第48話「先頭を歩く者」
移送開始まで、残り一日と少し。
俺は北口の仮設テントに戻り、バインが広げた地図を眺めていた。
「北崖窪地まで、最短ルートで半日。ただし魔物の足に合わせると——」
「倍はかかる、と」
「小さい個体や傷を持つものは特に。荷物も背負う。荷車は通れない道もある」
バインは地図に指を走らせながら、淡々と言った。五十がらみの男で、迷宮地理の専門家という肩書きのわりに荷物が少ない。聞いたら「現地で調達する主義」だと言っていた。
俺はゴブとの通信チャンネルを開いた。
『ゴブ、聞こえるか』
しばらく間があって、返事が来た。
『聞こえます。今、第九層です』
声の質がわかるわけではないが、スキルが「平静、やや疲弊」と示す。
『先頭志願の話、どうなった』
『三十二体です。ただ——』
また間があった。
『長老ナガシが、自分も入ると言っています』
俺は地図から目を離した。
ナガシ。第七層に棲む古参の知性体で、先週の全層告知のとき「騙されるくらいなら崩落のほうがましだ」と怒鳴った個体だ。
『それ、志願か。それとも監視か』
『わかりません。たぶん……両方だと思います』
「まあ、聞いてから判断しよう」
独り言のつもりだったが、バインが顔を上げた。
「何かありましたか」
「先遣隊に、一筋縄じゃいかない長老が混ざりそうで」
「そういうのは大概、後から一番頼りになります」
バインはそう言って、また地図に戻った。
俺は通信を続けた。
『ナガシに伝えてほしい。俺は明日の夜明け前に北口で待つ。顔を合わせてから話す、と』
『……それだけでいいんですか』
『それだけでいい』
通信を閉じた。スキル表示が切り替わる。
【迷宮管理Lv.6:対象「第七迷宮」臨界まで44時間17分 / 内部知性体現在数:推定648体 / 先遣登録:32体確認】
648体。
先週よりも数が増えていた。ドランの告知が届いて、深層から上がってきたものがいるらしい。
「バイン」
「はい」
「648体を想定すると、窪地の受け入れキャパはどうなる」
バインは少し考えた。
「窪地の面積は……大型が混ざるなら三百が限界、でしょうね。ただ、北崖の断崖側に洞窟群が確認されています。調査できていないだけで、おそらく使える」
「調査する時間は」
「今夜中に入れば」
「入れるか」
「俺一人なら」
バインは地図を折りたたみながら、立ち上がった。
「行ってきます。明け方には戻ります」
止める理由もなかったので、俺はうなずいた。
夜が深くなってから、テントの外に気配がした。
魔物の気配ではない。人間だ。
「アシダ・レン」
声に聞き覚えがあった。
テントを開けると、エゼル・カーラ副司令が立っていた。護衛はいない。外套を深く被っていて、一目では誰かわからない格好だ。
「夜分にすみません」
俺は内心で少し驚いたが、顔には出さなかった。
「どうぞ」
カーラはテントに入り、地図が広げてあった椅子に座った。俺は向かいに腰を下ろす。
しばらく、沈黙があった。
カーラが先に口を開いた。
「昼間の会議では、強く出た」
「はい」
「軍の立場として、あれが正しい判断だと今も思っている」
俺は何も言わなかった。
「だが」とカーラは続けた。「俺は個人として、ここに来た」
「聞きます」
カーラは外套の中から、小さな羊皮紙を取り出した。折り畳まれていて、中身は見えない。
「北部の村落のリストだ。第七迷宮から半日圏内にある集落が、十七ある。もし崩落が起きれば、震動と瘴気で最低でも三つは壊滅する」
「試算には入れていませんでした」
「入れるべきだった」とカーラは言ったが、責める口調ではなかった。「俺も昨夜まで気づかなかった。三十年前の記録を掘り起こして、やっと」
俺はその羊皮紙を受け取った。
「これを俺に見せる理由は」
「移送ルートを考える際、この村落を通過点にできる。水場と食料の補給ができる場所もある」
カーラは静かに言った。
「魔物が通るとなれば村人は怖がる。だが俺が先に話を通しておけば、話は変わる」
「副司令が、個人として」
「ああ」
俺は羊皮紙を開いた。几帳面な字で、村名と人口、水源の場所が記されていた。昨夜徹夜で書いたのだろう、と思った。
「条件はありますか」
「一つだけ」
カーラは俺を見た。
「移送が終わったら、その魔物どもをきちんと窪地に留めておけ。俺が動いた責任を取れる形で」
「それは約束できません」
カーラの目が細くなった。
「理由は」
「ドランの臨界後、窪地に入った知性体たちが永続的に留まるかどうかは、俺が決めることじゃない。彼らが決めることです」
沈黙。
「ただ」と俺は続けた。「窪地の使用権が六十日あります。その間に、俺は彼らと継続交渉する。それが俺の仕事です」
カーラはしばらく考えた。
「お前は、ずいぶん正直だな」
「嘘をついても、後で割れます」
「そうだな」
カーラは立ち上がった。
「明日の夜明け、村落への通告は俺が行う。使者を三人出す。それだけだ」
「助かります」
カーラはテントの出口で振り返った。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「ドランとかいう制御核、本当に信用できるのか」
俺は少し考えた。
「俺のスキルが拾った感情の記録では、嘘はなかった。ただ——」
「ただ?」
