第50話「臨界前夜」
ドランの出力が臨界値に達したのは、第二陣の移送が完了した直後のことだった。
【迷宮管理Lv.7:第七迷宮第十七層/核出力 98.3%——限界値まで残り1.7%】
数値を確認した瞬間、俺の手が止まった。
北口の石門に立って、もう七時間が経つ。足の裏が痛い。飲み物は三時間前に切れた。それでも数字が動くたびに、胃の奥が冷える感覚は変わらない。
「ゴブ、聞こえるか」
スキル経由の通信チャンネルを開く。ドランが繋いだ回線は今でも生きていて、ゴブの声が少し遅れて返ってきた。
『聞こえる。何の話だ』
「出力が九十八を超えた。そっちの体感は」
短い沈黙。
『……壁が光ってる。うっすらと、だけど。ドランに確認したら「予定通り」って言われた』
「予定通り」
俺は門柱に背を預けた。
ドランの言う「予定通り」がどういう意味か、俺には正確にはわからない。ただ、臨界まで残り一・七パーセントで「予定通り」と言える知性体が、全力で崩落を抑えているのはわかった。
「あと何体残ってる」
『第七層までで四百十二体。第十二層以深にまだ八十体ちょっと。合わせて五百ぐらい』
「バインは今どこだ」
『第三中継点の先。北崖窪地の入口手前で、ルートの最終確認してる。一時間以内に戻ってくるって』
俺は空を見た。もう昼を過ぎている。
第二陣が北口を通過したとき、百名以上の知性体が石門をくぐった。ゴブリン、コボルト、スライム系の小型知性体、翼のある種族——それぞれが、ぎこちない足取りで外の空気に触れた。
誰も暴れなかった。
それだけで、俺には十分だった。
「わかった。引き続き頼む。バインが戻ったら第三陣の誘導を始めてくれ」
『わかった。でも、アシダ』
「何だ」
『ドランが、お前に会いたいと言ってる』
俺は目を閉じた。
ドランは第十七層の核部に固定された知性体だ。物理的な移動ができない。俺が会いに行くには、迷宮の深部まで降りるしかない。
つまり、ゴブの言葉の意味はひとつだ。
「……今すぐか」
『うん。今すぐ』
北口から第十七層まで、普通に歩けば五時間はかかる。
俺は走らなかった。走れなかった、というほうが正確かもしれない。ただ、できる限り速く歩いた。
第七層に差し掛かったとき、ゴブが迎えに来ていた。
「案内する」とゴブは言った。それ以外に言葉がなかった。
俺たちは無言で降りた。
迷宮の中は、静かだった。
普段なら至るところに魔物の気配がある。鳴き声、足音、土の震え——そういうものが今はほとんどない。もぬけの殻、という言葉が浮かんだ。この場所で何百年も暮らしてきたものたちが、今日この瞬間、外の空気を吸っている。
第十二層で、まだ残っている知性体たちと何度かすれ違った。老齢の個体が多かった。子供もいた。移動が遅い種族、外の環境に適応できるか不安を抱えている者たち。
俺は止まらなかった。止まれなかった。
「ゴブ」
「なんだ」
「この子たちは間に合うか」
ゴブは少しだけ間を置いた。
「間に合わせる」
答えがそれだけだったから、俺は頷いて歩き続けた。
第十七層は、光っていた。
ゴブが言っていた「壁がうっすら光ってる」というのは、こういうことか。石の表面から、白に近い青い光が滲み出している。規則的ではない。脈動に近い——まるで、呼吸のように。
【迷宮管理Lv.7:第七迷宮第十七層/核出力 98.9%——限界値まで残り1.1%】
数字がまた上がっていた。
「ドラン」
俺は核の前に立った。
六角形の石柱が中央に据えられていて、その表面にびっしりと文字が刻まれている。魔法陣ではない。言語だ。俺には読めないが、スキルが「記録」と判定している。三百年分の記録が、石に刻まれている。
