第46話「試算と沈黙」
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王都に戻るのに、丸一日かかった。
第十七層を出てから、ゴブとの通信チャンネルは妙に安定していた。スキルの表示欄に小さな文字が浮かぶ。
【迷宮管理Lv.6:外部通信チャンネル接続中——第七迷宮内部中継経由】
ドランが開放したルートらしい。迷宮の中枢がわざわざ電話線を引いてくれたようなものだ。使い方はまだよくわかっていないが、ゴブの声が頭の中に直接届くことだけは確認できた。
「調停者。今、第九層まで戻ってる。第十二層の守護体が道を開けてくれた」
「了解。何か揉め事は?」
「少しだけ。第六層のコボルド集落が『外に出るなんて聞いていない』って騒いだ。でも長老が落ち着かせた。ドランからの告知は届いてるみたいで……信じてないやつも多いけど」
「それでいい。最初から全員が動く必要はない」
「うん。でも調停者、王都のほうはどうなの。六日で説得できる?」
正直に答えることにした。
「やってみる、としか言えない」
短い沈黙が流れた。ゴブがため息をついたのが、なぜかわかった。
「わかった。中はまかせて」
そこで通信は途切れた。
王都の南門をくぐると、すぐにわかった。何かが変わっている。
兵士の数が増えている。それだけじゃない。視線が違う。いつもなら門番のレンなど一瞥もされないのに、通行証を確認する手が止まった。
「……アシダ殿ですか」
「そうだが」
「少々お待ちを」
兵士が奥に向かって何か叫んだ。別の男が走ってくる。ネイハルト筆頭書記官補佐の部下だった。名前は確か——ミラという女性記録官。
「アシダさん、ちょうどよかった。ネイハルト様がお呼びです」
「俺が王都を出たこと、知ってたのか」
「エドゥス商会から連絡が入りました」
エドゥスめ、と思った。でも怒る気にはなれない。あれはあれなりに動いている。
「わかった。行こう」
迷宮管理局の応接室は、三十一話で座った場所と同じだった。ただ、今回は人数が違う。
ネイハルト。上席審議官のドレイク。それから——見知らぬ顔が二つ。
一人は五十代の武人風の男。もう一人は三十代の文官。どちらも俺の顔を見て、値踏みするような目をした。
まあ、いつものことだ。
「アシダ殿、無断で王都を離れたことは問題です。ですが今は後回しにしましょう」
ネイハルトが先手を打ってきた。口調は硬い。でも怒っているわけではない——急いでいる。
「第七迷宮の状況を報告してください。あなたが潜入したことは確認しています。スキルログを」
俺はすぐに該当する記録を開示した。
【迷宮管理Lv.6:深部活動値——臨界まで残り五日二十一時間】
【判定:制御核「ドラン」交渉完了。三条件確認済み。実行には外部承認が必要】
部屋が静まった。
武人風の男が眉を寄せる。
「……制御核? 迷宮に、交渉可能な知性体がいるというのか」
「いる。三百年間、単独で迷宮の崩落を抑えてきた存在だ」
「馬鹿な」
「俺もそう思ったが、スキルが示した。嘘はつけない性質のスキルなので」
ドレイクが手を上げて武人を制した。老いた審議官の目が、俺に向く。
「アシダ殿。その三条件とは」
「内側の者に出口を。外の者に安全を。自分には休息を」
俺はドランが石板に刻んだ言葉をそのまま読み上げた。
「ドランが求めているのは滅亡じゃない。迷宮内部の知性体たちを安全に移送した上で、段階的に制御を手放すことだ。完全な崩落じゃなく、緩やかな終わり方を選びたがっている」
文官風の男が口を開いた。
「『移送』と言うが、どこへ移すつもりです。迷宮内の魔物を王国領に入れることは——」
「入れるとは言っていない」
俺は先を続けた。
「北崖窪地を使う。第三十一話——失礼、以前の委員会でも提案した緩衝地帯の案だ。あの土地は六十年以上、王国も迷宮側も帰属を決めていない。法的な空白地帯になっている」
「それは……」
「試算を見てもらう」
俺は懐から紙を出した。宿で一夜かけてまとめたものだ。字が汚いのはご容赦願いたい。
「第七迷宮が制御なく崩落した場合の被害。最低でも北部三都市への地震相当の揺れ、地下水脈への影響、農地の沈降。被害額の試算は俺には出せないが、北部行政官なら計算できるはずだ。これが放置した場合のコスト」
紙を机に置いた。
「次に移送プランを実行した場合。知性体の移動に必要な日数、必要な協力体制、緩衝地帯の整備費用。ドランが三日間の現状維持を約束している。残り六日からその三日を引けば、動ける時間は三日。その間に枠組みを決めれば間に合う」