「三百年、一人で迷宮を支えてきた個体です。俺には測れない部分がある」
カーラは何かを言いかけて、やめた。
「そうか」
そのまま夜の闇に消えた。
俺は羊皮紙をバインの地図の隣に置いた。
スキルが静かに更新される。
【迷宮管理Lv.6:移送ルート候補に「北部村落経由」追加 / 補給点:推定4箇所 / 全体移送時間短縮:推定6〜9時間】
六時間。
それは決定的な差だ。
夜明け前、バインが戻ってきた。
外套が泥だらけだったが、目が生き生きしていた。
「洞窟、三つ使えます。大型でも入れる高さがある。合計で二百体は追加収容できる」
「怪我は」
「転びました。一回」
「そうか」
俺は地図を広げ、カーラの羊皮紙と並べた。バインが声を上げた。
「これは……村落リストじゃないですか。誰が」
「後で話す。今は整理を先に」
バインは三秒で切り替え、地図に書き込みを始めた。
北口から窪地まで、ルートが三本引かれた。
一本は最短。体力のある者向け。
一本は迂回路。小型や怪我持ち向け。
一本はカーラの村落を経由するルート。補給付き。
「先遣隊の三十二体は最短でいい。本隊は二手に分けて——」
「俺が先遣隊に同行する」
バインが顔を上げた。
「同行、ですか」
「先頭を歩かないと、見えないことがある」
バインは少し黙った。
「……わかりました。なら俺は本隊の後方を担当します。置いていかれる個体が出たとき、誰かが残らないと」
「頼む」
外が白みはじめていた。
北口の向こうで、何かが動く気配があった。
俺はテントを出た。
夜明けの光の中、北口の前に三十二体が集まっていた。
ゴブリン、コボルト、ストーンリザード、それと——
群れの後ろに、一回り大きい影があった。
岩のような皮膚を持つ、ずんぐりとした体型。第七層の長老ナガシだ。
腕を組んで、俺を見ていた。
俺はまっすぐ歩いた。
三十二体の前に立ち、ナガシと目を合わせた。
ナガシは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
三秒ほど、沈黙が続いた。
「お前が外の調停者か」
「はい」
「若いな」
「はい」
ナガシは鼻を鳴らした。
「崩落を止める気か、人間」
「止められません」
ナガシの目が細くなった。
「止める代わりに、中にいる者が外に出られるようにする。それが俺の仕事です」
「同じことじゃないか」
「違います。俺がやるのは逃げ道を作ることで、ドランが自分で選んだことを止めることじゃない」
ナガシはしばらく俺を見た。
「……本隊はどうなる」
「明後日夜明けに出発。バインという人間が後方を担当します」
「信用できるのか」
「今夜、泥だらけになって洞窟を三つ調べてきた人間です」
ナガシはまた鼻を鳴らした。今度は少しだけ、険が薄れていた。
「行くぞ」
ナガシが先に歩き出した。
三十二体が続く。
俺はその隣に並んだ。
先頭を歩くのは俺ではなく、ナガシだ。
でも俺は、隣を歩く。
それで十分だった。
スキルが更新される。
【迷宮管理Lv.6:移送フェーズ1・開始 / 先遣隊33体(含む案内者1) / 臨界まで39時間04分】
三十九時間。
行きと帰り、合わせてぎりぎりだ。
俺は北口の向こう、まだ影の中にある北崖の稜線を見た。
ドランはまだ、持ちこたえている。
北崖への道を半刻ほど歩いたとき、ナガシが不意に口を開いた。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「ドランは……苦しかったのか」
俺は答えを急がなかった。
スキルが第十七層で記録した感情データを思い返す。
あの静けさ。長い時間をかけて研磨されたような、透明な疲労。
「俺には正確にはわかりません」
「だが」
「三百年、一人でした」
ナガシはそれきり黙った。
しばらく歩いて、また口を開いた。
「俺は五十年ここにいる」
「はい」
「ドランの声を一度も聞いたことがなかった」
「……先週の全層告知が、初めてでしたか」
「ああ」
ナガシは前を向いたまま言った。
「あの声で、わかった。お前が言うことは本当だと」
俺は何も言わなかった。
「だから来た。監視半分、確認半分だ。騙されるくらいなら崩落のほうがましだと言ったのは本気だ。だが——」
ナガシは少しだけ足を止めた。
「信じてみてもいいと、思った」
その言葉を、俺はそのまま受け取った。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。気持ち悪い」
「すみません」
「謝るな。もっと気持ち悪い」
前を向いて、またナガシは歩き出した。
俺も続いた。
三十九時間。
窪地に着いたとき、何が待っているかはわからない。
でも、先を歩く者がいる。
隣を歩く者がいる。
それがどれだけの意味を持つか——ドランが三百年をかけて教えてくれた答えが、俺の胸の中にあった。
【迷宮管理Lv.6:臨界まで38時間41分 / 本隊移送まで:残り1日と8時間】
その夜、ゴブから通信が届いた。
『本隊の準備ができています。でも——』
間があった。
『ドランが、さっきまた何か言いました』
『何と』
『「間に合う」と』
俺はしばらく、その言葉を持った。
ドランが言うのだから、たぶん計算の上だろう。
でも俺には、それが計算じゃなく、願いに聞こえた。




