第38話「待たれていた者の条件」
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セルディン伯爵の書斎を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
空は白く濁っている。冬の終わりにありがちな、晴れとも曇りとも言い切れない空だ。
「外の調停者。大丈夫か」
荷物袋の中からゴブの声がした。
「大丈夫だ」
「顔が大丈夫じゃない顔をしている」
「見えてないだろ、中から」
「でも、なんとなくわかる」
俺は立ち止まって、伯爵家の門の前で少し息を吸った。
二十七年前の記録帳が頭から離れない。
特定の誰かを待っていた。来てしまった者たちは、追い返しただけだ。
先代伯爵の言葉の意味を、俺なりに整理しようとしている。ドランは誰かを待っている。第七迷宮の深部に、ずっと前から。そしてその「誰か」は、二十七年前の調査隊には含まれていなかった。
「ゴブ」
「なんだ」
「ドランが待ってる相手について、迷宮内で言い伝えはないか」
しばらく沈黙があった。袋の中で何か考えているらしい。
「……ある、かもしれない」
「どんな話だ」
「第二層の古老ゴブリンが語る話だ。ドランは声を持つ前は、ずっと静かだったという。百年以上、迷宮の深部は無音だった。それがある時期から、時々『呼ぶ』ようになった」
「いつ頃から」
「百年ほど前だ、と古老は言っていた。でも理由はわからない。ただ——」
ゴブが少し間を置いた。
「『呼ばれた者に、返事ができる者が現れた時、ドランは動く』という話もある。古老は子どもたちにその話をする時、怖い話として語っていた。ドランが動くということは、迷宮全体が揺れるということだから」
俺はその言葉を頭の中で転がした。
返事ができる者。
スキルログが静かに点滅した。
【迷宮管理Lv.4:知性体「ドラン」との交渉モード・潜在的親和性:検知中】
「……なあ、ゴブ」
「なんだ」
「俺のスキルが、今変なことを表示してる」
「変なこととは」
「ドランとの交渉モードに、親和性があるって出てる」
袋の中がしんと静まった。
少し経ってから、ゴブがぽつりと言った。
「外の調停者。お前が待たれていた者、ということはないか」
俺は空を見上げた。
白い空は何も答えない。
「まあ、聞いてから判断しよう」
宿に戻ったのは昼過ぎだった。
エドゥスに連絡を入れて、夕方に時間を取ってもらう。伯爵の件と、スキルログの話を整理してから動く必要がある。
部屋のテーブルに例の結晶体を取り出した。
第三十四話でゴブが持ってきた、第二十三層由来の未分類素材だ。委員会でも提示したが、その後も毎日スキルログが変化している。
【迷宮管理Lv.4:結晶体「知性体の残滓」解読率71%→74%】
昨日より三ポイント上がっている。
「この結晶、お前の仲間が持ってきたのはいつだ」
「一月と少し前だ。第十六層から流れてきた、と言っていた。第二十三層で崩落があったらしく、上層に砕片が散らばっていた」
「その崩落が、最近の異常と関係してるかもしれない」
「そう思う。古老も言っていた。迷宮が『騒ぎ始めた』のは、その崩落の後からだ、と」
俺は結晶体を手の中で回した。
光にかざすと、内部で何かが動いているように見える。液体ではない。でも固体でもない何かが、表面の下で揺れている。
スキルログが再び更新された。
【迷宮管理Lv.4:結晶体解読フラグメント取得——「応答待ち」「接触可能条件:交渉モード保持者」「発信元:第二十三層中央部」】
俺は手を止めた。
「交渉モード保持者への接触待ち、か」
「なんと書いてあった」
「この結晶自体が、交渉モードを持つ誰かへの信号みたいなものだ。ドランが外に送り出したメッセージかもしれない」
ゴブが息を飲んだのが聞こえた。