武人が立ち上がった。
「待て。それはつまり、魔物を王国の境界線付近に定住させろということか。そんなことを王が——」
「王には俺から話せない。だからあなたたちに話している」
俺は武人を見た。
「あなたは誰だ。名前を教えてもらっていない」
一瞬の間があった。
「……北部方面軍副司令、エゼル・カーラだ」
「カーラ副司令。俺に軍を動かす権限はない。あなたに迷宮内部を見せることもできない。でも試算は出した。判断はそちらがやること」
俺は席に座った。
「まあ、聞いてから判断しよう——というのが俺の習慣だが、今回は時間がないので順番が逆になっている。先に状況を話した。今度は聞く番だ。何が問題か、言ってほしい」
またしても沈黙。
ドレイクが静かに言った。
「アシダ殿、少し席を外していただけますか」
廊下に出て、壁に背中を預けた。
スキルが静かに点滅している。
【迷宮管理Lv.6:ドラン制御出力——臨界比91%(前回比+2%)】
少し上がっている。ドランが無理をしている証拠だ。
「余計なことするな」と言いたいが、言える立場にない。
二十分ほど待った。
扉が開いて、ネイハルトが出てきた。いつもより顔が白い。
「アシダ殿。一つ確認させてください」
「どうぞ」
「ドランという存在が……本当に交渉できるとして、移送が完了した後、確実に制御を手放すという保証は?」
俺は少し考えた。
「ない」
「……ない?」
「保証できる立場にいない。ドランが嘘をついている可能性もゼロじゃない。ただ」
俺はスキルのログを一つ開示した。
【迷宮管理Lv.6:交渉モード記録——感情値「疲弊」98%、虚偽判定「なし」、目的整合性「高」】
「俺のスキルが感知できる範囲では、ドランは本当に疲れている。三百年間、ずっと一人でやってきた。もう休みたいというのは——嘘じゃないと思う」
ネイハルトが目を細めた。
「『思う』ですか」
「俺は門番だ。断言できる立場にない」
「……正直ですね」
「嘘をついても後で詰められるだけだ」
ネイハルトが廊下の窓の外を見た。王都の空が夕暮れに染まっている。
「カーラ副司令は反対しています。当然ですが」
「そうだろうな」
「ドレイク上席審議官は——判断を留保しました」
「つまり、否定はしていない」
「ギリギリのところで」
俺は頷いた。
「それでいい。今日のところは」
ネイハルトが俺を見た。何か言いかけて、止めた。
「……明朝、改めて会議を開きます。正式な議事として。アシダ殿にも出席を」
「わかった」
「王宮への報告は私が行います。内容は——まだ何とも」
「頼む」
ネイハルトが戻りかけた。俺は声をかけた。
「一つだけ言っていいか」
「何でしょう」
「崩落が起きてからでは、話す相手がいなくなる。交渉は、相手が存在する間にしかできない」
ネイハルトは何も言わなかった。でも足が止まった。
数秒後、扉の中に消えた。
宿に戻ったのは夜になってからだった。
部屋に入った途端、スキルが鳴った。
【迷宮管理Lv.6:外部通信チャンネル接続——ゴブより】
「調停者、聞こえる?」
「聞こえてる」
「第六層コボルドの長老が、条件つきなら動いてもいいって言い出した。あと第九層のリザードマン集落も」
思ったより早い。
「条件は何だ」
「外に出た後、二年間は『戦わない』って約束がほしいって。王国に攻撃されないってこと」
「それは俺の一存では約束できない」
「うん、わかってる。でも伝えといてって」
「わかった。明日の会議に持ち込む」
短い間があった。
「調停者」
「何だ」
「ドランが……さっきちょっとだけ何か言ってた。守護体経由で聞こえたんだけど」
「なんて?」
「『外の者は、まだいるか』って」
俺は天井を見た。
三百年間、誰にも届かなかった声が、ようやく届いたことを確認しようとしている。
「いる、と伝えてくれ」
「うん」
通信が切れた。
部屋は静かだった。
スキルの表示だけが、静かに更新され続けていた。
【迷宮管理Lv.6:深部活動値——臨界まで残り五日十七時間】
時間は待ってくれない。
明日の会議で、俺が出せるカードは全部出す。
それでも動かなければ——そのときに考える。
まあ、一手ずつだ。
翌朝、宿の扉をノックする音で目が覚めた。
開けると、見たことのない若い文官が立っていた。
「アシダ殿ですか。王宮より使いです」
渡された封書を開いた。
短い文章だった。
読んで、俺は二度見した。
差出人の名前のところに、国璽が押されていた。