返事は来なかった。
代わりに、光が一度だけ強く脈動した。
「聞こえてるんだろう。会いたいと言ったのはお前だ」
また、脈動。
「俺は門番だ。迷宮語は話せない。だから普通に話す」
三度目の脈動。
今度は、それが言葉に変わった。スキルが自動的に翻訳する。
『外は、どうだ』
声ではなく、感覚として届く。
「明るい」と俺は答えた。「先遣隊の長老が、三百年ぶりに空気を吸って、怖かったと言った。それだけ言って、それから黙って歩き始めた」
しばらく、光が揺れた。
『そうか』
「ナガシはまだ移動中だ。北崖窪地まであと少し。足は遅いが、自分で歩いてる」
また長い間があった。
『お前に、礼を言わなければならない』
「別にいい」
『いや、言う』
俺は口を挟まなかった。
『私は三百年、この場所で待ち続けた。誰かが来れば話を聞いた。ただ、誰も来なかった。王国の探索者たちは来た。だが彼らは聞こうとしなかった。聞けなかったのかもしれない。私もそれを責める気はない。ただ、そういうものだと思っていた』
「ああ」
『お前は、聞いた』
俺は何も言わなかった。
『それだけだ。ただ、それだけのことが、私には三百年できなかった』
数字がまた動いた。
【迷宮管理Lv.7:第七迷宮第十七層/核出力 99.1%——限界値まで残り0.9%】
「ドラン」
「残り時間は」
『出力の制御は、今夜が限界だ。夜明けまでは保てない』
俺は時間を計算した。
第三陣が北口を出るのは、今から最短で三時間後。その後、最終組の移送に少なくとも六時間かかる。
夜明けまで、あと十時間もない。
「全員は無理かもしれない」
『わかっている』
「それでも」
『できる限りやる。それは私が決めることだ』
俺は頷いた。
「残る者がいたら、俺が責任を持つ」
光が揺れた。強く、一度だけ。
『それは、お前が決めることだ』
俺は口の端が少し上がるのを感じた。この三百年生きてきた知性体は、妙なところで筋が通っている。
「まあ、そうだな」
『一つ、聞いてもいいか』
「聞いてから判断する」
光が、また脈動した。今度は少しだけ違う感触がある。笑っているのかもしれない。
『お前は、なぜ聞ける』
「は」
『なぜ、話を聞ける。多くの者は聞けない。力のある者ほど聞かない。お前は弱い。ジョブも弱い。それでも聞く。なぜだ』
俺は少し考えた。
「わからない」と正直に答えた。「聞かないと損だ、ぐらいのことは思ってる。話の中に、いつも何か大事なものが入ってる。それを聞き逃すのが嫌なだけかもしれない」
『損、か』
「そう。損。俺が聞かなかったら、お前と話せなかった。ゴブとも話せなかった。そうしたら、この移送もなかった」
『合理的だな』
「感情的な話をするなら——」
俺は言葉を探した。
「まあ、聞いてから判断しようと思ってるうちに、聞くのが習慣になっただけだ」
ドランはしばらく黙っていた。
それから、光が静かに広がった。核の表面を覆っていた白い脈動が、少しだけ落ち着く。出力の数値が一瞬、九十九・一のまま止まった。
「ドラン、無理をするな」
『無理ではない。少し、楽になった。話したかったのかもしれない、私も』
ゴブが呼びに来たのは、それから三十分後だった。
「第三陣、出発した。百五十体。でもアシダ、問題がある」
「何だ」
「最終組に、動けない個体が十八体いる。老齢のホブゴブリンが二体、あとは変異種の幼体。外の環境に耐えられるかどうか、バインでも判断できないって」
俺は【迷宮管理Lv.7】のスキルを展開した。
知性体の状態が数値として並ぶ。生命力、適応係数、移動可能距離——数字の羅列だが、意味はわかる。
