第49話「先遣隊、北口を出る」
夜明け前の空は、まだ紺色だった。
北口の石門が、ほの白く浮かび上がっている。
俺は門柱に背を預けて、腕を組んでいた。
隣にバインが立っている。地図を丸めたものを小脇に抱えて、眠そうに目をこすっている。昨夜も洞窟を歩き回っていたくせに、朝にはちゃんと来る。変な人だ。
「何体来ますかね」
バインが低い声で言った。
「三十二。ナガシさんを入れると三十三」
「それだけ来れば、第一次として十分でしょう」
俺も、そう思っていた。
問題は、来るかどうかではなく、どう来るかだ。
迷宮の外に初めて出る知性体が三十三体。彼らにとって、この石門の向こうは未知の領域だ。長老ナガシに至っては、生まれてから一度も地上の空気を吸ったことがないはずだった。
【迷宮管理Lv.6:北口付近・知性体接近中・第四層以下より33体確認】
スキルが静かに反応する。
来た。
最初に姿を見せたのは、ゴブだった。
石段を上がってきて、俺の顔を見た瞬間に、ほっと肩の力を抜いた。
「外の調停者。待っていてくれた」
「約束したからな」
「ナガシ長老も来ている。後ろに」
ゴブが振り向いて、手を振った。
暗がりから、ゆっくりとした足取りで一体が現れた。
背が高い。二メートルを超えている。種族はリザードマン。老齢特有の、くすんだ青緑の鱗が胸元に広がっている。杖をついているが、目は鋭かった。
「お前が外の調停者か」
声は低く、乾いていた。
「アシダ・レンです。第七迷宮北口の門番をしています」
「門番」
ナガシは俺をじっくりと見た。上から下まで、値踏みするような視線だ。隠さない。
「若いな。人間にしては、やけに落ち着いている」
「よく言われます」
「ゴブが言っていた通りの顔だ」
ゴブが小さく咳払いした。何を言っていたのかは知らないが、まあいい。
ナガシの後ろから、続々と姿が現れてくる。ゴブリン、コボルト、リザードマン、翼を持つ小型の鳥型知性体。種族がばらばらだ。それぞれが怖ず怖ずと石門に近づいて、外の空気を嗅ぐように立ち止まった。
一体のコボルトが、門柱に触れた。
そのまま固まった。
「初めて触るんだろう」とバインが静かに言った。「石が、外の石が」
俺は何も言わなかった。
ナガシが、石段の前に立った。
外の空気が吹き込んでくる。早朝の、少し湿った風だ。ナガシの鱗が、かすかに揺れた。
「三百年」
ナガシが呟いた。
「三百年、この石の向こうに何があるか知らなかった。外の空気というものを、ずっと恐ろしいものだと思っていた」
俺は黙って待った。
「実際には、ただの風か」
「ただの風です」
ナガシが俺を見た。目が細くなった。
「ドランが言っていた。お前は嘘をつかないと。交渉の場で得をするために偽りを並べるのが人間だと、私は三百年思っていたが、どうやら例外がいるらしい」
「ドランがそんなことを」
「あの子は多くを語らない。だが、お前のことは話した」
ドランが「あの子」と呼ばれる場面を、俺はうまく想像できなかった。三百年間、迷宮の核として在り続けてきた存在が、この長老にはそう見えているらしい。
「出発前に、確認させてください」
俺は姿勢を正した。
「第一ルートは北崖窪地の東端まで。移動時間は通常歩行で四時間半。途中、第三中継点にあたる廃小屋で一度休憩を挟む。バインが道案内します」
バインが地図を広げた。
「北崖窪地には現時点で暫定使用権六十日が下りています。王国軍の案内役も一人、中継点まで配置済みです。バイン、合ってるか」
「はい。シャムスという名前の案内役で、昨日会いました。人は良さそうです」
「問題が起きたらバインに言ってくれ。バインが俺に繋ぎます。俺はここに残って第二陣の誘導をする」
ナガシが眉を上げた。
「同行しないのか」
「後続が五百体以上います。誰かが門でさばかないといけない。バインを信頼していただければ」
「お前ではないのか」
「バインの方が道に詳しいです。俺は迷宮の中のことしか知らない。地上は彼女に任せる方が、あなたたちにとって安全です」
ナガシはバインを見た。バインは地図を持ったまま、真っすぐに視線を返した。
「地形は全部頭に入っています。困ったことが起きたら、どこにいても対処します」
長老は一拍おいて、小さく頷いた。
「わかった」
「では」
俺はゴブを見た。
ゴブは頷いた。何も言わなかったが、目に何か込もっているのは見えた。
「行ってきます」とゴブは言った。
「土産話を聞かせてくれ」
ゴブが笑った。珍しい顔だ。
先遣隊がゆっくりと動き出した。
三十三体が、石門をくぐった。
一体ずつ、外の地面に足を踏み出すたびに、それぞれ違う反応を見せた。立ち止まる者、空を見上げる者、地面を踏みしめて確かめる者。コボルトの一体は、草を手に取って、しばらく眺めていた。
ナガシは最後に出た。
門柱の傍で、しばらく空を見ていた。まだ暗いが、東の端がうっすらと白くなり始めていた。
「外というのは」とナガシが言った。
「広いな」
「慣れますよ」と俺は言った。
「三百年かけて慣れるとも思えないが」
「移送が終わったら、ゆっくり歩いてみてください。北崖窪地は、悪い場所じゃないです」
ナガシは返事をしなかった。
そのまま、バインの後について歩き出した。
先遣隊が視界から消えるまで、俺は門の前で立っていた。
静かになった。
風だけが吹いている。
【迷宮管理Lv.6:先遣隊・全体追跡中・現在位置・北口から340メートル】
