第36話「伯爵の荷物」
廊下は静かだった。
委員会の喧騒が扉一枚で切り取られて、俺とセルディン伯爵だけが薄暗い石廊下に残されている。
伯爵の顔は、会議室にいたときとは別人みたいに見えた。あの場では怒りか軽蔑か、とにかく感情を前に出していた。でも今は違う。疲れた老人が、そこに立っている。
「……嘘をついた、と言いましたね」
俺は壁に寄りかかりながら言った。急かすでもなく、詰め寄るでもなく。
「ドランについて」と伯爵は言った。「委員会で君が名を出したとき、私は知らないふりをした。だが、知っていた」
「まあ、聞いてから判断しましょう」
伯爵が俺を見た。何かを測るような目だった。
「……君は怒らないのか」
「今は情報の方が大事です。怒るのは後でもできる」
伯爵はしばらく黙って、それから壁際の窓に向かって歩いた。窓の外には王都の屋根が並んでいる。午後の光が斜めに差して、石造りの建物を橙色に染めていた。
「二十七年前のことだ」と伯爵は言った。「私がまだ家名を継いだばかりの頃、父の遺した記録の中にその名があった」
「記録、というのは」
「迷宮に関する私文書だ。先代が第七迷宮の調査に関わっていた時期のもの。当時は今より調査が活発で、深部への到達を目指す冒険者組合が複数あった。父はその後援者の一人だった」
俺は口を挟まなかった。
「調査隊が第二十三層に到達した記録がある。一度だけ。隊員七名が入り、帰還したのは二名だ。その二名が残した証言の中に、ドランという名が出てくる」
「どんな証言でしたか」
伯爵が窓から振り返った。
「声が聞こえた、と。姿は見えない。ただ声だけが。それが自分たちの名前を呼んだ、と」
俺は少し考えた。
「名前を、呼んだ」
「そうだ。七人全員の名を、一人ずつ。そして言ったそうだ。——『お前たちが来るのを待っていた。だが、まだ時ではない』」
廊下の空気が妙に重くなった気がした。
「帰還した二名は半年以内に死んでいる。病死と記録されているが、父の私文書には別の記述があった。二人とも夢を見続けたと。同じ夢を。暗い層の底で、何かが目を開く夢を」
「それを二十七年間、黙っていた」
「誰かに話せる内容ではないだろう」伯爵の声に棘はなかった。ただ疲れていた。「狂人の戯言として片付けられるか、あるいは騒ぎを起こして迷宮管理の権限が王室に移るか。どちらに転んでも、私の家には利がなかった」
「だから第六迷宮の採掘権を守る方を選んだ」
「そうだ」
伯爵は俺の前まで戻ってきた。近くで見ると目の下に隈がある。最近眠れていないのかもしれない。
「委員会で君がドランという名を出したとき、私は背筋が凍る思いがした。どこでその名を知った」
「迷宮の内側から情報が来ました。第七迷宮の住人経由で」
「魔物から、ということか」
「ええ」
伯爵は長い息を吐いた。
「……君は本当に、門番なのか」
「ジョブ鑑定ではそう出ました」と俺は言った。「でも、まあ、やれることをやっているだけです」
しばらく沈黙が続いた。廊下の窓から風が入ってくる。秋が近いのか、少し冷たい。
「伯爵」と俺は言った。「その私文書、見せてもらえますか」
「……条件は」
「特にありません。見せていただいた上で、内容が今回の件と関係があれば共有します。関係がなければ、それだけです」
伯爵が俺を見る目が、また少し変わった。
「利益を求めないのか」
「情報が欲しいだけです。今の状況で一番価値があるのは情報なので」
「交渉というのは、要求があってするものだと思っていたが」
「要求があっても引き出せないより、信用を作って自然に流れてくる方が早いときもある」と俺は言った。「特に相手が最初から話したかった場合は」
伯爵が目を細めた。
「……わかった。明日、私の屋敷に来なさい。文書を見せよう」
「ありがとうございます」
伯爵が踵を返して歩き始める。廊下の角に差しかかったところで一度止まって、こちらを振り返った。
「アシダ君」
「はい」
「君が調停区の設置を通したことは……間違いではないかもしれない。だが、その先に何があるかを、よく考えた方がいい」
「どういう意味ですか」
「ドランは待っていると言った。誰かが来るのを」
伯爵はそれだけ言って、廊下の角を曲がった。足音が遠くなって、やがて聞こえなくなる。
俺は一人で廊下に残されて、窓の外の王都の屋根を眺めた。
宿に戻るとゴブが窓の縁に座って外を見ていた。
「どうだった」と荷物袋から顔を出す。今は中に押し込まれているわけじゃなく、自分で袋の口から出入りしている。そういうところは器用だ。
「セルディン伯爵が話してくれた」と俺は言って、椅子に座った。「ドランについて二十七年前の記録がある。明日見せてもらえることになった」
「うわ」とゴブは短く言った。「伯爵、知ってたのか」
「知ってて黙ってた。事情はあったけどな」
