喋る。
子ども相手には、反射で動く。
雪桜の時と同じだった。
いや、少し違う。
あの時よりも、江口は自分が守ろうとしているものを隠すのが下手になっている。
ロビーの奥で、別の男が施設図を見ていた。
穏やかな顔立ちの男だった。三十歳前後。黒に近いグレーのジャケット。手元の図面には、すでに細かく書き込みがある。人の顔ではなく、壁と橋の接続部、床の段差、ボート架台までの距離を見ている。
九条が先に気づいた。
「鳳先生」
男が顔を上げる。
「九条先生。こういう場所でしか会いませんね」
「今回こそは建物だけで済むといいですね」
「その言い方で済んだことがありましたか」
二階堂が眉を上げた。
「大学の先生同士って、もっと穏やかに会話しないの?」
「学部が違う。普段は会わない」
九条が言う。
鳳は柔らかく笑った。
「医学部と工学部ですからね」
「先生はどうしてここに?」
「今回は青燐荘の改修計画と安全検証のために呼ばれました」
真壁が軽く頭を下げる。
「ご無沙汰しています」
「こちらこそ。十二灯館と、七禍島以来ですね」
「ああ」
過去の事件で顔を合わせた建築学者。真壁はその時の記憶を呼び起こした。穏やかな物腰。だが、建物を見る目が異様に鋭い。壁紙の継ぎ目や、床の沈みや、窓の高さから、そこに隠された動線を読む男。
鳳は江口のほうにも目を向けた。
「そちらの先生も、今回は引率で?」
「あ、江口と申します。今日は防災学習です。僕の胃が防災されていません」
「それはお気をつけて」
「建築の先生に胃の安全設計も頼みたいところです」
鳳は苦笑し、青燐荘の施設図へ視線を戻した。
「この施設、少し妙ですね」
「何が」
「避難しやすいように作られているというより、避難できたことを説明しやすいように作られています」
二階堂が小さく笑った。
「また嫌なこと言う人が増えた」
「申し訳ありません。職業病です」
鳳は図面の一点を指した。
「宿泊棟から食堂棟までの動線は分かりやすい。管理棟から全体も見渡せる。けれど、救命ボート架台だけが、少し外れている。安全設備なのに、避難動線の中心にない」
「景観のためか」
真壁が言うと、鳳は少しだけ目を細めた。
「おそらく。海側から見た時、ボートが目立たない位置へ移されている。追悼施設としての美しさを優先したのかもしれません」
「安全より見た目か」
「そう単純には言い切れません。ただ、建物は優先順位を隠せません」
その言葉を、真壁は覚えておいた。
建物は優先順位を隠せない。
なら、この青燐荘は何を優先したのか。
その後、追悼会の参加者たちが順に紹介された。
浜島莉子。三十代半ばの女性。黒に近い服を着ている。兄を十八年前の事故で失った遺族。表情は静かだが、目の奥に硬い怒りがある。
笠木浩明。元海上保安官。五十代後半。日に焼けた肌に深い皺。穏やかそうに見えるが、その穏やかさは選んで身につけたもののようだった。
高柳真治。事故当時の通信士だった男の息子。柔らかな顔立ち。だが、笑うたびに目だけが周囲の反応を探っている。
吉住俊太郎。事故検証委員会の報告書作成に関わった人物。痩せた男で、眼鏡の奥の目が鋭い。会話より文書に向いた喋り方をする。
谷本亮一。青燐荘の設備責任者。四角い体つき。手は大きく、爪の間に薄く油が残っている。橋や金具や潮位を、机上ではなく身体で覚えている人間の手だった。
川原由美。事故生存者の親族筋だという。顔色が悪く、何かに怯えているようだった。
黒崎透。開発会社社員。青燐荘の再整備計画に関わっている。言葉は滑らかだが、滑らかすぎた。
生見彩音。防災NPO職員。事故資料を独自に調べているらしい。穏やかな目をしているが、資料を見る時だけ表情が変わる。
白川一冴。元施設職員の息子。若い。父が事故当時に何かを知っていたと言うが、まだ詳しくは話さない。
汐崎瑚子。SNS記者。小型カメラとスマートフォンを持ち、場の空気を切り取るように見ている。
そして安西実結。記録係。
彼女だけが、自分を語らなかった。
ロビーでの説明が終わると、今西が全員へ向けて言った。
「夕刻より、食堂棟にて追悼膳をご用意しております。それまでお部屋でお休みいただくか、展示をご覧ください。なお、橋の通行には十分お気をつけください」
言葉は丁寧だった。
だが、誰も気が休まったようには見えなかった。
夕方、食堂棟へ向かう頃には、空はさらに暗くなっていた。