「バインに通信を繋いでくれ」
「わかった」
数秒後、バインの声が届いた。少しくぐもっている。
『アシダさん。聞きました。十八体については、私の判断では外気への急激な曝露はリスクが高い。ただ——』
「ただ」
『北崖窪地の奥、第二洞窟群に換気の悪い閉鎖空間があります。そこに仮設で迷宮に近い環境を作れれば、段階的に適応させることができる。一週間、場合によっては二週間かかりますが』
「ドラン、聞こえてるか」
光が一度、脈動した。
「その間、お前は」
『出力を落とした状態での維持モードに切り替える。崩落は止められる。ただし、第十七層より深い部分への影響は保証できない』
「それは、どのぐらい危険だ」
『未知数だ。やったことがない』
「やったことがないのに、できると思うか」
『わからない』
俺はしばらく黙った。
ゴブが隣で、じっと俺を見ている。
「まあ」と俺は言った。「聞いてから判断しよう、と思ってたら、もう十分ぐらい聞いた」
「アシダ」
「やってみるしかない、って意味だ」
ゴブが大きく息を吐いた。
「わかった。俺が残る。その十八体に付き合う」
「待て、ゴブ」
「アシダが決めることじゃない。俺が決める」
俺は口を閉じた。
ゴブは真剣な顔をしていた。びびりで、義理堅くて、仲間思いのゴブリンが、迷宮の深部で俺を真っすぐ見ている。
「……そうか」
「そうだ」
「バイン、ゴブが残る。必要なもののリストを出してくれ。王都に折り返して、物資の手配をする」
『了解しました』
俺がドランに別れを告げたのは、日が傾き始めた頃だった。
「世話になった」
光が、静かに揺れた。
『世話、か。お前は変わった言葉を使う』
「お互い様だ」
『また来るか』
「来る。ゴブが残ってるうちは来る。あとは、来ないかもしれない」
『なぜだ』
「お前が移送を終えたら、ここには何もなくなる。迷宮が空になる。そうしたら、俺の管理対象じゃなくなる」
長い沈黙。
それから、光が一度だけ、大きく広がった。第十七層全体が、白く染まるぐらいに。
そしてすぐに収まった。
『忘れない』
それだけだった。
俺は石柱の前から踵を返して、長い階段を上り始めた。
北口に戻ったのは夜が来る前だった。
空は橙色で、北の方角の稜線がくっきり見える。
【迷宮管理Lv.7:第七迷宮第十七層/核出力 維持モード移行——安定性:観測中】
数値が変わっていた。九十九ではなく、「観測中」という文字列。スキルが判断を保留している。それはつまり、ドランが試みていることが、前例のないことだということだ。
ゴブは今、第十二層で十八体と一緒にいる。
バインは北崖窪地で、閉鎖空間の整備を続けている。
俺は門の前に立って、北の空を見た。
移送は、終わっていない。終わっていないが、始まってはいる。
ポケットの中で、通信用のスキル回線がかすかに震えた。
ゴブではない。管理局の周波数だ。
出ると、ネイハルトの声だった。
『アシダ殿。今、どちらですか』
「北口の前です」
『そうですか。実は——』
ネイハルトが少し間を置いた。
『カーラ副司令が、単独で北部方面に向かったという報告が入りました。行先が、貴方の迷宮である可能性が高い』
俺は空を見たまま、答えた。
「目的は」
『不明です。ただ——』
また間があった。
『副司令は今朝、北部村落への停戦補償の件で、議会と大きく揉めたそうです』
俺は目を細めた。
カーラ・エゼル。あの副司令が、単独で動く。議会と揉めた翌朝に。
何を考えているのかは、わからない。
わからないが——
「まあ、聞いてから判断しよう」
俺は通信を繋いだまま、北の道を見た。
遠くに、馬の蹄の音がし始めていた。




