第43話「石板の声、臨界の前夜」
マイから受け取った石板は、手のひらに乗るほどの大きさだった。
灰色がかった表面に、細かな線刻が入っている。文字というより、何かの波形に近い。バインの部屋でも、宿でも、俺はそれを何度も眺めた。けれど素手では何も感じなかった。
宿に戻ってゴブに見せると、ゴブは一歩引いた。
「……深いところの匂いがする」
「何層くらいの感じ?」
「わからない。でも、二十三層より下かもしれない」
俺はスキルを起動した。
【迷宮管理Lv.6:記録媒体を検知——ドラン残存記録フラグメント(解読率41%)——交渉モード待機中】
昨日より解読率が四ポイント上がっている。石板を持ち歩くだけで進んでいるらしい。
「ゴブ、ドランの記録媒体って迷宮の中にどれくらいある?」
「知らない。でも昔から『光る石』の話は聞いてた。小隊長より上の連中が持ってるやつ」
「光るのか」
「暗いところで、たまに」
俺の手元の石板は光らなかった。マイが持っていた十三年間、一度も光らなかったとも言っていた。
――返事ができる形の者を待っている。
マイの言葉を頭の中で繰り返す。単に「声が聞こえる者」じゃない。「意味を処理して返せる構造を持つ存在」。
それが俺だとしたら、この石板が光っていないのはまだ俺が「返事を返せる場所にいない」からじゃないか。
スキルログを開いた。
【迷宮管理Lv.6:推定——記録媒体の完全起動には深部との直接連結が必要——接触推奨深度:第十七層以深】
十七層。バインの部隊が踏み込んだ最深部と同じだ。
「ゴブ」
「なに」
「今から七迷宮の中に入れるか」
ゴブが黙った。
長い沈黙だった。
「……臨界まで、あと何日?」
「ミッツの数値だと最短八日。今日で一日減った」
「八日で、十七層まで降りて、ドランと話して、戻れるか」
「スキルに聞いてみる」
【迷宮管理Lv.6:深部経路シミュレーション——既知ルート使用時、第十七層到達まで推定二日——ただし現状の深部活動値上昇により安全係数は低下中——推奨: 最低限の同行者と機動的な構成】
「二日で行けるらしい。戻りも入れて五日。余裕はないけど不可能じゃない」
ゴブはしばらく考えていた。
「ボクが案内する」
「分かってた」
「でも条件がある」
「聞いてから判断しよう」
ゴブは真剣な目をしていた。臆病なゴブが、こういう顔をするときは本気だ。
「もしドランが危険だったら、調停者は逃げること。交渉より先に逃げること」
俺は少し考えた。
「俺が危険と判断したら逃げる」
「調停者の判断は信用できない。楽観的すぎる」
「そうか?」
「そうだ。ボクと一緒にいて、何度危ないことをしたと思ってる」
それは反論できなかった。
「分かった。ゴブが危険だと言ったら、俺は意見を聞く。最終的には俺が決める。それでいいか」
ゴブは不満そうだったが、頷いた。
翌朝、俺はエドゥスに文書を一通送った。
内容は短い。「第七迷宮に入る。ドランへの直接接触を試みる。戻るまでに七日かかる見込み。委員会への報告はその後」。
返事が来る前に、俺とゴブは宿を出た。
王都から第七迷宮の北口まで、歩いて半日。道中、ゴブは俺の荷物に潜り込んでいた。街中では目立つからだ。門を出ると、ゴブは荷物から這い出して、先頭を歩き始めた。
「この辺りはもう知ってる匂いだ」
「ゴブの縄張りだったところか」
「今もそうかもしれない。四層は避難したメンバーが戻ってるかも」
北口の石門は、俺が初めて「墓場の門」に赴任した日に見た造りと似ていた。古い石積みに、掘り込まれた紋様。ただここには管理者がいなかった。長らく閉鎖されていたんだろう。
【迷宮管理Lv.6:北口連結点を認識——管理権限を確認中——暫定的な経路開通を試みます】
