第十二章 青燐荘の十三人目
夜明け前の海は、黒ではなかった。
窓の外に広がる水面は、まだ暗い。けれど、よく見ると、深い藍色の奥に薄い灰が混ざり始めている。波は相変わらず荒れていた。橋脚にぶつかるたび、白い飛沫が上がり、青燐荘の灯りを受けて一瞬だけ光る。
その光は、すぐ消えた。
何かがそこにあったと知らせるには短すぎて、何もなかったと言い切るには眩しすぎる。
真壁彰は、ラウンジの中央に立っていた。
足元には、十二脚の椅子が並んでいる。
十八年前の事故で亡くなったとされる十二人のための椅子。毎年の追悼会で、花と黙祷を受けてきた椅子。丁寧に磨かれ、白いリボンを結ばれ、悲しみを乱さないように整えられてきた椅子。
その床には、十三脚目の跡があった。
椅子はない。
リボンもない。
名前もない。
けれど、跡だけが残っている。
青燐荘という建物は、隠したものを完全には忘れてくれなかった。
ラウンジには、生き残った者たちが集められていた。
浜島莉子は、椅子に座っている。毒物未遂の影響と長い緊張で顔色は悪い。だが、目は開いていた。
高柳真治は、両手を膝の上に置き、うつむいている。自分が犯人だと名乗り出た直後の震えはまだ残っていた。
今西琴葉は毛布に包まれ、九条雅紀の処置を受けたあと、壁際の椅子に座っていた。低体温からは回復しつつあるが、顔には深い疲労がある。父の遺したものと、現在の青燐荘の責任が、同時に彼女の肩へ落ちている。
安西実結は、記録係の席に座っていた。
背筋は伸びている。
ペンは握っていない。
それが、これまででいちばん異様だった。
江口桜次郎は、生徒たちのいる部屋の扉の前に立っている。目の下のクマは濃く、顔色も悪い。だが、生徒たちがそこにいる限り、彼は倒れないだろう。そういう男だった。
二階堂壮也は、真壁の斜め後ろに立っている。表情は整っている。だが、目は冷たい。彼はこれから出てくる言葉を、一つも逃さないつもりでいる。
九条雅紀は、窓際近くにいた。静かに立ち、全員の呼吸を見ている。死体を読んできた男が、今は生きている人間の崩れ方を見ている。
鳳恭介は、追悼椅子の床跡のそばに立っていた。建物に残った傷を、最後まで見届ける者の顔だった。
真壁は、全員を見た。
「この事件は、高柳真治の事件として始まった」
高柳が顔を上げる。
真壁は続けた。
「高柳さんは、十八年前の事故で父親が救助順変更の責任を押しつけられたと考えた。だから青燐荘の追悼会に、告発の仕掛けを入れた」
高柳は何も言わない。
「席順を事故当時の救助予定順に近づけた。展示の順番を一部入れ替えた。父の遺品である通信控えを持ち込んだ。救命ボートの固定具にも手を入れた」
浜島莉子が高柳を見る。
高柳は、深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
声は小さかった。
だが、逃げてはいなかった。
真壁は言う。
「高柳さんのしたことは、許されない。結果として人を危険に晒した。だが、高柳さんの目的は殺人じゃない。告発だった」
二階堂が静かに補う。
「彼は、誰かを黙らせたかったのではありません。話させたかったんです。吉住さんに、今西さんに、笠木さんに、十八年前の順番を語らせたかった」
真壁は頷いた。
「だから、高柳さんは犯人ではない」
高柳が唇を噛む。
「でも、僕が始めたから」
「責任は取れ」
真壁は短く言った。
「だが、殺していない罪まで背負うな。それは、本当の犯人を逃がすことになる」
高柳は、もう何も言えなかった。
真壁は、安西実結を見た。
「高柳さんの告発計画に、別の人物が殺人を重ねた」
安西は、静かに真壁を見返していた。
顔色は変わらない。
だが、その目は、もう記録係の目ではなかった。
