第十一章 十三人目の椅子
笠木浩明の死後、青燐荘はますます静かになった。
それは、落ち着いたという意味ではなかった。
むしろ逆だ。
人は恐怖が一定の線を越えると、騒ぐことをやめる。叫ぶことにも体力がいる。怒ることにも理由がいる。責めることにも、相手が生きているという前提がいる。
谷本亮一。
吉住俊太郎。
黒崎透。
生見彩音。
白川一冴。
汐崎瑚子。
笠木浩明。
七人が死んだ。
浜島莉子は毒物を口にさせられかけた。
死者の席が増えすぎて、もう誰も数え間違えなくなっていた。
ラウンジには、海の音だけが残っている。
窓の外は黒い。夜明けにはまだ遠い。救助が来る見込みは立っているという連絡が一度入ったが、到着時刻は依然として不確定だった。海況は悪く、橋のいくつかは封鎖されたままだ。青燐荘は、外から切り離されている。
真壁彰は、眠気を感じていなかった。
疲労はある。肩も重い。潮気と冷気で身体の芯が硬くなっている。だが、眠いとは思わなかった。人が死にすぎて、神経が眠ることを忘れている。
二階堂壮也は、ラウンジのテーブルに資料を広げていた。
生見の録音、汐崎の映像、安西実結の記録、白川一冴のメモ、笠木が握っていた救助順表のコピー。二階堂はそれらを時系列に並べ直している。ペンで丸をつけ、矢印を引き、言葉の重なりを見ている。
九条雅紀は、医療スペースで短く休むよう真壁に言われていたが、結局ラウンジに戻ってきた。吸入は済ませている。顔色はいつも通り白いが、呼吸は安定している。本人は「問題ない」と言った。それがどの程度信用できるかは別として。
鳳恭介は、追悼スペースの床を見ていた。
先ほどから、彼はラウンジの一角にある展示スペースの前で膝をついている。そこには、十二脚の椅子が置かれていた。
追悼会のための椅子だ。
十八年前の事故で死んだとされる十二名のために、毎年、花とともに置かれる。椅子の背には、小さな白いリボンが結ばれている。名前は置かれていない。ただ、十二脚であることが、死者の数を示している。
美しい配置だった。
だからこそ、真壁は嫌だった。
美しく並べられた椅子は、並べた者の意図を隠す。人は整ったものを見ると、そこに欠けがないと思いやすい。
鳳が床を指でなぞった。
「やはりあります」
真壁は近づいた。
「何が」
「固定跡です」
椅子の足元、床のわずかな傷。現在の十二脚の椅子とは一致しない位置に、小さな丸い跡があった。真壁にはただの傷に見えたが、鳳には違うらしい。
「この椅子、以前は床に軽く固定されていたのでしょう。追悼式でずれないように。現在の十二脚分の跡とは別に、もう一脚分の固定跡があります」
二階堂が顔を上げた。
「十三脚目?」
「はい」
鳳は静かに言った。
「ここには、かつて十三脚目の椅子がありました」
ラウンジの空気が変わった。
真壁は床を見た。
資料室の十三列目。
展示パネルの十三枚目らしき跡。
救助対象者確認表の十三番。
無線の十三番。
そして今、追悼スペースの十三脚目。
青燐荘は、最初から十三を知っていた。
知っていて、十二へ整えた。
二階堂が低く言った。
「椅子まで消したのか」
鳳は床を見たまま答えた。
「椅子を消しても、床は覚えています」
その言葉に、今西琴葉が反応した。
彼女はラウンジの中央に立っていた。運営責任者としての姿勢は保っている。だが、顔から血の気が引いている。笠木の死後、彼女は急に歳を取ったように見えた。
「その跡は……」
声がかすれていた。
「ご存じなんですか」
鳳が顔を上げる。
今西は答えなかった。
代わりに、二階堂が言った。
「今西さん。そろそろ、知らなかったでは済まないところまで来ています」
今西は唇を結ぶ。
浜島莉子が椅子を見ていた。