スキルが勝手に動いた。石門の紋様が薄く光って、錠前代わりになっていた石が内側に引き込まれる。
ゴブが振り返る。
「調停者がやったのか」
「スキルが勝手に」
「……本当に普通じゃない」
「そう言われても」
俺たちは中に入った。
一層から四層までは、ゴブのいた場所だ。
久しぶりに戻ったゴブは、要所で立ち止まって匂いを嗅いだ。時折、暗がりから小さな気配がした。ゴブリンが遠巻きに見ているのが分かった。
「ボクらの避難が終わってから、戻ってきてる」
「第23層の影響は?」
「深いところに押し込められてる感じはする。でも上がってきてはいない」
七層あたりから空気が変わった。
湿気が増して、石の質が違う。足元が平らではなく、緩やかな傾斜が続く。ゴブは慎重に先を確認しながら進んだ。
「十二層に見張りがいる。昔の連中じゃない」
「昔のじゃない、というのは?」
「深いところの匂いがする。十七層より下から来たやつ」
俺はスキルを確認した。
【迷宮管理Lv.6:第十二層に知性体を複数確認——敵対意図は検出されず——「待機状態」と判定——交渉モード起動可能】
「敵意はないらしい。会ってみる」
「危ない」
「まあ、聞いてから判断しよう」
ゴブは肩を落とした。
十二層の広間に出ると、三体の影が壁際に立っていた。
人型だが人間ではない。体表が岩のような質感で、目の部分だけが鈍く光っている。ゴブリンより大きく、リザードマンとも違う。
俺が近づくと、三体はゆっくりと向きを変えた。
「外の者か」
声は低く、石を引きずるような響きだった。
「そうだ。第七迷宮北口の管理者だ。ドランに会いに来た」
三体がわずかに揺れた。それが驚きの表現だと気づくまで少し時間がかかった。
「……ドランの名を知る外の者が来るのは、百三十年ぶりだ」
「百三十年前に来た者のことを知ってるか」
「知らない。我々はドランが送り出した守護体だ。記録を保有しているが、百三十年前より前の接触記録は参照できない」
俺はスキルログを見た。
【迷宮管理Lv.6:守護体を確認——ドランの直接制御下にある知性体——情報保有量: 高——交渉モード有効】
「一つ聞かせてほしい。ドランは今、話せる状態か」
守護体が沈黙した。
三体が互いに向き合うような動きをした。何かを確認し合っているように見えた。
「話せる。ただし——」
「ただし?」
「臨界が近い。深部の圧力が上昇している。ドランは自らを安定させるために意識の多くを内部に向けている。外部への出力には限界がある」
「どれくらい話せる?」
「長くは無理だ。聞きたいことを絞れ」
俺は頷いた。
「分かった。無駄なことは聞かない」
守護体が道を開けた。俺とゴブは十七層に向けて先を急いだ。
十七層に着いたのは、北口を入って二日目の昼過ぎだった。
層の造りがそれより上とはまったく違う。壁が滑らかで、人工的に整えられたような表面だった。光源がどこにもないのに、空間全体が薄く明るい。
ゴブが小声で言った。
「ボク、ここより下には来たことない」
「怖いか」
「怖い。でも来た」
「ありがとう」
ゴブは何も言わなかった。
広間の中央に、黒い柱のようなものが立っていた。高さは俺の倍ほど。表面には細かな紋様が刻まれていて、マイから受け取った石板と同じ波形のパターンが見えた。
石板を取り出した。
光った。
今度はっきりと、青白い光が石板の表面を走った。波形の刻みが順番に光って、消えて、また光る。柱の紋様も同じリズムで明滅し始めた。
【迷宮管理Lv.6:接触媒体が活性化——ドランとの直接交渉モードへ移行——注意: この交渉は記録されます】
俺は柱の前に立った。
「ドラン。俺はレン・アシダ。第七迷宮北口の管理者だ。あんたの話を聞きに来た」
空間に、音が生まれた。