連絡橋の照明が、足元を白く照らしている。橋の下の海は黒い。風が吹くたび、橋の網床がわずかに震える。江口は生徒たちを一列にし、自分は最後尾についていた。
「はい、前見て。海を見るのは食堂に着いてから。先生の胃を守るために協力してください」
「先生、胃弱すぎ」
「社会人の胃はだいたい弱いです。覚えておくように」
二階堂が少し笑った。
「教師やってるな」
「やってますよ。仕事なので」
「やっぱり昔のお前からは想像つかない」
「僕も想像してなかった。人生はバグが多い」
江口はそう言いながら、生徒の一人が風に煽られた瞬間、すぐ肩を支えた。
「大丈夫。急がなくていい」
その声だけは、軽くなかった。
食堂棟は、ガラス面の多い建物だった。
海を見渡せるように設計されている。日没直前の鈍い光が水面に反射し、室内へ青白く差し込んでいた。長いテーブルが緩やかに湾曲して配置され、追悼膳が一人分ずつ整えられている。
白身魚。炊き合わせ。吸い物。小鉢。酒肴。
慎ましく、美しい。
だが真壁には、整いすぎて見えた。
誰も食事を楽しむためにここへ来たわけではない。にもかかわらず、食卓はあまりに綺麗だった。悲しみの形まで、先に決められているようだった。
二階堂が席に着くなり、小さく言った。
「席順、見た?」
「ああ」
「公平に見せてる」
真壁は黙って全体を見た。
遺族、救助側、報告書側、施設側、外部者。隣り合いすぎず、離れすぎてもいない。揉めない程度に接触させる並び。偏らない配置。
今西が言った。
「できるだけ偏りのないお席にしております。どうか気兼ねなく」
二階堂は箸袋を指で撫でた。
「気兼ねなく、ね」
真壁はその声を聞いて、席順をもう一度見た。
ただの気遣いか。
それとも、誰かが何かの順番に合わせているのか。
まだ分からない。
黙祷が行われた。
全員が目を伏せる。時間は短いはずだった。だが、目を閉じていると、海の音だけが遠くから聞こえた。波が柱に当たり、引いていく音。風がガラスを押す音。誰かの呼吸が少しだけ乱れる音。
黙祷が終わる。
箸が動き始めた。
誰も大きな声では話さない。皿の上の料理は綺麗だが、食べるという行為そのものが、場に似合わない気がした。人は食べる時、少しだけ無防備になる。
真壁は、食堂棟の出入口と非常口を確認した。
九条は料理を口に運びながら、人の喉の動きや食べる速度を見ているようだった。
二階堂は会話の間を拾っている。
鳳は、窓の反射と天井の梁を見ていた。
江口は生徒たちのテーブルの近くに座り、自分の箸より先に、生徒がちゃんと食べているかを確認していた。
浜島莉子は、ほとんど会話に加わらなかった。
彼女は白身の刺身へ箸を伸ばした。一切れを取り、醤油に軽くつける。口へ運ぶ。何気ない動作だった。
その瞬間、九条の視線が変わった。
「食べるな」
声は大きくなかった。
だが、ためらいがなかった。
真壁は椅子を蹴るように立っていた。
莉子の喉が一瞬、強張った。目が見開かれる。飲み込む前に、身体が拒否したように見えた。次の瞬間、彼女は激しく咳き込んだ。
「前に倒せ」
九条が言う。
真壁は莉子の背後に回り、身体を支える。莉子は口元を押さえたまま、身を折った。
「吐いていい。飲み込むな」
九条は莉子の顎の角度を支えた。声は冷静だったが、動きは速い。
二階堂がテーブルの皿へ手を伸ばしかけた職員を止める。
「触るな。全員、箸を置いて。誰も皿を動かさない」
食堂の空気が壊れた。
莉子は激しく嘔吐した。白いクロス。床。整っていた追悼膳が、一瞬で別の意味を持つ。
江口が生徒たちの視界を遮るように立った。
「見なくていい。全員、顔を伏せて。深呼吸。大丈夫、僕の声だけ聞いて」
その声は低く、ぶれなかった。
浜島莉子の呼吸は荒い。顔色は悪いが、意識はある。
九条が脈を取り、瞳孔を見る。
「量は多くない。すぐ吐けたのが大きい。水は飲ませるな。口をゆすぐだけ」
「医療スペースへ運ぶ」
真壁が言うと、今西が職員へ指示を出した。
「担架を」
「この距離なら支えて移動できる。歩かせるな」
九条が即座に言う。
真壁が莉子を支え、九条が前に立つ。二階堂は周囲を制し、誰が何を食べたか確認し始める。江口は生徒たちを食堂の端へ下げた。
誰かが小さく言った。
「……どうして分かったんだ」
声の主は分からなかった。
だが、その場にいた全員が同じことを思っていた。