真壁は一つずつ、言葉を置いた。
「犯人は、青燐荘を知っていた。施設の裏側を知っていた。人の動きも知っていた。誰がどこへ行き、何を見つけ、何を隠すかを見ていた」
二階堂が言う。
「そして、記録していた」
安西の指が、かすかに動いた。
真壁は、最初の事件から話し始めた。
一 浜島莉子毒物未遂
「最初は、浜島莉子さんの毒物未遂だ」
浜島は目を伏せた。
「あれは、殺害目的だけの事件じゃない。むしろ、最初から死なせるつもりは薄かった可能性が高い」
「私を、殺すつもりじゃなかった?」
浜島の声がかすれる。
九条が答えた。
「量が少なかった。飲み込む前に異常を感じる種類の混入だった。もちろん、危険はあった。でも確実に殺すなら、あの方法は不十分だ」
真壁は続ける。
「目的は三つ。追悼膳を汚すこと。食べる順番への恐怖を作ること。そして九条を疑わせること」
九条は表情を変えなかった。
二階堂が言った。
「九条は早く気づきすぎた。だから、一部の人間は“知っていたのではないか”と疑った。犯人は、それを狙った」
真壁はテーブルに置いた追悼膳の写真を示す。
「追悼膳は、十八年前の救助順を重ねるための舞台だった。最初に喉を塞がれる者。第一救助者だった浜島さんの兄を想起させる見立てでもある」
浜島は、拳を握った。
「兄を……そんなふうに」
真壁は言った。
「犯人は、死者を役に変えている」
九条が短く付け加える。
「死者は役じゃない」
その一言で、空気が少しだけ震えた。
二 谷本亮一
「次に谷本亮一」
設備責任者。
毎朝、同じ点検ルートを回っていた男。
「谷本さんは、突き落とされたわけじゃない。犯人は、谷本が自分の仕事として行う動作を利用した」
真壁は、作業甲板の写真を示した。
「片側に重りを寄せた工具ケース。海側へわずかに傾いた作業甲板。床の油膜。風。潮位。谷本はいつものように身を乗り出した。その瞬間、ケースの重心と足元の滑りで体勢を崩し、柵へ当たって斜めに落ちた」
鳳が補足する。
「作業甲板は、排水のために海側へ傾いていました。通常なら問題にならない小さな傾きです。しかし、重心の偏った工具ケースと油膜が加われば、人を落とすには十分です」
「見立ては、橋を渡れなかった者」
二階堂が言う。
「十八年前、救助経路を失った人間たちへの見立てです」
真壁は頷いた。
「谷本さんは、青燐荘の設備を知っていた。以後の仕掛けを見破る可能性があった。だから最初に殺された」
三 吉住俊太郎
「吉住俊太郎は、資料室で死んだ」
報告書作成に関わった男。
言葉で責任を整理し、消した男。
「犯人は、吉住さんが見ずにはいられない資料を、移動棚の奥へ置いた。救助順変更という言葉を、避難誘導の調整へ書き換えた草稿だ」
二階堂の声が低くなる。
「未救助者を確認遅延者に。定員不足を一時的な収容困難に。人が後回しにされた事実を、状況の表現に変えていた」
真壁は資料室の見取り図を示す。
「停電で電動棚が停止する。吉住さんは手動レバーで奥の棚を開ける。そこで資料を取る。非常用電源が復旧し、棚が自動復帰する。古いセンサーは人を検知して止まるのではなく、抵抗がかかってから止まる。床の傾きも加わり、吉住さんは棚に挟まれた」
鳳が言う。
「事故に見える構造です。けれど、ファイルの埃の付き方、棚の復旧タイミング、停電の起き方。すべてが人為的でした」
真壁は言った。
「見立ては、報告書に潰された男」
二階堂は、吉住の赤字修正のコピーを見つめていた。
「言葉で消したものに、殺された」
四 黒崎透
「黒崎透は、救命ボート架台で死んだ」
真壁は、ボート架台の図を置いた。
