第41話「元隊長は眠らない」
迷宮管理局の建物を出たとき、空はもう夕暮れの色に変わっていた。
石畳の上に伸びる影が長い。俺は肩から提げた革鞄の重さを確かめる。中にはミッツ記録部長から受け取った十三年分の非公式記録が入っている。
「レン、バインという人物の住所はわかったのか」
鞄の中からゴブの声。くぐもっているが、今日は人の往来が多いから我慢してもらっている。
「ミッツさんが書いてくれた。王都の東区、元軍人向けの集合宿舎だ」
「行くのか」
「まあ、聞いてから判断しよう」
俺は地図を折りたたんで懐に入れた。
東区は繁華街から離れた地区で、現役を退いた騎士や傭兵が安く借りられる長屋が並んでいる。石造りだが古い。壁に蔦が這って、窓は小さい。
目的の建物の前に立つ。表札も看板もない。ミッツさんに聞いた部屋番号を確認して、木の扉をノックする。
返事がない。
もう一度。
「……誰だ」
低い声。男の声。警戒が滲んでいる。
「第七迷宮管理局の調停区設置に関わっている者です。ミッツ記録部長の紹介で来ました。シオル・バイン元隊長に話を聞きたい」
沈黙。
三十秒は待った。
ドアが開いた。
部屋は狭かった。
寝台、机、椅子一脚。窓は外側から板で半分塞がれている。壁に地図が貼ってある。第七迷宮の構造図だ。書き込みが多い。鉛筆と赤のインクで、びっしりと。
シオル・バインは五十代に見えた。白髪交じりの短い髪。顔に深い皺。座ったままで俺を見上げる目は、疲れているが鋭い。
「門番か」
「はい」
「座れ」
椅子は一脚しかない。バインが顎で促した先は、寝台の端だった。俺は静かに腰を下ろした。
「ミッツが俺を紹介したということは、お前はドランの名前を知っているということだ」
確認するような言い方。
「知っています。委員会でも話しました」
「見た。廊下で立ち聞きした」
俺は少し驚いた。
「委員会に来ていたんですか」
「招集されてなかったが、な」
バインは机の上の水差しから直接口をつけて飲んだ。俺への同意も確認もなく、ただ淡々と動く。隠居した老兵というより、今もどこかと戦っている人間の動き方だ。
「何を知りたい」
「十三年前の調査で、何があったか」
「ミッツから聞いたんじゃないのか」
「ミッツさんは自分の経験を話してくれました。でもミッツさんは第九層から十層の境界で引き返した。あなたはもっと深く行ったはずだ」
バインは俺を見た。何かを測るような目。
「第十七層まで行った」
そう言って、壁の地図に視線を移した。
「十三年前、俺は第七迷宮調査第三隊の隊長だった。第十五層からが未調査区域だった。王国直属の特別任務だ」
バインは机の引き出しを開けて、一冊のノートを出した。表紙は擦り切れている。
「第十六層に入ったとき、隊員の一人が言った。『何かが聞こえる』」
「声ですか」
「声とも呼べない。音だ。ただし方向がある。下から来ていた」
俺はスキルの表示を確認した。
【迷宮管理Lv.7:接触記録参照中——既知パターンとの照合開始】
既知パターン。ドランの信号だ。
「あなたも聞こえましたか」
「俺には聞こえなかった。ミッツも聞こえなかったと言っただろう」
「言っていました」
「聞こえたのは二人だ。ルシという女と、マイという若い男。二人だけ」
バインはノートを開いた。文字が細かく並んでいる。
「ルシは第十七層で止まれと言った。それ以上進むと戻れなくなると。根拠はないが、俺はそれを信じた。経験からだ。部下が『止まれ』と言うとき、大抵何かがある」
「正しい判断だったと思います」
「わからん。今でも正しかったかどうか、わからん」
バインは静かに言った。自分を責めているわけでもなく、後悔しているわけでもない。ただ、まだ答えが出ていないということだ。
「帰還後、報告書を提出した。声のことも書いた。ルシとマイの証言も書いた。それが局長に却下された」
「却下」
「書き直せと言われた。声に関する記述を全部削除しろ、と」
俺は静かに聞く。
「なぜ削除するように言われたか、理由の説明はありましたか」
「『迷宮内の音響異常は調査員の心理的負荷によるものと判断する』。それだけだ」
バインは苦く笑った。
「俺は従わなかった。元の報告書は提出した。一週間後に隊長職を外された。ルシは所属部隊ごと北方に転属になった。マイは……退職している。今どこにいるか知らない」
鞄の中で、ゴブが静かにしている。余計な声は上げない。賢い。
「バインさんに聞きたいのは、技術的な話だけじゃないんです」
俺は言った。
「ドランが百年以上、誰かを待ち続けているという話を知っていますか」
バインの眉が微かに動いた。
「ドランという名前自体、十三年前に初めて聞いた。深層の住人に伝わる言葉だと」
「ルシさんかマイさんが話していましたか」
「マイが言った。第十七層で引き返す前に。『ドランがまだ起きている』と」
俺はそこで一度、言葉を止めた。
「マイさんは今、どこにいるか」
「知らない。本当に」
「探す方法はありますか」
バインは少し考えてから答えた。
「退職届を出したのは十三年前の冬だ。当時の住所は王都の南区だが、もういないだろう。ミッツが退職記録を持っているはずだ。俺は……頼める立場じゃなかった」
最後の言葉が少し重かった。
「バインさん」
「なんだ」
「第七迷宮の深部活動値が、今上がっています。臨界まで最短十日という試算が出ている」
バインは表情を変えなかった。しかし手がノートの上で止まった。
「十日か」