浜島莉子が飲み込む前に、九条は止めた。
助けた。
それなのに、あまりに早すぎる判断は、安心より先に気味悪さを生む。
九条は振り返らなかった。
「あとで話す。今は道を空けて」
医療スペースは管理棟の一角にあった。
簡易ベッド。酸素。救急バッグ。最低限の処置設備。海上施設としては整っているが、病院ではない。
九条は莉子を寝かせ、状態を確認した。摂取した料理、時間、口に入れた量、嘔吐までの秒数。質問は短く、無駄がない。
莉子は息を整えながら答えた。
「刺身……一切れ目。飲み込む前に、喉が……」
「味は?」
「変な味っていうより、飲み込みたくない感じがした」
「分かった。今は話さなくていい」
九条はそう言い、職員に搬送連絡の確認を指示した。
真壁は壁際で腕を組んだ。二階堂が隣に来る。
「見られてたよ」
「誰が」
「九条。かなりの人数が。助けた直後なのに」
「分かってる」
「早すぎる人間って、それだけで疑われるんだな」
「そういうもんだ」
二階堂は医療スペースの扉越しに外を見た。
「でも仕込んだ犯人もそれを狙ってるかもしれない」
「九条を疑わせるためか」
「あるいは、全員に“食べる順番”を意識させるため」
真壁は答えなかった。
しばらくして、今西がラウンジに全員を集めた。
浜島莉子は命に別状はなさそうだったが、搬送の必要はある。だが外の海況は悪化し始めていた。高潮注意報が警報へ変わる可能性があるという。風向きも変わっている。
「現在、海上保安部および関係機関へ連絡を入れております。ただし、潮位と風の状況により、すぐの移動は難しい可能性があります」
今西の声は落ち着いている。
それがかえって、場を苛立たせた。
「帰れないということですか」
川原由美が震える声で訊いた。
「現時点で完全に不可能というわけではありません。ただ、夜間は一部連絡橋を封鎖する可能性があります」
笠木が低く言った。
「この風なら、無理に動かないほうがいい」
「ボートは?」
黒崎が訊く。
谷本亮一が答えた。
「使えます。ただし潮が上がると、下ろし方が変わります。人員が要る」
「人員って」
「手順を知ってる人間です」
その言い方に、真壁は引っかかった。
手順を知っている人間。
この施設では、その人数も限られる。
説明が終わっても、誰も安心しなかった。毒物未遂。荒天。封鎖される可能性のある橋。外へ出られるかどうか分からない海上施設。
まだ閉じ込められたわけではない。
だからこそ、全員が逃げるタイミングを失いかけていた。
真壁は部屋へ戻るふりをして、一人で外に出た。
連絡橋の照明が、足元だけを白く切り取っている。海は黒く、近い。食堂棟の裏手を回り、救命ボート架台の見える場所まで行く。風が強く、上着の裾が煽られた。
さっきから、気になっていた。
到着時に見たボートの位置。鳳の言葉。避難動線から外れた安全設備。
そして、今夜の毒物未遂。
無関係だとは思えなかった。
ボート架台に近づく。金具を確認する。完全には外れていない。だが、一箇所だけ、固定具の締め込みが甘い。偶然の緩みとも言える。潮風で傷んだだけとも言える。
だが、真壁はそうは思わなかった。
誰かが触っている。
ごくわずかに。
今すぐ壊すためではない。次に触った者が、違和感なく手順を進めるための下準備。
背後で足音がした。
「やっぱり、ここか」
二階堂だった。
「何かあった?」
「固定具が緩い」
二階堂の顔から軽さが消えた。
「どの程度」
「今はまだ、事故で済む程度」
「嫌な言い方だな」
「そういう場所だ」
二階堂は架台を見た。
「食卓だけじゃないってことか」
「逃げ道にも手が入ってる」
風で、ボートを固定するロープが軋んだ。
黒い海の上で、青燐荘の灯が頼りなく揺れている。管理棟、食堂棟、宿泊棟。白く整えられた追悼施設。その裏側で、誰かがすでに命の出口に触れている。
二階堂が低く言った。
「青燐荘って、本当に追悼のための場所なのかな」
真壁は答えなかった。
固定具に残ったわずかな歪みを見ていた。
食卓では、誰が何を口にするか。
橋では、誰がどこを渡るか。
ボートでは、誰が先に乗れるか。
この場所では、あらゆるものに順番がある。
そして誰かが、その順番を変えようとしている。
真壁は海を見た。
まだ誰も死んでいない。
だが、青燐荘はもう、追悼の宿ではなくなっていた。