彼女の兄は、公式には十二人の死者の一人として数えられている。椅子のどこかに、彼の不在が置かれている。だが、その隣に置かれるはずだったもう一脚が、消されていた。
「十三脚目は、誰の椅子ですか」
浜島が問う。
今西は目を閉じた。
長い沈黙だった。
その間、安西実結のペンが紙を滑る音だけが聞こえた。記録係として、彼女は今西の沈黙まで記録しているのかもしれない。
やがて、今西は言った。
「父の遺品の中に、椅子に関するメモがありました」
声は小さかった。
しかし、全員に届いた。
「十三脚目を撤去する、と。理由は書かれていません。ただ、横に“正式死者数と整合しない”という言葉がありました」
二階堂の表情が消える。
「正式死者数と整合しない」
「はい」
「つまり、椅子はあった。安西瑠衣さんのためかどうかは分からない。でも、十三脚目があると、死者十二名という公式記録と合わなくなる。だから撤去した」
今西は頷いた。
「おそらく」
「それを知っていて、公表しなかった」
今西は、今度はすぐには頷かなかった。
だが、否定もしなかった。
「……証拠が不十分でした」
二階堂が静かに笑った。
「便利ですね」
今西の肩が震える。
「本当に、不十分だったんです。父のメモは断片的で、誰が十三人目だったのか、事故当夜に本当に亡くなったのか、分からなかった。公表すれば、遺族説明も、施設の存続も、すべて混乱すると思いました」
「また混乱ですか」
浜島莉子が言った。
その声には、もう怒りすら疲れていた。
「私たちは、十八年間、混乱しないように嘘を聞かされていたんですか」
「嘘をつくつもりは」
「つもりなんてどうでもいいです」
浜島は、十二脚の椅子を見た。
「椅子が一つ消えていた。名前が一つ消えていた。ボートが一隻足りなかった。救助順が変わった。兄は死んだ。全部、結果です」
今西は言葉を失った。
江口桜次郎が、生徒たちの部屋の前から静かに言った。
「今言わない理由を並べてる時って、たいてい、もう言わなきゃいけない時なんですよね」
今西が江口を見る。
「間違えたことより、隠したことのほうが面倒になる。だから先に言いなさいって。生徒には言ってます」
二階堂が江口を見た。
江口は目を逸らす。
「何だよ」
「いや。教師してるなと思って」
「やめろ。肩の上の圧が増える」
「もう増えてるだろ」
「最悪だ」
その軽いやり取りで、今西の顔が少し歪んだ。
笑ったわけではない。
泣きそうになったのを堪えた顔だった。
「私は、青燐荘を守りたかったんだと思います」
今西は言った。
「事故を忘れない場所として、ここを残すことに意味があると信じていました。父のしたことを全部肯定していたわけではありません。でも、施設を閉じれば、事故そのものが忘れられると思った。だから、不確かなことを掘り返すより、今ある追悼を守るべきだと」
二階堂が言う。
「追悼は、名前を選んでいい理由にはなりません」
「はい」
今西は、初めてまっすぐ頷いた。
「今なら、そう思います」
その時、館内放送が鳴った。
ざらついたノイズ。
誰もが、身体を強張らせた。
笠木の時と同じだ。
古い機械を通したような、低い声。
「十三番目の椅子に、座る者を決めてください」
ラウンジの空気が凍った。
次の瞬間、照明が落ちた。
完全な停電ではない。非常灯に切り替わる。緑がかった薄い光が、十二脚の椅子を照らした。床の十三脚目の固定跡だけが、影の中に沈んでいる。
誰かが息を呑む。
職員が叫ぶ。
「今西さん?」
真壁は振り返った。
今西琴葉がいない。
さっきまで、椅子の前にいたはずだった。
停電の一瞬で消えた。
「今西さん!」
真壁が叫ぶ。
返事はない。
同時に、管理棟の奥から警報が鳴った。
低い断続音。
今までの設備警報とは違う。
鳳が施設図を掴んだ。
「水密区画です」
「どこだ」