「ミッツさんから聞きました。委員会で俺がドランの名を公表した後から急激に上昇しています」
「それはつまり」
「ドランが、動こうとしているということだと俺は解釈しています」
バインはゆっくりと椅子を引いて、壁の地図を正面から見た。第十七層に、赤いインクで大きく×印がついている。
「俺が引き返した場所だ」
「知っています」
「あそこから先に行ったのは、七調査隊だけじゃない。二十七年前の先代調査隊も同じ場所で戻っている。たぶん構造的に、それ以上は行かせないようになっている」
「今もそう思いますか」
バインは振り返って俺を見た。
「お前は行くつもりか」
「まだわかりません。ただ、ドランが待っている相手と話ができる可能性があるなら、逃げるより話した方が良い結果になると思っています」
「根拠は」
「スキルです」
正直に言う。
「俺の迷宮管理スキルが、ドランとの親和性を検知しています。信号の受信が確認されています。これが何を意味するか、まだ全部は理解していません。でも、無視できる情報でもない」
バインはしばらく黙っていた。
俺は続きを待った。急かさない。
「……マイが言っていたことがある」
ゆっくりと、言葉を選ぶように。
「ドランは『返事ができる者』を待っている、と。百年以上かけて外に声を届けようとしたが、誰にも届かなかった。届いたとしても、返事ができなかった」
「はい」
「お前には届いているのか」
「届いています」
「返事は」
俺は少し考えた。
「まだしていません。でも、できると思います」
バインは静かに頷いた。
帰り際、バインが立ち上がって部屋の隅の棚を開けた。中から一冊の古びたノートを取り出す。
「これはマイのものだ。転属の混乱で荷物を置いていった。ずっと持っていた」
差し出されたノートを受け取る。
「返せるかもしれないので持っていろ。それと」
バインは一度止まった。
「調停者とやら、お前に一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「ドランが外の誰かに届けようとしていたのは、なぜだと思う。ただ話したいだけなら、迷宮の中の誰かに話せばいい。なぜ外へ向かって声を出し続けた」
俺は考えた。
「中に閉じ込められているから、じゃないかと思っています」
「閉じ込められている」
「ドランが動けない理由がある。だから外に出られる者に、メッセージを送るしかなかった。百年以上、ただ待ちながら」
バインは何も言わなかった。
ただ、表情が少し変わった。何かが腑に落ちたような、あるいは長年の疑問がやっと形を持ったような、そういう顔だった。
宿に戻ってから、ゴブを鞄から出してやった。
「レン、バインという人間は信用できるか」
「できると思う。ただ組織に傷つけられた人間だ。もう一度俺から頼みごとをするのは難しい」
「マイという人物を探せるか」
「ミッツさんに頼む。退職記録があるはずだ」
俺はマイのノートを机の上に置いた。表紙を開けずに、しばらく眺める。
「ゴブ、第十七層から先に行ったことがある魔物はいるか」
「古い話なら聞いたことがある。百年以上前に、深層から使者が来たという伝承だ。でも詳しい者はもういない」
「使者」
「ドランが送ったものだと言われている。でも人間の世界と交渉するためではなく、迷宮の中の秩序を保つために動いていたと聞く」
俺はスキルの表示を確認した。
【迷宮管理Lv.7:新規フラグメント取得——「使者機能」解読率14%】
使者機能。
初めて出てきた言葉だ。
「ゴブ、ドランは今も迷宮の中の秩序を守ろうとしていると思うか」
ゴブは少し考えてから言った。
「第二十三層の異常が起きたのは、ドランが弱っているからだという話を聞いたことがある。ドランが動けなくなると、深層の均衡が崩れる。アレが出てくるのもそのためだ、と」
「それはどこから聞いた話だ」
「ゴブリン族の古老だ。もう死んでいる。俺が子供の頃に一度だけ」
俺は静かに頷いた。
ドランが外に声を送り続けていた理由が、少しずつ形になってきた。話し相手が欲しいのではない。助けを求めていたのかもしれない。百年以上、ただ一人で何かと戦いながら。
マイのノートに手をかける。
表紙をめくると、最初のページに一行だけ書かれていた。
——第十七層で、ドランが「疲れた」と言っていた。
翌朝、俺はミッツさんに手紙を書いた。
マイの退職記録の照会。それと、局内の隠蔽に関与した可能性がある上位者への接触を、今すぐ避けてほしいという警告。
手紙を封筒に入れながら、ゴブが言った。
「レン、十日で何ができる」
「わからない」
「正直だな」
「でも、動ける情報は揃ってきた。マイを見つけて、ドランとの接触方法を確認して、隠蔽の黒幕を特定する。その順番で動く」
「全部同時に動かないといけないかもしれない」
「そうなったらそうなったときだ」
ゴブがふうと息を吐いた。
「レン」
「なに」
「ドランが疲れたと言っていたとして、百年以上待ち続けて、それでも返事を待っているということは」
「うん」
「まだあきらめてないということだろう」
俺は少し黙った。
「そうだな」
「ならばレンが行けばいい。百年待たせた答えを、持っていけばいい」
俺は返事の代わりに立ち上がって、封筒を手に取った。
十日。ドランが待ち続けた時間からすれば、ほんの一瞬だ。
だが俺にとっては、十日が全部だった。
問題は、マイが今どこにいるかだ。ミッツさんの返事が来る前に——扉をノックする音がした。