「怒らないの、外の調停者は」
「怒ることに使うエネルギーが、今はもったいない」
ゴブが小さく笑った。ゴブリンの笑い顔は人間とは違うけど、なんとなくわかるようになってきた。
「調停区は通った。明日から正式な手続きが始まる」と俺は続けた。「ゴブの管理者認定については、ドレイク審議官を通じて別途申請する。少し時間がかかるかもしれない」
「ボクの認定、いるかな」
「いる。正式な管理者がいないと、双方管理者制度が機能しない。ゴブが迷宮側の窓口として認められないと、制度が形だけになる」
「でも、王国が魔物を正式な何かに認定するって、前例が」
「ない。だから難しいし、だから価値がある」
ゴブが少し考えた。
「外の調停者は、ボクを信用してるの」
「してる。最初の夜に正直に話してくれたから」と俺は言った。「怖かったのに、ノックした。それだけで十分だ」
ゴブが何かを言いかけて、やめた。
しばらくして、「ドランが使者を送ったって話、覚えてるか」とゴブは言った。「第十八層の鬼人族に」
「覚えてる」
「最近、もう一つ情報が来た。第十二層のトレント群が動いた」
俺は顔を上げた。
「動いた、というのは」
「木が歩くやつ。普段はあまり動かないのに、第二十三層の方向に向かって傾き始めてるって。トレントが傾くのは、強い何かに引き寄せられてるときだ」
【迷宮管理Lv.4:第七迷宮・深部異常進行速度——前回比147%。牽引域、第十層以上に拡大中】
スキルのログが目の奥でちかりと光った。
「拡大してる」と俺は言った。
「何が」
「影響範囲。ドランが……あるいは第二十三層の何かが、引っ張っている範囲が上の層まで伸びてきてる」
「早くない?」
「早い。想定より早い」
俺は机の上に結晶体を置いた。今日の委員会でも使ったやつだ。エドゥスが別の魔道具師に鑑定を依頼してくれることになっているが、まだ結果は出ていない。
【迷宮管理Lv.4:素材解析——知性体残滓の干渉強度、上昇中。発信源との距離縮小が推定される要因】
「距離が縮まってる」
「え」とゴブが言った。
「この結晶が発信源に近づいてる、あるいは発信源がこっちに近づいてる。スキルがそう読んでる」
「それって」
「ドランが上に来てるってこと、かもしれない」
部屋が静かになった。外では王都の喧騒が続いていて、馬車の音や行商人の声が窓から流れてくる。
「外の調停者」とゴブは低い声で言った。「ドランは待ってるって言ったんだろ。二十七年前に来た人間に」
「そうらしい」
「誰かが来るのを待ってるって、その誰かって」
俺は結晶を見た。
透明な中に、かすかに脈動するような光がある。心臓みたいに、規則正しく。
「わからない」と俺は言った。「でも、まあ、明日の文書を見てから判断しよう」
「……外の調停者は怖くないの」
少し考えた。
「怖いかどうかより、今やれることをやる方が先だ。怖くて動かなかったら、結果が出ないだけだから」
ゴブが窓の縁から降りてきて、机の上の結晶の隣に座った。小さな手で結晶に触れる。
「これ、触ると少し暖かい」
「そうか」
「生きてるみたいだ」
「かもしれない」
【迷宮管理Lv.4:交渉モード待機中——知性体の意図検知を試行中。接触確立まで、推定条件を満たさず】
スキルが何かを待っていた。
条件が満たされていない、と言っている。何の条件かは書いていない。でも「交渉モード」が起動しかけているということは——
「ドランと、いつか話すことになるのかもしれないな」と俺は独り言みたいに言った。
ゴブが俺を見た。
「怖い?」
「怖い」と俺は素直に言った。「第二十三層の底にいる何かと交渉するとか、普通に考えて怖い」
「だよな」
「だけど、話を聞かない限り何もわからない。わからないまま動いても誰も幸せにならない」
「だから聞く」
「まあ、それしかできないんだよ、俺は」
ゴブが小さく笑った。今度ははっきり笑い声が出た。ゴブリンの笑い声は少しハスキーで、引っかかる音がする。
「外の調停者は変だ」
「よく言われる」
「でも、ボクは好きだ。変な人間の方が信用できる」
「ありがとう」
窓の外で夜が来ていた。王都の灯りが一つ二つと増えて、石畳を橙色に染める。
明日、俺はセルディン伯爵の屋敷で二十七年前の記録を読む。
その記録が何を語るかは、まだわからない。
でも、ドランは待っていると言った。
そして今、あの結晶が——第二十三層から来たものが——俺の机の上で、脈打っている。
まるで、何かを知らせようとしているみたいに。
翌朝、俺が目を覚ますと、結晶体が変わっていた。
昨日までは透明な中に微かな光が揺れていただけだ。
それが今は——内側に、文字のような形が浮かんでいる。
人間の文字ではない。でも、スキルが自動的に翻訳を試みた。
【迷宮管理Lv.4:解析結果——「調停者よ。準備ができたなら、来い」】