「管理棟下部。高潮時に閉じる区画です。非常用水密扉が作動しています」
二階堂が叫ぶ。
「全員動くな!」
しかし、もう遅かった。
ラウンジにいた数人が立ち上がっている。浜島莉子は今西を探すように周囲を見る。高柳真治は顔色を失い、安西実結は記録用紙を押さえたまま硬直している。
江口は生徒の部屋の扉を背にして立った。
「誰もこっちへ来ないでください。子どもを動かさない」
その声は、低くよく通った。
真壁は短く指示を飛ばす。
「二階堂、ラウンジを制御。江口は生徒。九条、救出後の準備。鳳さん、案内。俺が行く」
「私も」
鳳が言う。
「水密扉の構造を見ます」
「来い」
その時、別の職員が駆け込んできた。
「宿泊棟側で、生徒さんが一人いないと」
江口の顔が変わった。
「誰」
「遠里くんが、部屋に」
「います」
江口が即答した。
「さっき確認しました」
「でも職員用端末に、宿泊棟通路のセンサー反応が」
「俺が確認する」
江口が一歩前へ出た。
二階堂が、その腕を掴んだ。
「桜次郎、待て」
「生徒かもしれない」
「それを狙ってる」
「分かってる!」
江口の声が、ラウンジの壁に叩きつけられた。
その場にいた全員が、息を止めた。
真壁は、江口桜次郎という男が声を荒げるところを、ほとんど見たことがなかった。皮肉は言う。悪態もつく。教師らしくない顔で笑い、ろくでもない冗談を口にする。だが、本当に怒った時ほど、この男は言葉を選ぶ。
その江口が、今は選べていなかった。
いや、選ぶ気がなかった。
江口は二階堂の手を振りほどこうとした。
「子どもが絡むなら確認する。分かってるとか、狙いだとか、そんな話はあとだ」
「落ち着け」
「落ち着いてる」
「落ち着いてない」
二階堂の声は低かった。
江口は、二階堂を見た。
その目を見て、真壁はまずいと思った。
怒鳴り散らす人間の目ではない。泣きそうな人間の目でもない。そこにあるのは、もっと単純なものだった。
壊す前の目だ。
江口は、ゆっくりとラウンジを見回した。
浜島莉子。高柳真治。安西実結。職員たち。今西琴葉が消えた空白。十二脚の椅子。十三脚目の跡。生徒たちの部屋へ続く扉。
その全部を、一度に見た。
「おい、誰だ」
低い声だった。
「誰が今、子どもの名前を出した」
誰も答えなかった。
江口は一歩、前へ出た。
二階堂が肩を押さえる。
「桜次郎」
真壁も横から入った。
「江口、やめろ」
「やめろ?」
江口は真壁を見た。
笑っていなかった。
「真壁さん。俺はまだ何もしてませんよ」
だからまずいのだ、と真壁は思った。
まだ何もしていない人間の声ではなかった。
江口は、もう一度ラウンジを見回した。誰かを探している。犯人を探している。見つけた瞬間、その胸倉を掴みに行くつもりだと分かった。
生徒を動かすためではない。
犯人を殴るため。自分を壊すためだ。
二階堂が江口の前に立った。
「手は出すな」
「どけ」
「どかない」
「二階堂」
「どかないって言ってる」
二階堂の声にも、わずかに怒りが混じった。
真壁は江口の反対側に立つ。二人で挟む形になった。
江口の肩が、小さく上下した。
怒りを飲み込んでいる。
飲み込めていない。
その境目で、彼はようやく口を開いた。
「ゲスが」
低い声だった。
だが、真壁はその声の方が怒鳴り声よりまずいと思った。
「脅すなら、俺を使え」
声が、さらに沈んだ。
「子どもを餌にするな」
誰かが息を呑んだ。
「桜次郎」
二階堂がもう一度、名を呼ぶ。
江口は答えなかった。
生徒たちの部屋へ続く扉を見た。
「確認させろ」
「一人で行くな」
「どけ」
「駄目だ」
「どけ、二階堂」
江口の声が、今度は震えていた。
恐怖ではない。
怒りで震えていた。
「今、ここで確認しなかったら、俺は一生、自分を許せない」
二階堂は一瞬、言葉を失った。
