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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門の外の世界

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第37話「二十七年前の声」

翌朝、俺はゴブを荷物袋に押し込んだまま、セルディン伯爵の屋敷に向かった。


「狭い」


「我慢してくれ」


「調停者は冷たい」


「慣れてくれ」


馬車の揺れに合わせて袋がぼこぼこと動く。御者には「壊れ物が入っている」と言ってある。嘘ではない。ゴブは丈夫そうに見えて繊細なところがある。


セルディン家の屋敷は王都の北区にあった。石造りの門、手入れの行き届いた庭、使用人が三人。格式はあるが、派手さはない。伯爵家としては質素な部類だと思う。


「アシダ殿、よくいらしてくださった」


出迎えた伯爵は、昨日の委員会とは別人のように見えた。権威を纏った貴族の顔ではなく、ただの老いた男の顔をしていた。目の下に隈がある。昨夜、眠れなかったのだろう。


「お時間をいただきありがとうございます」


「いや、こちらがお願いしたことだ。さ、中へ」


応接間ではなく、書斎に通された。壁一面の本棚。机の上に、一冊の革綴じの帳面。


伯爵はそれを指さしてから、椅子に深く座った。


「先代——私の父の記録だ。正確には、父が指揮した第七迷宮調査隊の報告書の写し。本物は迷宮管理局の書庫に眠っているはずだが、父はこちらにも手書きで残していた」


俺は帳面に手を伸ばす前に、一度伯爵を見た。


「読んで構いませんか」


「それが今日の約束だ」


帳面を開く。


インクの色が薄い。二十七年分の時間が、文字をすこしずつ消しにかかっている。だが読めないほどではない。丁寧な字だった。几帳面な人物が書いたとわかる。


最初の数ページは記録として平凡だった。隊の編成、第七迷宮の各層の状況、素材の採取記録。第十層あたりまでは淡々としている。


変化が起きるのは第十八層の記述だ。


本日、鬼人族の集落跡を確認。すでに廃棄されている。新しい拠点への移動か、あるいは何らかの理由により撤退か。痕跡から逃走の様子は見られない。整然とした移動の跡。


そして第二十層。


隊員のひとりが「声が聞こえる」と報告。方向は下層。他の隊員に確認したが、四名中二名が同様の感覚を持つと答えた。内容は不明確。「呼ばれている」という形容のみ。判断を保留し、記録する。


第二十三層への記述は短い。


到達。構造が他の層と異なる。石材ではなく、何らかの有機体に似た素材で構成されている。光源が存在しない。しかし視界が保たれている。光の源が不明。


声が明瞭になった。言語として認識できる。


「待っていた」


繰り返す。「待っていた」という声を、全隊員が聞いた。


そこで記述が途切れている。次のページに移ると、日付が飛んでいた。三日後の記録だ。


帰還。全員無事。ただし隊員カルフスとテイムが体調不良を訴えている。発熱ではない。睡眠の乱れ。同じ夢を見ると言う。


夢の内容は書かれていない。


俺はページを繰る手を止めて伯爵を見た。


「夢の内容は記録されていないんですか」


「父は書かなかった。隊員から聞いたはずだが、書き残すことを選ばなかった」


「なぜ」


伯爵は少し間を置いた。


「父が死ぬ前に言ったことがある。『書けばそれが現実になる気がした』と」


俺は帳面に視線を戻した。


カルフスとテイムの名前は、その後の記述にも何度か出てくる。体調の変化、記憶の断絶、日常生活への支障。そして最後に、二人の名前の横にそれぞれ短い一文が添えられていた。


カルフス——帰還から四ヶ月後に死亡。死因、不明。


テイム——帰還から七ヶ月後に死亡。死因、不明。


俺は帳面を閉じた。


「二人は二十三層に降りた隊員ですか」


「そうだ。父を含めて四名が降りた。残りの二名は無事だった。カルフスとテイムだけが死んだ」


「残りの二名と、お父上は夢を見なかった?」


「父は見た。ただし、二人より頻度が少なかったと言っていた。そして父の夢は、あるとき突然止まった。カルフスが死んだ直後に」


俺はそれを聞いて、少し考えた。


「夢が『移った』ということですか」


伯爵は目を細めた。


「父はそう言っていた。自分が感じていたものが、二人に集中していったと。自分の分が軽くなっていくのと、二人が衰えていくのが同時進行だったと」


「お父上は、それをどう解釈していましたか」


「『呼ばれた者の数が少なかったのかもしれない』と」


俺は椅子の背に体重を預けた。


呼ばれた者の数。


ドランが待っていた相手の数。


それが四名では多すぎて、二人に負担が集中した?


いや、そういう単純な話でもないかもしれない。


「お父上が第二十三層で聞いた『待っていた』という声。その相手は、隊全員に向けられたものだったと思いますか。それとも、誰か特定の人物に向けられたものだったと思いますか」


伯爵は答えるまでに、ずいぶんと長い時間がかかった。


「父は……後者だったかもしれないと言っていた。自分ではない誰かを待っていたが、来てしまった自分たちを追い返さなかっただけだと」


「来てしまった自分たちを、追い返さなかった」


「傷つけることも、追い払うこともなかった。ただ声だけが聞こえた。そして帰還後に起きたことは……父には説明がつかなかった」


俺は窓の外を見た。王都の朝の光が、庭の石畳を白く染めている。


ドランは誰かを待っていた。


その誰かは、二十七年前にはまだ来ていなかった。


そして今、第二十三層から何かが動き始めている。


まあ、聞いてから判断しよう。


今の段階で結論を出す必要はない。ただ材料を揃えていく。


「伯爵、もう一つ聞いてもいいですか」


「何でしょう」


「委員会で、あなたがドランの名を聞いたとき——驚いていましたよね。知っていた名前だったはずなのに、なぜ驚いた」


伯爵の手が、膝の上でわずかに動いた。


「父の記録にドランという名前は出てこない。二十三層で聞いた声の主の名前を、父は知らなかった。その名前を、あなたが持ち込んだ」


「つまり」


「つまり二十七年の間に、第七迷宮の内部でその名前が生まれたか……あるいは最初からあったが、外の者がようやく届くようになったか、どちらかだということだ」


「後者だと思います」


伯爵は俺を見た。


「根拠は?」


「ゴブたちが教えてくれました。ドランの名前は、迷宮の深層に住む者たちの間で古くから伝わっている。伝承ではなく、日常語として使われている。今日初めて生まれた名前ではない」


