第40話「記録部長の秘密」
「あなたは、誰ですか」
アルバ・ミッツは俺を見た。
五十代くらいだろうか。迷宮管理局の制服を着た、細身の女性だ。白髪交じりの髪を束ね、眼鏡の奥から静かな眼差しを向けてくる。威圧感はない。ただ、見抜こうとしている。
「門番です」
「門番」
「第七迷宮の北口を管理しています。名前はレン・アシダ」
ミッツは少し沈黙した。資料館の棚が四方を囲み、羊皮紙の匂いが漂っている。窓から入る午前の光が、埃をゆっくり動かしていた。
「……ああ」
彼女はそう言って、手に持っていた記録簿をそっと棚に戻した。
「先日の委員会に出席されていた方ですね」
「はい」
「ドランの名を、公開した」
「しました」
返事は短く、俺も短く返す。ミッツは俺の隣を通り過ぎ、資料館の奥のテーブルへ向かった。座れ、という意味だと受け取って、俺も歩く。
テーブルには既に、何冊かの記録簿が積まれていた。
「偶然に来たわけではないでしょう」
「はい」
「エドゥス審議官の紹介ですか」
「間接的には」
ミッツは眼鏡を外し、レンズを拭いた。丁寧な動作だった。
「十三年前の記録を、見に来た」
俺は否定しなかった。
彼女は眼鏡をかけ直して、積まれた記録簿の一冊を取り出した。表紙には「第七迷宮内部音響記録・分類別——私的整理」とある。公式の書式ではない。彼女個人の字だ。
「見てもいいですか」
「あなたが来ることは、わかっていました」
俺は少し止まった。
「わかっていた?」
「スキルログに出ていたでしょう。ドランが信号を送り続けているのなら、それを受信できる者が現れると。——私も、十三年前に受信した一人です」
彼女は記録簿を開いた。俺の方へ向けて、読めるように置く。
「当時、私は第七迷宮の内部環境調査に同行しました。第十層まで。それ以上は管理局の許可が出なかった。帰り道、第九層と第十層の境界付近で——声を聞きました」
記録簿には、その日付と場所、そして短い文章が書かれていた。
「——まだか」
それだけだった。
「それだけですか」
「それだけです。でも確かに聞こえた。隣にいた同僚には聞こえなかった。私だけに」
ミッツは記録簿のページをめくった。次のページには、音響測定の数値が並んでいる。彼女は当時、測定装置を持っていて、数値として記録しようとした。でも装置は何も反応しなかった。
「声は残りませんでした。でも私の記憶には残った」
【迷宮管理Lv.7:音響記録との照合——既存フラグメントと一致率82%、「まだか」は外部接触待機状態での定期送信と推定】
スキルログが静かに動いた。俺は画面を閉じずに、もう少し見る。
「その後、あなたは記録を?」
「上には報告しませんでした」
「なぜ」
「信じてもらえないと思ったから、ではありません」
ミッツは静かに言った。
「信じてもらえる人間が、いることが怖かったんです」
俺は少し考えた。
「詳しく聞かせてもらえますか」
「——ドランの名は、この局の中でも知っている人間がいます。私が調べた限り、過去七十年の間に少なくとも四名。内部記録に名前がある。全員、自分の記録を正式に提出していない」
「なぜ」
「上位の誰かが、受け取っていたから」
俺は少し前に傾いた。
「受け取って、隠していた、ということですか」
「そう思っています。証拠はない。でも状況が一致する。報告書が上がった形跡がない。当事者が異動させられている。私自身、あの調査の後、第七迷宮担当から外されました。他の部署に回され、三年後にこの記録部に配置されました」
「配置されたのは、偶然ですか」
ミッツは微かに笑った。
「さあ。でもここに来て気付いたことがあります。この部署には、表に出ていない記録が多い。整理されているようで、特定の条件で参照不可になっているファイルがある。第七迷宮関連、第二十三層関連、そしてドランの名前が含まれるもの」
「誰が参照不可にしたか、わかりますか」
「わかりません。権限が高すぎて追えない」
沈黙が落ちた。
俺はテーブルの上の記録簿を見た。それからミッツを見た。
「あなたは今、なぜ俺に話してくれているんですか」
「あなたが委員会でドランの名を出したから」
「それだけですか」
「——委員会の後、スキルログの観測値が変化した記録が、この部署に自動送信されてきました。第七迷宮の深部、第二十三層方向の活動値が上昇しています」
ミッツは別の書類を出した。数値のグラフだ。折れ線が、委員会の日付を境に急勾配になっている。
「これを見た時、もう時間がないと思いました。誰かが来るのを待つより、来た人間に話す方がいい」
