第51話「副司令の来訪」
馬の蹄の音は、思ったより早く近づいてきた。
松明を持って走ってくるわけでもない。護衛の複数騎でもない。一頭だけ、まっすぐこちらへ向かってくる。
俺は門の前から動かなかった。
騎手が見えてきた。軍服だ。ただし肩章の金線が多い。
馬が止まった。降りてきた人物を見た瞬間、俺は「なるほど」と思った。
女性だった。三十代半ばか。短く切り上げた黒髪に、細い傷が左顎に一本。眼鏡をかけているのが、軍服と妙に噛み合っていない。副司令のカーラ・エゼルという人物を、俺は書類でしか知らなかったが、顔を見た瞬間に「この人がそうだ」とわかった。
「アシダ・レン殿、ですか」
「そうです」
「一人で出迎えるとは、警戒心のない方だ」
「馬一頭なので大丈夫だろうと思いました」
カーラは少し目を細めた。値踏みではなく、何かを確認するような眼差しだった。
「単刀直入に聞きます」
「どうぞ」
「私は逮捕のために来たのではありません。尋問でもない」
俺は何も言わなかった。
「助けてほしいのです」
北口の待機小屋に案内した。移送の際に物資置き場として使っていた場所で、椅子と折りたたみのテーブルが一組ある。粗末だが、立ったままで話す必要はない。
カーラは馬を繋いでから、中に入ってきた。俺が水を出すと、受け取った。文句は言わなかった。
「今朝、議会で北部村落への補償案が否決されました」
「聞きました。一部は」
「知っていたのですか」
「ネイハルト局長から。副司令が単独で動いたと」
カーラは少し口の端を歪めた。苦いものを飲んだような表情だ。
「局長から連絡が行くとは、私の読みが甘かった。ただ——今はそれより」
彼女は水を一口飲んでから、俺を見た。
「北部村落の件は、今年で三年目の否決です。冬の前に死者が出た年もあった。それでも議会は動かない。安全保障の問題だ、魔物の脅威が消えていないと言い続ける。正論のような顔をして」
「それで、俺に」
「あなたにしかできないことがある、と思って来ました」
俺は椅子の背に体重を預けた。
「聞きます」
カーラが少し息を吸った。
「議会を動かすには、安全保障の懸念を正面から崩す必要があります。そのためには——迷宮の知性体に、直接証言してもらうしかない」
俺は何も言わなかった。
「魔物は脅威ではない。むしろ封印の維持者であった、という事実を、人の前で語ってもらう。それが揃えば、北部への補償だけでなく、今後の共存政策全体を動かせる。ただし——それができるのは、あなただけです」
カーラは真っすぐ俺を見ていた。
疲れている目だった。三年間、同じ壁を叩き続けた人間の顔だ。
「まあ、聞いてから判断しよう、と思ってたら、もう十分は聞きました」
カーラが少し表情を変えた。
「今夜だけ、話を聞いてもらえますか」
「今聞いてます」
「……そうですね」
彼女はわずかに、力を抜いた。
「では、続きを話します。実は——」
外の風が弱まった頃、ゴブへの通信回線が震えた。
俺は少し立ち上がって、「少し待ってください」とカーラに言ってから接続した。
『アシダ。ドランの観測中、まだ変わってない。安定してる』
「わかった」
『そっちは誰かいるのか。声がした』
「お客さんだ」
短い沈黙。
『おいしそうか?』
「食べるなよ」
通信を切ると、カーラがこちらを見ていた。
「今のは」
「ゴブです。ゴブリンの小隊長。今は迷宮の深部で残留組の世話をしています」
「……あの、ゴブと話していたのですか」
「はい」
カーラは何かを考えるように黙った。それから口を開いた。
「知性体に、人前で話してもらえるか——というのが、私の頼みの核心です」
今夜だけで終わる話ではない、とわかっていた。
それでも、まず聞くことが先だ。
「続きをどうぞ」と俺は言った。