「では、外の者にだけ届いていなかった」


「はい」


伯爵はゆっくりと息を吐いた。


「二十七年前に私の父が辿り着けなかった答えを、あなたは持っている」


「答えではないですよ。まだ材料です」


「その違いにこだわる理由は?」


「答えは閉じますが、材料は続きます」


伯爵はしばらく俺を見ていた。それから、かすかに笑った。委員会で見せた政治家の笑いではなく、もっとくたびれた、正直な笑い方だった。


「委員会での私の振る舞いを、あなたはどう思っていた」


「利害で動いていると思っていました」


「その通りだ。だが全部が全部そうではなかった。ドランのことが、どこかで怖かった。触れたくなかった」


「二十七年前のお父上の記録があったから」


「家を守りたかった。あれを掘り返した人間がどうなったか、私は知っている」


俺は伯爵を見て、何も言わなかった。否定する言葉を持っていなかったからではない。伯爵の判断を責める気が、俺にはなかったからだ。


怖くて避けた。それは人間として普通のことだと思う。


ただ、今はもう避けられなくなっている。


「伯爵、この記録を迷宮管理局のドレイク審議官に見せることを許可してもらえますか。原本でなくて構いません。写しを作ります」


「構わない。それよりも——」


伯爵は少し躊躇ってから続けた。


「緩衝地帯の管理者に、私の家から一名を入れることは可能か」


俺は少し考えた。


「運用案には双方の管理者を置くと書きました。王国側の人事は王国が決めます。伯爵がその人事に関与したいのであれば、迷宮管理局に申し出る必要があります」


「では非公式に、あなたに頼む形は」


「俺は適任かどうかは判断できません。ただ管理者の要件として、交渉相手の言葉を聞く意思があること、というのは書き加えるつもりです」


伯爵はそれを聞いて、また笑った。今度はもう少し軽い。


「要件として書くのか」


「書きます。笑われても書きます」


「笑っていない。ただ、そんな要件を正式文書に入れる人間を初めて見た」


荷物袋がぼこぼこと動いた。


俺はそちらを見ないようにした。


「一点だけ確認させてください。この記録に書かれていること——二名の死について、原因不明とありますが、伯爵はどう解釈していますか。個人的な見解として」


伯爵の表情が引き締まった。


「ドランが殺したとは思っていない。父もそうは言っていなかった。だが……何かが彼らを使い続けた。呼びかけを続けた。人間の体がそれに耐えられなかった」


「呼びかけを受け止める器がなかった」


「そう言えるかもしれない」


俺は帳面を伯爵に返した。


「ありがとうございます。写しを作ったら、すぐに返します」


「急がなくていい。どうせ今まで二十七年、棚に入れっぱなしだった」


屋敷を出て馬車に乗ると、ゴブが袋の口から頭を出した。


「聞こえた」


「だろうと思った」


「『待っていた』の声……ドランの声だ」


「知っているのか」


「直接聞いたことはない。でも、深層に住む者たちは皆知っている。ドランは時々声だけ届かせる。眠っているときに」


俺はゴブを見た。


「お前も聞いたことがあるか」


ゴブは少し間を置いた。


「一度だけ。小さかった頃に。内容は覚えていない。ただ怖くなかったことだけ覚えている」


「何かを言っていたか」


「名前を呼ばれた気がした」


俺はそれを聞いて、窓の外に目を向けた。


王都の往来が続いている。商人、兵士、子供、老人。誰も第七迷宮のことを考えていない。考えなくていい理由がある場所で生きている。


ドランは誰かの名前を呼んでいる。


二十七年前にも呼んでいた。今も呼んでいる。


【迷宮管理Lv.3:深部発信源、接近傾向継続。呼応対象の感知精度、上昇中】


新しい表示だった。


「呼応対象」。


俺はスキルログをもう一度確認した。


「感知精度、上昇中」。


これは迷宮側がこちらに近づいているのか、それともこちらが迷宮側に近づいているのか。


あるいは——対象となる誰かが、ドランの呼びかけに応答できる状態になりつつあるということか。


ゴブが小さな声で言った。


「調停者。ドランが待っていた相手が、もうすぐ見つかる気がする」


馬車は王都の石畳を走り続ける。


俺はゴブの言葉に、すぐには返事をしなかった。


ドランが待っていた誰か。


その「誰か」が、もしかしたら——。


まあ、聞いてから判断しよう。


でも今は少し、次の一手を考える必要がある。緩衝地帯の運用が正式に動き出せば、第七迷宮への公的なアクセスが生まれる。その先で、ドランと直接向き合う機会が来るかもしれない。


来たとき、俺は何を持っていくべきか。


武器はない。魔法もない。


あるのはスキルと、相手の話を聞く意思だけだ。


それで足りるかどうか、今の俺にはわからない。


ただ、ドランが二十七年間待ち続けたという事実は——急いで結論を出す話でもないことを、教えてくれている気がした。

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