俺は数値を確認した。
【迷宮管理Lv.7:深部活動値——現在値7.4(通常比340%)、増加速度は直近48時間で1.8倍に加速、臨界予測は早ければ10日以内】
十日。
思ったより早い。
「ありがとうございます」と俺は言った。「話を聞かせてくれて」
ミッツは少し目を細めた。
「お礼を言われるとは思いませんでした」
「聞かせてもらわなければ、わからなかったことがたくさんあった」
俺は立ち上がる前に、もう一つ確認した。
「委員会でドランの名に反応した人物が、あなた以外にもう一人いました。廊下の方向に動いた人間です。心当たりはありますか」
ミッツは少し考えた。
「廊下……」
「背丈は俺より少し高い。黒い上着でした」
「——シオル・バイン、かもしれません」
「どんな人物ですか」
「迷宮調査隊の元隊長です。今は民間にいる。でも過去に、第七迷宮の第十五層まで到達した記録がある」
【迷宮管理Lv.7:シオル・バイン——登録なし、民間調査者リストで確認可能、備考欄に「接触禁止」マーク有】
接触禁止。
「その人物に会う方法はありますか」
「王都の西区に宿を取っていると聞いています。以前から定期的に王都に来る。——理由は第七迷宮の情報を追っているから、だと私は推測しています」
「あなたは会ったことがありますか」
「一度だけ。五年前。彼はドランの名を知っていた。私が試しに口にしたら、すぐに反応した。でもそれ以上は話してくれなかった」
「なぜ」
「『危険だ』と言いました。誰にとっての危険なのかは、教えてもらえなかった」
俺はそれを頭に入れた。
「一つだけ教えてください」とミッツは言った。「あなたは、ドランと接触するつもりですか」
「はい」
「怖くないんですか」
俺は少し考えた。
「怖いかどうかはよくわかりません。でも話を聞かないと判断できないことがある。それだけです」
ミッツはまた少し目を細めた。今度は違う表情だった。
「——そうですか」
彼女は記録簿を閉じた。
「一つ、渡せるものがあります」
棚の方へ立って、鍵のかかった引き出しを開ける。中から薄い冊子を取り出した。
「私が十三年かけて集めたものです。正式には提出していない。でも本物です。ドランの名が含まれる記録の断片を、拾えるだけ拾ってまとめました」
受け取ると、手が少し重くなった気がした。気のせいかもしれないが。
「ありがとうございます」
「使えるかどうかはわかりません。でも——あなたなら、ちゃんと読んでくれると思った」
「読みます」
「それから」
ミッツは俺を呼び止めた。
「シオル・バインに会う時、気をつけてください。彼は人を警戒します。特に管理局側の人間を」
「俺は門番ですが」
「それは——むしろ、よかった」
彼女は少し苦く笑った。
「管理局の人間でないなら、話してくれるかもしれない」
資料館を出ると、外の光が眩しかった。
俺はしばらく石畳の上で立ち止まって、受け取った冊子の表紙を見た。タイトルは何もない。ただ日付だけ書かれている。最初の日付は三十一年前だ。
ミッツより前から、誰かが集めていた。
彼女はそれを引き継いだ。
「……まあ、聞いてから判断しよう」
声に出したのは自分でも気づかなかった。独り言だ。ゴブがいれば「また言ってる」と小声で言うところだが、今は宿にいる。
荷物の中の冊子を持ち直して、歩き始めた。
西区の宿。シオル・バイン。
接触禁止マーク。
十日以内の臨界予測。
情報が増えるほど、核心に近づいている感覚はある。でも同時に、増えた情報の分だけ、まだ見えていないものの輪郭が浮かんでくる。
ドランの名を知っている人間がいる。
その記録を隠している人間がいる。
その上に、さらに誰かがいる。
俺は足を止めなかった。
西区の方向へ、そのまま歩き続ける。シオル・バインが話すかどうかはわからない。でも会ってみないとわからない。それだけだ。
【迷宮管理Lv.7:西区方面に潜在的接触対象を検知——接触成功確率:推定42%、ただし接触者の属性によって変動有】
四十二パーセント。
悪くはない。
半分以下だが、試す価値はある。
そして俺が「外の調停者」として動き始めてから、スキルの確率推定が外れたことは一度もなかった。正確には、俺がちゃんと話を聞いた時には。
冊子の中に何が書かれているか、まだわからない。
シオル・バインが何を知っているか、まだわからない。
「接触禁止」が誰の命令か、まだわからない。
でも、十日で臨界に達するなら。
話を聞いている時間は、そんなに残っていない。