「では、ドランはお前が来ることを……知っていた、ということか」
「俺が来ることというより、俺みたいなスキルを持つ者が来ることを想定していた、というべきかもしれない。百年前から」
百年前に何があったのかは分からない。でも、ドランは百年前から外に向けて信号を送り続けていた。そして俺が門番のジョブを引き当てて、迷宮管理スキルを得て、第七迷宮の前に立った時——信号が届いた。
偶然なのか、必然なのか。
どちらでもいい。今俺に分かるのは、事実だけだ。
「ゴブ、迷宮管理局への申請状況を確認したい。調停区の正式設置と、お前の管理者認定の書類を昨日提出したが、処理はどうなってる」
「それはドレイク書記官が動いてくれると言っていたが」
「今日午後に確認する。それから——もう一つ頼みたいことがある」
「なんだ」
「ドランへの接触を、本格的に検討したい」
沈黙。
長い沈黙だった。
「……それは」ゴブがゆっくりと言った。「本気で言っているか」
「ああ」
「二十七年前の調査隊は、声を聞いただけで二人が死んだ」
「聞いただけ、じゃなかったかもしれない。記録帳を読んだ限り、彼らは呼ばれていない状態で踏み込んだ。追い返された。それでも夢が残った。だが俺の場合は——スキルが親和性を示している。向こうが俺を認識している可能性が高い」
「可能性、という話だ」
「そうだ。だから今すぐ動くわけじゃない。でも準備はしておきたい。向こうから接触してくる前に、こちらが条件を整えておく」
ゴブはしばらく何も言わなかった。
「……わかった。ならボクも考える。第十二層のトレントが傾いているのが本当なら、深部の異常は広がっている。お前が接触を試みる前に、安全な退路が必要だ。ボクが迷宮内のルートを確認してくる」
「それは助かる。でも無理はするな」
「無理、とは何を基準に言う」
「お前が帰ってこられなくなるのが、無理だ」
ゴブがふん、と鼻を鳴らした。
「外の調停者はたまに妙なことを言う」
夕方、エドゥスと落ち合った。
いつもの宿の一階ではなく、近くの茶店を指定された。
「少し外を歩きたくなりましてね」とエドゥスは言った。白い息が漂う中、茶杯を両手で包んでいる。「委員会の後から、周囲の空気が変わりまして」
「変わった、というのは」
「あなたに接触したい人間が、増えたということです。上から下まで」
「上から下まで、というのは」
エドゥスは目を細めた。
「ドランの名前を出した後の委員会の反応を、あなたも見ていたでしょう。賛成多数で可決されたが——本当はもっと早く結論が出ていたはずだった。あの名前が出た瞬間に、動いた人間が少なくとも三人います。一人はセルディン伯爵。あとの二人は、私も正体を掴みきれていない」
俺は茶を一口飲んだ。
「ドランという名前に、心当たりがある人間がいる、ということか」
「そう見ています。迷宮研究の学者か、あるいは迷宮の歴史に関わる古い家か。いずれにせよ、あなたが思っている以上に、ドランの名前は広く——そして静かに——知られているかもしれません」
静かに知られている。
知っているのに、言わない。言えない。
「エドゥス、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は、ドランという名前を聞いたことがあったか」
エドゥスはしばらく茶杯を見つめた。
「……祖父が、迷宮の商売を始める前に一度だけ言っていた名前です。『第七迷宮には深く入るな。奥に何かがいる』と。名前は言わなかった。でも今思えば——知っていたのかもしれません」
「知っていて、言わなかった」
「言える話ではなかったのでしょう。知性体が迷宮の深部に潜んでいるなどと言えば、王国は迷宮を封鎖するか、大規模討伐を宣言するか、どちらかです。どちらになっても、商売は終わる」
「そうだな」
俺は窓の外を見た。王都の夕暮れが、石畳を赤く染めている。