「黒崎さんは、開発会社の担当者だった。安全より景観を優先した再整備の側にいた。ボート架台が避難動線から外れた場所にあるのも、施設の見え方を優先した結果だ」
鳳が言う。
「犯人は、架台の安全ピンを半抜き状態にした。完全には外さない。黒崎さんが点検のために海側に立ち、固定レバーを引いた瞬間、架台のアームが跳ねて膝下を払った。黒崎さんは、手すりの切れ目から海へ落ちた」
九条が続ける。
「右膝下の打撲と、レバーを握った手の痕跡が一致していた」
真壁は言った。
「黒崎さんはボートに近づきながら、ボートに乗れずに死んだ」
二階堂が低く言う。
「景観のためのボートに、押し出された」
五 生見彩音
「生見彩音の死だけは、少し違う」
その言葉に、空気が変わった。
笠木浩明はもういない。
だが、彼の不在が部屋に残っている。
「生見さんは、無線室で死んだ。声の届かない部屋で、助けを呼ぼうとした。マイクはミュートになっていた。排気が短時間逆流し、酸欠と排気吸入で死んだ」
鳳が言う。
「発電機室の排気ダクトと無線室の換気系統は、改修を重ねたせいで近接していました。切替弁を操作すれば、一時的に逆流させることができる」
真壁は、笠木の名を出した。
「この事件を起こしたのは、笠木浩明だ」
浜島莉子が息を呑む。
「笠木さんが……」
「生見さんは、笠木さんが十八年前の無線不達について何かを知っていたことへ近づいた。録音にも残っている。『あなたは、無線が届かなかったんじゃなく、届かない場所を知っていたんですね』」
二階堂が言う。
「笠木さんは、安西さんの連続殺人に便乗した。見立てに紛れれば、自分の犯行も同じ犯人のものに見える」
九条が静かに補足する。
「生見さんの死は、他と温度が違った。急いでいた。秘密を塞ぐ殺し方だった」
真壁は頷く。
「笠木さんは、生見さんを殺した。だが、真犯人はそれを許さなかった」
六 白川一冴
「白川一冴は、低温保管庫で死んだ」
白川の残したメモが置かれる。
十三人目は、死者じゃない。
真壁は言った。
「この言葉は、“安西瑠衣が生きている”という意味じゃない。公式記録上、死者として扱われていないという意味だ」
浜島莉子が目を閉じた。
今西琴葉が震えた。
真壁は続ける。
「白川さんは、父の資料からそれに気づいた。安西瑠衣は死んだ。だが、正式な死者名簿には入れられなかった。だから“死者ではない”。死んでいないのではなく、死んだことを認められていない」
九条が白川の死因について話す。
「白川さんは、薬で動けない状態にされた可能性が高い。そのうえで低温保管庫へ入れられた。低温によって死亡時刻を曖昧にし、霜取り運転と氷の固定具で、扉が内側から閉じたように見せかけた」
鳳が補足する。
「ロック部の凍結、温度ログの急変、霜取りの痕跡から、外側からの固定が考えられます」
真壁は言った。
「見立ては、名前を入れ替えられた死体。白川さんは、安西瑠衣の扱いに近づいたから殺された」
七 汐崎瑚子
「汐崎瑚子は、配信しようとして殺された」
二階堂の顔が、わずかに強張る。
真壁は言った。
「映像には、二階堂に似た影が映っていた。だが、あれはガラス反射を使った錯覚だ」
二階堂が説明を引き継ぐ。
「食堂棟のガラスは、夜間には鏡になります。映像の時計は左右反転していた。非常灯の位置も逆だった。つまり、映っていたのは直接の現場ではなく、配膳通路の反射です。金髪に見えたものは非常用反射シート。紫に見えた光は非常灯の反射」
九条が言う。
「刺創の方向も、映像の影とは合わない」
真壁は頷いた。
「汐崎さんは、事件の順番を外へ流そうとした。犯人はそれを止めたかった。ただ止めるだけではなく、彼女自身を見世物にした」
二階堂が低く言った。
「犯人は、知られることを恐れたのではありません。知られる順番を奪われることを恐れた」