真壁は短く判断した。
「二階堂、江口と一緒に確認しろ。生徒が全員いるなら戻れ。いなければ、無理に追うな。俺たちは今西さんへ行く」
二階堂は江口から目を離さずに頷いた。
「了解」
「俺一人でいい」
「駄目だ」
二階堂が即答した。
「お前、今、犯人を見つけたら何するかわからない」
「殴らない」
「嘘つけ」
「……蹴るかもしれない」
「なお悪い」
いつもの軽口の形だった。
だが、江口の声には余裕がなかった。
彼は二階堂の制止を半ば振り切るようにして、生徒たちの部屋へ向かった。二階堂がすぐ後を追う。
真壁と鳳は、水密区画へ向かった。
九条も医療バッグを持って続く。
管理棟の下部へ向かう階段は狭かった。非常灯だけが点いている。壁には結露があり、空気が冷たい。下へ降りるほど、海の音が近くなる。青燐荘が海上施設であることを、身体で思い出させる場所だった。
鳳が走りながら説明する。
「水密区画は、高潮や浸水時に閉鎖されます。本来は自動制御ですが、手動閉鎖も可能です」
「閉じ込められるか」
「可能です。内部から開ける手段はありますが、停電時や制御異常時には重くなる。潮位が上がると、外圧でさらに開きにくい」
「浸水は」
「警報が本物なら、始まっているかもしれません」
階段を降りきると、低い廊下へ出た。
赤い警告灯が点滅している。
水密扉が閉じていた。
厚い金属扉。
小さな丸窓。
その向こうに、今西琴葉の姿が見えた。
彼女は扉の内側に立ち、こちらを見ていた。顔は青ざめている。足元には、すでに水が広がっていた。海水か、配管からの逆流か。いずれにせよ、くるぶし近くまで達している。
「今西さん!」
真壁が扉を叩く。
今西が何かを叫ぶ。
声はほとんど聞こえない。
水密扉は、声も遮る。
九条が丸窓から中を見る。
「意識はある。低体温とパニックに注意」
鳳は制御盤へ取りついた。
「外側操作が効きません」
「壊されてるのか」
「制御線が切られています。いや、切られているというより、手動系に切り替えられている」
「開けられるか」
「手動解放弁があります。別系統です。ただし、通路の反対側」
「行けるか」
「行きます」
鳳が走ろうとした瞬間、館内放送が再び鳴った。
「救助順を決めてください」
真壁は足を止めた。
「水密区画、宿泊棟、救命ボート。最初に助けるのは誰ですか」
九条が低く言った。
「選ばせる気だな」
そうだった。
今西を閉じ込める。
同時に、宿泊棟の生徒に関する偽警報を出す。
さらに、ボートや脱出経路の不安を煽る。
犯人は、残された人間に救助順を決めさせようとしている。
十八年前と同じように。
誰を先にするか。
誰を後にするか。
真壁の中で、怒りが冷たく固まった。
「順番は後で決める」
彼は言った。
「今、近い方から助ける」
九条が頷く。
「今西さんはここにいる。生徒は江口先生と二階堂が確認している」
「鳳さん、解放弁へ」
「はい」
鳳が走る。
真壁は扉の内側の今西へ向かって、手で合図した。落ち着け。壁際へ寄れ。水から足を上げられる場所を探せ。
今西は震えながら頷く。
水は少しずつ増えている。
九条が声を張った。
「今西さん! 聞こえますか! 呼吸をゆっくり! 壁に背中をつけて!」
ほとんど聞こえないはずだ。
それでも、九条は声を出した。
届かないかもしれない声でも、出す。
生見彩音の死が、そこに重なった。
真壁は扉の継ぎ目を見た。
外からこじ開けるのは難しい。道具が足りない。だが、鳳が手動解放に成功すれば開く。
その時、無線が入った。
二階堂の声。
「真壁、こっちは確認した。生徒は全員いる。センサー反応は偽だ。江口が全員確認済み」
真壁は短く答える。
「了解。戻れ。ラウンジをまとめろ」
「了解。……桜次郎がキレてる」
「抑えろ」
「抑えてこれだ」
