第44話「ドランの問い」
第十七層の空気は、重い。
重いというより、密度が違う。呼吸するたびに肺に何かが引っかかる感覚。ゴブが俺の一歩後ろでぴたりと足を止めたのが、気配でわかった。
「外の調停者」
ゴブが声を落として言う。
「ここから先は、ゴブも知らない場所です」
「わかった」
俺はスキルウィンドウを開いた。
【迷宮管理Lv.6:第十七層到達確認。ドラン記録媒体との距離、推定四十メートル。接触準備を推奨】
推奨、ね。
俺には戦闘スキルがない。武器も持っていない。あるのはこのスキルと、石板と、それから口だけだ。
洞窟の奥は暗かったが、目が慣れてくると光源があることに気づいた。壁面そのものが微かに発光している。青白い、冷たい光。
一歩、踏み込む。
その瞬間、スキルウィンドウが書き換わった。
【迷宮管理Lv.6:知性体との交渉モード——起動】
音が変わった。
正確には、音ではない。空気の振動、とも違う。もっと直接的に、何かが俺の頭の中に言葉を置いていく感覚。
「——来た」
低く、古い声だった。
年齢、というものがあれば千年分くらい積んでいそうな重さ。でも怒っていない。驚いてもいない。ただ、確認する声だった。
「ドランさんですか」
俺は言った。
しばらく間があった。
「その名を知る者が来るとは思わなかった」
「マイさんという方から聞きました。それと、石板も」
俺は荷物から石板を取り出した。手に持つと、わずかに温度が上がる気がした。
「——それはわたしの言葉だ」
「読めたのは四割くらいです。残りは、ここまで来ないとわからないと言われました」
「そうだ」
返事は短かった。
俺はゴブを振り返った。ゴブは洞窟の入口付近で、耳をぴんと立てて何かに集中している。どうやら声は聞こえているらしい。体をわずかに震わせているが、逃げない。
えらい。
俺は前に向き直った。
「話を聞かせてください。あなたが百三十年間、外に伝えようとしていたこと」
また間があった。今度は少し長い。
「まず、聞く。なぜ来た」
「迷宮の臨界まで、あと七日を切っています。このまま放置すると、第七迷宮が——」
「知っている」
遮られた。声に抑揚はないが、どこか疲れたような響きがある。
「七日では済まないかもしれない。わたしが崩落を抑えているのは知っているか」
俺はスキルウィンドウを確認した。
【迷宮管理Lv.6:第七迷宮深部——制御核確認。知性体ドランによる自発的安定化を検知。維持コスト、臨界値の九十三%】
九十三パーセント。
ほぼ限界じゃないか。
「知りませんでした」
「そうだろう。外の者には伝わらなかった」
「なぜ伝わらなかったんですか。百三十年、ずっと声を出していたのに」
「受け取れる者がいなかった。いても、届かなかった。届いても、黙らされた」
最後の一言が、少し重かった。
マイのことを思い出した。調査後に部署を外された彼女。記録を削除されたバイン。声を聞きながらも口を閉じた、迷宮管理局の誰か。
まあ、聞いてから判断しよう。
「あなたが伝えたかったことは何ですか」
「一つだけだ」
ドランの声が、少し変わった。抑揚がついた、というより、重心が下がった感じ。
「迷宮を、終わらせてほしい」
俺は黙っていた。
ゴブが「ひっ」と小さく声を漏らした。
迷宮を、終わらせる。
それは——第七迷宮を消す、ということか。
「もう少し詳しく聞かせてもらえますか」
「わたしは制御核として、三百年ここにいる。最初は役割だった。迷宮を維持し、生態系を保ち、内側の者たちを守る。だがいまは違う」
「違う、というのは」
「役割ではなく、義務になった。わたしが離れれば崩落する。崩落すれば内側の者が死ぬ。だからやめられない。やめたくても、やめられない」
俺はゆっくりと息を吐いた。
三百年。
俺が生まれる前から、こいつはここにいる。迷宮を維持し続けて、外に声を出し続けて、誰にも届かないまま、百三十年間。
「あなたは、迷宮をやめたいんですか」
「やめたい、という言い方が正しいかどうかはわからない。だが、このままでは限界がある。わたしの出力が落ちれば、維持できなくなる。それは今から——」
「七日、ですね」
「おそらくそのくらいだ」
スキルウィンドウが更新された。
【迷宮管理Lv.6:制御核出力、低下傾向を確認。現在のペースで残存維持期間——六日十四時間(推定)】
六日と十四時間。
誤差の範囲だ。
「内側の者たち、というのはゴブたちのことも含みますか」