安西実結は、黙っていた。
八 笠木浩明
「笠木さんは、生見さんを殺した便乗犯だった」
真壁は、笠木が握っていた救助順表を置いた。
十三 対象外。
助ける側も、選んだ。
「真犯人は笠木さんの便乗を見抜いた。そして、救助訓練区画へ誘導した」
鳳がハーネスの図を示す。
「救助用ハーネスは、本来なら人を支える装置です。しかしロープの通し方を一箇所だけ変え、支点をずらすことで、荷重が首へかかるようにできる。知識のある人間ほど、自分の手順を信じて装着してしまう」
真壁は言う。
「笠木さんは、助ける側だった者として、救助装置で殺された」
浜島莉子は泣いていなかった。
ただ、深く目を閉じた。
彼女にとって笠木は、兄を助けられなかった側の人間だった。だが、笠木にも助けた人間がいたはずだ。そのことが、余計に残酷だった。
九 今西琴葉未遂
「そして今西さん」
今西琴葉は、毛布の中で小さく頷いた。
「犯人は、あなたを水密区画へ閉じ込めた。目的は殺害だけじゃない。残された人間に、また救助順を決めさせるためだった」
真壁は言った。
「水密区画、宿泊棟、生徒、ボート。複数の危険を同時に提示し、誰を先に助けるかを選ばせようとした」
江口の目が低くなる。
「子どもを使って」
「そうだ」
真壁は頷いた。
「だが、今回は違った。江口先生と二階堂が生徒を確認した。鳳さんが水密扉の構造を読んだ。九条が救出後の処置をした。俺たちは今西さんを助けた」
二階堂が言う。
「十八年前と違い、誰かを後回しにする順番には乗らなかった」
その言葉で、ラウンジの空気がわずかに揺れた。
勝利と呼ぶには、失われたものが多すぎる。
それでも、今西は生きている。
子どもたちも生きている。
その事実だけは、犯人の順番を一度壊した。
真犯人
真壁は、安西実結を見た。
「ここまでの事件を重ねた人物は、安西さん。あなたです」
ラウンジは静まり返った。
安西は、否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ、真壁を見ていた。
真壁は、証拠を並べる。
「一つ目。あなたの記録用紙には、事件前から十三番目の欄があった」
二階堂が記録用紙を開く。
「消した跡には、安西瑠衣の名前が残っていました」
「二つ目。あなたは、名札が出る前から安西瑠衣の名前を知っていた。資料室、展示室、追悼椅子。十三の痕跡が出るたび、あなたは反応した」
安西は黙っている。
「三つ目。汐崎さんの配信前動画。彼女は誰かに言った。“あなた、十三人目の関係者なんですね”。映像には記録係の腕章が映っていた。予備の腕章で偽装できるとはいえ、汐崎さんがその言葉を向けた相手は、青燐荘の記録を握る人物だった」
二階堂が続ける。
「四つ目。あなたは記録しているようで、記録しないものを選んでいた。谷本さんの無線応答記録は残した。吉住さんが資料室へ行った時刻も残した。汐崎さんが席を立った時刻も残した。でも、自分が持っていた救助対象者確認表や、落とした紙、名札が置かれた前後の動きは記録していない」
真壁は言った。
「そして最後。あなたの母の旧姓は、安西瑠衣」
今西が息を呑む。
浜島莉子が顔を上げる。
高柳真治が震える。
安西実結は、ようやく目を伏せた。
静かな動きだった。
否定する動きではなかった。
「……母ではありません」
彼女は初めて、少しだけ声を崩した。
真壁は眉を寄せる。
安西は続けた。
「戸籍上は、叔母です」
二階堂の目が動く。
「叔母?」
「母の姉でした。けれど、私を育てたのは母ではなく、祖母です。母はずっと、姉の話をしませんでした。祖母も。家には、安西瑠衣という名前だけが、言ってはいけないものみたいに残っていた」