通信の向こうで、江口の低い声がかすかに混じった。
『全員いるな。もう一回数える。名前を呼ばれたら返事。いいな』
二階堂が小さく息を吐く。
「今、生徒を三回数えてる」
「いい。数えさせろ」
「犯人を見つけたら、本当に殴りかねないぞ」
「お前が止めろ」
「やってる」
通信が切れる。
真壁は少しだけ息を吐いた。
子どもは無事。
なら、目の前の今西だ。
鳳の声が響く。
「解放します!」
重い金属音。
水密扉の内部で、ロックが外れる音がした。
だが、扉は開かない。
「外圧です!」
鳳が叫ぶ。
「水の圧で重い!」
「押すぞ」
真壁は扉に肩を当てた。
九条も手をかける。細身だが、押す位置が的確だった。鳳も戻ってくる。三人で押す。
金属が軋む。
少しだけ隙間ができる。
そこから冷たい水が流れ出た。
「もう一度!」
真壁が叫ぶ。
押す。
扉が開く。
中から今西琴葉が倒れ込むように出てきた。
真壁が受け止める。
身体が冷たい。
今西は激しく震えている。唇が青い。だが、意識はある。
「九条!」
「ここに寝かせて」
九条がすぐに処置を始める。
濡れた靴を脱がせ、毛布を指示し、呼吸と脈を確認する。鳳が水密区画の内部を確認し、これ以上の浸水がないか見ている。
今西は震えながら、真壁の袖を掴んだ。
「私……」
「喋るな」
「父が」
「あとで聞く」
「父は、十三脚目を……」
「あとでいい」
真壁は短く言った。
「今は生きてろ」
今西は目を閉じた。
涙か水か分からないものが、頬を伝った。
ラウンジへ戻ると、江口桜次郎が本当に怒っていた。
怒鳴ってはいない。
だが、空気が低い。
生徒たちは全員無事だった。遠里陽も白川真昼も、他の生徒も、江口が自分の目で確認していた。名前を呼び、返事をさせ、顔を見て、もう一度数えたらしい。
偽のセンサー反応と職員風の誘導によって、江口を動かすことが狙いだった。
江口は、二階堂の隣で腕を組んで立っていた。
「子どもを二回使いましたね」
誰に向けているのか分からない。
だが、その声を聞いた全員が、少し身をすくめた。
「一回目は名札。二回目は偽警報。なるほど。大人を動かすには、子どもを使うのが早い。よく分かってますね」
彼は笑った。
笑ったが、目が冷たかった。
「僕は、そういう頭のよさが一番嫌いです」
二階堂が小声で言う。
「手は出すなよ」
「出さない」
「本当か」
「今は」
「今は、をつけるな」
「だったら犯人を早く捕まえろ。俺が教師でいるうちに」
二階堂は黙った。
真壁も、何も言わなかった。
それは冗談ではなかった。
今西琴葉は、毛布に包まれて医療スペースのベッドへ運ばれた。九条が体温と呼吸を見ている。命に別状はなさそうだが、低体温とショックがある。
今西が助かったことで、犯人の計画は一度失敗した。
それが、ラウンジの空気を少しだけ変えた。
全員が、初めて「順番を変えられた」と感じたのかもしれない。
十八年前とは違う。
今西は後回しにされなかった。
生徒たちも無事だった。
真壁たちは、選ばされる前に動いた。
その小さな勝利の直後、高柳真治が立ち上がった。
顔は青白い。
だが、目は決まっていた。
「僕です」
誰もすぐには反応しなかった。
高柳はもう一度言った。
「僕が犯人です」
ラウンジが静まり返る。
二階堂の眉が動く。
真壁は高柳を見た。
「何を言っている」
「全部、僕が仕組みました」
高柳の声は震えている。
だが、止まらない。
「席順も、展示順も、通信控えも、ボートも、十三番の演出も、全部です。谷本さんも、吉住さんも、黒崎さんも、生見さんも、白川さんも、汐崎さんも、笠木さんも、今西さんのことも」
「嘘だな」
真壁は即座に言った。
高柳の口が止まる。
「嘘じゃありません」
「嘘だ」
「僕がやりました」
「あなたは、谷本さんを殺していない」
