第39話「名前を知る者たち」
宿の窓から王都の夕暮れを眺めながら、エドゥスの言葉を頭の中で繰り返した。
委員会でドランの名に反応した不明の人物が二名。
セルディン伯爵は反応した側にいない。あの人は名前を知っていながら、知らないふりをした。では残り二名は何だ。知識として持っていたのか、それとも――もっと直接的な接触があったのか。
「なあ、ゴブ」
荷物袋から顔だけ出したゴブが、警戒した目でこちらを見た。
「なんだ、外の調停者」
「ドランの名を知っている人間がいたとして、それはどういう経路で知りうるものだと思う」
ゴブは少し考えてから、口を開いた。
「……普通は知らない。迷宮の深部のことは、上の層の者でも曖昧にしか知らないからな。ボクらが伝承として持っているのは、代々の先輩から聞かされたからだ」
「人間には伝わっていない」
「伝わる経路がない。二十三層に近づける人間が、そもそもほぼいない」
まあ、聞いてから判断しよう。
今夜中に動くより、明日エドゥスからもう少し詳細を引き出した方がいい。焦って動いて情報が歪むよりは、丁寧に確認した方が結果が正確になる。
それに、もう一つ気になることがある。
俺はスキルログを開いた。
*【迷宮管理Lv.4:深部探知モード】
第七迷宮・第二十三層――発信信号強度:68(前日比+11)
交渉モード保持者との親和性検知:継続中
新規フラグメント取得:『接触準備段階・外部確認待ち』
接触準備段階。
ドランはこちらが王都にいる間にも、何らかの確認作業を続けている。百年以上待ち続けてきた存在が、今になって急いでいる。なぜだ。
「ゴブ、第十二層のトレントの件、続報は来ているか」
「昨夜、ボクの仲間から伝言がきた。トレントだけじゃない。十四層の水脈も、深部の方向に引き寄せられているらしい」
「水脈が動いた」
「ああ。迷宮の水は第二十三層より下から湧いている。それが揺れているということは……」
ゴブは言葉を止めた。
言葉にしなくても分かった。ドランが動き始めている。待ち続けていた存在が、待つことをやめようとしている。
タイムリミットは思ったより短いかもしれない。
翌朝、エドゥスが宿に来たのは朝食の時間が終わる前だった。珍しく顔色が悪い。
「早いな」
「のんびりしている時間はなくなりました」
エドゥスは椅子を引いて、俺の向かいに座った。テーブルの上に、折り畳まれた紙を置く。
「昨日の委員会の二名ですが、一人は特定できました」
「聞かせてくれ」
「審議官ドレイク様の隣に座っていた方、ご記憶ですか。眼鏡をかけた、細身の文官です」
覚えている。発言はほとんどしなかったが、採決では賛成票を入れていた人物だ。
「アルバ・ミッツという名前で、迷宮管理局の記録部長です。表向きは迷宮探索の記録や素材の分類を管理する部署の長ですが……」
エドゥスが紙を開いた。そこには、細かい字でいくつかの名前と日付が書かれていた。
「十三年前、第七迷宮への学術調査団の記録担当として派遣された記録があります。その調査団は第十七層までしか到達していません。しかし調査記録の中に、第二十三層方向からの『音響記録』が含まれていると、私の情報源は言っています」
「音響記録」
「声です。言語としての構造を持つ、何者かの声が記録されたということです。内容は管理局の金庫に保管されていて、外部には公開されていない」
俺はゆっくりと息を吐いた。
十三年前、迷宮管理局はドランの声を記録していた。そして公開しなかった。
「ミッツ記録部長は、その声の存在を知っている」
「知っているどころか、管理している可能性が高い。だから委員会でドランの名前が出た瞬間、反応した」
「もう一人は」
エドゥスが少し間を置いた。
「そちらはまだ特定できていません。ただ、委員会に出席していた人物の中にいないかもしれない」
「どういうことだ」
「ドランの名を聞いた時、廊下の外で足音が止まった、という話があります。会議室の外を通りかかった、あるいは意図的に聞き耳を立てていた誰かが、名前に反応して立ち止まったと」
廊下。
委員会の関係者以外が、あの場所にいた。