スキルが先遣隊の位置を拾い続けている。三十三の光点が、北東の方角にゆっくりと動いていた。
俺は石門に向き直った。
まだ六百体以上が残っている。
ドランの出力は、今朝の通信では臨界値の九十六パーセントに達していた。三日という約束が崩れる前に、全員を移送しなければいけない。
二時間後、第二陣が北口に姿を現した。
今度は百体近い集団だった。
種族も年齢層もさらにばらばらだ。幼体と思しき小さな体が、大人の後ろに隠れるようにして歩いている。
俺はリストを確認しながら一体ずつ顔を見た。
「第二陣、案内します。移動は三ルートに分かれます。各自ゴブのサブリーダー三人についてください」
ゴブから引き継いだサブリーダー三人が手を挙げた。ゴブリン、コボルト、それから角を持つ小柄な雌の知性体。名前はまだ聞いていないが、目が利く。
振り分けが終わると、第二陣も動き出した。
俺は一体ずつ、門をくぐる瞬間を見ていた。
怖がっている者は多かった。足が止まる者もいる。そういう時は声をかけない。待つだけだ。
ほとんどは、自分で踏み出した。
【迷宮管理Lv.6:第二陣出発確認・内部残留知性体数・512体】
まだ五百を超えている。
通信チャンネルが振動した。ゴブからだ。
『第一陣、第三中継点に到達。シャムスと合流できた。バインさんが地形の補正をしてくれた。問題ない』
「ナガシさんは」
『歩いています。口数は少ないが、足は達者です』
「そうか。第二陣も出た。そっちの状況で何かあれば報告してくれ」
『わかった。外の調停者』
「なんだ」
一拍おいて、ゴブが言った。
『空が、広い』
俺は少し黙った。
「そうだろうな」
通信が切れた。
俺は石門に手を当てた。
三百年間、この門の向こうに世界があることを知らずに暮らしてきた者たちが、今、外に出ている。
それが正しいことかどうかは、まだわからない。
北崖窪地が住める場所になるかも、王国がこの先どう出るかも、ドランの制御がいつまで持つかも、まだ何も確定していない。
ただ、今日の朝、三十三体が空の広さを知った。
それだけは確かだ。
昼を過ぎた頃、想定外のことが起きた。
北口への道を、見慣れない人影が歩いてきた。
軍服だ。ただし、カーラ副司令の部下ではない。紋章が違う。
俺は門の前に立って待った。
人影が近づいてきて、顔が見えた。
三十代ほどの男。短く刈った黒髪。表情は固い。
「ここが第七迷宮北口か」
「そうです」
「お前が門番のアシダか」
「はい」
男は俺を見た。
「王都騎士団第二小隊、クルト・ミンツ副隊長。上席審議官ドレイクの命で来た」
俺はクルトの顔を見た。
命令書を出すでもなく、威圧するでもなく、ただこちらを見ている。
「用件を聞かせてください」
「移送に協力するよう命が下った。北崖窪地への追加ルート護衛だ」
追加護衛。
ドレイクが動いた。カーラが反対していた北崖窪地への軍関与を、別のルートで通したということか。
「何名ですか」
「俺を含めて十二名。後続は移送が終わるまで交代で出す。荷物持ちと医療班も含む」
俺は一拍置いた。
「ありがとうございます。受け入れます」
クルトが少し目を細めた。
「聞いていたより素直だな」
「もめる理由がないですから」
「魔物の護衛をするのは騎士として抵抗がないわけじゃない」とクルトは言った。「が、ドレイク様の命令だ。それに」
「それに」
「崩落が起きたら、北部の村が十七か所やられる。俺の故郷もその一つだ」
俺はクルトの目を見た。
固い表情の下に、何か別のものがあった。
「まあ、聞いてから判断しよう、と思っていたんですが」
「なんだ」
「あなたが来てくれてよかった」
クルトは少し黙った。
「案内しろ。部下を配置する」
夕刻。
残留知性体数は百八十七体になっていた。
移送は順調だ。
三本のルートが機能していて、北崖窪地には既に四百体以上が到着している。バインから断片的に入ってくる報告によると、ナガシが現地の知性体をまとめて、到着した順に場所を割り当てているらしい。
ドランの出力は九十七パーセント。
残り時間は、スキルの表示で三十一時間を切っていた。
俺はスキルを開いた。
【迷宮管理Lv.6:第十七層・ドラン応答中】
通信チャンネルを開いた。
しばらくの沈黙の後、ドランの声が来た。
声というより、感覚に近い。
『まだ、保っている』
「わかってる」
『外は、どうだ』
「先頭を歩いた三十三体は、もう北崖窪地に着いた。ナガシさんが仕切っている」
沈黙。
それから。
『ナガシが』
「ええ」
また静かになった。
ドランが何かを感じているのが、スキル越しにぼんやり伝わってくる。
「あと少しです。全員が出たら、約束通り俺が最後の確認をする」
『わかった』
「それまで、持たせてください」
ドランは答えなかった。
でも、チャンネルは切れなかった。
しばらく、そのまま繋いでいた。
東の空が、夕暮れに染まっていた。
北崖窪地の方角に、小さな光がいくつか見えた。松明だ。
四百体以上の知性体が、今夜初めて、外の夜を過ごす。
俺は腕を組んで、その光を眺めた。
終わっていない。まだ全員は出ていない。ドランの時間も、交渉も、王国との話も、何もかもが途中だ。
それでも今夜だけは、あの灯りを見ていようと思った。
門の向こうで何かが動く気配がした。
次の知性体が、出口に向かって歩いてきていた。




