第42話「マイという名の答え」
バインが語りはじめた言葉を、俺は遮らなかった。
「マイは……今でも生きています。王都の北側、薬師街の一角に」
老いた元調査隊長は、窓の外を見ながら続けた。
「ただ、十三年前の調査から帰って以来、あまり人と話したがらない。特定の音が聞こえすぎるようになった、と言っていました。雑踏の中に居られなくなって」
「ドランの声が、まだ届いているんですか」
「さあ。それは本人に聞いてみないと」
バインが俺の顔を正面から見た。
「あなたなら、話してくれるかもしれない」
荷物袋の中でゴブが小さく動く気配がした。俺は袋の口を少し緩めながら、立ち上がった。
「場所を教えてもらえますか」
薬師街は王都の北側で静かに機能している区画だった。
薬草の乾いた匂いと、石畳に落ちる午後の光。通行人の数は少なく、声も控えめだ。
バインに教えてもらった路地を曲がると、小さな調合所を兼ねた住居があった。看板には「薬草・調合 マイ工房」とある。飾り気のない文字だった。
「入ってみよう」
ゴブが袋の中から囁く。
「調停者、ここ、なんか変だ」
「変?」
「音が……少ない。建物の中も、外も。ボクの耳には、なにか覆いがかかってるみたいに聞こえる」
俺はドアをノックした。三回。
少しの間があって、引き戸が開いた。
出てきたのは、三十代半ばくらいに見える女性だった。背が低く、髪を後ろで無造作にまとめている。エプロンには薬草の染みがいくつかついていた。目が細い。警戒しているわけではなく、光を絞っているような、そういう細さだ。
「お客?」
「はい。バインさんの紹介で来ました。マイさんでしょうか」
彼女の目が一瞬だけ変わった。細い目の奥で、何かが動いた。
「……バインが、誰かを寄越した」
「レン・アシダと言います。第七迷宮の北口で門番をしています」
マイはしばらく俺の顔を見ていた。品定めというより、聞き取りをしているような様子だった。
「入りなさい」
調合所の奥は、思ったより広い部屋になっていた。
棚に瓶が並んでいる。書物が積まれている。机の上には途中の作業が置いてある。生活と仕事が混ざり合った、正直な空間だった。
マイは椅子を二脚出して、それぞれ向かい合う位置に置いた。
「何が聞きたいの」
「ドランのことです」
彼女は反応しなかった。正確には、反応を外に出さなかった。
「十三年前の調査で、あなたとルシさんという方が、ドランの発する音を知覚したと聞きました。バインさんが報告書に書いて、消された記録です」
「よく知ってるね」
「記録部長のミッツさんが、非公式の記録を持っていました」
マイは少し目を閉じた。
「ミッツも……まだそれを持ってたんだ」
「ドランが待ち続けている、と。十三年前、あなたはそう言っていたそうですね。『返事ができる者を』と」
マイが目を開いた。
「正確には、こう聞こえた。『——まだ来ない。返事ができる形の者を待っている』」
俺はそれを、頭の中で繰り返した。
「『形』という言葉が入っていた」
「そう。最初は意味が分からなかった。でも後から考えると、ドランは単純に人間を待っていたわけじゃない、って気がした。返事ができる『構造』を持った存在を、ということかと」
荷物袋がわずかに揺れる。俺はそれを無視して続けた。
「構造、というのは」
「私が勝手に解釈した言葉だけど。ドランの発するものを受け取れるだけじゃなくて、意味として処理して、返せる。そういう……仕組みを持った者、という感じ」
スキルの通知が頭の隅で光った。
【迷宮管理Lv.4:交渉モード対応知性体との潜在親和性 確認継続中】
俺は通知を横に置いて、マイを見た。
「あなた自身は、返事ができましたか」
マイは少し間を置いた。
「できなかった。受け取れたけど、送り返せなかった。ルシも同じだった。だからドランは私たちを認識したと思うけど、まだ待ち続けていた」
窓の外で風が動いた音がした。
「今も聞こえますか。ドランの声が」
「……たまに」
マイが視線を机の上に落とした。
「この街の中では、ほとんど届かない。迷宮から遠すぎるから。でも夜中、静かな時に。かすかに。『——まだか』って」
同じ言葉だ。ミッツが聞いたのと。
「百年以上、ずっとその言葉を送り続けていたんだ」
俺が呟くと、マイが顔を上げた。
「百年以上?」
「二十七年前の記録にも残っていました。もっと古い記録を調べれば、もっと前から続いていると思います」
マイは黙った。
天井を見て、何かを計算するように、あるいは感じ直すように、しばらくそのままでいた。
「……そんなに長く」
「はい」