「名前は分からないか」
「廊下は記録されていません。私の情報源が気づいたのは、足音が止まったことだけです。しかし……その方向から、迷宮管理局ではなく、第七騎士団の方面に向かう足音が続いたと」
第七騎士団。
王国の軍事部門の一つ。迷宮攻略を専門とする部隊ではなく、国境警備と治安維持が主任務のはずだ。第七迷宮とは直接的な関係がない部署だが――
「まあ、聞いてから判断しよう」
俺は紙をエドゥスに返した。
「ミッツ記録部長に会う方法を教えてくれないか。公式の場ではなく、個人として話したい」
「難しくはありません。彼は毎週水曜の昼、迷宮管理局に隣接した資料館で個人研究の時間を取っています。今日は水曜です」
タイミングが良すぎる気もするが、好機を見送る理由はない。
迷宮管理局資料館は、王都の中でも古い建物の一つだった。石造りの壁は百年以上の歴史を持つと、入口近くの案内板に書いてある。
ゴブは今回も荷物袋に入ったまま。
「動くな、声も出すな」と言ったら、「分かってる」と拗ねたように答えた。こいつはこういう状況に慣れてきている。良いのか悪いのか。
資料館の内部は静かだった。書架が何列も並んで、奥の方に読書用の机が置いてある。人の気配は少なく、受付の老人が一人、うつらうつらしていた。
奥の書架の陰に、眼鏡をかけた細身の男が座っていた。大きな台帳を広げて、何かを照合している。
アルバ・ミッツ、迷宮管理局記録部長。
俺が近づくと、顔を上げた。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ鋭くなる。
「失礼します。少しお時間をいただけますか」
「……誰だ、あなたは」
「レン・アシダです。第七迷宮の門番をしています。昨日の特別調査委員会に参考人として出席しました」
ミッツの表情が固まった。
「門番が何の用だ、ここで」
「ドランについて、お話を聞きたいと思いまして」
静寂。
書架の間を、乾いた空気が通り抜けた。ミッツは台帳をゆっくりと閉じた。指先が、わずかに震えている。
「……座れ」
俺は向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。
「昨日の委員会で、ドランという名前が出た時に反応されていましたね」
「気づいていたのか」
「特別気づきにくい反応ではありませんでした」
ミッツは眼鏡を外して、レンズを拭いた。時間稼ぎというよりは、思考を整理しているように見えた。
「十三年前の調査記録の話をしても構いません。ただし」
眼鏡を戻して、こちらを見た。
「あなたが何者か、先に教えてほしい。昨日の委員会で、あなたのことを調べた。第七迷宮の門番、ランク外のジョブ持ち、特別な実績なし。なぜそんな人間が、ドランの名前を知っている」
「迷宮管理のスキルを持っています。そのスキルが、深部から送られてくる信号を受信した」
「……信号を」
「はい。ドランが、交渉モードの保持者に対して接触を試みているようです」
ミッツは長い間、黙っていた。
「十三年前」と、ようやく口を開いた。「第七迷宮への調査団に、記録担当として同行した。第十七層まで入って、引き返した。その時に、採取した音響データの中に――声が混ざっていた」
「第二十三層の方向から」
「方向だけでなく、距離も特定できた。記録装置の精度を考えると、二十三層付近からの発信で間違いない。声は断続的で、言語構造は人間語に近いが完全に一致しない。内容は機械的に変換すると『外よりの者よ、来たりしか』と読めた」
外よりの者よ、来たりしか。
来たのか、と確認している。ゴブの伝承にあった「返事ができる者が現れた時、ドランは動く」という言い伝えと符合する。
「その記録を局の金庫に保管した理由は」
「当時の局長の判断だ。公開すれば混乱を招く、王都の探索者や軍が第二十三層を目指して動く、それを制御できないと」
「あなた自身は」
ミッツが、わずかに表情を変えた。
「私は……返事をしたかった。声に。なぜかは分からない。ただ、あれは悪意のある声ではないと感じた。何かを待ち続けている、そういう声だった」