安西の声は静かだった。
だが、その静けさは、これまでの記録係のものとは違っていた。
沈めていたものが、ようやく水面へ上がってくる声だった。
「私は子どもの頃、祖母の箪笥の奥で名札を見つけました。安西瑠衣。知らない名前なのに、私と同じ名字だった。聞いても、誰も答えませんでした。ただ、祖母は泣いた」
彼女は名札を見る。
小さな金属片。
「大人になって調べました。青燐荘。十八年前の事故。死者十二名。どこにも、安西瑠衣はいませんでした。けれど、家には名札があった。古い写真もあった。祖母の手紙もあった」
安西はゆっくり息を吸った。
「瑠衣は、そこにいたんです」
誰も口を挟まなかった。
「臨時職員でした。正式な雇用ではない。食堂棟の手伝い。事故当夜、帰れなくなって残っていた。救助対象だった。けれど、名簿には入れられなかった」
浜島莉子が震える声で言った。
「なぜ」
「数が合わなくなるからです」
安西は、はっきり言った。
「十二人なら、救助手段は足りていたことにできる。十三人なら、誰かを後回しにしたことが分かる。だから瑠衣は、対象外にされた」
対象外。
その言葉が、ラウンジの中で冷たく響いた。
「死んだのに、死者になれなかった」
安西の声が、ほんの少し震えた。
「追悼式が開かれるたび、十二人の名前が読まれた。花が置かれた。椅子が並んだ。でも、瑠衣の椅子はなかった。名前もなかった。死んだことさえ、許されなかった」
今西が、かすれた声で言う。
「安西さん……」
安西は今西を見た。
その目には、激しい怒りはなかった。
怒りは、もう何年も前に燃え尽きて、硬い灰になっていたのかもしれない。
「あなたの父は知っていました」
今西は何も言えなかった。
「高柳さんの父も、笠木さんも、吉住さんも。みんな、少しずつ知っていた。誰か一人が全てを隠したんじゃない。みんなが少しずつ、知らないふりをした。少しずつ黙った。少しずつ言葉を変えた。そうやって、瑠衣はいなくなった」
二階堂が言った。
「だから、あなたは彼らに役を与えた」
安西は二階堂を見る。
「ええ」
「谷本さんは?」
「設備を知っていた。青燐荘の逃げ道を知っていた。彼が先に気づけば、全てが崩れる」
「吉住さん」
「言葉で消した人」
「黒崎さん」
「また安全を説明で片づけようとしていた人」
「白川さん」
「近づきすぎた人」
「汐崎さん」
「順番を奪おうとした人」
「笠木さん」
安西は、少しだけ目を伏せた。
「笠木さんは、私の順番に別の殺意を混ぜた」
二階堂が低く言う。
「だから殺した」
「はい」
「生見さんは、あなたが殺したのではない」
「殺していません」
安西は即答した。
「でも、笠木さんが殺したことを知っていた」
「はい」
「だから、救助する側だった者として殺した」
「はい」
その肯定は、静かだった。
だからこそ、残酷だった。
江口が、扉の前から言った。
「あなたの怒りは、分かります」
安西の目が江口へ向く。
江口は疲れた顔で、それでもまっすぐ立っていた。
「子どもの頃から、家の中に言ってはいけない名前があって、誰も教えてくれなくて、大人が黙っていて。そういうのは、たぶん、ずっと残ります。あなたが瑠衣さんの名前を取り戻したかったことも、分かる気がします」
安西は黙っている。
「でも」
江口の声が、少し低くなる。
「あなたが殺した人たちも、誰かの子どもであり、もしかしたら親でもあるかもしれない」
安西の睫毛が揺れた。
「谷本さんにも、吉住さんにも、黒崎さんにも、生見さんにも、白川さんにも、汐崎さんにも、笠木さんにも。誰かが、その人の名前を待っている」
江口は、言葉を切った。
「復讐は、新たな悲劇を生みます」
安西は、初めて目を逸らした。