「含む。第四層から第二十二層まで、全ての知性体と非知性体。わたしがいなければ、迷宮は数時間以内に崩落する」
俺は振り返った。
ゴブが俺を見ていた。大きな目が、心なしか潤んでいる気がした。
「ゴブ、聞いてたか」
「……はい」
「どう思う」
ゴブは少し考えた。珍しく、すぐに言葉が出なかった。
「ゴブたちは——ずっと知らなかったです。ドランさんが、そういう状態だということ。知性体の古老たちも、たぶん知らなかった。だから、外に逃げた。助けを求めた」
「それで俺のところに来た」
「はい」
俺はまた前を向いた。
「ドランさん。一つ確認させてください」
「なんだ」
「あなたが言う『終わらせる』というのは、内側の者たちを外に出した上で、段階的に制御を手放す、そういう意味ですか。それとも——」
「ただ消えたいわけではない」
返事は早かった。
「内側の者たちが出られるなら、それでいい。わたしは後でいい。だが外の者たちが受け入れなければ、出られない。そこが、わたしには解決できなかった」
なるほど。
そういうことか。
俺は石板を見た。
四割しか読めなかった言葉。残り六割はここで解読できるとスキルは言った。
【迷宮管理Lv.6:ドラン記録媒体——完全解読可能状態に移行。展開するか?】
展開する。
石板の表面が光った。文字列が浮かぶ。俺には読めない文字だが、スキルが翻訳する形でウィンドウに表示された。
【解読結果——「内側の者たちに出口を。外の者たちに安全を。わたしには、休息を」】
三行だけだった。
三百年かけて書いた言葉が、三行。
俺は石板をゆっくり荷物に戻した。
「わかりました」
「わかった、とは」
「交渉してみます」
「何と」
「王国と、それからゴブたちを含む迷宮内の知性体たちと。段階的な移送プランを作って、出口を確保する。外での受け入れ場所も必要になる。時間はあまりないですが、やってみます」
しばらく沈黙があった。
長い沈黙だった。
「……百三十年で、初めて言われた」
「え」
「やってみる、と言われたのは、初めてだ」
ドランの声に何かが混じった。何と言えばいいのかわからない。俺が日本語で知っている感情の言葉を全部並べても、たぶんぴったり来るものはない。
ただ、疲れていた何かが、少しだけ緩んだような、そういう気配だった。
「一つだけ条件を出してもいいか」
「どうぞ」
「六日以内に動かなければ、わたしは制御を維持できなくなる。それだけは変えられない」
「わかりました」
俺は一歩後ろに下がって、ゴブの隣に立った。
「ゴブ、帰るぞ」
「……はい」
ゴブは洞窟の入口を振り返り、それからドランがいるだろう方向に向かって頭を下げた。深く、ゆっくりと。
俺もそれに倣った。
第十七層を戻りながら、俺は頭の中で整理していた。
やることは三つある。
一つ、内側の知性体たちへの説明と移送計画の作成。ゴブが窓口になれる。ただし全層の合意が必要で、古老たちを説得しなければならない。
二つ、王国側との交渉。特別調査委員会がまだ動いているはずだ。ドレイク上席審議官か、あるいはエドゥス経由で。六日以内に迷宮外での受け入れ場所を確保する必要がある。
三つ、迷宮管理局内の情報隠蔽問題。ミッツが持っていた十三年分の記録。誰かが意図的に止めていた。そいつが動いて邪魔をする可能性がある。
どれも簡単じゃない。
でも、まあ。
話を聞いてから判断しよう。
ゴブが隣を歩きながら、小声で言った。
「外の調停者」
「なんだ」
「ドランさんは、ずっと一人でした」
「そうみたいだな」
「なのに外の調停者は、すぐ『やってみます』と言いました」
「それ以外に言うことがなかった」
「……ゴブは、外の調停者のそういうところが好きです」
俺は特に返事をしなかった。
照れたわけじゃない。ただ、適切な返し方がわからなかっただけだ。
スキルウィンドウが点滅した。
【迷宮管理Lv.6:緊急通知。王都方面より特別調査委員会解散命令が発令。理由——「第七迷宮問題の管轄移転」。移転先——王国直轄迷宮対策室(新設)】
俺は足を止めた。
委員会が、解散した。
ドレイク審議官は外された。交渉の窓口が、消えた。
残り、六日と少し。
動いた。誰かが動いた。俺がドランと接触することを知っていたわけじゃないだろうが、タイミングが良すぎる。
「外の調停者? どうかしましたか」
「ゴブ、急ぐぞ」
「え、あ、はい」
俺は足を速めた。
交渉相手が変わった。それだけだ。話を聞く相手が変わるなら、また最初から始めればいい。
問題は、時間だ。
六日で、誰と交渉すればいい。