まあ、聞いてから判断しよう。
「昨日の委員会で、ドランの名前が出た時に賛成票を入れてくれましたね」
「……ああ。調停区の設置が、接触の糸口になると思ったから」
「正解だと思います」
俺はスキルログを開いて、ミッツに向けて読み上げた。数値、信号強度、フラグメントの内容。ミッツは静かに、全部聞いていた。
「接触準備段階、か」と、彼はつぶやいた。「十三年間、ずっと待ち続けていたわけだ」
「百年以上かもしれません」
「それは……」
「ゴブという第七迷宮の住人から聞いた伝承です。ドランの伝承は迷宮内で代々伝わっており、少なくとも百年前には存在が確認されていた」
ミッツは台帳をもう一度開いた。今度は別のページを探している。
「これを見ろ」
開かれたページには、精緻な図面が描かれていた。迷宮の断面図のような構造。いくつかの層が描かれており、二十三層の位置に赤い印が打ってある。
「調査団が帰還後に作成した推定図だ。第二十三層には通常の迷宮構造とは異なる空間が存在する。数値的には迷宮の他の層の三倍以上の広さが想定される。そしてその中心部に、魔力の集積点がある」
「核のような場所」
「迷宮の核、とも言えるかもしれない。第七迷宮そのものの意志が宿っているとすれば、そこがその座だと考えている。ドランは人格を持った何かではなく、迷宮そのものが長い時間をかけて意識を獲得したものかもしれない」
迷宮が意識を持った。
俺はスキルログをもう一度確認した。
【迷宮管理Lv.4:特記事項】
『ドランとの潜在的親和性』の根拠:迷宮管理スキルは迷宮の知性構造と共鳴する特性を持つ
推定:スキル保持者は迷宮意識体との対話窓口として設計されている
対話窓口として、設計されている。*
設計されている。
このスキルが存在する理由が、今初めて文字になって現れた。
「ミッツさん」
「何だ」
「十三年前、声に返事をしたかったと言っていましたね。今からでも遅くない」
ミッツは少し驚いた顔をした。
「どういう意味だ」
「俺が実際に第二十三層と接触を試みる時に、あなたの音響記録技術が必要になるかもしれない。記録を取れる人間が必要だ。ドランとの対話を、ちゃんと形にして残せる人間が」
沈黙が落ちた。
ミッツはゆっくりと、眼鏡の奥で目を細めた。
「……門番が、そういうことを言うのか」
「そういうことを言う門番です」
長い間があって、ミッツは口元に薄い笑みを浮かべた。
「局長には、私から話す。音響記録装置の使用許可を取れると思う。ただし、一つ条件がある」
「聞きます」
「廊下の足音の話を、あなたは知っているか」
俺は少し間を置いた。
「聞いた」
「第七騎士団の方向に向かったという、あの足音だ。あれが誰かを特定してから動いた方がいい。ドランの名を知っている人間が王都に何人いるか――それを把握してからでないと、準備段階で横から崩される可能性がある」
まあ、聞いてから判断しよう。
「分かりました。並行して動きます」
荷物袋の中で、ごそりとゴブが動いた。俺は袋を軽く押さえた。
資料館の窓から、王都の昼の光が差し込んでいた。
ドランは待っている。水脈が揺れ、木が傾き、信号は日ごとに強くなる。
タイムリミットは確実に縮んでいる。
そして今、俺の知らないところで、もう一人が動き始めている。
宿への帰り道、ゴブが袋の中からくぐもった声を出した。
「外の調停者」
「何だ」
「第七騎士団って、強いのか」
「王国の中では精鋭の部類だと思う。なぜ」
「いや……」ゴブは少し黙った。「ドランのことを知っていて、しかも騎士団の方向に動いた誰かが、もし止める気でいるとしたら」
俺は歩きながら、答えた。
「止める気なら、委員会の段階でもっと動いていた」
「じゃあ、味方か」
「それも分からない。だから確認する必要がある」
荷物袋が、静かになった。
王都の石畳を踏みながら、俺は次の一手を考えていた。
ドランとの接触。音響記録の準備。廊下の人物の特定。
順番通りに片付けていけばいい。ただし急いで。
第七迷宮の深部で、何かが確実に目覚めようとしている。