音というより、圧力の変化に近い。空気が震えるのではなく、空間そのものが揺れるような感覚。ゴブが俺の隣で体を固くしているのが分かった。
やがて、声になった。
「——来た」
たった二文字だった。けれどその重さが違った。百年以上分の待機が凝縮されているような、そういう重さだった。
「遅くなってすまない」
「待つことは苦ではなかった。ただ、時間が足りなくなってきた」
「知ってる。臨界まであと七日か八日だ」
「六日だ。守護体の報告より速く進んでいる」
俺は一瞬、計算した。往復を入れると、戻りが厳しくなる。
でも今はそれより先に聞くことがある。
「ドラン、あんたは百年以上、返事ができる者を待ってたと聞いた。俺でよかったのか?」
柱の明滅が変わった。リズムが遅くなって、深くなった。
「正確には百三十二年だ。交渉モードを持つ者は珍しい。外の世界に現れるまで待つしかなかった」
「何を交渉したいんだ」
「第二十三層のことだ」
予想していた答えだった。でも続きを待った。
「第二十三層には、我がいる」
「……我?」
「かつて我は一つだった。今は二つある。表層にいる『我』と、第二十三層に封じられた『もう一つの我』だ」
俺は黙っていた。
「百三十二年前、迷宮に亀裂が生じた。外の者が持ち込んだ何かが引き金だった。我は安定を保つために自らの一部を切り離し、二十三層に封じた。しかしそれが間違いだった」
「封じた一部が暴走している」
「暴走ではない。孤立している。切り離された部分に意識はある。しかし外と繋がる手段を失って、圧力を蓄積し続けている。それが今の臨界だ」
俺は深呼吸した。
「つまり、あんたが切り離した自分自身と——再接続したい?」
「そうだ。しかし我だけでは届かない。境界に干渉できる外部の調停者が必要だ」
「俺に境界を開けと言ってるのか」
「そうではない。境界を開けるのは我がやる。しかし開ける前に、二十三層の我に『応答する』者が必要だ。孤立した意識は、外から応答があって初めて再接続できる。そのために百年以上、交渉モードを持つ者を待っていた」
俺は石板を見た。波形が複雑なリズムを刻んでいる。
「俺が二十三層に降りて、そこの『もう一つのドラン』に話しかけると?」
「それだけでいい。返事をする必要はない。ただ——人語で、意味のある言葉を届けてほしい。それが応答の代わりになる」
まあ、聞いてから判断しよう——と思ったが、もう十分聞いた。
「一つだけ確認させてくれ。二十三層に降りた時、俺は安全か」
柱が静かになった。
長い間があった。
「……保証はできない」
正直な答えだった。誤魔化しがないぶん、信頼できると思った。
「分かった」
ゴブが俺の袖を引いた。
「調停者」
「聞いてる」
「約束を覚えてるか」
「ゴブが危険だと言ったら意見を聞く、だろ」
「危険だ」
「知ってる」
「知ってて行くのか」
「行かなかったら六日で臨界だ。そうしたら迷宮の外まで影響が出る。王都まで何十万人いると思う」
ゴブは黙った。
「ゴブは十七層で待っていてくれ。もしドランとの接触がうまくいかなかったら、守護体に頼んで出口まで案内してもらえ」
「調停者が戻らなかったら?」
「その時は——」
俺は少し考えた。
「その時はエドゥスに全部話してくれ。俺が集めた情報はゴブが全部持ってる。ミッツとバインとマイのことも。誰かが続きをやってくれるはずだ」
ゴブはしばらく俺を見ていた。
緑色の、小さな目だった。最初の夜に門を叩いてきた時と同じ目だ。ただあの時より、何かが増えている。
「……戻ってこい」
「まあ、そのつもりだ」
俺は柱に向き直った。
「ドラン。二十三層への道を教えてくれ」
柱の明滅が一度大きく輝いて、広間の奥の壁に、これまでなかった通路が現れた。
石板の波形が、新しいリズムを刻み始めた。
俺は歩き出した。