真壁は一歩前へ出た。
「吉住も、黒崎も、白川も、汐崎も、笠木も、今西の件も。全部は無理だ」
「できます」
「できない」
「僕は、父の名誉を」
「あなたの目的は告発だ」
高柳の顔が歪んだ。
真壁は続ける。
「あなたは父親が救助順変更の責任を押しつけられたと考えた。だから、追悼会で十八年前の構造を見せようとした。席順を救助予定順に近づけ、ボートの固定具に手を入れ、通信控えを出し、事故報告書の言葉を揺さぶった」
高柳は黙る。
「だが殺人は違う。あなたの計画なら、吉住は生かして証言させる必要がある。今西も生かして父のメモを出させる必要がある。生見や白川の持っていた資料も、生きて語らせた方がいい」
「でも」
「あなたは、人を集めた。順番を置いた。逃げ道を揺らした。それは責任だ。だが、殺してはいない」
二階堂が静かに言った。
「高柳さん。あなたは犯人になろうとしている」
高柳の肩が震える。
「これ以上、死なせたくないんです」
その声は、ようやく本音だった。
「僕が始めたから。父の名誉を戻したかった。救助順が変えられたことを、みんなに見せたかった。怖がらせるつもりはありました。でも、殺すつもりはなかった。本当に」
彼は両手で顔を覆った。
「でも、僕の仕掛けが使われた。僕がボートに触ったから、谷本さんが死んだのかもしれない。僕が通信控えを出したから、吉住さんが死んだのかもしれない。僕が十三人目の可能性を追ったから、みんな」
「違う」
真壁は低く言った。
「責任はある。だが、殺人を背負って事件を終わらせようとするな」
高柳は顔を上げる。
目に涙が浮かんでいた。
「でも、僕が犯人だと言えば、もう止まるかもしれない」
「止まらない」
「なぜ」
「犯人は、まだ最後の名前を書き終えていない」
その言葉に、ラウンジ全体が冷えた。
真壁は安西実結を見た。
彼女は、記録用紙の上にペンを置いている。
その紙の端が見えた。
そこには、事件の時系列が並んでいる。
そして下の方に、まだ空白の欄があった。
十二。
十三。
安西は、真壁の視線に気づき、静かに紙を閉じた。
二階堂も見ていた。
彼は穏やかに言った。
「安西さん」
「はい」
「今、何を書いていました?」
「記録です」
「見せてください」
安西は、少しだけ間を置いた。
それから、紙を差し出した。
真壁は受け取る。
事件の一覧。
谷本、吉住、黒崎、生見、白川、汐崎、笠木、今西未遂。
その下に、高柳真治。
さらに下に、空欄。
番号だけがある。
十三。
名前はまだ書かれていない。
だが、薄く消した跡があった。
紙の繊維に残った筆圧。
真壁には読めなかった。
二階堂が横から見て、目を細める。
「……安西瑠衣」
安西実結の表情は変わらなかった。
だが、ラウンジの空気が止まった。
真壁は、安西を見た。
初めて、彼女の静けさがはっきりと形を持った気がした。
「安西さん」
真壁は言った。
「あなたは、十三番目に誰の名前を書くつもりだった」
安西は答えない。
その沈黙は、これまでの沈黙と違った。
記録係の沈黙ではない。
誰かが名前を呼ぶのを、十八年待っていた人間の沈黙だった。
高柳真治が震える声で言う。
「僕じゃ……ない」
真壁は頷いた。
「分かってる」
ラウンジの外では、海が荒れている。
だが、真壁にはもう、海の音は遠かった。
事件は終わっていない。
ただ、ようやく犯人のいる場所へ近づいた。
高柳の告発計画に、誰かが殺人を重ねた。
その誰かは、順番を支配し、記録を選び、死者に役を与え続けている。
そして最後に、十八年間どの名簿にも入れられなかった名前を、十三番目に置こうとしている。
真壁は、閉じられた記録用紙を見た。
次で終わらせる。
そう思った。
誰かを後回しにする順番ではなく、誰も消させないための順番で。