「それで、あなたは何をしにここへ来たの」
俺は正直に答えた。
「ドランと話をしにいくつもりです。深部の活動値が上がっていて、最短で十日以内に臨界に達するという情報があります」
「臨界って」
「迷宮が制御できない状態になる、ということです。詳細はまだ分かりません。でも放置はできない」
マイは俺の顔を見た。さっきより、ずっと真剣な目だった。
「あなたは、ドランと話せると思ってるの」
「まあ、聞いてから判断しよう、というのが俺のスタンスなので」
マイが少し目を細めた。笑ったわけではない。ただ、何かが緩んだような顔だった。
「変な人ね」
「よく言われます」
「ドランと話せるとして、何を話すつもり」
「それも聞いてから決めます。ドランが何を待っていたか。何のために待っていたか。百年分の理由があるはずなので、まずそれを聞く」
マイはしばらく俺を見ていた。
「……一つだけ、教えてあげる」
彼女は立ち上がり、棚の奥から小さな木箱を取り出した。中に、薄い石板が一枚入っていた。指の幅くらい、掌に収まるサイズだ。
「これ、迷宮の十七層で拾ったもの。当時は何だか分からなかったけど、持ち帰ったら、たまに温かくなる」
俺は石板を受け取った。
手のひらに乗った瞬間、スキルが反応した。
【迷宮管理Lv.4:深部由来の記録媒体を検知。第二十三層以深の知性体が生成した可能性。解読フラグメント取得中——】
「これ、ドランが作ったものかもしれません」
「やっぱり」
マイが静かに言った。
「温かくなるたびに、誰かに届けなきゃいけない気がしてた。でも誰に届けるか、分からなくて、ずっと持ってた」
「俺に、ということで」
「持って行きなさい。それがそこへ行く理由になるかどうかは、あなたが決めることだけど」
俺は石板を袋に入れた。ゴブが袋の中で「なんか熱い」と囁いたが、俺は黙って蓋を閉めた。
「もう一つだけ聞かせてください」
「何」
「ルシさんという方は、今どこに」
マイの顔が、少し変わった。
「ルシは……三年前に死んだ。病気で」
「そうですか」
「ただ、死ぬ前に一度だけ話したとき、こう言ってた」
マイが窓の外を見た。
「『あの声の人は、悪い人じゃなかった。ただ、ものすごく、待ち疲れてた』って」
部屋に静けさが戻った。
俺は少しの間、その言葉を持ったまま座っていた。
「ありがとうございました」
立ち上がりながら言うと、マイが首を振った。
「礼を言うのは早い。戻ってきてから言いなさい」
「戻ってきたら、改めて」
「ドランに伝えて」
マイが俺の目を見た。
「もう待たなくていい、って。遅くなって申し訳なかった、って。私じゃ届けられなかったけど、あなたなら届けられるかもしれないから」
俺は頷いた。
「伝えます」
薬師街を出て、大通りに戻ったところで、荷物袋の中からゴブが顔を出した。
「調停者」
「なんだ」
「石板、まだ熱い。ジンジンする」
「我慢しろ」
「ゴブは我慢してる。でも……」
ゴブが少し声を低くした。
「ドラン、ずっと待ってたんだな。百年も」
「そうらしいな」
「ゴブたちは、ドランのことが怖くて逃げてた。でも……ただ待ってただけの奴が、そんなに怖いわけないよな」
俺は答えなかった。
でも否定もしなかった。
石板の入った袋が、腰のあたりで、かすかに温かかった。
【迷宮管理Lv.4:深部由来記録媒体フラグメント解読率 31%。解読が進むにつれ、交渉モードの精度が向上する可能性あり】
臨界まで、最短十日。
俺が門番の仕事に就いてから、交渉の相手はゴブリンから始まって、商人になり、王国の官僚になり、伯爵になった。
次の相手は、百年以上待ち続けている迷宮の深部にいる何かだ。
まあ、聞いてから判断しよう。
それだけは変わらない。
宿に戻ると、エドゥスが部屋の前で待っていた。
表情が、珍しく固い。
「アシダさん。一つ、報告があります」
「どうぞ」
「委員会でドランの名に反応したとお伝えした、もう一名の人物。第七騎士団方面に向かったと言っていた未特定の者ですが」
エドゥスが一拍置いた。
「判明しました。迷宮管理局の、現局長補佐です」
俺は少しだけ考えた。
「つまり、十三年前にバインさんの報告書を握り潰した側の人間が、ドランの名を知っていた」
「はい」
「そして今も、知っている」
「はい」
荷物袋の中でゴブが息を呑む気配がした。
「もう一つ」
エドゥスが続けた。
「その局長補佐が今日の午後、第七迷宮北口へ向けて出発したという情報があります。供回りは三名。目的は……公式には視察、とのことです」
俺は宿の扉を開けながら言った。
「急ぎましょう」