二階堂が続けた。
「あなたは、安西瑠衣さんの名前を取り戻したかったんじゃない」
安西が顔を上げる。
「違います」
「途中から、誰の名前をどこに置くかを決める側になりたかった」
「違う」
「いいえ。あなたは記録係だった。誰が何を言ったか、誰がいつ動いたか、誰を何番目に置くか。それを選ぶ側に立った。青燐荘が瑠衣さんにしたことを、今度はあなたが他人にした」
安西の目に、初めて明確な怒りが灯った。
「違います。私は瑠衣を」
「死者は役じゃない」
九条の声が、静かに割って入った。
安西が九条を見る。
九条は淡々としている。
「君の叔母も、十三人目という役じゃない。安西瑠衣という一人の人間だ」
安西の唇が震えた。
「私は、名前を」
「名前を取り戻すことと、人に名前を押しつけることは違う」
真壁は言った。
安西は真壁を見る。
真壁は、逃げずにその目を受けた。
「あなたがやったことは、青燐荘と同じだ」
安西の顔が凍る。
「人を順番に置いた。都合のいい役を与えた。そこから外れた人間を消した。二十年前に瑠衣さんを対象外にした連中と、同じことをした」
安西は立ち上がろうとして、椅子の背を掴んだ。
だが、動けなかった。
力が抜けたように、もう一度座る。
「……同じ」
小さな声だった。
「私が」
誰も答えない。
答えは、もう出ていた。
安西は、震える手で自分の記録用紙を引き寄せた。
そこには、事件の順番が書かれている。
名前。
場所。
見立て。
死の意味。
その最後に、十三番。
安西瑠衣。
安西は、その名前を指先でなぞった。
「十八年、誰も呼ばなかったんです」
声は、もう記録係の声ではなかった。
「瑠衣の名前を。誰も。家でも、施設でも、報告書でも、追悼式でも。私は、ただ……名前を置きたかった」
今西琴葉が、涙をこぼした。
「ごめんなさい」
安西は、今西を見なかった。
謝罪は遅すぎた。
遅すぎても、言わないよりはましなのかもしれない。
だが、死者は戻らない。
殺された人々も戻らない。
真壁は、ゆっくりと安西の前へ歩いた。
「安西実結。谷本亮一、吉住俊太郎、黒崎透、白川一冴、汐崎瑚子、笠木浩明の殺害、浜島莉子、今西琴葉への殺人未遂、その他関連容疑で、身柄を確保する」
安西は抵抗しなかった。
両手を差し出す。
その手は、驚くほど冷たそうに見えた。
二階堂が手錠をかける。
金属音が小さく響いた。
その音で、青燐荘の長い夜が、ようやく一つの形を持った。
救助隊が到着したのは、それからしばらく後だった。
夜明けが始まっていた。
海はまだ荒れていたが、黒ではなくなっていた。薄い灰色の空の下で、波は鈍く光り、青燐荘の白い外壁は少しずつ色を取り戻していた。夜の間、死者を閉じ込める箱のように見えていた建物は、朝の光を受けると、ただ疲れた施設のように見えた。
それが、真壁には余計に悲しかった。
どんな場所も、朝になれば普通の顔をする。
人が死んだ部屋も、名を消した椅子も、声の届かなかった無線室も、見世物になった食堂棟も、朝の光を受ければ、ただの壁と床に戻ろうとする。
だから人間が覚えていなければならない。
壁や床が、何もなかった顔をする前に。
安西実結は、警察の船へ乗せられる前、追悼スペースの前で一度だけ足を止めた。
十二脚の椅子。
そして、床に残った十三脚目の跡。
彼女は何も言わなかった。
真壁も言わなかった。
二階堂が、彼女の横で静かに立っている。
九条は少し離れた場所で、遺体搬送の確認をしている。
鳳は、十三脚目の床跡を最後に撮影していた。
江口は、生徒たちを船へ乗せる準備をしている。子どもたちの顔には疲れと恐怖が残っていたが、全員が生きている。江口は一人ひとりの顔を確認し、名前を呼んでいた。
「白川」
「はい」