ドランの話を表に出すことのリスクと、出さないことのリスク。
出さなければ、第七迷宮の異常は続く。いずれ外への影響が無視できなくなる。
出せば、王国が動く。でも王国が動いた場合、最悪の結末はドランの「討伐」だ。
交渉の余地すらなく、封鎖か、討伐か。
そこに俺が入り込む隙間があるとすれば——今だ。
「エドゥス、調停区の正式設置が通った後の話をしたい」
「ほう」
「調停区は、俺と迷宮内の知性体が対話するための場所だ。でも本当の目的地は、第二十三層だ。俺はドランと話したい」
エドゥスは静かに茶杯を置いた。
「……本気ですか」
「ああ」
「二十七年前の調査隊の話は聞きましたか」
「今日、伯爵から直接聞いた」
「それでも、と」
「それでも、だ。向こうは俺を認識している。スキルが示している。ならば——話せる可能性がある。話せる可能性があるなら、俺は話しに行く」
エドゥスは長い息を吐いた。
「商人として言わせてください。リスクが高すぎる」
「分かってる」
「でも——」エドゥスが少し笑った。「あなたが調停区を通してくれた後、私の商会の利益は来月だけで今月の三倍になる計算が立っています。そのあなたが死ぬのは、私にとっても損です」
「じゃあ、生きて帰るために手伝ってくれ」
「……何が必要ですか」
「ドランに関する情報を持っていそうな人間の洗い出し。王都内外問わず。学者でも、古い家でも、迷宮の歴史を知る者でもいい。俺が接触する前に、できるだけ多くを知っておきたい」
「わかりました」エドゥスは頷いた。「三日あれば、当たりをつけられます」
「助かる」
宿に戻った夜、スキルログが静かに更新された。
【迷宮管理Lv.4:結晶体解読率74%→79%】
【迷宮管理Lv.4:深部異常発信源——距離計測開始。現在値:第二十三層中央部より推定三十メートル以内の活性化を確認】
三十メートル。
ドランは、ただそこにいるだけじゃない。
活性化している。動き始めている。
こちらが準備を整える前に、向こうが来るかもしれない。
俺はログを閉じて、窓の外の夜空を見た。
「ゴブ」
「起きている」
「明日の朝、迷宮に戻って状況を確認してくれるか。第十二層のトレントの傾きと、上層への異常の波及状況を」
「わかった。でも外の調停者」
「なんだ」
ゴブが珍しく、少し迷うような間を置いた。
「ドランが活性化しているということは——お前を待ちきれなくなってきている、ということかもしれない」
俺は少し考えた。
「まあ、聞いてから判断しよう」
「それはドランに会ってから、という話か」
「そうだ」
ゴブがふん、と笑ったような気がした。
「相変わらず、肝が据わっているのか鈍いのか分からない」
「俺にも分からない」
正直なところ。
窓の外で、冬の終わりの風が鳴っていた。
翌朝、宿の扉をノックする音で目が覚めた。
開けると、迷宮管理局の制服を着た若い職員が立っていた。
「アシダ様ですか。ドレイク上席審議官より、至急お越し願いたいとのことです」
「理由は」
職員が少し言葉を詰まらせてから、言った。
「昨夜、第七迷宮の北口付近で、王国騎士団の一個小隊が独自に侵入を試みたそうです。管理局への通達なし、調停区の認定プロセス無視の単独行動で——現在、連絡が途絶えています」
俺は目を閉じた。
一秒だけ。
「分かった。すぐ行く」
扉を閉めて、ゴブに声をかけた。
「聞いてたか」
「聞いていた」
「急いで戻れるか、迷宮に」
「走れば、北口まで半日で行ける」
「走ってくれ。状況を確認して、俺に知らせてほしい。できるだけ早く」
「わかった」
ゴブが袋の口を少し押し広げて、身を乗り出した。小さな目が、真剣な光を持っていた。
「外の調停者。ドランは、待っていた者が来る前に邪魔が入ることを——好まない、かもしれない」
俺は頷いた。
「だから急ぐ」