「遠里」
「はい」
「深呼吸。返事は一回でいい。先生は耳だけは元気です」
生徒が少し笑う。
江口も笑う。
その笑いは、疲れ切っていた。
けれど、生きている人間の笑いだった。
今西琴葉は、救助隊員に支えられながら、追悼スペースの前へ来た。
彼女は、十三脚目の跡を見つめた。
「閉鎖します」
彼女は言った。
「青燐荘を、いったん閉じます。全部調べ直します。父の資料も、施設の記録も、公開できるものはすべて」
二階堂が言う。
「公開できないものも、確認は必要です」
「はい」
今西は頷いた。
「それから、名簿を直します」
浜島莉子が、少し離れたところで聞いていた。
今西は彼女にも向き直る。
「遅すぎます。でも、やります」
浜島はしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「遅すぎても、名前はないよりいいです」
その声は、泣いているようにも、怒っているようにも聞こえた。
数時間後、仮の調査記録として、新しい名簿が作られた。
正式なものではない。
まだ確認も必要だ。
けれど、そこには十三人分の名前が並んだ。
最後に、安西瑠衣。
その文字を見た時、誰も拍手などしなかった。
救いではない。
これで全てが正されたわけでもない。
十八年、呼ばれなかった名前が、紙の上に置かれただけだ。
それだけのことが、なぜこんなにも遅れたのか。
真壁には分からなかった。
いや、分かっていた。
人は、面倒なものを後回しにする。
責任を。
痛みを。
名前を。
そして後回しにされたものは、消えるのではなく、どこかで待ち続ける。
江口の生徒、白川真昼が、その名簿を見た。
「先生」
「何」
「この人、やっとここに来られたんですか」
江口桜次郎は、少しだけ困った顔をした。
軽口を探して、見つけられなかったようだった。
「たぶんね」
それから、いつもの声に少しだけ戻して言った。
「長すぎたけど」
二階堂が横から言う。
「お前、こういう時くらい綺麗に言えば?」
江口は、名簿を見たまま返した。
「綺麗な言葉で隠したから、こうなったんだろ」
二階堂は黙った。
それから、静かに頷いた。
「それもそうだな」
九条は、名簿の最後の名前を読んだ。
「安西瑠衣」
声は小さかった。
だが、確かに届いた。
死体を読む男が、そこにいない死者の名前を読んだ。
鳳は床の跡を見ていた。
「消した跡は残ります。建物にも、人にも」
その言葉に、真壁は何も返さなかった。
返す必要がなかった。
朝の海は、少しずつ穏やかになっていた。
青燐荘の白い壁に、淡い光が差している。
かつて追悼のために整えられたその施設は、今度こそ追悼されるべきものを見つけたのかもしれない。
だが、失われたものは戻らない。
安西瑠衣の十八年も。
殺された人々の命も。
安西実結が、名前を取り戻すために捨ててしまった自分自身も。
船に乗る直前、真壁はもう一度、振り返った。
青燐荘は、海の上に静かに立っていた。
夜の間、あれほど不気味に見えた連絡橋も、朝の光の中では細く白い線に見える。ボート架台も、食堂棟のガラスも、管理棟の窓も、何も言わない。
海は、誰を先に沈めたかを覚えていない。
建物は、誰を後回しにしたかを話さない。
だから人間だけが、名前を呼ばなければならない。
何度でも。
遅すぎても。
もう届かなくても。
名簿の最後に置かれた文字は、風に揺れる紙の上で、ただ静かにそこにあった。
安西瑠衣。
十八年遅れて、彼女はようやく青燐荘に着いた。
その朝、海はまだ荒れていた。
けれど、誰かの名前を隠すほど暗くはなかった。
(了)
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